明治になってからの新しい世の中(明治・大正時代)

                                ※ 見たいテーマの番号をクリックしてね!


                         ぺりーが日本へきたわけ
                         ペリー一行への庶民の気持ちは?
                         寺子屋とコンビニエンスストア
                         予防接種は江戸時代末から
                         坂本龍馬は日本初の社長!?
                         「あきらめない人」だった大久保利通
                         明暗を分けた士族(しぞく)のその後
                         政府ごと海外へ?岩倉使節団
                         海の上を走った蒸気機関車

                                    10 日本の発明王、からくり儀右衛門(ぎえもん)
                        11 きつい服を着たわけ

                        12 自由民権運動と演歌
                         13 カレーライスは日本の料理!?
                        14 模範(もはん)工場の経営は順調だった!?
                        15 大日本帝国憲法の発布と庶民
                        16 バルチック艦隊(かんたい)はなぜ敗れたか
                        17 大正ってどんな時代だった?
                        18 野口英世とノーベル賞
  





 ぺりーが日本へきたわけ
 
☆なるほどクイズ
  
(1)この当時、世界最大の領土をもっていたイギリスが日本に来なかったわけは?

    @日本に興味がなかった A植民地(海外の領土)でもめごとが起きた B本国で政府を倒す動きが起きた
  答は?(クリック)

  
(2)江戸時代後期、アメリカは日本の近くまで来て、クジラをとっていました。何のため?

    @油をとる  A食べる  Bはく製にする
  答は?

  
(3)ペリーの乗ってきた船は「何」と「何」で動いた?
    ※ヒント:1つはかんたんですね。もう1つは?
   答は?       

 
☆せつめい
    
当時、世界最強のイギリスではなく、国ができて80年しかたっていない
   アメリカが、日本に開国を求めたのはなぜでしょうか?

    このころのアメリカは、領土を大陸の西にひろげていき、ようやく太平洋
   岸に達したばかりでした。当然、次の関心は太平洋、その向こうのアジアへ
   向けられていきます。特に、ヨーロッパの国々やアメリカが注目していたのは、
   中国でした。
    アメリカも中国と貿易がしたい、できれば経済的に支配してしまいたい、
   と考えたのです。実は蒸気船は、アメリカ人が開発したこともあって、最初
   の船もイギリスではなくアメリカがもっていました。ただ、その船は燃料の石
   炭を1度積んだだけでは中国に直接行くことはできず、途中で石炭を積め
   る港が必要だったのです。日本に開国を求めた理由の1つは、ここにありま
   した。
    アメリカはイギリスから独立してできた国ですから、はじめは関係が悪か
   ったのです。しかしこの当時はそれもなくなり、おかげでペリーは、イギリス
   の植民地の多いアフリカを回り、インド、東南アジアをへて日本に到達する
   ことができました。


 ペリー一行への庶民の気持ちは?
 ☆なるほどクイズ
 
(1)ぺりーが2回目に来た時、おみやげとして持ってきたものとは?

   @自動車  A汽車  B飛行機  
答は?

 (2)日本側がアメリカに負けまいとして見せたのは、どんな人たちだった?
   
※ヒント:日本人でもこんなに大きな人たちがいるんだぞ!  答は?

 (3)開国してまもない頃、外国人が日本人を見て、どんな印象をもった?

   @陽気で気品があった Aおどおどして自分たちをこわそうに見ている Bみんな貧しそうで、悲しい表情だった  
答は?


 ☆せつめい
    
ペリー一行は軍艦でやってきて、ただ武力でおどして日本に条約を結ば  
   せようとしたわけではありませんでした。実は、友好の気持ちを示すために、
   たくさんの贈り物を持ってきて、これにより話しあいをうまく進めようとした
   のです。
    
    贈り物の中には、蒸気機関車や電信機など、進んだ技術を示すものもあ
   り、これによって日本に、もうこれ以上鎖国を続けることは不利だと気づか
   せようとしました。一方、アメリカの地図や動物図鑑、植物の種などは、自
   分の国を日本によく知ってほしいという気持ちから持ってきたと考えられて
   います。
    対する日本側も、幕府の役人から庶民に至るまで、もちろん恐れや心配
   もあったでしょうが、当時の記録をよく調べると、意外と物おじせずに堂々
   と接していたことがわかります。人々は心配と好奇心が入り交じったような
   気持ちで、この黒船に関する情報をいろいろな方法で手に入れていました。
   それは、浦賀や横浜から遠く離れた地方の村々にも、黒船に関するくわしい
   地図や、日本側がペリー一行にふるまった食事のメニューなどの記録がた
   くさん残されていることからも、よくわかるのです。 



 寺子屋とコンビニエンスストア
 ☆なるほどクイズ
 
(1)江戸時代後半、全国の寺子屋(今の小学校にあたる)の数は、現在のセブンイレブンの数より?
   
    @多い   A少ない 
 
答は?

 (2)寺子屋に通う子どもたちの1年間の休みは?

    @50日  A100日  B150日  
答は?

 (3)寺子屋で使う教科書の種類は?

    @70  A700  B7000  
答は?            

 ☆せつめい
    
江戸時代の後期になると、日本各地にたくさんの寺子屋ができました。
   その結果、幕末において字を読める人の割合は、当時としては世界最高水
   準の男性40%、女性15%くらいになったとも言われています。


    
何よりも今と違うのは、寺子屋が義務教育ではなかった、という点です。
   幕府や藩の命令ではなく、自主的にできたものでした。村々でも、決して楽
   ではない暮らしをしていた農民の子どもたちが通っていました。親たちはお
   金がないと、農作物を月謝がわりに納めたそうです。

    
なぜこれほど熱心だったのでしょう。1つには、このころの農業や商業が、
   細かな技術や知識を必要とするようになっていたからです。あるいは江戸
   などの大都市へ出て働くのに「読み、書き、そろばん」の技能は欠かせない

   
ものだったから、などと考えられています。
    明治になって学校制度がスムースに始められたのも、江戸末期のこうし
   た背景があったからなんですね。


 予防接種は江戸時代末から
 ☆なるほどクイズ
 
(1)1848年の半年間で、佐渡(新潟県)の人口1000人足らずの村にあった医院にかかった人の数は?

    @35人  A135人  B350人 
 
答は?

 (2)いろいろな病気にきくとされた朝鮮人参(ちょうせんにんじん)。1783年、佐渡での4グラムの値段は?

    @2200円  A2万2千円  B22万円  
答は?

 (3)下野(しもつけ、今の栃木県)の壬生(みぶ)では、1850年に初めて予防接種が行われました。これは日本初の実施から?

    @1年後  A10年後  B50年後  
答は?         

 ☆せつめい
    
皆さんの中には、江戸時代の後期に、オランダを通じて洋学(西洋の学
   問を研究すること)が盛んになったこと、そのきっかけが杉田玄白や前野
   良沢(りょうたく)らの医者が出版した「解体新書」だった、と学習した人も
   いると思います。


    
では、こうした医学の進歩は、彼らのいた江戸や大坂(今の大阪)だけ
   のできごとだったのしょうか。いえ、決してそうではありませんでした。
    実はこの時期、全国には藩や民間の医者がたくさんいて、彼らは江戸や
   大坂、長崎でオランダ医学を学ぶと、すぐに地元に戻ってその普及に努力
   したのです。

    
その中で一番めだったのは、種痘(しゅとう、天然痘という恐ろしい伝染
   病を予防するためのワクチン)の実施でした。初めは恐ろしがっていた庶民
   も、その効果がめざましいことが分かると、予防接種を受け入れるように
   なっていったのです。

    
こうして江戸時代の終わりごろには、地方でも基本的には今と同じよう
   
な予防医学が広がり始めていました。明治時代の近代化は、急に実現した
   
ものではなく、すでにこの時期に基礎ができあがっていたのです。

 


 坂本龍馬は日本初の社長!?
 ☆なるほどクイズ
 (1)坂本龍馬は、幕府方として活動していた時期があった。これうそ?本当?   
答は?

 (2)龍馬が「日本で初めて」したとされることとは?

    @新婚旅行  A記者会見  B写真のモデル  
答は?

 (3)龍馬を尊敬するある人が、彼を見習ってピストルを持った。この時、龍馬が「これからはこれだ」と言ってその人に
   見せた物は? 
    @お金  A本  Bペン  
答は?              

 ☆せつめい
    
討幕運動に活躍した土佐藩(今の高知県)出身の坂本龍馬は、はじめ
   
攘夷(じょうい、外国を打ち払うこと)をこころざしますが、幕府方の勝海舟
   (かつ かいしゅう)に大きな影響をうけ、より幅広い考えを持つようになり
   ました。

    彼の最大の功績は、なんと言っても、初めは対立していた薩摩藩(今の鹿
   児島県)と長州藩(今の山口県)に同盟を結ばせ、これにより討幕を実現で
   きるようにしたことでしょう。
    また龍馬が示した新国家の基本方針は、かなりの部分が明治政府に引
   き継がれていきました。
    しかし龍馬自身は、政治的な地位は望まず、長崎に会社のような組織を
   つくり、海運業や輸入品の販売などをしました。これにより長州藩は、幕府
   から禁じられていたにもかかわらず、外国製の船や鉄砲を手に入れることが
   できたのです。
    なお、この組織は、後に海援隊(かいえんたい)として拡大し、土佐藩の海
   軍としての役割も果たします。
    実に龍馬という人は、決まったわくにとらわれず、自分が生きていた時代
   のずっと先を見通していた人物と言えるでしょう。


 「あきらめない人」だった大久保利通(としみち)
 ☆なるほどクイズ
 
(1)大久保利通が若いころ、薩摩(さつま)藩の殿様(島津氏)に認められようとしてやったことは?

   @殿様が狩りに出た時、直接自分の意見を聞いてもらった。
   A殿様の趣味である囲碁(いご)を習い始めた。
   B殿様に何度も贈り物をした。              
答は?

 
(2)藩で力をもつようになったころ、ある藩の武士が新式の銃(じゅう)を開発して大久保に見せた。この時、大久保は?

   @採用せず、今までどおりの銃を用いた。
   Aそれまでの銃をやめてすぐ採用した。
   Bすぐには採用せず、もとの銃をつくっていた人たちにも改良のチャンスを与えた。
  答は?

 
(3)晩年、大久保が自宅の庭で行ったことは?
  
   @いろいろな種類のくだものをさいばいした。
   A戦いに倒れた薩摩藩の武士を供養(くよう)した。
   B学校をつくった。  
              答は?    

 ☆せつめい
    
江戸幕府を倒す時に活躍した人はたくさんいましたが、その中で今も人
   気が高いのが、坂本龍馬と西郷隆盛の二人でしょう。しかし、あまりめだち
   ませんが、西郷と同じ薩摩(今の鹿児島県)出身の大久保利通の仕事にも、
   もっと注目すべきだと思います。

    大久保は30歳ごろから暗殺されるまでの約20年間、藩や国家の実権を
   握って活動します。親友の西郷は、主に軍事を担当して幕府を倒す際に大
   きな働きをしましたが、そんな時、大久保は朝廷や他の藩とねばり強く交渉
   して、西郷を支えたのです。
    国の理想をめざそうとするのも大事ですが、大久保はその理想と現実と
   の差が大きいことをよくつかんでいて、まず何をやるべきかを常に考え、実
   行した人でした。
    明治政府では最高権力を握ったので、一人で思いのままに政治をした、
   という人もいますが、部下であった伊藤博文や大隈重信(おおくましげのぶ)
   の意見にもよく耳を傾けました。地租(ちそ)改正に反対する一揆
が各地で
   起きたので、税を軽くしようと提案したのも大久保なのです。
    明治10年(1877)、西郷が政府軍によって敗死しました。これをうらみに思
   った人たちによって、大久保は翌年5月、出勤途中に殺されてしまいました。
 



 明暗を分けた士族(しぞく)のその後
 ☆なるほどクイズ
 
(1)江戸時代、武士の家のお金の使い道で、最も減らしにくかったのは?

    @贈り物や結婚式などの費用  A食費  B衣服代  
答は?

 (2)幕末の鳥取藩で、藩士の家の借金の平均的な額は、1年間の収入の?

    @5分の1  A半分  B2倍  
答は?

 (3)明治に入って呉服屋を始めた、もと武士の家では、店には欠かせない「あるもの」を作りませんでした。それは?
   
※ヒント:これがなかったら、店かどうかわからない!  答は?           

 ☆せつめい
    江戸時代の終わりごろ、武士たちは大名も普通の武士も、節約だけではと
   うてい追いつかない、巨額な借金にあえいでいました。加賀藩(今の石川県)
   でお金の出し入れを担当していた猪山直之(いのやま なおゆき)という武
   士も、その例外ではありませんでした。

    しかし、直之は自らの家の借金整理を決断し、家にある物をほとんど売り
   払ったりして、借金を返すめどをたてることに成功したのです。さらに幕末の
   混乱の中で、直之の子、成之(しげゆき)は、藩の出兵に必要な細かい仕事
   を担当して能力を発揮します。
    たくさんの兵を動かすには、こまごまとしたお金のくめんが欠かせません。
   この成之の高い能力は、やがて明治政府の目にとまり、そのため成之は、今
   のお金にして1年に3600万円もの給料がもらえる役人になることができたの
   です。
    その一方で、ただ武士であったことだけにこだわって明治時代を迎えた人
   たちの多くは、没落してしまいました。同じ武士だった家でも、明治政府や県
   の役人になれた人とでは、その後、まったく異なる人生を歩まなければならな
   かったのです。
              
※磯田道史『武士の家計簿』(新潮社新書、2003年)より 


 政府ごと海外へ?岩倉使節団

 ☆なるほどクイズ
 
(1)使節団46人の出身で、最も多かったのは?

    @薩摩藩  A長州藩  B幕府の役人  
答は?

 (2)使節団一行がアメリカの高いビルに入って、とてもびっくりしたこととは?
   
※ヒント:小さな「部屋」に入ったとたん!  答は?

 (3)大久保利通と木戸孝允(たかよし)は、当時経済が最も発達していたイギリスで、あるところを見て大変驚きました。それは?
   
※ヒント:お金もちがいっぱいいる一方で…  答は?                

 ☆せつめい                               
    明治4年(1871)11月、岩倉具視(いわくら ともみ)を大使とする使節団
   が、アメリカ・ヨーロッパ諸国を訪問するために日本を出発しました。

    日本の指導者のほとんどが、若くて有能な人々とともに参加しました。言
   わば政府そのものが、なんと1年10ヵ月もの長い間、海外出張に出かけてし
   まったのです。こんなことは、日本の歴史上でほかに例がありません。
    幕末に結ばされた不平等条約の改正は、うまくいきませんでした。しかし、
   一行は10数カ国の政治・経済・文化の実情を見て回り、日本との圧倒的な
   差を実感することができました。同時にその欠点をも見きわめていて、決し
   て西洋文明をそのまま日本がまねるべきではないことにも気づいていました。
    大久保利通や木戸孝允たちは帰国後、「日本も近い将来、憲法や議会を
   つくるべきだ」「ただし今は国の基礎が十分ではないから、政府が中心とな
   って近代国家の骨組みをつくることが大切だ」などと主張します。
    そして反対派をおさえ、以後は大久保が事実上の首相となって、国づくり
   を進めていったのです。
         

 海の上を走った蒸気機関車
 ☆なるほどクイズ
 
(1)日本人が初めて蒸気機関車を見たのは?

   @幕末、ペリーによって A幕末、ペリー以外の外国人によって B明治時代  
答は?

 (2)鉄道をしくことに反対する理由として、何がレールを伝わってくる、と言われた?

   @地震  A伝染病  B寒さや暑さ  
答は?

 (3)最初の鉄道(東京・新橋−神奈川・横浜間)の最も安い乗車賃は、今のお金にして?

   @350円   A1300円   B3500円  
答は?

 ☆せつめい                              
    文明開化をよく示すできごとの1つとして、明治5年(1872)、新橋−横浜
   間で鉄道が開通したことがあげられます。明治政府は、本当の意味での統
   一国家をつくり、また人や物の動きを早めて経済力をつけるためにも、鉄道
   建設が必要であると考えていました。

    しかし同じ政府内にも、いまだに外国を敵と見る考え方を持つ人たちがい
   ました。また庶民の中にも「鉄道とは金を失う道」などといって反対する人た
   ちが少なくなかったのです。
    こうした中で建設に踏み切った大隈重信(おおくま しげのぶ)、伊藤博文
   らは、反対派の説得につとめました。しかし、どうしても建設用地の一部が得
   られなかったため、そこはわざわざ海を埋め立てて線路をしきました。また、
   政府の持つお金はとぼしく、費用の多くはイギリスから借りなければなりませ
   んでした。
    こうした苦労の末に開通した鉄道は、そのよさが次第に人々に理解される
   ようになり、以後、日本各地に広げられることになりました。これによって日本
   人の生活は、ヨーロッパやアメリカのような近代的なものになっていったのです。 



10 日本の発明王、からくり儀右衛門(ぎえもん)
 ☆なるほどクイズ
 
(1)幕末〜明治にかけての発明王、からくり儀右衛門が、京都で発明した「雲水」(うんすい)とは?

   @炭酸入りジュース  A洗剤入りの水  B大型消火器  
答は?

 (2)儀右衛門の発明品で最も有名なものは?

   @日本初の電灯  A複雑な仕組みの時計  B日本初のロケット  
答は?

 (3)明治に入り、儀右衛門が西洋のものを参考につくった、情報を伝えるための技術とは?
   
※ヒント:このために電柱が立てられるようになりました。これは「○○柱」とも言いますね。  答は? 

 ☆せつめい
    幕末、筑後国久留米(くるめ、今の福岡県久留米市)に、からくり儀右衛門
   と呼ばれた若者がいました。職人の子として生まれ、幼いころからいろいろな
   工夫をした物をつくることが得意でした。21歳の時に、近くの神社でのお祭り
   で、バネやゼンマイじかけを使って手足を動かす、からくり人形を皆に見せて、
   大人気となりました。

    その後、大坂や江戸に出て西洋の学問を学びながら、さまざまな発明を
   続けました。このころ、庶民も自らが望めば、こうした進んだ技術や学問を
   学ぶことができるような世の中になっていたのです。
    52歳になると、西洋技術を利用することに熱心だった佐賀藩に招かれ、
   反射炉(はんしゃろ)や蒸気船の建造にあたります。また、儀右衛門こと田中
   久重(ひさしげ)のつくった大砲は、幕府を倒す戦いの際に力を発揮しました。
    明治に入ると、久重は東京に出て、政府の命令により文明開化をになうさ
   まざまな機械をつくりました。久重の子どもが芝浦につくった田中製作所は、
   やがて東芝(東京芝浦電気)という、今でも有名な会社になります。
    時代がかわっても、その変化に対応しながら自分のめざした道を懸命に生
   きた、1人の人間がいたのです。

   

11 きつい服を着たわけ
 ☆なるほどクイズ
 
(1)明治時代、仕事のために早くから洋服をとりいれた職業とは?
  
※ヒント:○○の天使などと呼ばれます。  答は?

 (2)お父さんが仕事に行く時に着る「背広」の語源は?

   @体格がよく背中の大きい人が着るから A「市民」という意味の英語から Bいろんな体格の人にあう服で「狭広」と書いたのが
                                     変化した  
答は?

 (3)「西洋前垂(せいようまえだれ)」とも呼ばれたものは?

   @エプロン  Aネクタイ  Bマフラー  
答は?

 ☆せつめい                              
    
明治時代に入ると、文明開化ということで、生活のあらゆる面に洋風の
   ものや習慣が広がりました。
 
    しかし、例えば服装は、今に残る明治時代の人々をうつした写真を見て
   も、特に地方の町や村では、まだまだ和服が主流で、その変化はゆっくりと
   したものでした。同じ和服でも、羽織袴(はおりばかま)のような、それまで
   に比べて動きやすい和服が流行していきました。
    一方東京では、まず上流社会の人々が洋服を身につけるようになりまし
   た。鹿鳴館(ろくめいかん)という、政府が経営する外国人との社交場では、
   男女とも洋服を着るきまりがありました。そのため特に女性は、コルセット
   で体をしめすぎ、途中で貧血を起こして倒れるような人さえ出たそうです。
    なぜ政府は、これほどまでに彼女たちに洋服を着せたかったのでしょう
   か。それは、早く日本が外国と結ばされている不平等な条約を改めさせる
   ために、まずは外面からでも「日本は自分たちと同じような文化的国家に
   なった」と外国の人たちに認めさせたかったからなのです。



12 自由民権運動と演歌
 ☆なるほどクイズ
 
(1)全国で自由民権運動を進めたグループの数は、どれくらいあった?

    @100  A600  B1300  
答は?

 (2)自由民権運動がさかんだったころの1ヵ月分の新聞代金を今のお金にすると?

    @2000円  A5000円  B2万円  
答は?

 (3)明治13年(1880)8月、自由民権の運動家、植木枝盛(うえき えもり)が滋賀県のある村で開いた演説会に集まった人数は?

    @村の人口の3割  A村の人口の半分  B村の全人口  
答は?  

 ☆せつめい
    
明治7年(1874)ごろから、憲法の制定や国会を開くことなどを求める自
   由民権運動が起こりました。初めは、もと武士だった人々が中心でしたが、
   やがて貧しい人たちにも広がっていきます。
    
    その際、長い間政治的な権利のなかった人々に自由民権の考え方を理解
   してもらうために大いに役立ったのが、演説会でした。そこでは弁士が面白く
   語って聞かせたので、聴きに来た人たちは大いに盛り上がりました。
    そのうち、政府が演説会を厳しく取り締まったため、話のテーマを変えたり、
   劇にして見せたりするようになりました。なかには、川上音二郎のように、「オッ
   ペケペ〜」などと節(ふし)をつけて歌うように演じたので、大人気となった人
   もいます。
    この自由民権の考え方を歌うように皆に聴かせたのが、演歌の始まりです。
   今の歌謡曲の中の演歌とは直接つながっているものではありませんが、明治
   時代前半の演歌は、とても政治と関係の深いものだったのです。 



13 カレーライスは日本の料理!?

 ☆なるほどクイズ
 
(1)明治5年(1872)に書かれた西洋料理の本では、カレーに何の肉を入れるとあった?

   @鮭(しゃけ)  Aカエル  Bイノシシ  
答は?

 (2)昭和の初め、東京のあるレストランで売られた超高級「純インド式カリーライス」の値段を今のお金にすると?

   @1000円  A3000円  B6000円  
答は?

 (3)同じ昭和の初め、大阪のデパートの大食堂(1日に45000人の客が入った)では、1日に何食のカレーライスが売れた?

   @2500食  A6500食  B13000食  
答は?

 ☆せつめい                               
    
子どもだけでなく、大人にも人気のカレーライス。日本人が初めて食べた明
   治時代、すでにカレーは純インド式ではなく、当時インドを植民地として支配し
   ていたイギリス人によって手が加えられたものとなっていました。

    カレーに入れる豚や牛の肉を、日本人はそれまで食べていませんでしたし、
   ジャガイモ、タマネギ、ニンジンも、食用としては明治になって日本に伝わった
   野菜でした。したがって、日本人に広くカレーライスが受け入れられたのは、明
   治時代後半以降のことです。
    カレーライスの普及には、軍隊で手軽に栄養のある料理としてさかんに用い
   られたことが、大きく影響していたようです。日本に初めてカレーが伝わった土
   地としては、神奈川県の横浜や横須賀が有名です。横浜は、最も早くから外来
   のものが広まった場所ですし、横須賀は海軍の基地があったところなので、そ
   うしたことが関係しているのでしょう。
    昭和の初めには、カレーライスはレストランでも大人気のメニューになりまし
   た。この間にイギリス風カレーが、さらに日本人の口に合うように改良され、今
   やカレーライスは、日本料理の1つといってもよいほどのものになってしまったの
   です。 



14 模範(もはん)工場の経営は順調だった!?

 ☆なるほどクイズ
 
(1)カネボウ(今のクラシエ)という会社が、はじめつくっていたのは?

    @おかし  A糸  B化粧品  
答は?

 (2)のちにトヨタ自動車となった会社が、はじめつくっていたものは?

    @自転車  A住宅  B布を織る機械  
答は?

 (3)富岡製糸場と同じ、ある模範工場は、業績はふるいませんでしたが、あることで収入を得たそうです。それは?
   
※ヒント:蒸気で動く機械は、当時とても珍しかったそうです。  答は?

 ☆せつめい                               
    
明治政府は、ヨーロッパの国々やアメリカに日本が早く追いつくように、近代
   工業をさかんにして国を豊かにしようと考えました。当時の中心は繊維(せん
   い)工業だったので、政府は富岡(群馬県)をはじめ、全国に官営の模範工場を
   つくりました。しかし、これらの工場の業績は、振るいませんでした。

    なぜだかわかりますか?確かに、当時としては最も進んだ機械をたくさん備
   えて操業(そうぎょう)したのですが、そのために使ったばく大な資金をなかな
   か取り返すことができなかったためです。また、民間の中小工場は、そんなに
   高い機械は買えなかったので、そのまま模範にはできませんでした。
    一方、地方の商人や職人たちは、それほど高性能でなくても、それまで使っ
   ていた道具を改良したり、外来の機械をまねて安く手に入るものを利用したの
   で、これが急速に広がりました。
    こうした人々の熱意と努力で、日本の繊維工業は明治20年代以降、大いに
   発展したのです。皆さんの住む地域にも、決して有名ではないかもしれません
   が、きっとこうした先人が活躍していたはずです。ぜひ調べてみてください。 



15 大日本帝国憲法の発布と庶民
 ☆なるほどクイズ
 
(1)大日本帝国憲法発布のお祝いの時、飛ぶように売れたものとは?
  
※ヒント:今でも祝日にこれを掲げる家があります。  答は?

 (2)天皇の行列を見た人たちが、この時初めて行ったこととは?

   @拍手  A万歳三唱(ばんざいさんしょう)  B土下座  
答は?

 (3)この日(明治22年2月11日)、実は大変なことが起きていました。それは?

   @大地震  A農民たちの大規模な一 B大臣の一人がおそわれた  
答は?

 ☆せつめい                                
    
明治政府は、自由民権運動の影響もあり、また外国との不平等な条約を改
   正するために、議会と憲法をつくる必要がありました。

    明治18年(1885)には、まず古代風の行政のしくみをやめ、近代的な内閣制
   度に変えました。そしてほぼ同時に、最初の内閣総理大臣となった伊藤博文を
   中心に、約5年の年月をかけて大日本帝国憲法をつくったのです。
    しかし、このことは一般の人々にはほとんど知らされておらず、直前になって、
   東京市をあげてお祝いをするように、との指示が出されました。多くの人々は憲
   法やそのなかみもよくわからないまま、お祝いのムードに乗り、大あわてで準備を
   したようです。
    当日の様子を描いた絵を見ると、各町から華(はな)やかな山車(だし)が出
   て、また小学校をはじめとした学校の子どもたちも、天皇の行列が通る沿道に出
   て、見送ったことがわかります。
    教科書に出ている憲法発布の式典は、実はわずか10分程度で終わったそうで
   す。天皇から憲法をくだされた、ときの総理大臣黒田清隆は、森有礼(もり あり
   のり)文部大臣が襲われたことを知り、内心気が気ではなかったかもしれません。 


16 バルチック艦隊(かんたい)はなぜ敗れたか
 ☆なるほどクイズ
 
(1)日露戦争で日本が使った費用は、今のお金にすると? ※今の国の予算は約80兆円です。

    @2兆円  A20兆円  B200兆円  
答は?

 (2)日本海海戦の時の連合艦隊の射撃技術は、バルチック艦隊の何倍すぐれていた?  
答は?

 
(3)日露戦争をきっかけに、今でもよく売られている商品ができました。それは?

    @缶詰(かんづめ)  Aおなかの薬  B自転車
  答は?      

 ☆せつめい      
    
朝鮮をめぐる
清(しん、現在の中国)との戦争(日清戦争、1894〜95)に勝っ
   た日本は、ロシアの北からの圧力に備えなければならなくなりました。そして両国
   の主張はかみあわず、明治37年(1904)、ついに日露戦争が始まりました。

    日本は苦しみながらも満州(今の中国の東北地方)で、じりじりとロシア軍を追
   いつめていきました。また翌年5月、対馬(つしま、長崎県)沖での日本海海戦で
   は、ロシアのバルチック艦隊をほぼ全滅に近い形で破りました。このようなめざま
   しい戦果をあげた背景には、日本がイギリスと同盟を結んだことが大きく関係し
   ています。
    ヨーロッパのバルト海を基地にしていたバルチック艦隊は、西ヨーロッパ、アフリ
   カを回る大航海をして日本に向かいました。途中、燃料である石炭を補給するた
   めに、何度も港へ立ち寄らなければなりませんでした。
    ところが、その港のほとんどは、当時、世界最大の領土を持っていたイギリスの
   支配下にあったため、いろいろとじゃまをされてしまったのです。このため予定は
   大きく遅れ、この間、旅順(りょじゅん)にあった別のロシア艦隊は、日本の攻撃に
   より滅び去っていました。
    ではなぜ、イギリスは日本と同盟を結んだのでしょう?ぜひ調べてみてください。 


17 大正ってどんな時代だった?
 ☆なるほどクイズ
 
(1)大正12年(1912)、関東大震災の前、デパートは?

   
@1軒もなかった  A靴(くつ)を脱いで入っていた  B店員が男性だけだった  答は?

 
(2)大正時代には、少し前のホームドラマでよく使われたものが各家庭に広まりました。それは?
   
※ヒント:右のイラストの中にあります。  答は?

 (3)次のうち、大正時代に始まったものは?

    @映画  Aラジオ  B電話
  答は?              

 ☆せつめい
    
夫婦と子どもが一軒の家(あるいはアパート)に住み、お父さんはサラリーマン、
   電車で会社にかよい、休日は町に出かけ、映画を見たり食事をする
−そのような
   今と基本的に変わらない生活のスタイルができあがったのは、大正時代(1912〜
   26年)のことでした。

    この、明治と昭和にはさまれた短い時代に、日本は経済的にもある程度成長し、
   民間の会社につとめるサラリーマンの地位は、向上していきました。地方から多く
   の人々が、工場や会社の多い都市部に移り住むようになりました。民間の鉄道会
   社は、駅を中心にデパートなどの娯楽(ごらく)施設を次々につくっていきました。
    政治的にも、憲法を守って民主主義を進めていこうとする運動が展開されま
   す。これが広い支持を得た背景には、新聞や雑誌が手軽に読めたこと、さらにラ
   ジオという、新鮮な情報を伝える機械が急速に広がっていったことなどが大きく
   関係しています。
    ただし、それでも今と比べると、日々の暮らしに困るような人たちはずっと多か
   ったし、日本全体としても、第一次世界大戦(1914〜18年)の後、経済は悪化して
   いきました。

18 野口英世とノーベル賞
 ☆なるほどクイズ
 
(1)小学校に野口英世といっしょに入った児童は50人でした。では、卒業の時には何人になっていた?

    @38人  A19人  B8人  
答は?

 (2)野口英世は、もとの名前を「清作(せいさく)」と言いました。これを「英世」に変えた理由は?

    @医師として世界で活躍したいと思ったから。
    Aある作家が書いた話に出てくるダメな医学生の名が清作だったから。  
答は?
    B世話になった先生の名前の一字をどうしても欲しくなったから。

 (3)野口英世は、アフリカで黄熱病(おうねつびょう)のため亡くなる以前にも重病になったことがある。これ、本当?  


                         答は?
                                      
 
☆せつめい
    
福島の貧しい農家に生まれ、幼い時のやけどで手に障害がありながらも、猛烈
   な勉強の末に世界的な医学者となった野口英世。その人生を調べていくと、明治
   の終わりから昭和の初めにかけての日本や世界の動きと関係している部分がある
   ことがわかります。

    たとえば、英世が苦学しながらも、ともかくも医学者の道に進めたのは、日本が
   身分にとらわれず、優秀な人が活躍できる社会になりつつあったことを示していま
   す。また、英世が留学先として、当時最も医学が進んでいたヨーロッパではなく、よ
   り自由でチャンスを得やすいアメリカを選んだことも、成功への近道となりました。
    ところで英世は4回、ノーベル賞の候補にあがっていました。しかし、第一次世界
   大戦の影響で、ノーベル賞が中止になったり、英世の研究への疑問が出されたりし
   て、残念ながら結局は選ばれなかったのです。
    しかし、悪い条件の中でもけんめいに努力し、その結果、世界で活躍した野口英
   世のことを、今でも多くの日本人は尊敬し、できれば彼に近づきたいと願っている
   のだと思います。 



 
☆答えと解説
1(1)
A植民地でもめごとが起きた。日本に関心はあったのですが、インドや中国で問題が起きていて、それどころではなかったのです。

    
※戻る時はパソコンの戻る機能を使ってね!


2(1)
A汽車。本物の4分の1の模型でしたが、実際に運転され、幕府の役人は屋根にまたがって乗ったそうです。



3(1)
@多い。寺子屋は江戸末期には全国で3万〜5万もあったそうです。セブンイレブンの数は、現在約1万2千です。



4(1)
B350人。もちろん1人で何回も通った人もいたでしょうが、今と変わらぬ多さです。



5(1)
本当。20代後半に、勝海舟のもとで幕府の海軍づくりを手伝っていました。



6(1)
A囲碁を習い始めた。目的達成のためには、遠回りでもねばり強く努力する人だったようです。



7(1)
@贈り物や結婚式などの費用。武士という身分を保っていく以上、こうした費用は絶対に減らすことができず、これが武士の家計を
  苦しめた原因の1つとなりました。



8(1)
B幕府の役人。なんと13人もいました。政府の実力者を中心としながらも、広くすぐれた人たちが集められました。



9(1)
Aペリー以外の人によって。佐賀藩の人が、ロシアの使節が持ってきた蒸気機関車の模型を見ています。



10(1)
B大型消火器。空気の圧力を利用したので、水は勢いよく10bの高さにまで達しました。



11(1)
看護婦(今の看護師)。教員をめざす女性の学校でも、早くから先生や学生が洋服を着ました。ヒントの○○は「白衣」。



12(1)
B1300。この数も、これまでにわかっているもので、今後もっと増えるかもしれません。



13(1)
Aカエル。イギリス人が連れてきた中国の料理人が、中国でふつうに食べるアカガエルを入れることを思いついた、と言われて
   います。



14(1)
A糸。明治22年(1889)に東京の鐘ヶ淵(かねがふち)で紡織(ぼうしょく、綿などから糸をつくる)を始めたので、略して鐘紡と
   呼ばれました。



15(1)
国旗。お祝いに参加する人たちからは、洋服の注文もあいつぎました。



16(1)
B220兆円。当時のお金で20億円かかりました。このうち多くは、イギリスやアメリカから借りたのです。



17(1)
A靴を脱いで入っていた。デパートはもともと少数のお金持ちを相手にしていました。



18(1)
B8人。このころ小学校は4年制でしたが、おさない小学生にも厳しいテストがあり、退学者が続出しました。 



1(2)
@油をとる。盛んだった綿工業用の機械に使う油を求めたのです。



2(2)
すもうの力士たちです。約60sもある米俵を2つもかついで、アメリカ人を驚かせています。



3(2)
@50日。今よりはるかに少なかったんですね。



4(2)
@2200円。庶民でもなんとか手の届く値段になっていました。



5(2)
@新婚旅行。お龍(りょう)さんという女性と結婚し、鹿児島に旅したのが、日本初の新婚旅行と言われています。



6(2)
Bもとの銃をつくっていた人たちにも改良のチャンスを与えた。性能のすぐれた新しい銃をすぐに採用すれば、それに反発する動きが
   起こることを大久保は予測できたのです。



7(2)
B2倍。お金を中心とした経済は武士の家計を圧迫し、借金はふえる一方でした。



8(2)
エレベーターでした。一行のうち、ある人は「アッと思う間にドキンと動き釣り上げられた」と記録しています。



9(2)
A伝染病。まさに迷信(めいしん)ですね。



10(2)
A時計。万年自鳴鐘(まんねんじめいしょう)といい、1度ゼンマイを巻くと400日も止まりませんでした。こんな時計は、当時外国にも
   なかったのです。



11(2)
A「市民」という英語から。正式には「シビル・コート」といい、この「シビル」から「背広」に変化したと言われています。



12(2)
B2万円。当時、新聞は相当なお金持ちしか買えませんでしたが、庶民も町の中に貼られたものを読むことができました。



13(2)
B6000円。当時、レストランの経営者が世話をしていたインド人政治家が、お礼に本物のつくり方を教えてくれました。
   こんなに高くても、たくさんの人が食べにきたそうです。



14(2)
B布を織る機械。豊田佐吉が明治29年(1896)に木製の動力織機(どうりょくしょっき)を発明し、紡織業の発展に力を
   尽くしました。



15(2)
A万歳三唱。それまで日本には、お祝いの時のかけ声がありませんでした。「奉賀(ほうが)」「マンザイ」「バンゼイ」などの
   案も出されましたが、結局大きな声で言いやすい「バンザイ」と叫ぶことに決めたのです。



16(2)
17倍。もともとすぐれた火薬を使っていた上に、長い航海で、へとへとになっていたロシアに比べ、日本は十分な訓練を積んで
   待ちかまえていました。



17(2)
ちゃぶ台という、座って食事をするテーブル。それまでは、一人一人別のお膳(ぜん)で食べていました。



18(2)
A。坪内しょうようの『当世書生気質(とうせいしょせいかたぎ)』という本の中の登場人物に、「野々口清作」
   というダメな医学生がいたのです。



1(3)
「蒸気」と「風」です。蒸気で動く水車のような輪があるのは覚えている人も多いでしょうが、風をうけて走るためのマストもあった
  のです。なるべく石炭を使うのを節約するために、風が追い風の時は、マストをはって航行しました。


2(3)
@陽気で気品があった。ペリーと一緒に来た画家の絵には、アメリカ人と自然に交流する庶民の姿が描かれています。



3(3)
B7000。もちろん1つの寺子屋でこんなには使いませんよ。内容はとても実用的で、農民の子であれば、農業に関わる基本的な内容が
   載っている教科書を使いました。



4(3)
@1年後。いかに早く予防接種が地方に広がったか、わかりますね。



5(3)
A本。国際法の本を見せたそうです。



6(3)
@いろいろな種類のくだものを栽培した。工業や農業の発展が大事と考え、日本にどんなくだものがあうか、自分で確かめたかった
   ようです。



7(3)
店の看板。武士には「商売をすることは恥だ」という考え方がありました。



8(3)貧しい人々が暮らす場所です。2人は、文明開化には陰(かげ)の部分もあったことを知りました。



9(3)
B3500円。今と比べると、運賃はだいぶ高かったようです。



10(3)
電信(電気通信)。電気信号を使って、情報を遠くへ早く伝えるものでした。電信柱は、このために立てられたのです。



11(3)
@エプロン。しかし、これで和服を着ても仕事の時に袖(そで)がじゃまなので、袖付きのものができました。これが割烹着
   (かっぽうぎ)です。



12(3)
B村の全人口。おそらく近くの村からも多くの人が集まったのでしょう。自由民権運動の広がりをよく示しています。



13(3)
B13000食。すべての客が食べた料理のうち、3分の1近くがカレーライスだったことがわかります。すごい人気ですね。



14(3)
あまりにも多くの見学者が来たので、その人たちから見学料をとったそうです。



15(3)B大臣の一人がおそわれた。森有礼(もり ありのり)文部大臣が刺され、翌日亡くなりました。



16(3)
Aおなかの薬。正露丸(せいろがん)という薬を知っていますよね。戦地でおなかをこわした兵士のために作られた薬が、
   一般に売られるようになったのです。「正」ははじめ、「征」の字が使われていました。


17(3)
Aラジオ。映画と電話はすでに明治時代には始まっていました。今で言えば、テレビのようにお茶の間で中心的な役割を
   はたしていました。



18(3)
本当。亡くなる11年前(1917年)、生カキにあたって腸チフスという病気にかかったのです。


                    
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