士 農 工 商 の 世 の 中(安土桃山〜江戸時代後期)

                                     ※見たいテーマの番号をクリックしてね

                        3000挺(ちょう)、3段撃ちはあやしい(長篠の戦い)
                        長篠の戦い 信長軍の費用は?
                        信長軍の強さの秘密は?
                        秀吉の天下取り作戦(その1)
                        秀吉の天下取り作戦(その2)
                        江戸幕府を先取り 秀吉の検地
                        秀吉の「刀狩り」は本当に実行されたか?
                        秀吉と茶わんの関係は?
                        なぜ「南蛮」(なんばん)文化というの?
                       10 天下統一とグルメ料理
                       11 「関ヶ原」は豊臣家の内輪もめ?
                       12 天下取りを支えた家康の長寿
                       13 日光東照宮のひみつ
                       14 江戸時代の新聞「瓦版(かわらばん)」
                       15 徳川家光は孤独だった?
                       16 鎖国(さこく)って本当に国を閉ざすこと?
                       17 参勤交代は見栄(みえ)の張り合い?
                       18 水戸黄門ってどんな人だった?
                       19 江戸時代の農業を考える
                       20 気付かず使っている歌舞伎(かぶき)の言葉
                       21 城下町を調べてみよう 
                       22 江戸時代のファーストフード
                       23 江戸は世界一の肥料工場だった!?
                       24 江戸時代の農民の休日は?
                       25 「お江戸でござる」ハウマッチ?
                       26 江戸後期の庶民の旅行ブーム
                       27 杉田玄白(げんぱく)と日本の近代化
                       28 江戸時代の「趣味の園芸」
                       29 遠山の金さんは庶民の味方?  



                               
※イラストはすべて関口たか広先生の作品です

 3000挺(ちょう)、3段撃ちはあやしい(長篠の戦い)

  
☆なるほどクイズ
   
(1)織田信長が長篠(ながしの)の戦いで用いた鉄砲3000挺という数字はどこから?

     @合戦当日の文書(もんじょ)に記録されていた
     A江戸時代初めの本に記されていた
     B明治時代の本に記されていた        
答は?(クリック)

   (2)記録には、戦いは日の出から始まって午後2時まで続いたとあります。鉄砲による信長軍の快勝だとしたら、何かおかしくない
     ですか?
              
答は?

   (3)「1000挺ずつ3段にして休みなく撃たせた」という説明、これも何かおかしくない?
      
※ヒント:信長の陣地の長さは1キロ余り。隣の兵との間隔は?   答は?

  
☆せつめい
     
天正3年(1575)5月21日、織田信長と徳川家康の連合軍は、武田勝頼の軍と
    三河(今の愛知県)で戦いました。いわゆる長篠の戦いです。信長軍は3000挺の
    鉄砲を、1000挺ずつ3段に分けて撃ち続け、押し寄せる武田の騎馬隊(きばた
    い)をなぎ倒して大勝した、とされています。しかしこの説明、本当に正しいので
    しょうか?

     鉄砲3000挺という数や3段撃ちをしたということに、実ははっきりした根拠はあ
    りません。信長の鉄砲隊には、各地にいた信長の家臣たちの軍から寄せ集めた者
    もいて、合戦のわずか数日前に到着した兵もいました。こうした兵たちに、3段撃
    ちの訓練をする余裕などあったのでしょうか?1000人がいっせいに討つことなど
    できなかったでしょう。かといって、部隊ごとに3段撃ちをしたら、他の部隊とはタ
    イミングがずれ、鉄砲や太鼓、兵たちの叫び声などによって、「撃て!」の号令はほ
    とんど聞こえなかったでしょう。
     実際には、馬防ぎの柵も武田軍によって破られ、一時的にはかなりの混戦にな
    ったのではないでしょうか。ただ、この合戦で信長が大量の鉄砲を用いたこと、そ
    れが大きな成果をあげたことだけは間違いないようです。


 長篠の戦い 信長軍の費用は?
  ☆なるほどクイズ
   
(1)ヨーロッパからもたらされた鉄砲は、すぐに日本でも作られるようになりました。あるものを作っていた職人たちの優れた技術が
    あったためです。そのあるものとは?
    
※ヒント:鉄砲はもちろん、鉄でできていますよね。  答は?

   (2)もし仮に、信長が長篠の戦いで1000挺の鉄砲を用意したとします。その費用を今のお金にすると?

     @1700万円  A7000万円  B1億7000万円  C7億円  
答は?

  ☆せつめい                                    
     
3000挺という数は疑わしいとしても、信長が長篠の戦いに際して、大量の鉄砲
    を用いたことは間違いありません。信長はこれらの鉄砲や弾(たま)、火薬などを
    どのようにして手に入れたのでしょうか?

     当時、日本国内で鉄砲を作っていた所は3ヵ所あり、そのうち2ヵ所には信長の
    力が及んでいました。なかでも堺(さかい、今の大阪府堺市)は、商人の町として
    有名ですが、国際貿易港をもち、国内外から集まってくる豊かな資源を使って、
    鉄砲をはじめとしたいろいろな物を作っていた工業都市でもあったのです。

     信長は永禄11年(1568)、足利義昭を将軍とするため京に入ります。この時、
    義昭から副将軍か管領(かんれい)にと言われたにもかかわらず、彼が望んだの
    は、堺など3つの都市に代官を置くことだけでした。信長は、早くから商業や当時
    の先端産業の地をおさえることの大切さを知っていたようです。
     また、火薬の原料である硝石(しょうせき)は、ポルトガル船によって中国産のも
    のが輸入されていました。信長は南蛮文化に理解があったと言われていますが、
    彼の本当のねらいは、ヨーロッパとの貿易をさかんにすることだったのかもしれま
    せん。 



 信長軍の強さの秘密は?

  ☆なるほどクイズ
   
(1)信長がある時、安土城下に住む家臣たちについて調べてわかったこととは?

 @敵のスパイがたくさんいた A何人かが屋敷を勝手に交換していた B多くの者の妻や子が、もとの領地に住んでいた  
答は?

   (2)信長はこれらの家臣をどうしたか?

     @死刑にした  A城下に新しい道をつくらせた  B一人ずつ呼んで注意した  
答は?

   (3)信長が長篠の戦いの時に使った大量の鉄砲は?

 @もともとすべて信長が用意した A各地で戦っている家臣たちから少しずつ集めた B半分以上家康から借りた  
答は?

   ☆せつめい
     
織田信長が、たくさんの敵と戦いながら天下統一の途中まで突き進むことがで
    きたわけの1つを説明しましょう。

     例えば武田信玄や上杉謙信の兵たちは、たしかに戦(いくさ)は強かったのです
    が、どうすることもできない弱点がありました。それは、田植えや稲刈りなど、農業
    の忙しい時期には戦いに出かけられなかった、ということです。なぜなら、重臣クラ
    スは別にして、武田氏や上杉氏などの領国に住む兵たちは、ふだんは自らも農業を
    しなければ暮らしていけなかったほど、土地の生産力が低かったからです。
     その点、信長が本拠とした尾張(おわり、今の愛知県の一部)やその周辺は、土
    地が豊かで、兵たちが直接農業にたずさわる必要があまりありませんでした。つま
    り、一年中、信長の側近くで訓練を積み、いつでも出動できる兵たちがたくさんい
    たので、各地での戦闘を効率よく進めることができたのです。
     信長が安土城の城下町の整備を進めた目的の1つに、いくさだけに専念できる
    兵を増やすということがあったと考えられています。


 秀吉の天下取り作戦(その1)
  
☆なるほどクイズ
  
(1)秀吉は朝廷から「豊臣」の姓をもらう前は、何氏と名乗っていた?

    @源氏  A平氏  B藤原氏  C橘(たちばな)氏 
 
答は?

  (2)天正13年(1585)、秀吉が争いをやめるよう九州の島津氏あてに出した命令は、とても小さな紙に書かれています。
    そのわけは?

    @秀吉が島津氏を見くだしていたから。
    Aたまたま大きな紙がなかったから。          
答は?
    Bこうした命令は小さな紙に書くのがルールだったから。                

  ☆せつめい
     
信長に仕え、数々の手柄をたてて出世した秀吉は、信長の死後、そのあとつぎと
    しての地位を築きました。しかしすでに40代後半、この時代としては平均寿命に近
    い年齢に達していました。その後、わずか10年足らずで天下を平定できたのはなぜ
    でしょうか?

     秀吉は織田家重臣との権力争いに勝ち抜き、最大のライバルだった徳川家康を
    も何とか従えました。そして、朝廷内の最高位である関白となって、各地でまだ争
    っている戦国大名に「戦いをやめよ」という天皇の命令を伝えることを考え出しま
    した。
     大名がこの命令に従い、秀吉の決めた領地案を受け入れれば許し、拒否した方
    だけを武力で討伐しました。こうすれば秀吉は敵の数を減らせるし、その敵と争っ
    ていたもう一方の大名は、必ず秀吉軍に味方するわけです。さすがに秀吉はアイ
    デアマンですね。
     もちろん、これが成功するためには、秀吉が圧倒的な武力を持っていることが必
    要でした。命令を出し始めた天正13年ごろ、秀吉はすでに日本の中央部のほとんど
    を支配下におさめていました。ですから、命令を出したのは九州や関東、奥州(東
    北地方)の大名たちに対してでした。


5 秀吉の天下取り作戦(その2) 

  ☆なるほどクイズ
  
(1)天正17年(1589)、秀吉が聚楽第(じゅらくだい)という所で開いたイベントで、武将たちに配ったものとは?
    
    @領地を与えると記した命令書  A金(きん)や銀
  B食べきれないほどのごちそう  
答は?

  (2)秀吉がいろいろなイベントや合戦の後に、たびたびやったこととは?

    @家臣を集めた反省会  A大増税  Bイベントや勝ちいくさの見事さを作家に書かせた  
答は?

  (3)秀吉がさらに自らの成功を民衆に広く伝えようとしてやったこととは?
    
※ヒント:本人が死んだ後ならともかく、生きているうちに!?           
答は?     
  ☆せつめい
     
秀吉は当時、低い身分の出身だったため、代々仕える家臣がいませんでした。同
    じ織田家の家臣だった人や、敵だった人まで従えなければならなかったのです。さ
    らに、政権の安定のためには、武士以外の貴族や一般民衆の支持が何より大切で
    した。

     そこで秀吉は、きらびやかな軍事パレードや豪華な茶会、大仏造営など、さまざ
    まなイベントを企画・実行し、人々の気持ちをウキウキさせようとしました。その際、
    金銀財宝を惜しげもなく提供したのです。また、自分がいかに天下人(てんかびと)
    としてふさわしいか、専属の作家に、ことあるごとに記録を書かせ、皆に読ませまし
    た。秀吉の最後の大事業となった朝鮮出兵は、「領土拡大のチャンスがなくなった
    武将たちの不満を外に向けるためだった」と、これまでは言われてきました。しかし
    近年は、これも夢追いプロジェクトの1つで、秀吉自身、本当は朝鮮や中国を征服で
    きるとは思っていなかったのでは?という説も出てきているのです。



 江戸幕府を先取り 秀吉の検地

  ☆なるほどクイズ
  
(1)「実際に土地の面積を測る検地をしたのは秀吉が初めてだった」。これ本当?  答は?

  (2)実際の検地に、耕作している農民の代表は「立ち会っていた」「立ち会えなかった」どっち?  
答は?

  ☆せつめい
     
秀吉は大急ぎで天下統一を実現させた後、全国各地で検地をしました。この
    目的はいったい何だったのでしょうか?

     秀吉は検地のために、米の量をはかる升(ます)の大きさなども統一しました。
    それまでは地方ごとにバラバラだったので、全国共通の基準が必要だったからで
    す。これで土地ごとの米の生産高もはっきりしました。また、1つの土地で耕作する
    人を確定し、それ以外の人が同じ土地に権利を持つことを禁じました。
     農民にとっては年貢の量がふえる場合も多かったでしょう。ただ、彼らも検地
    に立ち会い、そこで話しあいをして年貢量を決めたので、ともかくも納得した形
    でした。
     こうして非常にすっきりした形で、武士と農民の関係が整理されたのです。そ
    して大名に対しては「あそことここの土地は同じ価値があるから」などと言って、全
    く違う領地に移るよう命じることができるようになりました。
     ですから、秀吉の権力はいよいよ強いものとなっていったのです。さらに、ここで
    決まった年貢量に基づき、朝鮮出兵の際、各大名に何人の軍勢を動員させるか
    の割り当てもできました。
     秀吉の全国検地の基本的な部分は、江戸幕府にも引き継がれていったのです。

    

 秀吉の「刀狩り」は本当に実行されたか?
  ☆なるほどクイズ
  
(1)実際の「刀狩り」で、秀吉が特に熱心に農民から取り上げた武器は?

    @刀   A弓   B鉄砲  
答は?

  (2)武士以外で、特に暮らしていく上で鉄砲が必要だった人たちとは?
    
※ヒント:主に山で仕事をする人たちです。  答は?

  (3)江戸時代初め、ある大名が農民・町人に対し、武士と同じようにしていはいけないと命じた「なでつけつぶり」とは?

    @服装   A髪型   B足にはくもの  
答は?

  ☆せつめい                                      
     
秀吉は、天下を統一する時に、農民たちから刀をはじめとする武器を取り上
    げ、まとまって武士たちに抵抗できないようにした、と言われています。でも、考
    えてみてください。本当に日本じゅうすべての農民から武器を取り上げることな
    ど、できたのでしょうか?

     実は近年ある学者が、武器は取り上げられたわけではなく、たとえば村のお寺
    などに納めたままにしたり、なかには農民が訴えれば、そのまま持っていてよいよ
    うな場合もあったことをつきとめたのです。長くて派手なものでなければ、農民や
    町人が刀を持ち歩くこともかまわない、と読めるきまりも出されています。
     また武器も、村で暮らす上で必要だったので、幕府や大名は、許可制という形
    でこれを認めました。
     江戸時代、農民たちが一
(いっき)を起こした
際に、くわや鎌などの農具を
    手にしたのは、刀や弓がなかったからではなく、相手を殺したり傷つけたりする
    意志がないことを示したからです。
     ただし、幕末の混乱期には、このルールが崩れていきました。



 秀吉と茶わんの関係は?
  ☆なるほどクイズ
  
(1)
庶民がご飯を食べるのに、茶わんを使い始めたのはいつ頃から?
 
     @室町時代  A江戸時代  B明治時代  
答は?

  (2)ご飯を食べる器を「茶わん」と呼ぶわけは?

  @ご飯にお茶をかけて食べたから Aもともとお茶を飲むのが主な使い道だったから Bはじめ器の色がみんな茶色だったから
                                          
答は?

  (3)茶わんの別名「瀬戸物」の「瀬戸」とは?

    @つくっている場所の名前 A初めてつくった人の名前 B材料に含まれているものの名前  
答は?
    
  ☆せつめい
     
茶わんは、平安時代に中国から、お寺の道具として初めて日本にもたらされたとさ
    れています。そのころは茶わんとは言いませんでしたが、やがて日本でお茶を飲む風
    習が広がったため、茶わんは焼き物全体をさす言葉になったのです。

     日本でも、今の愛知県や岐阜県あたりに、焼き物をつくる窯(かま)がたくさんつく
    られ、さかんに生産されます。
     しかし、なんと言っても、秀吉の起こした朝鮮の役が、日本の焼き物産業を質・量
    ともに世界一とする大きなきっかけになりました。なぜなら、この戦いの時、当時、進
    んだ技術を持っていた朝鮮の職人たちが、たくさん日本に連れてこられたからです。
    彼らは九州各地に窯をつくり、質の高い焼き物をつくりあげていきました。これらは現
    在も有田焼、唐津(からつ)焼などとして受け継がれているのです。
     戦争はとても不幸なことですが、こうした技術が外国へ伝えられていく、などとい
    うこともあったのです。 

   

 なぜ「南蛮」(なんばん)文化というの?
  ☆なるほどクイズ
  
(1)カステラというお菓子の名前の由来は?

    
@人の名前  A国の名前  B船の名前  答は?

  
(2)南蛮貿易により初めは薬としてもたらされ、その後、日本人の間に広まったものとは?
    
※ヒント:子どもはダメ、大人も健康に注意  
答は?

  
(3)江戸時代以後、日本人に愛されるようになった、鉄砲の技術を利用したものとは?
    
※ヒント:夏には欠かせません  答は?
 
  ☆せつめい
     種子島に鉄砲が伝えられた16世紀なかばごろ、江戸時代の初めまで、ヨーロッ
    パの船が毎年のように九州各地の港にやってきて、さかんに貿易をしました。これ
    を南蛮貿易と言います。でも、ヨーロッパは日本から見て、明らかに南の方にはな
    いのに、なぜ「南蛮」貿易と言うのでしょうか?

     このころヨーロッパで最も力があったポルトガルとスペインが、今の中国南部や
    フィリピン、インドネシアなど東南アジアの地域を支配していました。それで、ヨーロ
    ッパの船は、こうした地域の港から日本へ来ていたため、「南蛮」と呼ばれたのです。
     この数十年の間、日本には衣食住そのほか、さまざまな面でヨーロッパ文化が
    入ってきます。その後、秀吉によるキリスト教禁止や、江戸幕府のとった鎖国(さこ
    く)政策によって、これらの多くは途絶えてしまいました。しかし、一部は形を変えた
    りして残り、庶民の生活にも広がっていきました。
     そしてこのことは、二百数十年の時を経て、ペリーによる開国以後の日本が、西
    洋文明を受け入れる際の土台となっていったのです。
    

10 天下統一とグルメ料理
  ☆なるほどクイズ
  
(1)南蛮貿易で入ってきたもので、はじめは食用でなかったものは?

    @トウモロコシ  Aトマト  Bスイカ
  
答は?

  (2)関西で言う「ひりょうず」(関東では「がんもどき」)は、スペイン語で何を意味する?

    @コロッケ  Aケーキ  B焼き肉  
答は?

  (3)秀吉のころの武将や公家たちに多かった病気とは?

    @心臓病  A脳の病気  B胃腸病  
答は?               

  ☆せつめい
     
秀吉が天下を統一したころ、日本人の食べ物も公家風や武家風、それに寺院
    風、庶民風などのものが、まじり合うようになりました。さらに、南蛮貿易がさか
    んになったことにともない、海外から新しい食品が入ってきて、特に身分の高い
    人たちの食事は、ぜいたくなものとなったのです。


     例えば米は、玄米ではなく白米を今と同じように炊き、お菓子もカステラやビス
    ケット、金平糖(こんぺいとう)など砂糖を使ったものがふえ、お酒もそれまでのに
    ごったものから今と同じ透明なもの(清酒)へと変わっていきました。
     当時の医者が残したカルテによると、有名な武将や公家は、こうしたぜいたくな
    ものを食べ過ぎ、また飲み過ぎたために栄養のバランスが崩れ、カロリーをとりす
    ぎて、胃腸の病気に苦しんでいる人が多かったようです。
     かつて平安時代の終わりごろ、武士がしていた健康的な食事は、一般の町人や
    農民がとるようになっていたのです。 


11 「関ヶ原」は豊臣家の内輪もめ?
  ☆なるほどクイズ
  
(1)初めて徳川家康のことを「天下殿」と記したのは、奈良のあるお坊さんでした。それはいつ?

     @関ヶ原の戦いの前  A将軍になる直前  B豊臣家を滅ぼす直前  
答は?

  (2)関ヶ原の戦いの後の数年間、家康が主にいたところは?

     @江戸  A京都  B大坂(今の大阪)  
答は?

  ☆せつめい
     
徳川家康は、幼いころから人質となるなど、多くの苦労を重ねながら実力をた
    くわえ、ついに将軍となって幕府を開きました。しかし、その道のりは決して楽な
    ものではありませんでした。


     
秀吉亡き後、家康が最大の実力者であることは、誰もが認めていました。しか
    し、それはあくまでも豊臣家の重臣としての立場でした。このままでは天下をとれ
    ないことを知っていた家康は、豊臣家に従う大名どうしの争いを利用し、その片
    方のリーダーになることで、関ヶ原の戦いに勝利しました。これによって豊臣家の
    勢力を大きく削ることに成功したのです。
     しかし、それでもまだ秀吉の子、秀頼がいる限り、いつ形勢が逆転するかわか
    りません。そこで家康は、わずか2年で将軍職を子の秀忠に譲りました。「将軍職
    は徳川家が継いでいく」と示し、もう2度と豊臣の天下にはならないことをはっき
    りさせたのです。
     ところで将軍の誕生は、室町幕府の滅亡以来、ほぼ30年ぶりのことです。家
    康は将軍になったとはいっても、有力な外様(とざま)大名に対して領地を確認
    するという重要な命令を出すことはできませんでした。これができるようになっ
    たのは、2代秀忠の時からだったのです。 
     


12 天下取りを支えた家康の長寿
  ☆なるほどクイズ
  
(1)家康は、江戸幕府の歴代将軍15人の中で、何番目に長寿だった?

     @2番目   A6番目   B11番目  
答は?

  (2)家康が特に好んだ食べ物とは?

     @お菓子   Aみそ   B白米  
答は?

  (3)家康が60年余りにも続けた鷹狩り(たかがり、飼い慣らした鷹を使って小さな動物を捕らえること)の目的は、
    運動とあと何?  
答は?

  ☆せつめい                                   
    
家康は、秀吉より5歳年下にすぎず、その活動時期はほとんど重なっていました。
   にもかかわらず、家康が秀吉の死後に天下を取り、江戸幕府の基礎を築くことが
   できた理由の1つは、家康が人一倍健康に注意し、当時としては大変な高齢にな
   るまで第一線で活躍できたことがあげられます。

    例えば食事の面では、みそや麦めし、くだもの、野菜、干し魚を好み、とてもバラ
   ンスよく栄養をとっていました。また、漢方薬の本を熱心に読み、自ら薬を作って飲
   んだほか、医師たちに話をするほどだったといいます。さらに体力の維持にも心が
   け、鷹狩りのほか、剣術、馬術などをしたそうです。
    こうした努力もあってか、家康は何度か病気はしたものの、長く寝込んだりする
   ことはありませんでした。結局、74歳で亡くなりますが、その直前まで政治・軍事の
   力を振るうことができました。
    また子どもも、秀吉がわずか2人しかできなかったのに対し、家康にはわかって
   いるだけでも16人もいて、このうち11人は男子でした。彼らの多くは、徳川氏一族と
   して大名となり、江戸幕府を支えることになっていったのです。 



13 日光東照宮のひみつ
  ☆なるほどクイズ

  
(1)東照宮という神社は、日光のほか、全国にたくさんある。これ、本当?  答は?

  (2)東照宮の建物の彫刻に、最も多く用いられている動物は?

     @ゾウ   Aトラ   Bサル  
答は?

  (3)神厩(しんきゅう)という建物に彫られている、いわゆる三猿(さんえん。見ざる、言わざる、聞かざる)は?

     @子ども   Aおとな   B老人  
答は?

  ☆せつめい
     
家康は、その遺言の中で「自分が死んだら、遺体は駿河(するが、今の静岡
    県)久能山(くのうざん)
にほうむり、1年後に下野(今の栃木県)日光山に小さ
    な堂を建ててまつるように」と指示しました。

     家康は、「東照大権現」(とうしょうだいごんげん)という名前の神様として
    まつられたのです。「東照」とは、幕府のある関東を太陽が明るく照らす、とい
    う意味で、有名な陽明門の名前もこれと関係があるようです。
     現在のような大きな宮は、家康を特別に尊敬していた3代将軍家光が、寛
    永11年
(1634)から1年余りをかけて大改造を行ってできました。その費用は、
    今の大工さんの日当を基準にすると、約2000億円にもなります。
     東照宮には、実に5000以上の彫刻が用いられており、その中には人物や動
    植物など、さまざまなものが見られます。これらの多くには、何らかの意味が
    込められており、家康をたたえたり、人間としての生き方を示したりしていま
    す。
     子どもが遊んでいる様子を描いた彫刻について、ある学者は、子どもたち
    が安心して遊べる平和な時代が来たことを示したもの、ととらえています。 


14 江戸時代の新聞「瓦版(かわらばん)」
  ☆なるほどクイズ
  
(1)最も古い瓦版は、いつごろ出された?

    @
江戸時代はじめ  A江戸時代なかごろ  B江戸時代終わりごろ
  
答は?

  (2)瓦版で特に多くとりあげられた話題は、自然災害、三つ子誕生などの珍しい話と、あと1つは?

    @幕府政治  A主君や家族を殺した者を討った話  Bイケメンの役者の話  
答は

  (3)瓦版1枚、今のお金にしてズバリいくらくらいした?  
答は?

  ☆せつめい                                  
    
 江戸時代、街かどで売られた新聞のようなものを瓦版と言います。これは、
    瓦の材料となる粘土に字を彫り、それを焼いて使ったためとも言われますが、
    実際には、版画のように木に文字を刻んで刷ったものもありました。

     別名「読売(よみうり)」とも呼ばれ、今も新聞社の名前になっています。大
    きさはいろいろありましたが、だいたい1枚か2枚でした。
     江戸時代の後半にさかんに売られるようになり、さまざまな話題がとりあ
    げられました。安政の大地震(1855年)の時は、400種類もの瓦版が売られ
    ました。それから敵討ち(かたきうち)は、江戸時代には認められていたので、
    庶民の関心が高く、江戸だけではなく各地で瓦版によって伝えられたのです。
     ペリーが来てからは、政治向きのこともとりあげられるようになりました。
    しかし明治元年(1868)、現在のような形の新聞がつくられ、瓦版は姿を消
    していきました。


15 徳川家光は孤独だった?
  ☆なるほどクイズ
  
(1)3代将軍徳川家光が、よくしたことは?

    @自ら料理をした  A音楽をよくきいた  Bお忍びで城外に出歩いた  
答は?

  (2)優美な踊りが好きだった家光に、ある家臣はわざと荒々しい踊りを見せました。なぜ?

    @むしゃくしゃしていたから A武家のトップとしての自覚を忘れさせないため B地元で流行していたから  
答は?

  (3)家光の晩年、たびたび夢にあらわれた人物は?

    @聖徳太子  A源 頼朝  B徳川家康  
答は?            

  ☆せつめい
     
江戸幕府の3代将軍徳川家光は、生まれた時から将軍になることが約束され
    ていた
人、と思っているかもしれません。しかし、そうではなかったのです。


     
幼いころ、父である2代将軍秀忠は、家光の弟の方を愛していました。これに
    対し祖父家康は、家光を後継者にするよう指示したので、家光は死ぬまで家康
    を敬う気持ちを持ち続けたのです。
     家康がつくった幕府は、秀忠の代に圧倒的な武力を背景に、全国支配の基
    礎を固めていきました。それがほとんど完成した時に将軍となったのが家光で
    した。彼の代に、武士や朝廷に対するきまりが整えられ、外国との関係も定め
    られました。
     安定した政治権力の頂点に立った家光でしたが、そのことは逆に彼を実際
    の政治の場から遠ざける結果となりました。家光自身が政治をみなくても、老
    中以下、幕府の役人たちがこれを担当したからです。
     家光は次第に行動の自由を制限され、孤独を感じるようになったため、祖
    父家康への思いを強くしたのかもしれませんね。


16 鎖国(さこく)って本当に国を閉ざすこと?

  ☆なるほどクイズ
  
(1)「鎖国」という言葉が使われ始めたのは?

     @鎖国後まもなく  A鎖国の50年後  B鎖国の160年後 
 
答は?

  (2)鎖国以前の貿易で、日本からの主な輸出品は?

     @お米   A銀   B武器  
答は?

  (3)幕府が、キリスト教の代わりに将軍を神としてあがめさせるためにつくらせたものとは?   
    
※ヒント:今の栃木県につくりました。行ったことがあるかも…  答は?
 
  ☆せつめい
     
江戸幕府ははじめ、ヨーロッパ諸国との貿易を認めていました。しかし、これに
    ともなって入ってくるキリスト教が、神の前で人は皆平等と説いているのをとが
    めました。そして三代将軍家光の時に、日本人が外国と行き来するのを禁じ、キ
    リスト教を広めないと約束したオランダと中国のみと貿易をするようになりまし
    た。

     このように書くと、幕府がリードして、貿易相手国を選んで決めたように受け
    取る人もいると思います。
     しかし実は、東アジアに進出していたヨーロッパ諸国のこのころの事情も関係
    していたのです。ポルトガルやスペインは勢力を弱めていました。イギリスもオラ
    ンダとの争いに敗れて一時的に退きました。当時はオランダの力が圧倒的だっ
    たのです。
     鎖国は決して国をほぼ完全に閉ざしてしまうことではありませんでした。世界
    への窓口は、ちゃんと確保されていました。
     大事なのは、貿易や情報の入手を幕府がほぼ独占しようとした、ということ
    なのです。確かに当時のヨーロッパ諸国と日本とでは、近代化という点で大きさ
    がありました。日本はそうした進んだヨーロッパ文明を日本なりに受け入れようと
    した、それが鎖国体制でした。 


17 参勤交代は見栄(みえ)の張り合い?
  ☆なるほどクイズ
  
(1)例えば加賀藩(今の石川県にあった、大名は前田氏)の場合、江戸までの大名行列は、どのくらいの日数がかかった?

    @13日   A25日   B50日 
 
答は?

  (2)加賀藩の文化5年(1808)の大名行列にかかった費用を今のお金にすると?

    @2000万円   A1億円   B4億円  
答は?

  (3)松江藩(今の島根県にあった。大名は主に松平氏)全体の費用のうち、大名行列にかかった費用が占めた割合は?

    @5%   A25%   B50%  
答は?               

  ☆せつめい
     徳川氏が天下の実権を握ると、諸大名は競って江戸に集まり、住むようにな
    りました。これが制度となって、参勤交代のしくみができあがったのです。

     はなばなしい大名行列の方に目がいきがちですが、実際に藩の財政を苦し
    めたのは、藩主以下、多くの藩士が江戸で暮らすための費用でした。江戸は国
    元に比べ、お金を使う機会が多かったのでしょう。
     ただし、江戸にいれば幕府の情報をすぐにつかむことができたので、藩の政
    治を進めていく上では、大いに役立ったのです。
     ところで、大名行列の人数は、「交通渋滞を招く」などの理由で、なるべく減
    らすよう幕府が命じていました。しかし各大名は、競って人数を増やし、また行
    列に使う道具も、「少しでも格式の高いものを」と幕府に願い出たのです。
     なぜかわかりますか?戦争のなくなった武家社会では、そうした形の上での
    ことで、「ほかの大名より少しでもまさるように」というのが、彼らの願いだった
    からです。したがって、それを誰に認めるかが、幕府にとっての重大な「政治」だ
    ったのです。何とものんきな話ですが、本人たちは真剣でした。


18 水戸黄門ってどんな人だった?
  ☆なるほどクイズ
  
徳川光圀とくがわみつくに、水戸黄門)約30年、水戸藩主をつとめたがこのうち実際に水戸にいた期間を合計すると?

     
@8年   A15年   B25年  答は?

  
(2)テレビドラマ「水戸黄門」でお供をしている「助さん、格さん」の本当の姿は?

     @水戸藩の家老  A学者  B商人  
答は?

  (3)
光圀がつくることを命じた『大日本史』という歴史書は、完成まで何年かかった?

     
@50年後  A100年後  B250年後  答は?             

 ☆せつめい
    テレビドラマでは、強いお供を従え、悪人をこらしめながら諸国を旅する水戸
   黄門こと徳川光圀はたして実際は、どのような人だったのでしょうか?

    
光圀は少年時代、かなりの遊び人でしたが、18歳の時、中国の歴史書を読ん
   で感動し、以後、学問に打ち込むようになったそうです。
    34歳で藩主になると、次々と改革を実行し、名君と呼ばれるようになります。
   その一方、日本の歴史を新しい視点からまとめようと思い立ち、『大日本史』と
   いう歴史書の作成を家臣たちに命じました。このため、文化財の保護にも熱心
   で、領内の多くの史跡の保護や調査を行います。下野(今の栃木県)那須地方
   にあった古墳を発掘調査し、きちんと元に戻すよう指示したりしていて、これは
   日本初の考古学的な発掘と、今でも高く評価されているのです。
    なお、諸国を旅するお話は、江戸時代の終わりごろにつくられ、明治時代に
   入ってから多くの人に知られるようになったもので、もちろん事実ではありま
   せん。


19 江戸時代の農業を考える
  ☆なるほどクイズ
  
(1)日本全体で田畑の面積の増え方が最もめだった時期は?

     @室町〜安土桃山時代  A江戸時代前半  B江戸時代後半 
 
答は?

  (2)江戸時代には既に米の品種改良がさかんでした。例えば八代将軍吉宗のころ、尾張(今の愛知県)にある郡では、ズバリ
    何種類の米が作られていた  
答は?

  (3)米以外の商品価値の高い農作物を各地でさかんに作るようになりました。この結果、多く用いられるようになった肥料とは?

     @葉を腐らせたもの  A干したイワシ  B人の大便  
答は?     

  ☆せつめい
    
「江戸時代の農村」というと、皆さんはどんな風景をイメージしますか?おそら
    く、今では田舎でしか見られなくなった、自然に囲まれたのどかな情景を思い
    浮かべることでしょう。

     
でも実は、この時代には国土のあちこちが荒れ始めていたのです。
     なぜかというと、特に江戸時代の前半、幕府や藩による新田開発が進み、
    山林を切り開くなどしたため、草や木が根こそぎ掘られました。ですから、大
    雨が降ると、洪水が起きやすくなっていたのです。

     
江戸時代の後半には、大規模な新田開発はあまりできなくなり、田畑の面
    積を増やすことで農作物の取れ高を増やすことは期待できなくなっていまし
    た。
     そのため農民たちは、同じ面積の田畑から、いかに取れ高を増やすかを考
    え、さま
ざまな工夫をするようになったのです。道具を改良したり、肥料を変
    えてみたり、1年
中その土地に合わせた細かい農作業のスケジュールをつくっ
    て、きめ細かな仕事をし
ました。基本的には今と同じような農業のやり方が、
    このころできていたのです。
 


  

20 気付かず使っている歌舞伎(かぶき)の言葉 
  ☆なるほどクイズ
  
(1)歌舞伎のもととなった「かぶく」という言葉の意味は?

    @首をかたむける  A変わった振る舞いをする  Bうそをつく  
答は?

  (2)「最も得意とするもの」を意味する「十八番」(おはこ、とも読む)。歌舞伎ではどんな意味?

    @18回けいこするとうまくなること Aある役者の家の得意な演目の数 B18人目に演じた上手な役者のこと  
答は?

  (3)「イケメン」を意味する「二枚目」。歌舞伎では?

    @劇場に掲げる役者の名前を書いた板で、2番目が美男子だった A鏡を2枚使うほどの美男子 B小判を2枚払ってでも見たい
     美男子  
答は?

  ☆せつめい                                  
     
歌舞伎って見たことありますか?実は見たことがない人でも、歌舞伎から生
    まれた言葉を使っているのです。

     歌舞伎は、戦国時代の雰囲気が残る若者のエネルギーが踊りとなって始ま
    りました。出雲の阿国(いずものおくに)という女性をリーダーとした、女の人だ
    けの踊りで、京都で大人気となりました。
     しかし、幕府はこれを人々の気持ちを乱すという理由で禁止しました。その
    ため、いったん衰えますが、5代将軍綱吉のころには、男だけの芸能として復
    活したのです。近松門左衛門(ちかまつ もんざえもん)などのすぐれた脚本
    家にも恵まれ、歌舞伎は1つのお話として、また役者の名人芸が見られる演劇
    として、もてはやされるようになります。なかでも、すぐれた役者たちの人気は、
    今のスター、あるいはそれ以上のもので、それが歌舞伎人気を支えました。
     そして1つ注目してほしいのは、江戸や京都、大坂だけではなく、地方の農村
    でも歌舞伎が行われたことです。農民たちは、役者を呼んできたり、自分たち
    が演じたりもしました。今でも、その農村舞台が残っているところがあります。


21 城下町を調べてみよう
  ☆なるほどクイズ
  
(1)城下町へ入る道は、城を守るための工夫がなされていました。それは?

   @武士が道のここかしこで番をしていた Aわざと曲げてつくられていた Bところどころに落とし穴があった  
答は?

  (2)同じ目的で、ある建物が城下町の入り(出)口あたりにまとまっていた。それは?
    ※ヒント:庭(?)が広いけれど、武家屋敷ではありません。  
答は?

  (3)城下町には同じ仕事の商人や職人がまとまって住んでいました。宇都宮市(栃木県)に今でも残る曲師町の「曲師(まげし)」とは?

    @釣りざおをつくる職人  A木を曲げてつくる器の職人  B音楽を教える師匠(ししょう)  
答は?
   
  ☆せつめい                                  
     
江戸時代、武士たちは殿様の住む城の近くに屋敷を与えられて、集まり住む
    ようになります。そして商人や職人たちも、たくさんの武士を相手に仕事をする
    ために、その周辺に住みました。これに寺や神社も含めて、城下町と呼ばれる都
    市が形づくられました。

     天下太平の時代ではありましたが、武士は常に敵の侵入に対して備えていた
    ので、城下町には、敵が攻めにくくなるような、いろいろな工夫がなされました。
    例えば宇都宮では、江戸時代のはじめに、城の規模を大きくして、それまでの街
    道を大きく変えさせてしまうのですが、その道(日光と東北地方へ向かう日本
    の道)は、今でも基本的に変わっていません。
     もし皆さんが、かつて城下町だった町に住んでいたら、その名残(なごり)がな
    いか、探してみてください。道が不自然に曲がっていたり、細かく縦横(じゅうお
    う)に通っているところはありませんか?あるいは「大工町」「鉄砲町」「石町(こくち
    ょう)」「紺屋(こんや)町」など、同じ仕事をしている職人や商人たちが集められて
    住んでいた町の名前が残っていないでしょうか?交通事故に気をつけて、地図を
    見ながら調べてみましょう。



22 江戸時代のファーストフード
  ☆なるほどクイズ
  
(1)江戸時代に、握り寿司が食べられたのは?

    @高級料理店だけ  A配達のみ  B主に屋台
  
答は?

  (2)「不親切な物の言い方やふるまい」を意味する「つっけんどん」。この言葉に関係があるのは?

    @そば屋  Aおでん屋  Bうなぎ屋  
答は?

  (3)江戸や大坂では、焼きいも屋さんが大人気。「いも」とは言わず「十三里」と呼んだわけは? 
    ※ヒント:同じような食感をもつ、あの食べ物
よりおいしい!  
答は?      

  ☆せつめい
     
8代将軍吉宗のころには、江戸はすでに人口100万人をこえた、世界最大ク
    ラスの
大都市になっていました。
多くの武士、町人が住み、江戸時代の後半に
    は職を求めて江戸周辺から多くの人々が流入してきました。

     こうした活気のある町で庶民が求めたのは、手軽に安く食べられるもの、今
    で言うファーストフードです。さすがにハンバーガー屋さんはありませんでした
    が、おでん屋、寿司屋、そば屋、てんぷら屋など、たくさんの種類の屋台が人
    気でした。
     ところで、今も大人気の握り寿司、歴史は江戸時代後半から始まったよう
    です。それ以前にあった寿司は、押し寿司と言って、作るのに時間がかかるも
    のでした。
     よく今も、日本中のお寿司屋さんの「のれん」に「江戸前」と書かれているこ
    とがありますが、これは当時、江戸湾(今の東京湾)が江戸城のすぐ近くまで
    広がっていて、そこでとれる魚のことをさします。そして、それを使っているとい
    う意味で「江戸前」ののれんを掲げたのです。

    

23 江戸は世界一の肥料工場だった!?
  ☆なるほどクイズ
  
(1)昔から日本にも水洗トイレがありました。そのことを示すトイレの別の呼び方とは?
    
※ヒント:「□□や」に入る2文字とは? 
 
答は?

  (2)水戸光圀の家の小便器の中に敷き詰められていたものとは?

     
@たくさんの小さな石  A杉の葉  B土 
 
答は?

  (3)江戸時代、江戸には下水道が…?

     @非常に整っていた  A武家屋敷用のものはあった  B全くなかった
  答は? 

  ☆せつめい                                   
     
江戸には飲み水を流す上水道は整っていましたが、下水道は全くありません
    でした。
それは、人々の出す大小便が農業の大切な肥料として利用されていた
    からです。


     江戸時代の前半は、田畑以外の土地から草を刈ってきて腐らせ、それを主な
    肥料としていました。ところが、そうしたところは次々と開発して田畑になり、減
    ってしまったので、人糞が注目されるようになったのです。なかでも、100万とも
    言われる人口をもつ江戸からは大量の人糞が出たので、これらは専門の業者が
    お金を出して買い取り、周辺の農家に売っていました。
     江戸時代のなかごろには値段が上がり、ついには業者も「これ以上あがるのな
    ら、くみ取りをやめる!」と言い出したので、幕府が指導して値を下げさせるほど
    でした。それでも1年間のくみ取り代金は、今のお金にして約20億円もしたのです。
     今は用のないものとして下水へ流されてしまう人糞。そう考えると、なにか少
    しもったいないと思いませんか? 


24 江戸時代の農民の休日は?
  ☆なるほどクイズ
  (1)江戸時代の農民は、1年にどれくらいの休日があった?

    @10日  A30日  B70日  
答は?

  (2)5月と10月は、ほとんど休みがありませんでした。なぜ?
   
※ヒント:農民たちの仕事をよく考えてください  答は?                 

  ☆せつめい
     
皆さんは、江戸時代の農民に、どのくらいの休日があったか?なんて考えたこ
    とがありますか?幕府や藩にたくさん年貢を出すよう言われて、休日などほとん
    どなかったのでは?と思っている人も多いことでしょう。


     
下野(しもつけ、今の栃木県)のある村で、農民がつけていた日記によると、享
    和(き
ょうわ)2年(1802)の休日数は、なんと82日もありました!その前後の10年
    間の平均も70日余りで、けっこう休みが多かったことがわかります。
     もっとも休みとは言っても、農業に使っている馬を世話したり、村のお祭り、災
    害を避けるためのお祈りなど、ある程度決まった行事にあてられた日も少なくあ
    りませんでした。
     しかし、例えばお祭りなどはお店が出たり、芝居(しばい)が演じられたりした
    ので、人々はこれをとても楽しみにしていたに違いありません。
     意外に休日が多かったのはなぜか?これについては、以前紹介したように、江
    戸時代中ごろから、農作業がとても細かなスケジュールのもとで、大変手間ひま
    のかかるものとなっていました。それをこなしてもらうためにも、村の指導者が、
    農民たちに休みをしっかりとってもらったのではないか、と考えられています。 

    

25 「お江戸でござる」ハウマッチ?
  ☆なるほどクイズ
    
江戸時代の@〜Dは、今のお金にするといくらだったでしょう。高いと思う順に並べ直そう。

    @夜、明かりをともすための油180ミリリットル
    A江戸市中の郵便料金
    B江戸からお伊勢参り(今の三重県にある伊勢神宮にもうでること)
     に行く費用
    C井原西鶴(いはら さいかく)という人が書いた小説本(8冊セット)
    D曲芸などの見せ物の入場料    
                  
                   
答は?


26 江戸後期の庶民の旅行ブーム
  ☆なるほどクイズ
  
(1)「お江戸日本橋七つ立ち♪」の、七つとは何時のこと?

     @午前4時  A昼12時  B午後3時  
答は?

  (2)江戸時代、庶民が旅でよく使った「きちん宿」とは?
 
    @よくそうじされた、きれいな宿 A食事は旅人が用意し、まき代を払う宿 B食事が出る、豪華(ごうか)な宿 
                           
答は?
  
  (3)橋のない川は、人に肩車をしてもらったりして渡りました。この時、料金が違うのは?

    @女の人は特に注意するので高かったから A肩車をする人の背の高さで料金が違ったから B川の深さによって料金が
                                             違ったから

                              答は?
                                         
  ☆せつめい
     
江戸時代も後半になると、日本各地の街道が整えられ、旅館の集まる宿場も
    たくさんできました。それは、庶民にある程度の余裕ができて、さかんに旅行を
    するようになったことも関係しています。決して暮らしが楽ではなかった農民た
    ちでさえ、たまには息抜きということで、旅行に出かけるようになりました。

     旅の直接の目的は、お寺や神社をお参りして歩くということでしたが、その一
    方で名所を見学し、遊んだりもしたのです。ただ、そうは言っても今とは違う制
    約がありました。
     江戸時代は村を離れると、他の殿様の領地を通らなければならず、それは外
    国に近いものでした。今、外国に行くにはパスポートという、身分を証明し旅先で
    の安全を保障する書類が必要です。同じように江戸時代は、他の領地に行くと
    きは、このパスポートにあたる「通行手形」が発行されたのです。要所には関所が
    あって、あやしい人の出入りをチェックしていました。今も使う「関東」や「関西」も、
    ある関所より東(あるいは西)という意味をもともと持っていました。


27 杉田玄白(げんぱく)と日本の近代化
  ☆なるほどクイズ

  
(1)杉田玄白らがオランダ語で書かれた医学書を日本語に直すとき、初めてつくった言葉は?

     @鼻   A神経   B食道  
答は?

  (2)その医学書を訳し終わっても、玄白が1年以上も出版しなかったわけは?

    @幕府から罰せられるのを心配しらから。 A訳した仲間たちとけんかになったから B出版する本屋が原こうをなくしかたら。
                      
答は

  (3)本を出出版して25年後、享和(きょうわ)元年(1801)の玄白の年収を今のお金にすると?  

     @120万円  A1200万円  B6400万円  
答は?

  ☆せつめい
     
18世紀後半から
19世紀初めにかけて活躍した杉田玄白という医者がいまし
    た。今の福井県にあった浜(おばま)藩につかえる医者の家に生まれ、主に江戸
    で活動しました。

     玄白はオランダ医学を学ぶうちに、それまでの中国から伝わった教えをかた
    くなに守ってきた日本の医学に問題があるのではないか、と感じ始めました。何
    しろ、人間のからだの中がどのようになっているかさえ、誰もわからなかったの
    です。39歳の時、大きなチャンスがやってきました。知人の医者からオランダ語
    で書かれたドイツの医学書を手に入れ、さらに罪人(ざいにん)の
分け(ふわ
    け、解剖のこと)を見学できることになったのです。それで、その医学書の図がと
    ても正確であったことがわかり、何とか本の内容を日本語に訳して紹介したいと
    思うようになりました。
     辞書などもない中で、玄白は知人の前野良沢(まえの りょうたく)たちと苦
    しい作業を続け、3年余り後にようやく出版できました。
     日本が明治に入って欧米の文明をとり入れ、急速な進歩を実現できたのも、
    この玄白たちが学んだオランダの学問が土台になっていたのです。  
  

     

28 江戸時代の「趣味の園芸」
  ☆なるほどクイズ

  
(1)徳川将軍の中で、園芸が好きで、管理のために花や盆栽の見張りを7人も立たせたのは?

    @徳川家康  A徳川家光  B徳川吉宗  
答は?

  (2)19世紀初め、人々がつくり出した朝顔の品種の数は、いくつくらいあった?  
答は?

  (3)最も有名な桜である「ソメイヨシノ」の「ソメイ」とは?
    
    @自然にはえていた土地の名 Aこの品種をつくった植木屋のいた町名 B白っぽい花の色が染めたように思われたことから

                          
答は?           

  ☆せつめい
     
皆さんのおじいさんやおばあさん、あるいはお父さんやお母さんの中で、園
    芸が趣味という方もいると思います。実は江戸時代後半の庶民も、花や木を
    植え、その美しさをながめて楽しんでいたのです。

     たとえば、皆さんも育てたことがある朝顔。この花も江戸時代には、いろん
    な変わった形や色をした種類をつくりだし、「変化朝顔」として楽しんでいまし
    た。こうしたことは江戸だけではなく、地方でもひろがっていたことは、江戸の
    品評会に集まった花々の栽培地を見ると明らかなのです。
     また、日本人がとても大切にしている桜も、もともとは山里の植物だったも
    のを、このころから人工的に町の中に植えて、楽しむようになったものなので
    す。
     なお、変化朝顔は今でも栽培されており、その種を買えば自分でも栽培す
    ることができますよ。 
 


29 遠山の金さんは庶民の味方?
  ☆なるほどクイズ
  
(1)遠山の金さんは、テレビの時代劇のように、本当に遊び人だった。これ、本当?  答は?

  (2)遠山の金さんの入れ墨は、実は桜吹雪ではなかった。これ、本当?  
答は?

  (3)遠山の金さんの裁き(裁判)は、実はいいかげんだった。これ、本当?  
答は?  

  ☆せつめい
     
皆さんのおじいさんやおばあさんの中には、名奉行遠山の金さんのテレビ
    時代劇を楽しみにしている人も多いと思います。さて、この金さん、実際には
    どんな人だったのでしょうか。

     金さんは、正式には遠山景元(とおやま かげもと)という徳川家の家臣
    です。ペリーが来る10年余り前、つまり江戸時代の終わり近くに、江戸の北町
    奉行(南町奉行とともに今の東京都知事、警視総監、東京地方裁判所長に
    あたる仕事を担当した、とても忙しい役目)をつとめていました。
     当時、水野忠邦(みずの ただくに)という老中(今の総理大臣にあたる)
    が、乱れた政治を引き締めるため、庶民の娯楽をきびしく制限しました。こ
    れに対し金さんは、「そんなことをすると江戸はますます不景気になり、不満
    を持った庶民がもし暴動を起こすかもしれない。そうなったら、少ない人数で
    江戸を警備している町奉行としては、これをおさえきれない」と、水野に反対
    意見を述べたのです。
     劇と同じように、実際も弱い庶民の味方として活躍したようですね。 



  ☆答えと解説
 1(1)A「江戸時代初めの本に記されていた」。一番確かとされている記録は、信長の側近くに仕えていた人が、信長の死後、記憶などを
   もとに書いた「信長公記」(しんちょうこうき)という本です。この本の古い写しには、1000挺と書かれています。

    
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 2(1)
刀(かたな)。日本刀の技術は世界最高水準で、最も重要な輸出品だったのです。



 3(1)
B「多くの者の妻や子が、もとの領地に住んでいた」。つまり、単身赴任だったというわけです。



 4(1)
B「藤原氏」。秀吉は関白となるために、藤原氏一族の近衛(このえ)氏に養子に入りました。



 5(1)
A「金や銀」。台の上に山のように積み上げられた金銀を人々に配ったそうです。太っ腹!



 6(1)
うそ。信長の時代、越前(今の福井県)ですでに行われていました。



 7(1)
@刀。秀吉は刀を持つか持たないかで、武士か農民が見分けられるようにしたかったようです。



 8(1)
A江戸時代。それまでは、木製のおわんを使っていました。



 9(1)
A国の名前。もともとはスペインができる前にあった国「カスティーリャ」のパンという意味でした。



 10(1)
Aトマト。この他、カボチャ、ジャガイモ、サツマイモなどが輸入されました。



 11(1)
@関ヶ原の戦いの前。既に実力では並ぶ者がいませんでした。



 12(1)
@2番目。家康は74歳で亡くなっており、これは今でいえば100歳を超えるほどの長寿でした。



 13(1)
本当。大名やお寺、神社、庶民などがまつったもので、現在全国に約550確認されています。



 14(1)
@江戸時代はじめごろ。元和元年(1615)、豊臣家が滅びた大坂夏の陣の様子を伝えたものです。


 15(1)
Bお忍びで城外に出歩いた。ただし、家臣にそれとなく注意され、外出をやめるようになりました。



 16(1)
B鎖国の160年後。つまり鎖国とは、開国が近づいたころに「今に比べて昔は〜」という感じで表現した言葉なのです。



 17(1)
@13日。1日に40キロメートル進んだことになります。けっこう早足!



 18(1)
@8年。水戸藩の藩主は、原則として江戸にいるように定められていました。



 19(1)
A江戸時代前半。この間、田畑は約2倍近くに増えました。



 20(1)
A変わった振る舞いをする。「傾く」と書きます。あの信長も、若い頃は「傾き者」と呼ばれました。



 21(1)
Aわざと曲げてつくられていた。今でも残っているところがあります。



 22(1)
B主に屋台。とにかく手軽さが人気の食べ物でした。



 23(1)
「かわや(川屋、厠)」。自然の川の上に施設を設け、そこで用を足しました。



 24(1)
B70日。ただし、領主には30日程度と報告していた史料もあります。



 26(1)
@午前4時。泊まる回数をなるべく減らすため、1日になるべく長い距離を歩こうと、夜明け前には出発したのです。



 27(1)
A神経。当時の日本の医学では、神経があることなどはわかっていませんでした。



 28(1)
B徳川吉宗。ちなみに家康も大の園芸好きでした。



 29(1)
本当。明治時代に書かれた、ある程度信頼できる本に、若いころは遊び人だったと書かれています。



 1(2)
鉄砲で勝敗が一気に決まったにしては、戦った時間が長すぎます。



 
2(2)C7億円。江戸時代初めの史料から計算しました。これに弾や火薬が加わりますから、信長がこの戦いに使ったお金は、大変な
    額にのぼったはずです。



 3(2)
A「城下に新しい道をつくらせた」。ただ信長は一方で、そうした家臣たちの地元の屋敷を燃やしてしまい、家族を強引に城下へ
    引っ越しさせました。




 
4(2)@「秀吉が島津氏を見くだしていたから」。秀吉の命令書は普通、大きくて立派な紙に書かれていました。



 
5(2)B「作家に書かせた」。大村由己(おおむら ゆうこ)という作家が秀吉のイメージアップに大きく貢献しました。



 6(2)
「立ち会っていた」。詳しくは、せつめいを読んでください。



 7(2)
猟師(りょうし)。その他、実は農民も田畑を荒らす動物をおどすために、鉄砲は必要でした。



 8(2)
Aもともとお茶を飲むためのものでした。そのため、「茶わん」が器全体をさす言葉になってしまったのです。



 9(2)
たばこ。記録の上では、1601年に徳川家康に献上されたのが最初だそうです。



 10(2)
@コロッケ。これを日本風にアレンジし、豆腐(とうふ)、ヤマイモ、野菜を入れて低温の油であげたのです。



 11(2)
A京都。江戸はまだ開発中でしたし、何よりも豊臣家や朝廷との対応に追われていたのです。



 12(2)
Aみそ。その原料は大豆、しかも発酵(はっこう)食品なので、体にはとてもよい食品なのです。



 13(2)
Aトラ。全部で120のうち38がトラで、これは家康が寅年生まれだったため、と考えられています。



 14(2)
A敵討ち(かたきうち)の話。いわゆる赤穂浪士(あこうろうし)の討ち入りは、庶民にもてはやされ、歌舞伎にまでなりました。



 15(2)
A武家のトップとしての自覚を忘れさせないため。これも、家臣が将軍の行動を制限した例とみることができます。



 16(2)
A銀。このころ日本は、世界で3番目に銀が多くとれました。中心になったのは、遺跡が世界遺産に登録された
    石見銀山(島根県)です。



 17(2)
B4億円。一般に、人数のおよそ3分の1は藩士ではなく、アルバイトを雇っていました。



 18(2)
A学者。このうち助さんこと佐々宗淳(さっさむねあつ)は、西日本、遠くは九州にまで歴史の調査に出かけています。



 19(2)なんと、
133種類です。



 20(2)
Aある役者の家の得意な演目の数のこと。「おはこ」とは、その18の演目の台本をしまっておく箱のことです。



 21(2)
お寺。広い境内(けいだい)に、城と城下を守るための兵を入れたりするのです。



 22(2)
@そば屋。一人前のそばを盛るだけにして、おかわりはすすめない「けんどん屋」が、もりそばを始めたお店です。



 23(2)
A杉の葉。音とにおいを消すため。杉はお線香の原料になります。



 24(2)
5月は田植え、10月は稲刈りでとても忙しかったからです。



 
26(2)A食事は旅人が用意し、まき代を払う宿。「木賃宿」と書きます。江戸時代後期、今のお金にして宿泊代は1泊約900円でした。



 
27(2)@幕府から罰せられるのを心配した。玄白のころは、出版は比較的自由できたが、それでも幕府を批判したり、世の中を乱す
    ものとみなされれば、罰せられたのです。



 28(2)なんと
700種類以上もありました。



 29(2)これも
本当。やはり明治時代中ごろの雑誌に、入れ墨は美女の首だったとあります。



 
1(3)射撃を終えた兵がそのせまい間を通って一番後ろに行く。この間に鉄砲の暴発など危険がいっぱいありそうです。



 
3(3)A「各地で戦っている家臣たちから少しずつ集めた」。例えば大和(今の奈良県)にいた筒井順慶(つついじゅんけい)という武将
    からは、鉄砲衆50人を長篠に呼びました。

 5(3)
秀吉を主人公にした一種の劇をつくらせ、上演させたのです。もっともこれは、ほとんどうまくいかなかったようです。



 7(3)
A髪型。その他、変わった形のひげをはやすことと、長くて派手な刀を差すことを禁じました。



 8(3)@
つくっている場所の名前。鎌倉時代からさかんになった焼き物の産地(今の愛知県瀬戸市)です。



 9(3)
花火。江戸時代、戦争がなくなって、仕事が減った職人たちが鉄砲の筒を上に向けることを考え出しました。



 10(3)
B胃腸病。詳しくは、せつめいを読んでね。



 12(3)
庶民の暮らしぶりなどを調べる目的がありました。実際に鷹狩りに出かけた際に、百姓が家康に代官の不正を訴えたことも
    あったようです。



 13(3)
@子ども。これは、人生の8つの場面を表したもののうち、2番目のものです。



 14(3)
100円。江戸時代後半、1枚4文、今のお金で100円くらいしました。値段は統一されていました。



 15(3)
B徳川家康。家光は絵師に、夢に見た家康の像を何枚も描かせました。



 16(3)
日光東照宮。家康が東照大権現という神とされました。



 17(3)
@5%。国元の費用は36%。これに対し、江戸滞在費は50%を占めました。



 18(3)
B250年後。明治39年(1906)に完成しました。全部で397巻にもなります。



 19(3)
A干したイワシ。干鰯(ほしか)と言います。これを買って使いました。



 20(3)
@劇場に掲げる役者の名前を書いた板で、2番目が美男子だった。ちなみに3枚目は、ふざけた役の人が掲げられました。



 21(3)
A木を曲げてつくる器の職人。曲物(まげもの)と言って、今でもお風呂のおけや弁当箱などに使われています。



 22(3)
栗(九里)より(四里)おいしいから、あわせて十三里というわけ。大坂での呼び方です。



 23(3)
B全くなかった。詳しくは本文を読んでください。

 25せつめい(答と解説)                          
   
値段の高い順に…
 
第1位B:伊勢神宮へお参りする費用。日数にもよりますが、節約して行っても、20万
     円くらいしたようです。神社もうでの他、実際には今と同じく観光も楽しみ
     ました。ただ、さすがに庶民では一生に1回がやっとでした。


 第2位
C:小説本8冊セット。なんと4万円もしました。ただ貸本屋がさかんで、レンタ
     ル料は本の値段の10分の1くらいでした。これなら庶民も読めますね。

 第3位
@:あかり用の油180ミリリットル。高級な菜種(なたね)油は、180ミリリットル
     (3日分)で1000円くらいしたので、庶民は買えませんでした。それより約半
     値の魚油(ぎょゆ)もありましたが、とてもくさかったのです。一般に人々は
     早寝でした。

 第4位
A:郵便料金。町飛脚(まちびきゃく)といい、江戸市中でも約800円かかりま
     した。今よりずいぶん割高だったようです。

 第5位
D:見せ物の入場料。450円くらいでした。本格的な歌舞伎(かぶき)だと、大衆
     席でも2500円くらいしたので、なかなか庶民は入れませんでした。

 どうでしょう。こうやっていろいろな商品の値段を知ると、江戸時代の人々のことが、少し身近に感じられるようになったのでは
 ないでしょうか。



 26(3)B川の深さによる。たとえば有名な静岡の大井川では、江戸時代の終わりごろ、水がひざくらいなら950円、腰くらいで1700円、
    脇の下になると2400円くらいしました。



 27(3)
B6400万円。当時のお金で643両あまり。出版などにより、玄白の医者としての名声はとても高まっていました。



 28(3)
A。江戸の染井(そめい)や巣鴨(すがも)には、庶民の園芸人気にこたえ、多くの植木屋(もとは主に農家だった)が住んでいました。



 29(3)これは、
ウソ。ある時、将軍が金さんの裁きを見に来て、そのみごとさに大いに感心したそうです。


                          
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