国ができるまで(縄文・弥生・古墳時代)

                                ※見たいテーマの番号をクリックしてね

                                縄文人(じょうもんじん)はグルメだった!?

                     縄文人の食生活がわかるの?

                   
 きみは縄文人タイプ? 弥生人タイプ?

                    高床(たかゆか)式建物で年と越すお米

                       銅鐸(どうたく)の謎に迫る

                     
 倭国(わこく)と中国王朝とのつながり

                     
 「倭人伝」(わじんでん)の内容は信用できる?

                                同じ形の墓が広がった意味は?

                                聖徳太子の本当の姿とは?

                               10 板ばさみだった?小野妹子(おののいもこ)

                               11 大化の改新をめぐるなぞ

                   12 「日本」の呼び方はいつから?

                                    
*イラストはすべて関口たか広先生の作です。

                                 

 縄文人はグルメだった!?
    ☆なるほどクイズ
      
(1)縄文時代の長さは、その次の弥生(やよい)時代の何倍だったでしょう?
          
         @2倍  A4倍  B8倍  C18倍
    答は?(クリック)

         (2)縄文人がつくって食べていたことがわかっている食べ物は?

         @おせんべい  Aクッキー  Bチーズ  Cゼリー
    答は?
 
          (3)縄文人の平均寿命は?

         @30さい  A45さい  B60さい  C73さい
  答は?

   
☆せつめい
    
 今から約1万3千年前、日本列島に住んでいた人々は、縄目    
    (なわめ)もようが入った土器をつくり始めました。いわゆる縄
    文時代の始まりです。みなさんは、この縄文人のくらしについ
    て、どんなイメージを持っていますか?

     まだ農業や家畜(かちく)を飼う技術はなく、動物や貝、木
    の実をとって食べていたことなどを思いうかべる人も多いと
    思います。
     でも、まずはじめに注意してほしいのは、縄文時代が1万年
    あまりも続いたという点です。当然ゆっくりとではありますが、
    この間に人々のくらしは変化していましたから、縄文時代を1つ
    のイメージでとらえることはできないのです。
     そして、近年の研究により「原始的ながら農業をしていた」、
    「主な食料がドングリなどの木の実であり、それらのあくを抜い
    て上手に調理して食べていた」、「一時的にはイノシシなどを飼
    っていた」などのことがわかってきました。
     特に大きな力を持った支配者がいなかったとみられている
    ことから、平和でのんびりとした時代だった、という人もいま
    す。しかし、平均寿命が30歳くらいだったことでもわかるよう
    に、縄文時代は人口を維持(いじ)していくのもむずかしい、か
    なりきびしい時代だったことは間違いないようです。


   

 縄文人の食生活がわかるの?
   ☆なるほどクイズ
    
(1)縄文時代のお墓に、人間以外でていねいに埋められていた動物は?

       @犬  A馬  Bイノシシ          
答は?

    (2)縄文時代にどんな草や木がはえていたかを調べるには?
    
       @土に埋まっている木を探す
       A土に埋まっている花粉を探す
       B今の草や木から想像する          
答は?

    (3)縄文時代の人たちが何を食べていたのかを知るのにつごうがよいものとは?
     
※ヒント:化石となって見つかります。              答は?

   ☆せつめい
     
縄文時代(今から約1万3千年前〜2300年前)は、当然なが
    ら文字はありませんでした。そのため、このころの様子は、土の
    中に埋まっている当時のいろいろなものを探して調べるしかあ
    りません。

     時代の名前の由来となっている縄目模様(なわめもよう)の
    土器は有名ですが、そのほか、埋められていた動物の骨から、
    すでに家畜が飼われていたことがわかっています。
     宮城県や千葉県の貝塚(かいづか)では、子どものイノシシ
    がていねいに埋められていました。かわいそうで食べられなか
    ったのかもしれませんね。
     また、富山県のある遺跡(いせき)では、クリの花粉がたくさ
    ん見つかり、人間が育てていたと考えられています。
     さらに、化石となった縄文人のウンチを調べた結果、けもの
    の肉やイワシなどの魚の骨のほかに、豆やひょうたん、山ごぼう
    なども食べていたことがわかりました。けっこう健康的な食事だ
    ったかもしれませんね。
     こうしたいろいろな科学的方法を使って、縄文人の具体的な
    暮らしぶりが少しずつ明らかになってきています。

    
  
 きみは縄文人タイプ?弥生人タイプ?    
   ☆なるほどクイズ
    
(1)きみのからだは、縄文人、弥生人、どちらの特ちょうに近いか、テストしてみよう。
          
         @
頭の形   A 長い    B 丸か四角
         A鼻の高さ  A 低い    B 高い
         Bまゆ毛   A うすい   B こい
         Cまぶた   A ひとえ   B ふたえ
         D耳あか   A カラカラ  B じめじめ     
判定は?

    (2)弥生時代の米がとれる量は、奈良・平安時代の史料から推測できます。今の同じ広さの水田からとれる米の量の?
    
       @3分の2   A2分の1   B3分の1   C6分の1   答は?

   ☆せつめい
     
今から2300年ほど前、九州地方の北部に中国や朝鮮半島から
    人々がやってきて、米づくりの技術や金属製の道具(青銅器や鉄
    器)をもたらしました。彼らは、縄文人と比べて顔が細く、長身で
    した。

     縄文人たちは、彼らと特に争うこともなくつきあい、やがて米
    づくりを受け入れ、混血も進んでいきました。これが、 今の日
    本人の直接の祖先と考えてよいようです。
     彼らは、河に近い低地や湿地を水田に変え、近くに村をつくっ
    て集団で生活するようになりました。そのため、食料は米だけと
    いうイメージをいだきがちですが、実は彼らが食べ物をたくわえ
    ておいた穴を調べてみると、米のほかに、アワやキビなどの雑穀
    (ざっこく)類、大豆や小豆(あずき)などの豆類、それから縄文
    時代と同じドングリが多く見つかったのです。
     つまり、米だけではじゅうぶんではなかったため、こうしたもの
    でおぎなっていたと考えられるのです。別なみかたをすれば、彼
    らは、上手に工夫して自然からのさまざまな恵みを得ていた縄
    文時代の生活をやめたのではなく、これを続けて、さらに米づく
    りを始めたのだとも言えます。
    

 高床(たかゆか)式建物で年を越すお米
 ☆なるほどクイズ
  
(1)下の絵は弥生時代、とれた米をためておいた床の高い倉庫です。矢印の部分は何のためにつけた?

     
@単なるかざり  Aねずみの侵入を防ぐ  B柱をじょうぶにする     答は?

   
(2)この倉庫によく似ている、今でも見られる建物とは?
    
※ヒント:みんなも1年に1度は行くのでは?                    答は?

   
(3)この倉庫に秋にためておく米の一部は、種として年を越します。このことに関係深いしきたりとは?

      
@お月見  A七夕(たなばた)  Bお年玉          答は?

 ☆せつめい
   
米はすでに縄文時代の終わりごろから栽培(さいばい)されていたよ
  うですが、
本格的な稲作(いなさく)は弥生時代(今から約2300年前
  〜1800年前)に始まりました。その技術は
金属器や建築技術などと
  もに、いくつかのルートで大陸から日本に入ってきました。

   このうち、とれた米をためておく高床式の倉は、よく似たものが中国
  南部の地域で広く見られます。おそらく、この地域の米づくりの技術と
  ともに、高床式建物の造り方も日本に伝わってきたのでしょう。
   米は弥生時代の人々にとって、とても大切なものでした。ですから、
  米をおさめる高床式の建物は、倉以外にも身分の高い人の住まいとし
  て、あるいは神に祈る儀式の場としても用いられました。
   今でも残る古い歴史をもつ神社や、天皇が重要な儀式をするとこ
  ろ、奈良の正倉院(しょうそういん)という聖武(しょうむ)天皇が愛用
  したものをおさめた建物などのつくりは、この弥生時代の高床式建物
  の影響を受けたものと考えられています。
   意外と身近なところに弥生文化の名残(なごり)があったのですね。

   
 銅鐸(どうたく)の謎に迫る
  ☆なるほどクイズ
   
(1)銅鐸についてまちがった説明は?

    @はじめは金色だった  A大きいものでも高さは50センチくらい  B反対側と模様(もよう)が違うものがある 
 
答は?

   (2)ずっと後になって、銅鐸を家臣にほうびとして与えた武将は?

     @源頼朝  A足利義満  B豊臣秀吉     
答は?

   (3)銅鐸は、ふだんはどこに置かれていた?

     @高床式(たかゆかしき)建物の中  A木につるされていた  B土に埋められていた 
  答は?

  ☆せつめい
     
弥生時代、主に近畿(きんき)地方一帯で使われていた青銅器
    (せいどうき)に、銅鐸があります。

     しかし、不思議なことに何のために用いられていたかは、今でも
    よくわかっていないのです。それどころか、銅鐸が姿を消して約
    400年後の段階で、すでに当時の人々は、その使い方を知らず、
    お寺をかざる大きな風鈴(ふうりん)などと呼んだりしています。
     ただ1つ言えるのは、古代中国で祭りの時に使う編鐘(へんしょ
    う)の形がよく似ているということです。このため銅鐸は楽器では
    ないか、とする説があります。
     しかし、後期のものになると、大型化してかざりがふえ、鐘とし
    て鳴らすのに使う舌(ぜつ、鐘の内部につりさげた棒状のもの)も
    なくなります。ですから、聞く道具から次第に見る道具へ変化した
    のではないか、と考える人もいるのです。
     わざと土に埋められていたことも広く知られています。ふだんは
    土の中にいると考えた大地や穀物(こくもつ)の霊魂(れいこん)を
    お迎えするため、祭りの際に土の中から取り出したのではないか、
    という説が比較的有力です。
     表面に人間やいろいろな動物、建物が描かれている銅鐸もあり
    ます。これらから、当時に人々の暮らしや思いを想像してみるのも
    楽しいかもしれませんね。

  
6 倭国(わこく)と中国王朝とのつながり
 ☆なるほどクイズ
  
(1)1世紀後半、北九州にあったとされる奴(な)の国王が、中国の後漢(ごかん)王朝からもらった金(きん)でできた「はんこ」があります。
    取っ手の部分は、ある動物の形になっています。それは?
 
     @亀   A蛇   B犬   
答は?

  (2)2世紀はじめ、倭の国王たちが、同じ後漢に使いを送って面会を求め、その際○○をさしあげた、と中国の記録にあります。この○○とは?

     @お金  A野菜  B人間  Cお酒   
答は?

  (3)3世紀前半、倭国の女王卑弥呼(ひみこ)は、(ぎ)王朝に使いを送り、「親倭王」(しんぎわおう)の称号と金印、銅製の鏡100枚
    
をもらいました。このうち鏡は、顔を見るだけではなく、ある特別な目的のために使われたとされています。それは?
    
※ヒント:鏡に太陽の光があたると…    答は?
  
 
 ☆せつめい
    
米づくりも加わって生産が豊かになると、人々はたくわえられた
   食糧や川の権利などをめぐって争うようになり、強い権力を持つ
   支配者も現れました。強い集団は弱い集団を従えていき、やがて
   現在の市や町くらいの広さの小さな国となっていきました。

    西暦57年には、そうしたたくさんの国々の中の1つ、奴国の王
   が、後漢王朝に使いを送り、皇帝から金印をもらっています。この
   金印は、江戸時代に今の福岡県で奇跡的に発見されました。
    その後、107年に倭王師升(すいしょう)らが、やはり後漢にあ
   いさつをしています。
    さらに239年、倭王卑弥呼は後漢の後にできた3つの国のう
   ち、最も力があった(ぎ)王朝に使いを送りました。
    これ以前の中国側の記録に残っているのは以上ですが、実際
   にはもっとひんぱんに交流していたのではないでしょうか。卑弥呼
   の死後、倭の女王台与(とよ)にいたっては、が265年に滅ぶと、
   早くもその翌年に新王朝に使いを送っています。いかに大陸の情
   勢に敏感に反応していたかがよくわかります。
    倭王は、従えた小国を中国王朝の権威も借りて治めようとして
   いたのです。


  
 「倭人伝」(わじんでん)の内容は信用できる?
  ☆なるほどクイズ
   
(1)今から約1800年前、日本人が食べていた肉は?
   
      @主にシカやイノシシ  A牛やニワトリ  Bまったく食べなかった   
答は

   (2)このころ、食べるのに「おはし」をすでに使っていた。これ本当?ウソ?
   答は?

   (3)動物の骨を焼いて行っていた、あることとは?
    
      @灰にして食べた  A土にまいて肥料にした  B占いに使った  
答は? 

  ☆せつめい
     
古代の日本についてのまとまった文章で最も古いものは、3世
    紀に中国のという
国で書かれた歴史書の「倭人伝」です。これ
    には邪馬台国(やまたいこく)の位置や女王卑弥呼(ひみこ)の政
    治などのほか人々の暮らしについても記されています。

     それによると、服はメキシコのポンチョ(四角形の布の真ん中に
    頭を出す穴があいている服)のような貫頭衣(かんとうい)で、く
    つははかずにはだしでした。また、顔に入れ墨(いれずみ)をした
    人もいたようです(倭人伝には「みんな入れ墨をしていた」とあり
    ますが、それはちょっとオーバー)。これらの風習は、東南アジアに
    よく似ています。
     食べ物は魚や貝、野菜のほか、肉も食べたようですが、牧畜は
    しておらず、この点ヨーロッパとは大きく異なる日本の特徴です。
     家族は今の核家族のように、近くに分かれて住んでいました。
     こうした倭人伝の内容は、発掘された遺跡(いせき)や遺物(い
    ぶつ)の調査結果と、ある程度一致しています。ただこれを書いた
    人は日本には来ておらず、日本からの使者や日本へ行った人の
    話を聞いて書いたはずですから、誤解(ごかい)もあったようです。
    それに、大陸から邪馬台国への方向、距離などがあまりにも不正
    確で、これにはあるねらいがあったと主張する学者もいるのです。

  
 同じ形の墓が広がった意味は?
  ☆なるほどクイズ
   
(1)仁徳天皇陵(にんとくてんのうりょう)と言われている古墳(こふん、全長488b、日本最大の前方後円墳)をつくるのに、1日1000人
     が働いたとして、どれくらいの期間がかかった?
    
      @1ヵ月  A4ヵ月  B1年4ヵ月  C4年
 
 
答は?

   
(2)今見ることのできる前方後円墳と、できあがった当時のものとでは、とても大きなちがいがありました。それは?
     
※ヒント 古墳の表面が…

                            
答は?

   
(3)3世紀〜4世紀なかごろには大和(やまと、今の奈良県)に集中していた大きな前方後円墳は、4世紀末〜5世紀になると、次第に
     地方へ広がっていきました。これは何を意味しているのだろう?

     
※もともと地方にも支配者はいた。ということは…           答は?    

  ☆せつめい
     弥生時代からすでに支配者は大きな墓をつくって、そこに埋め
    られていました。やがて、カギ穴のような形をした墓がつくられる
    ようになります。これは前方後円墳と言い、日本にしか見ることが
    できません。

     このうち最も古いとされている古墳(奈良県桜井市、全長276
    b、卑弥呼の墓との説もある)がつくられた年代は、これまで4世
    紀はじめとされてきましたが、近年では3世紀終わりごろという説
    も有力です。そうなると、卑弥呼が死んだ247年ごろに近づきま
    すが、これ以上のことはわかっていません。いずれにせよ、少なくと
    も4世紀はじめには、これほどの墓を人々に命じてつくらせることの
    できる巨大な権力が誕生していたことは、まちがいないでしょう。
     4世紀末から5世紀に入ると、前方後円墳は、関東や中国・九州
    地方でもつくられるようになります。このころ日本には、大和を中心
    とした相当広い政治的な連合ができていたことがわかりますね。
    ただし、これはまだ連合であって、地方の有力者たちが、大和の勢
    力に完全に従っていない点に注意してください。

  
9 聖徳太子の本当の姿とは?
  ☆なるほどクイズ
   
(1)有名な聖徳太子像には、太子が生きた時代とは合わないものがあります。それは?

     @かぶっている冠(かんむり)  A服装  Bしゃく(手に持っている棒)
  答は?

   (2)次のうち、太子についての正しい説明は?

     @生きている当時から聖徳太子と呼ばれていた。
     A推古(すいこ)天皇の皇太子だった。
     B十七条憲法を自ら制定した。  
 
答は?

   
(3)太子たちは603年に冠位(かんい)十二階という制度を定め、天皇に仕える役人たちの
     しくみを整えました。では、太子や蘇我(そが)氏には、この冠位は与えられたのでしょ   
     うか?

     @太子、蘇我氏ともに与えられた。
     A蘇我氏は与えられた。
     B太子、蘇我氏ともに与えられなかった。
   答は?  

   ☆せつめい
     
 7世紀のはじめ、おばの推古天皇を助けて、天皇中心の国のし
     くみを整えようとした聖徳太子は、実はとても謎の多い人物なの
     です。
   
      本当の名前は厩戸皇子(うまやどのみこ)と言いました。そも
     そもこのころ、次の天皇になることが約束された皇太子というし
     くみは、まだできていなかったのです。また、冠位十二階の制定
     や遣隋使(けんずいし)の派遣などについては、太子自らが考え
     出したという明らかな証拠はありません。
      「なぁ〜んだ」とがっかりした人がいるかもしれませんね。でも
     太子が、蘇我馬子(そがのうまこ)らと並ぶ推古天皇の時代のト
     ップリーダーのひとりだったことは、まちがいありません。

   
10 板ばさみだった?小野妹子(おののいもこ)
  ☆なるほどクイズ
   
(1)小野妹子について、まちがった説明は?

   @第1回遣隋使(けんずいし)だった  A2度、隋に行った  B朝廷(ちょうてい)では中くらいの地位だった 
 
答は?

   (2)妹子がやってしまった「失敗」とは?

   @行き先をまちがえた  A隋の皇帝へのあいさつをまちがえた  B隋からの手紙を途中でとられた   
答は?

   (3)帰りに妹子に同行した隋の役人の地位は?                     

      @上位   A中くらい   B下位     
答は?

  ☆せつめい
    
 聖徳太子が推古天皇や蘇我氏とともに政治を行うようになってまも
    なく中国には隋という強大な王朝ができました。そこで倭は、100年余
    りとだえていた国交を回復するため、600年に隋へ使節を送りました。

     しかしこの時は、正式な手紙をもって行かなかったりして、中国のし
    きたりからあまりにはずれていたため、ほとんど成果がなかったようで
    す。そしてその7年後につかわされたのが、小野妹子でした。
     ところが、この時ももっていった手紙が、隋の皇帝に無礼(ぶれい)な
    ものと受け取られてしまいました。それでも皇帝は、対立していた朝鮮
    北部の高句麗(こうくり)という勢力と倭が手を結ぶのをおそれたの
    か、翌年、小野妹子が帰国する際に手紙を渡しました。しかし妹子は
    朝廷に、途中でその手紙をとられてしまったと報告したのでした。これ
    は、はたして本当だったのでしょうか?
     隋の怒りから推測すると、その内容を太子らに見せるわけにはいかな
    いと考えて、わざとそう言ったのかもしれません。
     妹子を罰するべきだとの声もありましたが、推古はこれを許します。
    後に妹子は冠位十二階の最高位まで昇進しますが、それ以外のことは
    ほとんどわかっていません。


   
11 大化の改新をめぐるなぞ
  ☆なるほどクイズ
   
(1)大化の改新でほろぼされた蘇我氏(そがし)最初の人物は、入鹿(いるか)の何代前の人だった?

      @25代前  A12代前  B8代前  C3代前
 
  
 
答は?

   
(2)大化の改新の中心人物の1人は、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)とされています。「日本書紀」には、皇子が宮殿で自ら剣を
     ふるい、入鹿を切ったと記されていますが、それだとちょっと不思議な点はないでしょうか?

     
※自ら剣をふるうなんて、大変危険ですね。
                                       
 答は?      

  ☆せつめい
     
645年という、覚えやすい?年号のせいもあって、大化の改新は日
    本の歴史上、最も有名なできごとと言えるかもしれません。しかし、
    「中大兄皇子や中臣鎌足(なかとみのかまたり)たちが、当時、天皇
    をもしのぐほどの力をもっていた蘇我氏を倒し、唐のような法律や制
    度のしっかりした国をつくろうとした」という説明は、いくつかの疑問
    があります。


     
たとえば「蘇我氏が天皇家に対抗し、これにとってかわろうとして
    いた」というのは本当でしょうか?確かに「日本書紀」には「蘇我蝦夷
    (えみし)、入鹿父子が、みずからの屋敷を宮門(みかど)、子どもた
    ちを王子と呼んでいた」と記されていますが、この歴史書は、事件か
    ら80年も後に天皇家の立場から作られたものですから、そのまま信
    用はできません。
     それから、中大兄皇子が中心人物だったという点ですが、それな
    らなぜ皇子は、すぐに天皇にならなかったのでしょうか?このなぞを
    解くためには蘇我氏が滅んで最も得をした人物は誰かを考える必
    要がありそうです。
     646年に出された新しい政治方針は、それより50年以上後にでき
    た律令(りつりょう)のなかみとよく似ています。実際この時には、これらのごく一部が実施されたようです。


  
12 「日本」の呼び方はいつから? 
  ☆なるほどクイズ
   
(1)天皇という言葉と最も関係の深い星は?

      @北極星   A太陽   B月    
 
 
答は?

   (2)「日本」の前の呼び方「倭」のもともとの意味は?

      @強い   A遠い、醜(みにく)い   Bおだやか   
答は?      

   (3)「日本」の読み方で不思議なところは?
    
※ヒント:こんなこと外国にあるのかな?       答は?


  ☆せつめい
     
わが国が「日本」と呼ばれるようになったのはいつごろか?このこ
    とを考えるためには、「日本」と深く関係する「天皇」という言葉が
    使われるようになった時期を検討しなければなりません。

     大宝律令(たいほうりつりょう、701年)より少し前にできた法律
    に、天皇の夫人である「皇后」(こうごう)の呼び方が定められてい
    たことがわかっているので、ここで同時に「天皇」という言葉も使わ
    れるようになったと考えられます。
     この時は、大化の改新にかかわった中大兄皇子(なかのおおえ
    のおうじ、後の天智天皇)の弟、天武(てんむ)天皇が国を治めて
    いました。ですから、天皇と正式に呼ばれた最初の人は、この天武
    天皇ということになるようです。したがって、それ以前の人たちは、
    後の時代からみて天皇にあたるというわけで、実際には「大王」(お
    おきみ)などと呼ばれていたようです。
     そして同じころに、天皇中心の国もできたし、中国からつけられた、あまりよい意味をも
    たない「倭」をやめて、「日本」という国名に変えようということになったようです。702年に
    は、中国に対して正式に日本と名乗ったことがわかっています。

  ☆答
  1−
(1) Cの18倍。弥生時代は約600年なのに、縄文時代は約1万1千年も続きました。

          
※もどる時は、パソコンの「もどる」機能(きのう)を使ってね。



     
  2−(1)@の犬とBのイノシシ。犬は狩りの手助けをし、イノシシは少しの間、家畜として飼われていたようです。




  3−(1)判定結果魏魏
     Aが多かった人…弥生人タイプ   Bが多かった人…縄文人タイプ
     
※ただし、縄文人と弥生人は、今から2000年以上も前に混血が進んだので、きみの直接の祖先が縄文人(あるいは弥生人)
       というわけではありません。まちがえないでね!





  4−(1)Aで「ねずみ返し」と呼ばれています。




  5−(1)Aがまちがい。高さ130センチ以上のものも見つかっています。




  6−(1)Aの蛇。本来、後漢は周辺の王たちには亀の形をした印を与えるのがルールで 
     した。海をへだてた倭の王には、これが適用されませんでした。




  7−(1)@のシカやイノシシ。このころの遺跡からは、牛や馬の骨はほとんど見つかっていません。ニワトリは飼ってはいましたが、食用では 
     
なかったのです。




  8−(1)Cの4年。ただし近年の研究では、これよりももっと期間がかかったと考えられています。




  9−(1)ごめんなさい、すべて正解です。いずれも太子が死後25年以上も後に使われたものなの 
     です。江戸時代の侍(さむらい)が、背広を着ているような感じ?





  10−(1)@。妹子は2回目の遣隋使です。1回目の使節の名前はわかっていません。



  11−(1)Cの3代前。ひいおじいさんの稲目(いなめ)以前の人物は、後からつくられたものとわかって 
    います。蘇我氏は、天皇家と親せきになることで急に力をもった豪族だったので、天皇家を
    倒すことは、すなわち自分の家の没落(ぼつらく)につながったのです。





  12−(1)@の北極星。もともと中国から来た言葉で、宇宙を治める天帝(てんてい)という意味でした。




  1−(2)
Aのクッキー。表面がうずまき文様(もんよう)になっているものもあり、縄文人はおいしさも見た目も気にしていたようです。




  2−(2)Aの花粉から調べる、です。草や木そのものは、ほとんど腐(くさ)ってなくなってしまいますが、花粉はじょうぶで残ることがある 
     のです。




  3−(2)Cの6分の1。本格的な米づくりが始まったとはいえ、弥生時代の人々が米だけで食料がじゅうぶんであったとは言えない 
     ようです。




  4−(2)神社。特に伊勢神宮(いせじんぐう、三重県)や出雲大社(いずもたいしゃ、島根県)などは、弥生時代の建物のつくりに近いものです。




  5−(2)Bの豊臣秀吉。奈良県のお寺に伝わる銅鐸は、秀吉の「ほうびとしてこれをやる」という手紙がそえられています。




  6−(2)Bの人間。160人献上(けんじょう)されたと記録にあり、これはどれいを指すと考えられています。




  7−(2)うそ。おはしが見つかった最も古い遺跡は平城京(へいじょうきょう、奈良時代)で、邪馬台国の時代は手で食べていました。




  8−(2)古墳ができた当時現在のように樹木(じゅもく)でおおわれたていたわけではなく、表面には石がしきつめられていたのです
     
UFOみたい?


                                           


  9−(2)B。太子が死んで100年後に作られた歴史書「日本書紀」(にほんしょき)には、十七条憲法のみ「自らつくられた」と記されています。



     

  10−(2)Bの「隋からの手紙を途中でとられた」。他の2つもやっていない証拠はありませんが、記録に残っているのはBです。



  11−(2)大化の改新のリーダーみずからが、剣をふるうというのは不思議です。そこで命を落としたら、 
   
 終わりですからね。まだ若い皇子(当時19才)の背後で、もっと中心になる人物が皇子をリー
   
 ドしていた可能性が高いのではないでしょうか。





  12−(2)
Aの「遠い、醜(みにく)い」。中国がつけたもので、自分たちと比べて文化が発達していないと考えていました。




  1−(3)
@の30さい。多くの人が30さいくらいで死んでしまうということではなく、きびしい環境(かんきょう)の中で、多くの子ども 
     が死んでしまったため、平均するとこのくらいになるのです。ですから、女性は平均8人の子を産まなければ、人口は維持で
     きなかった計算になります。



   
  2−(3)ズバリ、
ウンチの化石(糞石、ふんせき)です。「うん」がいいと、見つかることがあります。



   
  4−(3)
Bのお年玉。米はトシとも言います。タマは魂(たましい)のことで、トシタマとはもともと米を作るのに必要な力をさした言葉でした。




  5−(3)B。今、見つかる時は当然、土の中からですが、当時もわざと埋めていたようです。



   
  6−(3)
鏡が反射した光は、鏡を持つ者をより神に近い存在にしたようです。卑弥呼は自らの権威を高めるために、からもらった鏡を、
     
従えた国々の王たちに分け与えました。




  7−(3)
Bの「占いに使った」。焼いた骨の割れ具合から、農業や政治について占っていたようです。この方法は、古代中国などアジアで 
     広く行われました。



  8−(3)大和の勢力と
同盟を結んだ地方の有力者たちが、独自の形をしたお墓を受け入れて用いるようになった結果だと思われます。




   
  9−(3)B。太子のような天皇の一族はもちろん、蘇我氏のような特に力のあった豪族たちも対象外だったのです。
 

     


  10−(3)
Bの下位。隋が日本(倭)を軽く見ていたことがわかります。




  12−(3)
「ニッポン」と「ニホン」の2通りの読みがある点です。すでに江戸時代以前から両方使われていました。


                      
(キッズページのメインメニューへ)