藤原道長の悩み   

◎ 藤原道長というと、平安中期の摂関政治の頂点に立つ最高権力者という強いイメージがあると思います。しかし、それは本当のことでしょうか?彼の権力の背景を探りながら、例の「望月の歌」の裏に隠された彼の悩みを想像していきましょう。

                            藤原道長略年表        問8へ戻る

     年                   で     き    ご    と            
康保3年(966)
永延元年(987)
   2年(988)
正暦元年(990)
長徳元年(995)
   2年(996)
   3年(997)
   4年(998)
長保元年(1000)
寛弘5年(1008)
   6年(1009)
   7年(1010)
   8年(1011)
長和元年(1012)
   2年(1013)
   4年(1015)
   5年(1016)
寛仁元年(1017)
   2年(1018)

   3年(1019)
万寿4年(1027)
摂政藤原兼家の五男として生まれる
左大臣源雅信の娘倫子と結婚
源高明の娘明子と結婚。権中納言。
D長兄道隆摂政となる。F父兼家死去。
C道隆死去。D兄道兼死去、内覧となる。E右大臣、氏長者。
藤原伊周・隆家を配流。F左大臣。
藤原伊周・隆家を赦免、帰京を許す
B病のため辞職を申し出て許されず
A娘の彰子女御(天皇の妻の1人)となる。C・D病のため辞職を申し出て許されず
H彰子、敦成親王(後の後一条天皇)を生む。
J彰子、敦良親王(後の後朱雀天皇)を生む。
H病む。
E一条天皇譲位、三条天皇践祚。G娘妍子(けんし)女御。I病む。
B病む。E病再発、辞職を申し出る。
E病む。
@病む。G三条天皇に譲位迫る。I摂政に準じて執政。
@三条天皇譲位、後一条天皇即位。摂政。C病む。
B摂政を辞す。D病む。K太政大臣。
A太政大臣を辞す。C病む。I娘の威子天皇の夫人となる。「この世をば〜」の歌を披露。J眼病。
B出家。C病む。
I病む。J死去。

1 道長と摂関政治
 (問1) 道長は摂政の地位にどれくらいの期間就いていたでしょうか?上の年表をみて答えて下さい。

                                (問1の答へ)

 当時の朝廷政治は陣定(じんのさだめ)と呼ばれる約20人の会議の上級貴族たちによる合議によって行われていました。会議の議長(上卿、しょうけい)は、その中の最上位の者がつとめました。摂政・関白は確かに天皇との関係が最も密接な立場ではありましたが、この陣定には参加できなかったのです。

☆ 寛弘元年(1004、道長が政権を握って9年後)の陣定のメンバー

 官職     名前  官職     名前
左大臣 藤原道長(39歳) 権中納言 藤原斉信(38歳)○
右大臣 藤原顕光(61歳)○ 権中納言 藤原隆家(26歳)○
内大臣 藤原公季(48歳)○ 権中納言 源 俊賢(46歳)
大納言 藤原道綱(50歳)○ 参   議 藤原有国(62歳)
権大納言 藤原実資(48歳)△ 参   議 藤原懐平(52歳)△
大納言 藤原懐忠(70歳) 参   議 菅原輔正(80歳)
中納言 平 惟仲(61歳) 参   議 藤原忠輔(61歳)
中納言 藤原時光(57歳)○ 参   議 藤原行成(33歳)○
中納言 藤原公任(39歳)△ 参   議 藤原正光(48歳)○

*○は道長にごく近い一族   △はやや離れた一族 
(問2) 上のメンバーをみて気がつくことは何でしょう?   
<ヒント> もちろん○や△に注目して下さい。

                                 
(問2の答へ)

2 道長の経済的基盤
○ この時代、道長に近い藤原氏以外の貴族・役人たちには出世のチャンスはなく、@中下級の役人として専門技能をもつA地方の国司となって蓄財するB地方に下り武士の棟梁となるC仏門に入る、の4つの道を選ぶしかなかったのです。

○ 道長の日記(「御堂関白記」)などをみると、国司たちからの道長への贈り物(志)は大変な量だったようです。

(問3) なぜ彼らはそのような莫大な贈り物をしたのでしょうか?
<ヒント> 国司になった人もより蓄財するためには…

                                 (問3の答へ) 

       ○道長の娘彰子(一条天皇の妻)に仕えた女性たち

名前 主な作品 父あるいは夫 父あるいは夫の官職・位階
紫 式部(むらさきしきぶ) 源氏物語 藤原為時 越前守(従五位上)
赤染衛門(あかぞめえもん) 栄花物語 夫・大江匡衡 式部大輔(正四位下)
伊勢大輔(いせのたいふ) 歌集伊勢大輔集 大中臣輔親 神祇伯(従四位下)
和泉式部(いずみしきぶ) 和泉式部日記 大江雅致 越前守(従五位上)

(問4) 上の表はこのころ活躍した有名な女性たちです。彼女たちの出身に関して共通することは何でしょうか?
<ヒント> 表の右側に注目!
                                 
(問4の答へ)

(問5) (問3)と(問4)の答とを考えあわせると、どのようなことが言えるでしょうか?
<ヒント> 父あるいは夫の立場に立って考えて下さい。

                                 (問5の答へ)

 一方、このころ地方の有力者たちによる公領(国家の土地)の荘園化が進んでいました。道長はこれに対し何の対応もせず、放任しました。
(問6) これによって道長が期待したものは何でしょうか?                              
<ヒント> 私的な土地である荘園は、国家による承認を必要としたのです。

                                 (問6の答へ)

 外戚体制は貴族政治崩壊のきざし?
 道長は2人の娘を天皇に嫁がせて、できた孫を天皇とし、さらにその孫2人に別の娘をそれぞれ嫁がせていて。外祖父として実権を握った。このような政治体制を外戚体制といいます。
(問7) しかしこの外戚体制というのは、「4つの偶然」が重ならないと成り立たないものです。まず1つは道長に娘ができること、です。あと3つは何でしょう。

                                 (問7の答へ)

 「望月の歌」に隠された道長の悩み
 道長の権力が絶頂に達した寛仁2年(1018)10月、彼は三女威女(いし)が後一条天皇のきさきとなったことを祝う宴のとき、「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の かけたる事もなしと思へば」と歌いました。
(問8) しかし、道長には唯一とも思える悩みがありました。それは何でしょうか、最初の略年表をみて答えて下さい。

                                 (問8の答へ)
 
                

○ 道長の病状
 ・ 寛仁2年(1018)ころより道長は、日記の中で「胸病」「眼病」(1メートル離れた人の顔が見えない)などという表現でからだの変調を訴えていました。

(問9) この病状をみたある現代の医学者は、「道長はおそらく(     )に罹っており、おそらくその合併症によって狭心症、白内障などがおこっているのでしょう」と診断しています。さて(    )内に入る病気とは何でしょうか?
<ヒント> 現代でも比較的多くの人がかかっているやっかいな病気です。

                                 (問9の答へ)

 平安貴族のただれた食生活
 道長の病気は個人的な理由もあるかも知れませんが、当時の上級貴族すべてに共通する食生活にも大いなる問題がありました。永久4年(1116)正月、内大臣藤原忠通主催の宴会の時の食事メニューを見ますと、調味料(酢、酒、塩、醤<ひしお>)・醤類(くらげ、ほや貝、鯛などのなまもの)・乾物(鳥や魚をかわかしたものを細かくさき、お湯で柔らかくして食べる)・鱠<なます>(鳥や魚の生肉を薄く切って食べる刺身の前身)などで、ほとんどが乾物で消化不良を起こしやすく、野菜など植物性食品が極端に少なく、栄養不足なものであることがわかります。奈良時代はそうでもなかったのですが、平安期にはいると食事の中身より見た目の美しさを競うようになってしまったのです。ここにさらに運動不足と毎晩のような深夜までの宴会という不規則な生活が加わります(このへんは他人ごとじゃないなぁ…)。
(問10) 当時の貴族は、このころおこってきた地方武士や農民たちと比べて動物性タンパク質や脂肪をとる量が少なかったのです。これにはある重要な理由があったのですが、さてそれは何でしょうか?
<ヒント> 宇治の平等院鳳凰堂は何のためにつくられているんでしたっけ?

                                (問10の答へ)

答と解説
〔問1〕
 
長和5年(1016)1月〜寛仁元年(1017)3月までの1年2ヶ月間でした。しかし、彼は政治上の最高権力を33年間くらい握っていましたから、その根拠は必ずしも摂政という地位ではなかったことになります。道長自身、摂政や関白の地位にこだわった形跡はありません。つまり、摂関政治の頂点=道長という理解は、必ずしも正確ではないこととなります。

                                   
(次へ)

〔問2〕
 
道長にごく近い一族が8名、やや離れた一族(小野宮家流)が3人、計12人と、18人のうち大半を占めています。つまり道長は、政治主導がしやすい形を手に入れていたのです。道長はこの陣定の上卿という地位に強くこだわり、一方天皇との密接な関係をも確保するために内覧(関白に準じる地位)の地位に就き、これによって朝廷の内外を強く掌握できたのです。なお、他のメンバーのうち、平惟仲は道長の父兼家の家司(事務を執る家来)、源俊賢は道長の義兄、藤原公任と懐平は、道長に追随していました。ただ、藤原実資だけは陰で反発していました。

                                   (次へ)

〔問3〕
 彼らにはより多くの蓄財をしたいという望みがありました。そのためには、国司でもより豊かな国(上国)の国司に任ぜられなければならず、その人事権を握るのが道長だったのでした。たとえば長和5年(1016)7月20日、道長の本邸土御門邸が全焼しましたが、道長は再建を新旧国司に命じ、2年後の寛仁2年に完成させたということがありました。

                                   (次へ)

〔問4〕
 
いずれも四位、五位、すなわち中クラスの貴族の家の娘だったということが共通しています。彼女たちの父親や夫は、通常これ以上の出世は見込めませんでした。

                                   
(次へ)

〔問5〕

 
中級貴族たちは、王朝風の教養に富む自分の娘や妻を中宮彰子の教育係として差し出すことによって、道長との結びつきを強め、出世のチャンスをうかがったのです。

                                   
(次へ)

〔問6〕

 
荘園成立を承認する政府の最高権力者道長には、その見返りとして申請者からの莫大な土地や贈り物が期待できたわけです。つまり、道長は私的支配を拡げようとする荘園領主側、またそれをくい止めようとする国司側のいずれからも寄進や贈答が集中する、というしくみ(まさにウハウハ状態)だったのです。

                                   
(次へ)

〔問7〕
 Aその娘が入内(じゅだい)、つまり天皇の夫人となることB入内した娘が皇子を生むこと(皇女ではダメ)Cその皇子が天皇となること、です。
つまり、外戚とはこの4つの偶然が重ならなければ実現しない、決して強固な関係ではなかったのです。したがって、外戚関係に頼れば頼るほど、その政権基盤は不安定になってしまうのです。

                                   
(次へ)

〔問8〕

 
これはすぐにお気づきでしょう。「病む」という記事が多く見られます。道長は、しばしば病気にかかっていたことがわかります。

                                   
(次へ)

〔問9〕

 
これは「糖尿病」が入ります。当時、「飲水病」などと言われた病気は、これにあたると考えられます。道長の日記『御堂関白記』は、誤字・脱字・字句の書き入れ・抹消が甚だしい状態で、これは彼の豪放な性格と結びつけてとらえる考え方もありますが、一方では病気による注意力の散漫が原因ではないかとの説もあります。その延長線上で考えれば、例の「望月の歌」も、病気によって自分の感情がコントロールできない状態の中で歌われたとも解釈できます。

                                   
(次へ)

〔問10〕

 
これは当時の貴族が厚く信仰していた浄土教の殺生禁断思想から、肉食がタブーとされていたことによるものです。道長は眼病のため医師から魚肉を食べるように言われ、これを実行します。その後、肉食の罪のつぐないに、と法華経を書写しています。これはいかに肉食がふだん悪いことと見なされているかを示していると言えましょう。一方、地方武士はこうした思想にとらわれず、魚や鳥・獣の肉をとり、その他海藻や新鮮な野菜も食べていたと考えられますから(おまけに運動面もバッチリ!)健康状態が当時としては比較的よかったと思われます。やがて貴族が武士にとってかわられるのも、こうした食事面で考えても納得できるのです。だいたい、飽食の国というのは、ローマ帝国のように衰亡が近いということが言えるのではないでしょうか(今の日本も危ない?)。

※ これらの問題と答・解説は、棚橋光男『大系日本の歴史4王朝の社会』(小学館、1988年)、北山茂夫『藤原道長』(岩波新書、1970年)、山中裕『藤原道長』(教育社歴史新書、1988年)、『図説日本文化の歴史4平安』(小学館、1979年)、橋本義彦『平安の宮廷と貴族』(吉川弘文館、1996年)などを参考に作成しました。

◎このテーマは、拙著『疑問に迫る日本の歴史』(ベレ出版、2017年)にも掲載しています。

                              
日本史メニューへ