元寇失敗の背景

◎ モンゴルの日本襲来の失敗の背景については、御家人の奮戦、突然の暴風雨などがあげられています。しかし、それだけなのでしょうか?日本とモンゴルの関係だけを見ていたのでは気づかない、何か他の問題がありそうです。

                           略年表 元寇前後のアジア

西 暦        アジア        高麗            日本
1206 モンゴル帝国の成立
1254 モンゴルの第6次侵入
1260 フビライ(世祖)の即位
1268 モンゴル、南宋を攻略 モンゴル・高麗の国書来るも返事与えず。北条時宗執権となる。
1270 元宗、モンゴルに服属。三別抄の乱起こる(〜1273)。
1271 モンゴル、国号を元とする。
1273 日本遠征の方針決まる
1274 日本遠征 @元より造船命令来るD元の日本遠征軍到着。 I元軍襲来(文永の役)
1275 元の命令で武器・軍船をつくる 元よりの使者を斬る
1276 元、南宋の都(臨安)をおとす。
1279 南宋王朝滅ぶ。 南宋より僧無学祖元来る。
1281 日本再征 D東路軍、合浦より出発 E元軍襲来(弘安の役)
1283 江南の中国人反乱。元、日本への遠征準備を中止。 日本遠征のための食料・兵士を徴発される。
1284 ベトナム(占城)の反乱 北条時宗死す。
(この間日本遠征の準備進む)
1286 日本遠征計画中止

注) 表中の円数字は月を意味します。
1 文永の役の時、本当に暴風雨は起こったのか?
 @ 「八幡愚童訓」という鎌倉末期の歴史書に「合戦の翌日(10月21日)朝、海の方を見ると、モンゴルの船は一艘もなく皆帰ってしまった。今日はいよいよおしまいか、と嘆いていたのに、どうしたことか、と泣き笑いをした」とある。
 A 現代、過去50年の気象データからみると、元が来襲した10月20日(太陽暦では11月20日)には台風が来た事例はないし、信頼できる史料にその日に暴風雨が起きたことは確認できない。

(問1) 上の2つの資料から、はたして本当に10月20日に暴風雨が起きて元軍が退いたのかどうか、考えて下さい。
<ヒント> @で「どうしたことか」と不思議がっている点に注意して下さい。
                             (問1の答へ)

2 元軍の内情
         元軍の構成表

文永の役(1274) 弘安の役(1281)
船舶数 900隻(高麗が建造) 4400隻(高麗が建造)
兵力 高麗人 12700人
宋 人
女真人
漢 人
モンゴル人  30人



総数 25000人
高麗人 25000人
宋 人
女真人
遼 人
トルコ人
安南人
モンゴル人  150人

総数 50000人
 

(問2) 上の表のように元軍とはいっても、モンゴル兵はごくわずかで、ほとんどが異民族の兵でした。なぜこのような構成になったのでしょうか?上の年表から考えて下さい。

                               (問2の答へ)

○ 高麗の抵抗と苦難
 1231年以来、モンゴルは高麗を侵略し、1254年の第6次侵攻では「蒙古兵に捕らえられた者20万余り、殺された者数えきれず」という惨状になりました。1270年には高麗は完全にモンゴルに服属しましたが、この弱腰に江華島(こうかとう)を守っていた軍隊(三別抄、さんべつしょう)が農民と結んで反モンゴルの乱を起こしました。
(問3) 三別抄の乱と文永の役との関係について、上の年表からわかることは何でしょうか?

                               (問3の答へ)

○ 元、高麗に日本遠征用の軍船づくりを命じる
 1274年、日本遠征9ヶ月前に元は至急軍船900隻をつくるよう、高麗に命じました。元に服属した高麗は、その立場上この命令を拒否できませんでした。以後、昼夜を問わない大急ぎの造船工事が続きました。その様子を当時の歴史書は、「期限が迫り、雷のようなはやさで工事が続いたため、民衆は大いに苦しんだ」と伝えています。

(問4) 以上のことから、文永の役のとき、元軍が退いてしまった大きな理由は何だったでしょうか?まとめてみましょう。

                               (問4の答へ)

○ 3回目の日本襲撃計画もあった!
 フビライは、弘安の役失敗の翌年には第3次日本遠征計画をたて、そのための船の建造などの準備を高麗や中国江南に命じた。

(問5) しかし、これは結局実現しませんでした。その理由は何でしょうか、再び上の年表をみて考えて下さい。

                               (問5の答へ)

3 鎌倉幕府の対応〜外交ルールを無視したわけは?
 上の年表にあるように、鎌倉幕府は元や高麗の国主に返事さえ与えなかったり、元からの使節を斬ってしまいます。外交ルールを無視したような敵意を示しました。
(問6) これは、日本がこうした外交ルールに無知だった、というような理由だけでしょうか?
<ヒント> これは難しいので、次のヒントから考えて下さい。
@ 当時、日本と最もさかんに貿易を行っていた国はどこだったでしょう?
A 執権北条時宗ら幕府首脳が厚く帰依した僧侶はどこの国の人たちだったでしょうか?
B この国と元との関係はどうだったでしょうか?


                               (問6の答へ)

答と解説
〔問1〕
 @で「どうしたことか」とモンゴル軍の攻撃がないのを不審に思う表現がなされていますから、仮に風雨があったとしてもそれが攻撃の支障になるほどのものではないと日本側が認識していたことがわかります。Aのデータも、この時期には台風は来ないという参考になります。ただ、このデータの欠点は過去50年間のものにすぎず、600年前の気象にそのままあてはめてよいか疑問が残ることです。
                                 (次へ)

〔問2〕
 
この渡海作戦が、高麗や南宋の屈服を前提にしたものだったからです。モンゴル軍は草原の戦闘には比類ない力を発揮しますが、船を操るとなると、征服した民族を頼らざるをえませんでした。したがってこの混成「元軍」の中には、かつての宿敵同士の将軍が含まれており、諸将間の不和はなかば必然的なものでした。なお、南宋はこの段階では滅んではいませんでしたが、実質的にはそれが決定的な状況にありました。

                                 
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〔問3〕

 
この乱(1273年4月平定)が少なくとも結果的にはモンゴルの日本遠征を遅らせ、日本に防衛準備を整える時間を与えたのは明らかです。当時高麗は、軍人崔氏が実権を握っており、モンゴルに対しては反抗の態度を示し1232年には都を開京から防衛に有利な江華島にうつしました。一方、高麗王家および文臣はモンゴルに従順な態度をとることで国家の存立を図り、王族や太子などが入朝しました。そして1264年には王自身が入朝するに及んで、親衛軍三別抄の反乱が起きたのです。この乱の性格規定には諸説あります(単なる暴動とする考え方、政権樹立をめざしたという考え方など)が、モンゴル・高麗の二重権力を相手に4年間も抵抗できたのは、農民など民衆の支持があったからとみられています。

                                 
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〔問4〕

 
服属した高麗民衆には戦意もなく、軍船も無理矢理つくらされました。その軍船でやってきたのですから、暴風雨とまで言えない風雨にも弱く、損傷が激しかったためと推測されます。また問2でも述べましたように、モンゴルの大将と服属した国の将官との不和なども大いに考えられるところです。現に弘安の役の際に約1ヶ月にもわたって平戸島から五島方面に軍船を浮かべたまま何の行動もとらなかったことはあるいはこのことと関連するかも知れません。有名な「蒙古襲来絵詞」をよく見ると、兵士たちの皮膚の色はそれぞれ異なっていることがよくわかります。弘安の役において江南軍出発の際、世祖フビライは、「朕が一番憂慮するのは卿ら(=諸将たち)が不和におちいることである」と訓じていて、諸将間の不和を心配していたことは明らかです。

                                 
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〔問5〕

 
1283年には中国江南で、また翌年にはベトナムでも反乱が起きました。これらに対し、元は日本遠征用に準備した軍隊を投入しなければならず、このことで結局3度目の日本遠征はとりやめとなったのです。
もちろん彼らは自分たちの祖国のために蜂起したのですが、そのことが結果として日本に幸運をもたらしたと言えましょう。

                                 
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〔問6〕
 当時日本の外交権を握っていた鎌倉幕府の指導者北条時宗らは、国際的な情報を主に南宋側から入手していました(入宋僧、来日した宋僧、商人などを介して)。
特に無学祖元らをはじめとする宋僧への帰依は厚く、彼らの祖国南宋がモンゴルによって圧迫されていたことから、宋僧らの元に対する憎しみは強く、その愛国的・民族主義的宗教思想の影響を強く受けた時宗らが、対元政策を決定していたことに注意すべきです。なお、弘安の役の際、日本側は捕虜とした元軍兵のうち中国人のみは殺さなかった点にも、当時の日本の支配者層のアジア観の一端が示されています。

※ これらの問題と答・解説は、有田和正『学級づくりと社会か授業の改造・高学年』(明治図書、1985年)、旗田巍『元寇ー蒙古帝国の内部事情』(中公新書、1965年)、川添昭二「蒙古軍の襲来と日元貿易」(『海外視点・日本の歴史6』ぎょうせい、1986年所収)、阿部征寛『蒙古襲来』(教育社歴史新書、1980年)、網野善彦『日本の歴史10 蒙古襲来』(小学館、1974年)、小松茂美『日本の絵巻13 蒙古襲来絵詞』(中央公論社、1988年)、村井章介「高麗・三別抄の叛乱と蒙古襲来前夜の日本」(同『アジアの中の中世日本』(校倉書房、1988年所収)、黒田俊雄『日本の歴史8 蒙古襲来』(中央公論社、1974年)などをもとに作成しました。

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