○ 幕末に日本が「開国」した、というのは誰でも知っていることです。では、なぜ開国以前の日本を「閉国」とは呼ばず、「鎖国」と呼んだのでしょうか?また、そもそも鎖国とはどのような意味合いで作られた言葉なのでしょうか?当時の国際的情勢を考慮に入れて考えていきましょう。
オランダからの生糸輸入量の変化
年代 | 量 | で き ご と |
寛永10(1633) | 奉書船以外の海外渡航・渡航者の帰還を禁止(鎖国令のはじめ) | |
11(1634) | 38,4トン | 長崎に出島築き外国人を移す |
12(1635) | 55,2トン | 日本人の海外渡航の禁止・在外日本人の帰国を禁止(鎖国令強化) |
13(1636) | 110,4トン | 海外密航・帰国者の処罰規則を決める |
14(1637) | 115,2トン | 島原の乱おこる |
16(1639) | ポルトガル船の来航禁止 | |
17(1640) | 163,2トン | |
18(1641) | オランダ商館を平戸から長崎出島に移す(鎖国の完成) |
(問1) 上の表をみて、鎖国への動きの中で、何か気がつくことはありませんか?
(問1の答へ)
○ 「鎖国」は、江戸幕府が国内支配の安定と強化を図って意図的に行った政策の結果というのが中学校までの理解でしょう。しかし…
16〜17世紀ヨーロッパ諸国のアジア進出
年 | で き ご と |
1510 | ポルトガル、インドのゴア占領 |
1511 | ポルトガル、マラッカ(今のマレーシア)占領 |
1545 | スペイン、メキシコのポトシ銀山採掘開始 |
1557 | ポルトガル、マカオ(香港の近く)居住 |
1571 | スペイン、マニラ(フィリピン)建設 |
1600 | イギリス、東インド会社設立 |
1602 | オランダ、東インド会社設立 |
1619 | オランダ、ジャワ・バタビヤ(今のインドネシア)建設 |
1623 | アンボイナ事件(今のインドネシア) |
1641 | オランダ、マラッカ占領 |
1642 | オランダ、スペイン人を台湾より追放 |
* アンボイナ事件とは、アンボイナ島でオランダがイギリス商館員を虐殺、この地域からイギリス勢力を閉め出した事件のことです。
(問2) 上の年表を見て何か言えることはないでしょうか?
<ヒント> 江戸幕府が成立する前後の諸勢力の変化は?
(問2の答へ)
(問3) オランダが当時最もおそれた商売がたきは、はたしてどこだったでしょうか?
<ヒント> 同じヨーロッパ諸国ではありません。意外な相手です。
(問3の答へ)
○ ところが、この商売がたきはいずれ衰える運命にあった!?
(問4) 江戸幕府ができてまもなくの時期までは、幕府や諸大名が特に輸入品として欲しがっていたのは武器でした。それがあることを最後に需要がめっきり減ってしまいました。そのあるできごととは何でしょうか?
<ヒント> 島原の乱ではありません。短期間に2度同じ目的で行われた戦争です。
(問4の答へ)
(問5) (問3)の答の主な輸出品は何だったでしょうか?
<ヒント> 今は全然ありませんが、当時は世界有数のこれの産出国でした。
(問5の答へ)
↓
ということは、それがなくなれば輸出すべきものがなくなり、したがって貿易も自然に停滞することが予想されるのです。
○ 幕府が最もおそれたキリスト教
一連の「鎖国令」を幕府が出した大きな理由は、やはりキリスト教が入ることによって、その支配基盤が崩れることをおそれたからでした。既に秀吉も、バテレン追放令の中で「日本は神国だからキリスト教国から社会秩序を乱す教えを受けるのは、けしからんことである」と述べている。
(問6) 江戸幕府も、日本の最高権力者=将軍を国内のあらゆる人々に崇拝(すうはい)させる必要性が高まりました。このためにちょうど「鎖国」の時期に幕府が完成させたものがあります。さて、それは何でしょうか?
<ヒント> 最近、世界遺産にも認定されましたよ。
(問6の答へ)
(問7) そもそも「鎖国」という言葉は、いつから使われだしたと思いますか?
ア) 江戸時代以前 イ) 「鎖国」が完成した直後(1640年代) ウ) 江戸中期(1730年ごろ) エ) 江戸後期(1800年ごろ)
(問7の答へ)
◎ 答と解説
〔問1〕
いわゆる鎖国令が強化されるにもかかわらず、オランダからの生糸の輸入量は逆に増加していることがわかります。これは中国の場合も同じです。もちろん幕府は一連の鎖国令によって貿易一般を強く管理・統制しましたが、当初は貿易量についてはいっさい制限を加えませんでした。さらに鎖国によって、これまでの他の諸国からも輸入してきた物資、特に主要な生糸の輸入量が減少したため、幕府は値上がりに注意させつつ、かえってオランダ・中国からの生糸輸入を確保しようと下ほどなのです。
(次へ)
〔問2〕
鎖国令が出された17世紀前半、ヨーロッパのアジア進出の主役が、それ以前のポルトガル・スペインからオランダに交代していたのです。オランダは日本に対し積極的にスペインやポルトガルなど旧教国がキリスト教を利用して植民地政策をとる、と繰り返し中傷しました。一方スペインは、秀吉のキリシタン弾圧やメキシコ銀山の開発が本格化したことにより、日本進出に対する魅力を感じなくなっており、またイギリスは東南アジアでのオランダとの争いに敗れて後退します。
(次へ)
〔問3〕
これは日本自身の、東南アジア諸国との朱印船貿易が答です。
(次へ)
〔問4〕
武器を大量に必要としたのは、元和元年(1615)の大坂夏の陣が最後です。これ以後、幕末まで大名同士の大戦争は国内にはなくなりました。
(次へ)
〔問5〕
答は銀です。日本の銀は、戦国時代の16世紀半ばから諸大名によって採掘されるようになり、最盛期の江戸初期にはその輸出量は世界全体の産出量の3分の1を占めた、と言われています。しかしその流失が激しく、寛文8年(1668)には輸出が禁止されました。これに応じ、朱印船貿易も衰退していきます。
(次へ)
〔問6〕
寛文13年(1636)に完成した日光東照宮がそれです。すなわちキリスト教の神に対抗し、幕府を開いた初代将軍家康を東照大権現という神にまつりあげることで、これを崇拝させようとしたわけです。なおオランダは、この東照宮のために燈籠を鋳造して贈っており、今も有名な陽明門の手前下の段の左手、鼓楼の脇に見ることができます。今度訪れる機会があったら確認してみて下さい。
(次へ)
〔問7〕
答はエです。すなわち「鎖国」という用語は、享和元年(1801)に志筑忠雄『鎖国論』で初めて用いられ、また寛永12年(1635)の措置を「海禁」としたのも、嘉永2年(1849)に成立した『徳川実記』からです。江戸後期、欧米諸国の日本への接触が頻繁になってくる時期にはじめてそれ以前の日本の状態をこのようにとらえようとして用いたのです。江戸前期当時はそのような意識が希薄だったことがわかります。
○ 最後に「鎖国」とは「開国」だった、の意味を幾つかの書物からさがしてみましょう。
・「鎖国」とは1度国際関係の中に入った日本が、そこから離脱することではなく、圧倒的なヨーロッパ諸国との文明(軍事力を含む)との差の中で、日本なりに世界と接触するための手段だった。つまり、「鎖国」という手段による日本の、世界への第1次「開国」だった。
・国家というのはどんな時代でも程度の差はあれ、必ず「鎖国」体制(対外管理体制)だった(大石慎三郎『江戸時代』)。
・「鎖国」は日本特有の現象ではなかった。ヨーロッパでも近代初期(16世紀末ごろから)には鎖国の傾向があった(信夫清三郎『江戸時代ー鎖国の構造ー』)。
※ これらの問題と答・解説は、大石慎三郎『江戸時代』(中公新書、1977年)、信夫清三郎『江戸時代ー鎖国の構造ー』(新地書房、1987年)、青木美智男・保坂智編『争点日本の歴史第5巻近世編』(新人物往来社、1991年)をもとに作成しました。
◎このテーマは、拙著『疑問に迫る日本の歴史』(ベレ出版、2017年)にも掲載しました。
日本史メニューへ