○ 明治からアジア・太平洋戦争までの日本が歩んだ道については、肯定論・否定論の立場からさかんな議論がなされています。この問題をどう考えるかは、いろいろな意味で大変難しいことですが、ただ1つ確実に言えることは、日本の開戦は、当時の国際関係の中で決定されたということは紛れもない事実だということでしょう。ここでは厳然とした国際情勢の事実と日本との関係をできる限り冷静にみていくことで、なぜこの戦争が起きたかを考えていくことにしましょう。
1 日露戦争〜満州事変まで
@日露戦争において日本は、「南満州での権益は日本が独り占めせず、列国と対等とする」と約束して、米英などの支援を取り付けて勝利しました。しかし、戦後日本は、特にアメリカの南満州への経済的進出の要求を排除し、その不信を招きました。そして一方、日本が期待したような満州への進出は、十分にはなされなかったのです。
A第1次世界大戦(大正3年〜7年、1914〜18年)に際して日本は、イギリスの要請に応じてドイツに宣戦し、その中国での権益地であった山東省を攻め、これを獲得しました。また中国には、武力を背景に21ヶ条の要求をつきつけました。
<対華21ヶ条の主な内容>
・山東省における日本の権益
・南満州・東部内蒙古における日本の優越的地位
・中国政府内に日本人顧問をおくこと
これらのうち、3番目の内容は明らかに中国の主権を侵す内政干渉であり、列国の非難を浴びた日本はこの項目を取り消しました。
(問1) 上の内容の1番目、つまり山東省における日本の権益ということについても中国とアメリカは強く批判しました。ところがイギリスなどヨーロッパの列国はこれと同調しませんでした。それはなぜでしょうか?
<ヒント> 第1次大戦におけるアメリカとヨーロッパ諸国の立場の違いを考えて下さい。
(問1の答へ)
B日本の中国・太平洋地域への軍事的進出が拡大する中で、アメリカは1921年(大正10年)にワシントン会議を主催して、日本が21ヶ条要求などで獲得した権益の一部を返還させ、また軍縮を承認させました。
C中国では1911年(明治44年)辛亥革命が起こって清王朝が倒れましたが、その後、国民党・共産党・多くの軍閥による主導権争いが続きました。日本は、民族主義的な共産党と国民党を嫌い、軍閥を支援して満蒙での権益の維持拡大を図りましたが成功せず、さらに1929年(昭和4年)に起こった世界恐慌の影響で、満州経営は危機に瀕しました。
2 満州事変(昭和6年<1931年>9月18日>
Dこのような危機を打開すべく、満州駐在の日本軍(関東軍)は武力行使を開始し、戦線は拡大して中国北部に迫り、また上海にも飛び火しました。そして関東軍は満州民族の中国からの独立を名目として満州国を建国させ、これを保護下におこうとしました。米英の反応は、初め必ずしも一致していませんでしたが、日本軍の攻撃が激しくなる中で、国際連盟が調査団派遣を決定しました(リットン調査団)。
<リットン調査団の報告書の主旨>昭和7年(1932年)10月2日公表
(1)日本軍の一連の軍事行動は、自衛のためとは認められない。
(2)満州国は日本にあやつられた国であり、独立国とは認められない。
(3)満州事変以前の日本の権益については問題はない。
(問2)これによると、満州事変以後の行動は不当とされましたが、一方でそれ以前の日本の満州における優越した地位は逆に国際社会に認められた面もあり、全体としては決して日本に不利とばかりは言えない内容となっていました。にもかかわらず、この報告書が公表された時点で、日本の地位は非常に苦しいものになっていました。それはなぜでしょうか、下の関係年表を見て考えて下さい。
年 代 | 日 本 | 中 国 ・ 欧 米 |
1929(昭3) | I世界恐慌おこる | |
31(昭6) | E中村大尉事件F万宝山事件H満州事変おこる | |
32(昭7) | @第1次上海事変B満州国建国宣言H満州国を承認 | Fオタワ会議(英連邦、ブロック経済方式採択) Iリットン調査団、報告書を公表 |
33(昭8) | B国際連盟を脱退 | A国際連盟、対日勧告案採択 |
34(昭9) | Kワシントン海軍軍縮条約廃棄を米に通告 | |
36(昭11) | @ロンドン軍縮条約脱退J日独防共協定 | 独、ラインラント進駐。伊、エチオピア併合 |
37(昭12) | F廬溝橋事件G第2次上海事変J日独伊防共協定K南京占領、大虐殺(死者数諸説あり) | 第2次国共合作 |
38(昭13) | @近衛首相「国民政府を対手とせず」声明D徐州占領I広東、武漢三鎮占領 | 独、オーストリアを併合 |
39(昭14) | A海南島占領 | B独、チェコを解体F米、日米通商航海条約廃棄を通告G独ソ不可侵条約H独、ポーランドに侵入(第2次世界大戦開始) |
40(昭15) | H北部仏印進駐 | B汪兆銘、南京に親日政権樹立Cデンマーク、独に降伏D独、ベルギーを占領E伊が参戦。仏、独に降伏。 |
41(昭16) | C日ソ中立条約。日米交渉開始F南部仏印進駐K真珠湾攻撃(アジア・太平洋戦争開始) | B米で武器貸与法成立(英などへの支援開始)E独ソ開戦F米、在米日本資産を凍結G米ソ経済援助協定調印J米、日本にハル・ノートを回答 |
* 表中のまる数字は月を意味します
(問2の答へ)
E昭和8年(1933年)以降、日本軍の中国北部への進出はますます強まり、自らの利権への危険が迫った米英など列国の反発は高まりました。一方、中国では蒋介石率いる国民党軍が極力日本軍との対決を避けながら共産党討伐(いわゆる北伐)を進めていましたが、満州に力をもつ張学良によって国共合作(国民党と共産党の協力)が実現し、日本への抵抗が激しくなりました。
3 廬溝橋事件(昭和12年<1937>7月7日)〜日中戦争の本格化
F北平(今の北京)で起きたこの武力衝突事件によって、戦線は中国北部から中部へと拡大しました。はじめ米英など列強は仲介の動きをみせましたが、日本は軍の快進撃に自信を持ち、これを拒否しました。そして、満州国と同様に傀儡(かいらい)政権をつくって米英仏などの支持する国民党政権との対立を強めました。これに対しアメリカは昭和14年7月、日本に日米通商航海条約の廃棄を通告してきました。
(問3) しかし、日本政府及び軍はこの時期においても米英などとは極力円満な経済関係を維持したいと考えていました。その理由を次の資料から考えて下さい。
○日本の主要物資の輸入先(昭和15年<1940>)
・機械類 @アメリカ66,2% Aドイツ24,9% Bその他8,9%
・石油 @アメリカ76,7% Aオランダ領インドネシア14,5% Bその他8,8%
・鉄類 @アメリカ69,9% A中国15,6% Bインド7,5% Cその他7,0%
(問3の答へ)
4 南方(フランス領インドシナ、今のヴェトナム)進出と絶望的な日米交渉
Gこのころ世界のブロック経済化が進み、日本は欧米からの輸入を制限されて、自らのブロック(日本・満州及び中国)のみでは自給自足が不可能となり、そのため南方進出が決定されました。
(問4) 昭和15年(1940)ごろ、南方進出を決断した理由は他にないか、上の年表から考えて下さい。
<ヒント> 欧米の動きに注目してください。
(問4の答へ)
H日本軍は、同年9月北部仏印へ進駐を開始しましたが、アメリカはこれに対しくず鉄の全面禁輸を公表し、日米関係は険悪の度合いを深めました。両国政府は戦争を避けるための交渉を行いましたが、その際の米側(ハル国務長官)の日本への要求は次のようなものでした。
(1)日独伊三国同盟を破棄すること
(2)満州を除く全中国からの日本軍の撤兵
これらは日本としては絶対に受け入れられない内容でした。
(問5) 実はハル長官自身、この交渉が成功する可能性は万が一にもないとみなしていました。ではなぜアメリカは、絶望的な交渉を続けたのでしょうか、同じく上の年表をみて考えて下さい。
<ヒント> 当時アメリカは抱えていたのは対日問題だけだったでしょうか?
(問5の答へ)
I昭和16年(1941)4月、日本は北方の脅威をひとまず取り除くため、ソ連と中立条約を結び、対米英戦準備のため、南方進出に専念することとしました。
(問6) しかし、長年満蒙で対立してきた日ソが結んだのは不思議です。この時期、ソ連側にも日本と結ばなければならない事情がありました。それは何でしょうか?
<ヒント> ヨーロッパ方面に目を向けて下さい。年表参照。
(問6の答へ)
J昭和16年7月、日本軍は南部仏印に上陸しました。政府はこの強硬措置によってアメリカが強い態度をあらためると予想していましたが、意外にもアメリカは在米日本資産を凍結し、綿と食料を除くいっさいの日本への輸出をストップさせました。このため日本は経済的に完全に世界から孤立状態となってしまいました。
(問7) これによって日本は、米英に屈服するか、さもなければ限られた資源の中で戦争にうって出るかの選択を迫られることとなりました。7月末、海軍の首脳は「日本はうって出るしかない。…国際情勢の変化により米英に勝手段はあるだろう」と天皇に上奏しました。この「国際情勢の変化」とは、具体的には何を指すでしょうか。
<ヒント> 年表をよく見て下さい。
(問7の答へ)
○ アメリカは日本に最初の一撃をうたせるつもりだった!!
K昭和16年11月25日、米大統領フランクリン・ルーズベルトは、軍首脳をホワイトハウスに招き対日問題の会議を開きました。これに参加したスチムソン陸軍長官は、その日記に「日本の奇襲攻撃を警戒するとともに、米に過大な危険を招かないよう配慮しつつも、日本にまず攻撃せざるをえないように仕向けることが合意された」と記しています。
(問8) なぜ日本に先に攻撃させようとしたのでしょうか?
<ヒント1> アメリカはいずれ日本とは戦争になると考えていました。
<ヒント2> 民主主義国家アメリカは、開戦の決定権は大統領にはありませんでした。
(問8の答へ)
L11月26日、行き詰まる日米交渉の中で、ハル長官は日本側にまったく妥協のない要求(いわゆるハル=ノート)を突きつけました。
M11月27日、米軍部はハワイ・ホノルルなどの前進基地司令官に対し、戦争近しの警報を発しました(ただし、内容はあいまいなもの)。
N12月1日、日本は御前会議(天皇の臨席のもとに開かれた最高指導者の会議)において日米交渉に成功の見込みまったくなしと判断し、正式に開戦を決定、同8日にハワイ真珠湾及び東南アジアにおいて電撃的作戦を展開しました。
◎答と解説
〔問1〕
実は日本は、大戦におけるドイツの不利な状況を利用して山東半島を獲得しようと、表向きは日英同盟を理由としてイギリスに参戦を申し出たのですが、イギリスは日本の中国本土への進出を警戒し(イギリス自身が同地に利権をもっていたから)、いったんその参戦要請を取り消していたのです。しかし、結局日本の参戦は認められ、その見返りとして英・仏・伊・露4カ国は日本の山東省問題を支持する密約を結んだのです。これに対しアメリカは大戦当初、中立国としてこうした関係の外側にいたので、これに反対の姿勢をとったのです。
(次へ)
〔問2〕
年表にあるように、これ以前の昭和7年(1932)9月15日に、既に日本は満州国を承認してしまっていました。その満州国を国際連盟は否定したわけですから、日本は国際的に苦しい状況に追い込まれたことになります。
(次へ)
〔問3〕
このデータは衝撃的です。当時日本は、このような軍需品の輸入の約7割をアメリカに依存していました。そのため戦争は極力避けようとしていたのです。
(次へ)
〔問4〕
年表にあるように、前年昭和14年(1939)9月のポーランド侵攻に始まったドイツ軍の電撃的作戦は、めざましい戦果を挙げ、翌年6月までに北欧・中欧諸国は次々とその軍門に降りました。すなわちこの昭和15年7月段階では、東南アジア諸地域を植民地とするヨーロッパ諸国 が倒れたり、弱体化しており、日本が資源豊かなこれらの地域を手に入れるチャンスが到来していたのです。当時、日本の指導層は、もしここで南方進出を躊躇すれば、既にフィリピンを領有しているアメリカ、あるいは同盟国ドイツに同地域をおさえられてしまうのではないかと案じていました。何と日本は、ヨーロッパ情勢を利用して(これを頼みとして)、国の命運を左右する大方針を決定しようとしていたのです。
(次へ)
〔問5〕
年表に昭和16年(1941)3月イギリスなどへの支援のための武器貸与法成立とあるように、アメリカはこの時期、近い将来のヨーロッパ戦線への介入を見据えて、本格的な対英援助に乗り出していました。それゆえハル長官は、太平洋方面ではしばらくの間戦争を避けたいという陸海軍からの強い要望を受けていました。
(次へ)
〔問6〕
この頃ドイツとソ連はバルカン半島をめぐって対立しており、3月末にベルリンを訪問した松岡外相も、リッベン
トロップ外相から独ソ戦が近いとの暗示を受けました。そして実際年表に見られるように、条約締結後の昭和
16年6月、独ソ戦が始まりました。したがってソ連としても対独戦に集中するため、ひとまず日本との関係を安
定させておきたい事情がありました。
(次へ)
〔問7〕
これは当時の海軍軍令部総長永野修身の発言です。ここで言う国際情勢の変化とは、ヨーロッパ戦線におけるドイツの勝利による米英の屈服を指します。これは裏返せば、日本はドイツが勝たない限り、勝利はおぼつかない、いわば同盟国頼みの戦いを始めようとしていたことを示しています。
(次へ)
〔問8〕
アメリカが開戦するためには議会の同意が必要であり、その議会はもちろん民意を背景としていました。したがって、まず日本に一撃させて国民の戦意が高まることを期待したのです。なお、アメリカはこの時期なお伝統的な孤立主義が強かったことを付け加えておきます。
※ これらの問題と答・解説は、藤岡信勝編著『太平洋戦争白熱のディベート』(徳間文庫、1997年)、井上光貞他編『日本歴史大系15・明治憲法体制の展開(下)』(山河出版社、1996年)・同『同16・第一次世界大戦と政党内閣』(同、1997年)・同『同17・革新と戦争の時代』(同、1997年)をもとに作成しました。なお、ここでは「アジア・太平洋戦争」という表現を用いました。どういう表現を用いるかによって、戦争を肯定する、あるいは否定するように解釈する考え方がありますがここではそうした考えにはよらず、戦場となった地域を重視して用いたつもりです。
◎このテーマは、拙著『疑問に迫る日本の歴史』(ベレ出版、2017年)にも掲載しました。
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