稲荷山鉄剣の謎

○ 1978年(昭和53年)、埼玉県行田市のさきたま古墳群の1つ、稲荷山古墳から出土した鉄剣をエックス線調査したところ、115文字が金で刻まれていたことがわかり、「世紀の発見」と騒がれました。

1) 鉄剣がつくられた時期
 解読の結果、次のようなことが書かれていました。

「辛亥(しんがい)の年の7月、次のことを記す。オホヒコの8代後のヲワケ臣(おみ)の家系では、代々、杖刀人(じょとうじん)の首(おびと)として仕えてきた。ワカタケル大王の斯鬼宮(しきのみや、現奈良県桜井市)にもヲワケ臣は杖刀人の首として仕え、天下を左治している。そこで祖先以来の功績を記念してこの刀を作った」
 この辛亥の年は、471年が有力とされています。

(問1) 鉄剣は、古墳がつくられた時期より後の年代を記すはずはない。それはなぜでしょうか?

                                  (問1の答へ)

(問2) (問1)の答への反論はできないでしょうか?
<ヒント> 発想を大きく転換させてください。
                                  (問2の答へ)

2) 稲荷山古墳に葬られている人
(問3) 常識的に考えて、この墓に葬られている人は、上の鉄剣の銘文から誰と言うことになるでしょうか?

                                  (問3の答へ)

 この人物については、次の2通りの考え方ができると思います。
  @ もともと大和政権に近い人が何らかの理由で武蔵国に派遣され、そこで死んだ。
  A もともと北武蔵に勢力のあった豪族。

(問4) この鉄剣の製作技術はきわめて高く、当時の東国にはありませんでした。また、銘文を書いた人は、漢字・暦の知識に明るい人だったと考えられます。こうしたことから、この人物は上の@、Aどちらと言えますか?

                                   (問4の答へ)

(問5) 北武蔵地方には、このさきたま古墳群より古い古墳は見つかっていません。この事実は、上の@、Aどちらに有利でしょうか?理由も併せて考えて下さい。

                                   (問5の答へ)

(問6) 仮に@だとすると、この人物はなぜ派遣されてきたのでしょうか?考えてみましょう。

                                   (問6の答へ)

答と解説
〔問1〕
 一般的に考えて、鉄剣に記されている辛亥の年(471年が有力)は、被葬者が生前に鉄剣をもらい、その死後古墳が築かれて副葬されたとみることができます。

                                    
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〔問2〕
 
仮に被葬者と直接関わりのない鉄剣が、埋葬後に副葬されたとしますと、古墳の年代の方が古くなります。しかし、実際には埴輪の形式や横穴式でないことなどの別の証拠から、この古墳は5世紀末〜6世紀前半は下らないものであることがわかっています。

                                   
 (次へ)

〔問3〕

 これも常識的に考えれば、古墳に葬られているのは、銘文に出てくるヲワケ臣その人でありましょう。
しかし、可能性は低いですが、別人であるとみることもできます。つまり、ヲワケ臣が自らの家系を誇ってつくらせた鉄剣を彼と関係のある地方豪族に与えた(あるいは直接関係のない豪族が手に入れた)とみるわけです。

                                    
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〔問4〕
 
この鉄剣の銘文の内容の背景にある文化レベルは極めて高く、当時の東国にこれほどの銘文を記しうる文化は成熟していなかったものと考えられます。
したがって、この鉄剣は大和でつくられた可能性が高く、@が答と言うことになりましょうただ、銘文の内容に誇張があるとすれば、ヲワケ臣がもともと北武蔵出身の有力豪族である可能性も残ります。

                                    (次へ)

〔問5〕
 銘文には代々杖刀人の首として奉仕してきたとありますから、古墳の年代とあわせ考えてヲワケ臣の家を地方豪族出身とは考えにくくなります。
なぜなら、ヲワケ臣以前の祖先も大和政権に仕えていれば、さきたま古墳群の中にもっと古い年代の古墳があってしかるべきなのに、それがみられないからです。したがって、やはり@の説に有利です。

                                   
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〔問6〕
 オホヒコを祖先とする氏族のうち、阿部氏・膳氏などは臣の姓をもつ大和の名族です。
つまりヲワケ臣は、ワカタケル大王の権威を支えていた阿部臣か膳臣出身の人物で、当時東国に君臨していた毛野氏の勢力に対する軍事拠点をつくりあげる目的で東国に派遣されてきたもの、と考えられます。

※ これらの問題と答・解説は和田萃『大系日本の歴史2 古墳の時代』(小学館、1988年)をもとにしてつくりました。しかし、これは1つの考え方にすぎず、たとえば原島礼二『古代東国の風景』(吉川弘文館、1993年)では、ヲワケ臣を大和にいた阿部氏とし、彼が自らの家系を誇るためにこの鉄剣をつくらせ、彼と関わりの深い北武蔵の勢力に送ったもの(北武蔵の勢力の在地での勝利がヲワケ臣にとって記念すべき大事件で、彼自身がこの勝利に直接つながりをもっていたから)ととらえています。

                          
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