ー信長勝利の背景をさぐるー
○ 長篠の戦いは、織田・徳川連合軍が3000挺の鉄砲を3段にして武田の騎馬軍団に快勝した、と言われています。しかし果たしてそれは本当なのでしょうか?これまでの常識にとらわれず、原点に戻って考え直してみましょう。
<織田信長関係年表> 〔問8へ戻る〕
年 | で き ご と |
1534(天文 3) 48( 17) 51( 20) 59(永禄 2) 60( 3) 62( 5) 67( 10) 68( 11) 69( 12) 70(元亀 1) 71( 2) 73(天正 1) 74( 2) 75( 3) 76( 4) 80( 8) 82( 10) |
生まれる 美濃(岐阜)の大名斉藤道三の娘と結婚。 父の信秀死去、家督をつぐ。 尾張(愛知県西部)をほぼ支配する。 桶狭間の戦いで今川義元を討つ。 徳川家康と同盟を結ぶ 斉藤氏を追い、岐阜に移る。 足利義昭を奉じ上洛、義昭を将軍とする。 堺(大坂)を屈服させる。 姉川の戦いで近江(滋賀)の浅井氏、越前(福井)の朝倉氏連合軍を破る。 比叡山焼き討ち 足利義昭を追放、室町幕府滅亡。浅井・朝倉氏を滅ぼす。 各地の一向一揆と激しく戦う。 長篠の戦いで武田軍を撃破。 安土城に移る。毛利氏と戦闘状態に入る。 石山本願寺(大坂)勢力を退ける。 武田氏を滅ぼす。本能寺の変にて死す。 |
<長篠合戦関係年表>
年 月 日 | で き ご と |
1573(天正1)4 9 74(天正2)2 3 6 75(天正3)2 4・21 5・13 14 17 18 19 20 21 |
武田信玄死去。 徳川家康、長篠城を攻め、これをおとす。 武田勝頼、美濃の明智城おとす。 勝頼、三河(愛知)の足助(あすけ)口より徳川領に侵入。 勝頼、遠江(静岡)の徳川方の高天神城をおとす。 家康、長篠城を修築、勝頼の来襲に備える。 勝頼、大兵を率いて長篠城を囲む。 信長、家康の救援要請をうけ、岐阜を出発。 信長、岡崎(愛知県岡崎市)に到着。 信長、野田(同新城市)に到着。 信長、設楽(しだら)郷の極楽寺山に陣をおく。 勝頼、医王寺から陣を前進させる(〜20日) 信長、家康の重臣酒井忠次に武田軍主力の背後に回り、長篠城攻めのために配置されていた鳶ノ巣山(とびのすやま)の武田方を攻めるよう命ず(翌日これに成功)。 勝頼、信長・家康の陣に攻撃するも大敗、信濃(長野)へ敗走(いわゆる長篠の戦い)。 |
○ 鉄砲の3段撃ちは本当か?
徳川方 物見塚より竹広激戦地を見下ろす。向かいの林は武田方・山県昌景陣地付近
中央は連吾川。両陣営の間隔が非常に接近していたことがわかる。
(1994年7月22日撮影)
(問1)今ここに、武田の騎馬兵と徒歩の足軽それぞれ1名ずつが、織田の陣へ突進し、これに織田方の足軽3人が1組となって交代して鉄砲を撃ち続けたとします。両者の間の最初の距離は200m(下の写真参照)で、速さは馬が50km/h,足軽が18km/hとします。馬防ぎのための柵に到達するまでに、両者はそれぞれ何回鉄砲の玉を受けることになるでしょうか(ただし、織田の陣の前には連吾川が流れていて、これを渡るのに両者とも10秒かかるものとします)。
ア 騎馬兵1回、足軽2回 イ 騎馬兵3回、足軽5回 ウ 騎馬兵5回 足軽8回 エ 騎馬兵8回 足軽12回
(問1の答へ)
(問2)次の「信長公記」の記述から、3段撃ちを実際に行い、またそれによって織田・徳川方の勝利が決定的となったとした場合、おかしな点はないでしょうか?
<ヒント>「信長公記」は太田牛一(信長より7歳年長、青年期〜壮年期にかけて信長の親衛隊として仕え、その後事務官僚となる。一方で軍記作家としても活躍、江戸初期の慶長15・1610年に死去。)が信長に仕えていた時に書きためておいたメモをもとにまとめられたものです。
「5月21日、日の出から(織田方は)東北東に向かって午後2時まで入れ替わりながら戦い、武田兵を討ち、このため敵方は次第に兵が少なくなり、残った者は皆勝頼のもとへ集まった。そしてもうかなわないと判断し、鳳来寺(ほうらいじ)の方へどっと退却した」(現代語訳)
(問2の答へ)
○ 馬防ぎの柵は破られなかったのか?
(問3)1962年(昭和37)夏、家康の陣の内側(西側)から地元の農民が火縄銃の玉2個を発見しました。この事実から、「馬防ぎの柵が破られたかどうか」について理由をあげて判断して下さい。
<ヒント> まったく逆のことも考えられますよ!
(問3の答へ)
(問4)次の2つの史料は信長が部将細川藤孝にあてた手紙の一部です。これらから、3段撃ちはなかったと思える理由を説明して下さい。
@5月15日付
「12日付の手紙確かに見た。私の命令どおり鉄砲衆と玉薬のこと手配したそうでけっこうなことである。」
A5月21日付(長篠合戦のあった日)
「(戦いが終わったので)そちがよこした鉄砲衆を帰国させることとする。」
<ヒント> 15日には信長はどこにいたでしょうか?そしてこの時点では藤孝の鉄砲衆は信長のもとに到着していたのでしょうか?
(問4の答へ)
○ 鉄砲3000挺は本当か?
「信長公記」には何種類かの違った写本が今に伝わっています。それらの中でも比較的本来のものに近いとされるものが2つあります。1つは建勲神社本、もう1つが池田家文庫本です。前者では問題の部分は「鉄砲千挺ばかり」とあるのに対し、後者では「千挺」の右上脇に小さい字で「三」が付け加えられているのです。このことから、次のようなことが推測できます。つまり本来太田牛一は、千挺と記したのだが、後世、流布した説(三千挺説)をみた人物がこれに加筆したのではないか、と。上で見たように鉄砲は各地からの寄せ集めであり、その全てを牛一が把握していたとは到底考えられません。ですからこの千という数字も概数であることは間違いなく、その証拠に「ばかり」と表現しているわけです。
(問5)今度は地図の上で考えてみましょう。織田・徳川の陣は、ほぼ南北方向に1キロ余りにわたって展開しています。ここに仮に千挺(×3段)の鉄砲が並び3段撃ちを繰り返したとすると何か大きな問題点はないでしょうか?
<ヒント> 隣の射手との間隔を考えて下さい。
(問5の答へ)
(問6)さらに実際の戦場のことを思い浮かべて下さい。千人の射手が一斉に「バン!」と撃ち、次の千人がさっと並んで…などというイメージをお持ちの人に伺います。実際にそのようなことは本当に可能でしょうか?またそれはなぜでしょうか?
(問6の答へ)
○そうは言っても…再び「信長公記」より
佐々成政・前田利家・野々村三十郎・福富平左衛門・塙直政を臨時の鉄砲隊の大将として、その上で徒歩の足軽隊を出して様子を御覧になった。武田方は前後より攻められて、突撃を開始した。一番は山県という部将が太鼓を打たせながら攻めかかってきたが、鉄砲のために散々に撃たれ、退いた。二番は武田信廉(のぶかど)隊だが、これも鉄砲で過半数が撃たれた。三番の西上野の小幡一党も、待ち受けた鉄砲隊が馬防ぎのための柵で身を防ぎながら銃撃したため、多くの兵が撃たれて退却した。四番には武田信豊(のぶとよ)勢が攻めかかった。このように敵は入れ替わり攻撃してきたが、味方は大将級の兵はひとりも出ずに、ただ鉄砲隊を増強するだけで、あとは足軽であしらっている。(現代語訳)
・上の史料の内容が信頼できるとすれば、この合戦で織田・徳川方が勝った大きな原因の1つは、やはり鉄砲の大量使用と言ってよいでしょう。
○信長は大量の鉄砲をどこから手に入れたか?
断片的な史料から、信長は領内の武将の保有する鉄砲をかなり細かく把握していたと考えられています。また永禄12年(1569)ごろには直属の「鉄砲衆」という専門の集団を組織し、これだけでも500挺はありました。
(問7) 当時、日本国内で鉄砲製造の中心地は3カ所ありました。どこかわかりますか?
<ヒント> 近江、和泉、紀伊の各国にありました。
(問7の答へ)
(問8) このうち、信長が大量に注文したと考えられるのはどこでしょう?
<ヒント> 冒頭の年表を見て下さい。ここは商人の町として有名ですが…。
(問8の答へ)
○信長の財力を支えたものは?
(問9) 仮に信長が長篠の戦いに1000挺の鉄砲を用意したとします。これは現在のお金に換算していくらかかったと思いますか?
<ヒント>米価を基準に計算してみました。
(問9の答へ)
・信長は、こうしたばくだいな資金を(問8の答)の商人、今井宗久(そうきゅう)と結ぶことによって調達しました。宗久は吹屋(ふきや)という、おそらく鉄砲の鍛冶(かじ)職人たちを組織しており、信長は宗久を通じて鉄砲を大量発注することができたのです。
(問10) 鉄砲に必要な火薬の原料の1つ、硝石(しょうせき)は、ポルトガル船によって中国産のものが輸入されていました。その支払いのため、信長は今井宗久に、ある場所の開発(採掘)を命じました。それはどこでしょうか?
<ヒント>支払いのためですから、貴金属です。でも金ではありません。
(問10の答へ)
◎答と解説
〔問1〕
早合(はやごう)と呼ばれる、一発分の火薬と玉をセットにした筒を使えば、射撃の間隔は10秒程度になるということです。また仮に三段撃ちを行ったとしても、全く間断なく撃てる、というものではなく、実験でも10秒程度の間隔になったという報告もあります。そこで10秒で1回発砲可能としますと、条件でいくと武田方の騎兵は25秒、歩卒は50秒で織田・徳川方の馬防柵に到達します。したがってこの間に玉を受ける回数は、前者が2〜3回、後者が5回となります。答はイです。ただし現在この地域は水田や畑となっていますが、当時は湿地帯であったという説もあり、そうであれば武田方の進撃はもっと時間がかかったかもしれません。
(次へ)
〔問2〕
この『信長公記』の記述によると、戦闘は午前6時頃から午後2時まで、断続的かも知れませんが約6時間にわたって行われた後、武田方の退却となるのです。もし仮に鉄砲の三段撃ちにより壊滅的打撃を受けていたとしたら、これほどの時間武田方がもつわけがないことにお気づきでしょう。また、織田・武田方にしても、当時極めて貴重だった玉や火薬を、敵がいるいないにかかわらず(武田方の騎馬隊の突撃とはいっても、1集団は100〜200名程度)一斉射撃を繰り返すことで無駄に消費するとは到底考えられません。
(次へ)
〔問3〕
A)武田方が馬防柵を破り、織田陣地内に侵入したのでそこで火縄銃が発射された。 B)織田陣地内で使用されなかった玉が残された(柵が破られたかどうかは不明)。C)武田方の火縄銃が織田方に向かって撃たれた(織田方にばかり注意が向いてしまいますが、武田方も少数ながら鉄砲を所持していたことはほぼ間違いありません)、などの可能性が指摘できます。なお文献では「本多家武功聞書」に「本多忠勝の陣所へ武田軍の内藤昌豊の千五百人の部隊が攻めかかり、三重目の柵を乗り越え二十四人が押し込んだが、撃退した」とある他、江戸前期の幾つかの武家の先祖の武功の書上などに柵が破られた話がみえています。
(次へ)
〔問4〕
この2つの書状から、信長がこの戦いのために、細川藤孝をはじめとする各地の部将から鉄砲衆をかり集めたことが推定できます。藤孝の他、大和の筒井順慶も鉄砲衆50名余りを遣わしている事実が「多聞院日記」にみえています。そして鉄砲衆は、書状の日付からみて合戦の直前に戦場に到着し、終わるとすぐに本来の担当地域に戻っていることが確認できるのです。信長は、長篠の戦いのために各部将のもつ鉄砲衆のみを集めることで、戦力を効果的にアップさせるとともに、各地域へのマイナスを最小限にくい止めることに成功したと言えましょう。こうした鉄砲衆の寄せ集めには、三段撃ちを整然と行うための訓練をできるような時間も余裕もなかったはずです。
(次へ)
〔問5〕
鉄砲兵の隣の兵との間隔は1メートル強でしかありません。これだと当時の不発、暴発の多い鉄砲では危険が多く、また入れ替わった時にぶつかったりすると銃の調子が悪くなり、発射不可能となることもあると言います。整然と三段撃ちができたとは到底考えられません。
(次へ)
〔問6〕
鐘や太鼓、鉄砲の音、兵の喊声などものすごい轟音の戦場の中で、発砲を命ずる一斉の号令がどこまで届くでしょうか。
(次へ)
〔問7〕
和泉の堺、紀伊の根来(ねごろ)、近江の国友の3カ所です。
(次へ)
〔問8〕
このうち天正元年(1573)に浅井氏が滅亡した後、秀吉に領有させた近江国国友村の銃が使われた可能性も残りますが最も有力なのは永禄12年(1569)に服属させた堺です。元亀元年(1570)6月の姉川合戦の時、秀吉の指示で堺商人今井宗久は、良質の鉄砲薬と焔硝それぞれ30斤(18キロ)を調達している事実があります。国際貿易港堺は、国内外から集まる豊富な資源を利用しうる一大工業地帯でもありました。
(次へ)
〔問9〕
慶長年間の史料によりますと、6匁(もんめ)銃は米9石(1350キロ、今10キロ5000円として675000円、千挺で6億7500万円)。30匁銃は米40石(6000キロ、300万円、千挺で30億円)しました。この他、必要とした莫大な量の玉と火薬を加えれば、信長がこの合戦のために支出した費用が極めて大きなものであったこと(しかも当時の米の貴重さは、今とは比較にならなかったでしょう)は、容易に想像がつきます。
(次へ)
〔問10〕
答は但馬の生野銀山です。宗久は、まだ本格的な採掘が始まってまもないこの銀山に、「灰吹き法」と呼ばれる当時の最新技術を導入し、生産量を飛躍的に増大させることに成功しました。この頃日本の銀生産量は世界最大であり、このためポルトガルなど南蛮商人たちが豊かな物資を堺にもたらしました。
※これらの問題と答・解説は、有田和正『学級づくりと社会科授業の改造・高学年』(明治図書、1985年)、藤本正行『信長の戦国軍事学』(宝島社、1993年)、宇田川武久『鉄炮伝来』(中公新書、1990年)、高柳光壽『新書戦国戦記6長篠の戦』(春秋社、1978年)、窪田蔵郎『鉄の考古学』(雄山閣、1973年)、NHK歴史誕生取材班『歴史誕生』(角川書店、1989年)、「歴史と旅」1982年3月号(秋田書店)、「歴史読本」1975年6月号(新人物往来社)、『朝日百科日本の歴史別冊 歴史を読み直す15 城と合戦』(朝日新聞社、1993年)などをもとに作成しました。
◎このテーマは、加筆・修正して拙著『疑問に迫る日本の歴史』(ベレ出版、2017年)に掲載しました。
<日本史メニューへ>