○テレビでおなじみの水戸黄門こと徳川光圀(みつくに)。しかし、その実像は、意外と知られていません。
○黄門様は、本当に諸国を漫遊したのか?
(問1)実際に光圀が行った、最も遠いところはどこだと思いますか?(水戸から)
ア 江戸 イ 熱海 ウ 駿府(今の静岡市) エ 大坂
(問1の答ヘ)
(問2)お供の「助さん、格さん」には佐々木助三郎、安積覚兵衛という実在のモデルがいました。さて、この2人はどんな役職の人物だったでしょうか?
ア 水戸家の家老 イ 商人 ウ 学者 エ 兵法者
(問2の答へ)
○なぜ「黄門様」と呼ばれたか?
上の略年譜にあるように、光圀は徳川御三家のひとつ、水戸藩の2代目藩主です。水戸藩は、尾張藩・紀伊藩よりは少し家格が低く、朝廷からもらう位も権中納言どまりでした。中納言の中国風の呼び方が「黄門」でした。
(問3)光圀は30年間水戸藩主をつとめています。このうち、実際に水戸にいて藩政をみたのは何年くらいだと思いますか?
(問3の答へ)
○御三家の位置づけ
御三家は、将軍家に跡継ぎがいない時に将軍を出せる資格がありました。
(問4)実際に徳川将軍15人の中で、御三家出身で将軍になった人は何人いると思いますか?
(問4の答へ)
光圀は4代家綱、5代綱吉に仕えました。ともに光圀にとっては従兄弟の子供たちにあたります。当然の事ながら将軍と御三家当主との血縁関係は、時代が下るにつれて希薄なものとなり、したがって将軍をもりたてようとする熱意も、一般的に言ってなくなっていきました。
○藩主光圀の業績
@幕府に先んじて「殉死」の風習を禁止した。
A領内の寺社の整理を行った。
B藩組織の刷新
C倹約の励行
D産業の奨励
E藩役人の不当な農民支配を断罪(この辺がテレビでの黄門様らしい!)
〜光圀は政治にあたり、物事の筋道、道理にかなうことを重視し、将軍の跡継ぎ問題にもその点から主張を述べ、思惑のある勢力と対立しました。
○生類憐れみの令を守らなかった光圀
光圀は仲間の大名にあてた手紙の中で「ひそかに狩りをやった、ばれれば大変、つかまってしまうと思うとおかしくてならない」などと書き送っています。
(問5)家来の記録によれば、ある時光圀は老中に向かって「上様(綱吉のこと)が生類を憐れみなさるのは、人間を憐れまれるの余り、人間以外の生き物にまでそのお心を及ぼされる、ということであろう。では…」と続けたという。さてこの後、何と言って、悪いことをして江戸の水戸藩邸にまぎれこんでいた犬を殺してしまったことを正当化したでしょう?
<ヒント>綱吉は罪を犯した人間を当然処罰していました。そこを光圀は利用したのです。
(問5の答へ)
○黄門様が幕府を倒した??
・『大日本史』の編纂
若い頃(15〜17歳)大変な遊び人だった光圀は、18歳の時『史記〜伯夷伝』に出会ったことで、別人のように読書と学問にうちこむようになりました。そしてやがて日本の歴史を新しい視点でとらえようという大きな望みを抱き、『大日本史』編纂の大事業にとりかかります。
(問6)この『大日本史』は、完成まで何年かかったと思いますか?
ア 20年 イ 50年 ウ 100年 エ 250年
(問6の答へ)
・水戸学の成立
この『大日本史』編纂の過程で、儒学を中心に国学・神道などを総合した、いわゆる水戸学が成立しました。前期水戸学は光圀を中心に歴史の大義名分を求め、皇室を尊敬すべきことを説いたものでした。後期水戸学は、幕末の藩主水戸斉昭に保護され、熱烈な尊皇攘夷論となって展開しました。したがって前期のそれとはだいぶ異なるものですが、後期水戸学の人々は、自分たちの主張の根源を光圀の思想に求めたのです。
○「水戸黄門漫遊記」はいつごろできたのか?
元禄3年(1690)、光圀は藩主を辞して西山荘に隠居します。それから死ぬまでの11年間、領内を廻って民衆と交流したりします。この時のいろいろなエピソードがとりこまれたりして、幕末(19世紀半ば)に「漫遊記」は成立したようです。
(問7)その際、話の筋としてモデルにされた江戸後期の有名なお話しがあります。それは何でしょうか?
<ヒント>楽しい旅の話と言えば…
(問7の答へ)
◎答と解説
(問1)答はイで、少年時代に父頼貞と行った熱海(貝拾いなどをした)です。光圀が大がかりな諸国漫遊の旅に出た事実はもちろんまったくありませんが、藩主として水戸と江戸を往復したり、将軍の供として日光東照宮に何度か行ったり、祖母英勝院の菩提寺のある鎌倉には何度か赴いています。
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(問2)答はウで、2人とも彰考館の総裁をつとめた儒学者です。このうち佐々木介三郎(宗淳)は、光圀の命により畿内から中国・九州にまで史書探訪の旅に出ているので、その活動が漫遊記に採り入れられたのかもしれません。
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(問3)答は約90ヵ月、年にして約8年間となります。水戸藩は御三家のうち、定府の制(江戸常住の任務)を定められた唯一の藩であるため、他の大名以上に藩に戻って政治をみる機会が少なかったのです。回数は11回であり、1回の滞在は長くて1年半、短いと2ヶ月間といった具合でした。
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(問4)尾張家は0、紀伊家は8代吉宗と14代家茂の2人、水戸家は一応0ですが、15代一橋慶喜は水戸斉昭の子ですから実質的には1人最後に出たことになります。したがって慶喜を入れても15人中3人ということで、御三家とは言っても実際に将軍を出すことはほとんどなかったとも言えます。特に水戸家は、他の2家より明らかに格下で、一種のコンプレックスを持っていましたが、それに対する裏返しとしての「天下の副将軍」(もちろん正式な官職ではありません)という自負がありました。
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(問5)「その人間にさえ、過ちがあるときには御処罰なさるのだから、いわんや生類の罪有る者を殺さないでどういたしましょうか?」と述べたそうです。光圀がこの天下の悪法に抵抗し続けたことはよく知られていますが、さりとてこの法を実際にどうにかしよう、という政治力はありませんでした。特に綱吉の治世下においては、光圀は完全に野党化した存在になっていました。
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(問6)答はエの250年です。全397巻(ちなみに幕府の正史『本朝通鑑』は278巻)が完成したのは、実に明治39年(1906)のことでした。光圀は10代後半、大変な遊び人でしたが、正保2年(1645)に『史記〜伯夷伝』を読んで大いに感奮しそれまでの生活を改め、学問に親しむようになったといいます。1冊の本との出会いは、きっかけの1つにすぎないでしょうが、この時期に光圀の心境に重大な変化があったことは事実のようです。
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(問7)嘉永2年(1849)に死んだある講釈師が、当時大流行していた十返舎一九の滑稽本『東海道中膝栗毛』にならって例の話の筋を考案したのが『漫遊記』の始まりだといいます。また、助さん格さんがお供をする(それ以前はお供は俳人という設定でした)という筋立ては、さらに下って明治20年代に大阪の講談界から生み出されたもののようです。光圀は西山荘に隠居後、領内を廻って民衆と接したといいますから、この話が全国的なものとされてしまったらしいのです。そしてその死後、江戸期の民衆の間に、水戸といえば「黄門様の国」という理想化された話が広まりました。特に水戸からはるかに離れた遠国の人々にまで広まっていったのは、江戸後期の大旅行ブーム(温泉湯治、巡礼)などが関係しているのではないかと考えられています。
※以上の問題と答、解説は『日本史探訪』第3集(角川書店、1972年)、野口武彦『徳川光圀』(朝日新聞社、1976年)をもとに作成しました。
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