天皇になろうとした(?)足利義満

○近年、足利義満は天皇家を乗っ取ろうとしていた、という説が発表され注目されました。歴代の武士の最高権力者と室町幕府3代将軍足利義満は、どのような点に違いがみられるのか、検討していきましょう。

                       <足利義満関係年表>

    年                で     き    ご    と
延文 3(1358) @2代将軍義詮(よしあきら)の子として生まれる。
康安 1(1361) K南朝軍京都を攻め、義詮は近江に、義満は播磨に逃走。
貞治 2(1363) 大内氏・山名氏、幕府に従う。
応安 1(1368) C元服。K将軍となる。
永徳 2(1382) @左大臣。朝廷に摂関家と同格の扱いを求める。
永徳 3(1383) E准三后。このころ公家のほとんどが義満に従う。
嘉慶 2(1388) H駿河へ行き、富士山を見る。
康応 1(1389) B安芸厳島神社を参詣。
明徳 3(1392) I南北朝の合一。
応永 1(1394) K将軍を辞め、太政大臣となる。
応永 2(1395) E太政大臣を辞め、出家する。朝廷に上皇並の扱いを求める。
天皇家の官職・僧職任命権を握る。
応永 5(1398) 天皇の継承にも干渉し始める。
応永 6(1399) K応永の乱で大内義弘を滅ぼす。
応永 8(1401) D日明貿易を始める。
応永 9(1402) それまで天皇家が行っていた宗教行事を北山第にて行う。
応永12(1405) 義満の朝廷への出仕が天皇の行幸と同格とみなされる。
応永13(1406) K義満の妻日野康子、天皇の准母となる(義満は准上皇)。
応永15(1408) B後小松天皇、北山第に行幸。義満、子の義嗣(よしつぐ)を伴いこれを出迎える。
C義嗣、内裏(だいり、天皇の住む宮殿)で元服。D義満没す。

注)表中の○数字は月を意味します。

1)少年時代のエピソード
南朝軍の攻撃を避けて播磨に逃げ、翌年に京都に帰る途中、義満は兵庫の琵琶塚あたりの美しい景色が非常に気に入りました。
(問1)このとき義満は、回りの家臣たちに向かって「おまえたち、この地…せよ。」と命じたそうです。豪快な性格がうかがえるその内容とはどのようなものだったでしょうか?

                               (問1の答へ)

2)異例のスピード出世〜公家をも従わせる
年表にもあるように、永徳3年(1383)准三后になったころ、ある公家はその日記に「近頃の左大臣(義満)に対する公家たちのふるまいは、まるで本当の主君と家来の関係のようだ。」と記しています。
(問2)実は義満の系図をさかのぼっていくと、6代前には大変な有名人物になります。それは次のうち誰だと思いますか?
 ア 北条義時    イ 後鳥羽上皇    ウ 平 清盛     エ 源 頼朝

                               
(問2の答へ)

3)物見遊山のもう1つの理由は?
(問3)富士山見物や、厳島神社参詣は、単に義満が遊びに出かけたという以外に、ある重要な目的がありましたが、それは何でしょうか?
<ヒント>富士山の東側は?そして年表応永6年(1399)の記事に注目。

                               (問3の答へ)

4)義満は公家になった??
応永1年(1394)、義満は将軍を辞め、太政大臣になっています。これを見ると、義満は武家をやめ、完全に公家になってしまったかのようです。
(問4)確かに出家後の義満の画像(著作権の関係で掲載できません)を見ると、そのようにも思えますが、しかし1カ所だけ武士にはなくてはならないものが描かれているのです。それは何でしょうか?
<ヒント>義満の顔に注目。武士の最も大切な「仕事」の時に必要なものです。

                               
(問4の答へ)

5)日明外交のもう1つのねらい
応永10年(1403)2月、義満は明の第3代皇帝永楽帝に対して出した手紙の中で「日本国王臣源申し上げます…」と書いています。
(問5)なぜこのようなへりくだった表現を用いたのでしょうか?
<ヒント>ことわざ「虎の威を借る〜」
 
                               (問5の答へ)

6)北山第は隠居所ではなかった
足利義満というと、誰でも金閣寺のことを思い浮かべます。でも金閣寺は、実は北山第の一部にすぎません。ここには、創建当時、舎利殿(いわゆる金閣)の他に、護摩堂・紫宸殿(ししんでん)・公卿の間・天鏡間・泉殿・懺法堂(せんぽうどう)・看雲堂・法水院(はすいん)等の建物が配置された「極楽にも匹敵するような」建物群がたち並び、義満はここで政務をとっていたのです。
(問6)この金閣寺のつくりは、1・2階が寝殿造り、3階が禅宗様式となっています。これは、義満の政治の理想の姿をうつしだしたものといわれていますが、それはどのようなものでしょうか?

                              (問6の答へ)

7)義満は本当に天皇になろうとしていたのか??
(問7)義満の画像と天皇の画像には、ある共通点が見られます。それは何かわかりますか?
<ヒント>服装ではありません。

                              (問7の答へ)

◎答と解説
(問1)「翰林葫蘆文集」原文では、「汝等この地を舁(か)きて京都に至るべし」となっています。「この地をそっくりそのまま京都に持って行け」という意味でしょうか。家臣たちはその大言に驚いたと伝えられます。生まれながらの支配者だったのですね。

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(問2)答はイ、すなわち後鳥羽上皇です。義満の母は紀良子、その良子の母の4代前は、後鳥羽上皇となるのです。義満の代の天皇後円融と義満とはまぎれもない、従兄弟どうしでした。つまり義満は、幼少時から天皇家との同族意識を持っていて、天皇や公卿に対するコンプレックスはなかったと考えられます。このことは、義満の対天皇家政策を考える上で無視できません。

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(問3)それぞれ対抗勢力に対する示威行為とみることができます。駿河の先には関東があり、ここには一族の足利氏満が2代目の鎌倉公方として自立志向をもっていました。現に康暦政変(康暦元年、1379、細川頼之が斯波義将など反対派により失脚)の際、挙兵・上洛を企てました。また厳島神社参詣は、西国の大名大内氏と九州探題今川了俊を牽制する目的であったと考えられています。まだまだ義満の支配が盤石なものとはいいがたかったようです。

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(問4)これは顎髭です。合戦で甲をかぶるとき、ここでひもをきちっと結べば、安定したわけです。ひげはみてくれだけではなく、武士にとっては実際に必要なものだったのですね。

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(問5)これは今まで、義満の屈辱外交ととらえられてきました。事実、当時の廷臣たちにとってもこれは大きな衝撃を与えたようですし、4代将軍義持が日明外交を行わなかったことも、このことが大きな原因とされています。しかし、そうしたことは他ならぬ義満自身が誰よりも知っていたはずですから、それでもなお彼がこのような表現をとらせたのかを考えなければなりません。新説では、これは明帝には服従するが、日本の天皇には絶対従わない、という決意表明であり、天皇家簒奪の意思を国内向けに示したもの、ととらえています。

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(問6)つまり、公家・武家のさらに上に立った政治を目指していたことを示すもの、とされています。この広大な建物群北山第を、義満は法皇の住む仙洞御所を強く意識してつくらせたものと考えられています。

                                
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(問7)いずれも、座っている畳の縁が「繧繝縁(うんげんべり)」という、天皇や上皇など最高の身分の者のみが使用できるものである点が共通しています。ここからも、義満が決して天皇の下に位置しようとはしなかった意思のようなものが感じられます。実際、応永15年(1408)3月に後小松天皇が北山第に行幸した際、義満は天皇と同じ繧繝縁の畳の上で対面したといいます。

※これらの問題と答、解説は、今谷明『室町の王権ー足利義満の王権簒奪計画』(中公新書、1990年)、『人物叢書足利義満』(吉川弘文館、1960年)、佐藤進一『足利義満ー中世王権への挑戦ー』(平凡社、1994年)、加藤公明『わくわく論争!考える日本史授業』(地歴社、1991年)などをもとに作成しました。天皇家簒奪という斬新な考え方は今谷説によるものですが、これに対する批判もあることを申し添えておきます。

                          
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