年 | で き ご と |
1842 | 英、アヘン戦争で中国(清王朝)に勝利、香港を獲得。 |
(米、大陸東岸中心に綿工業さかん) | |
1844 | 米・仏、中国において英と同じ権利を獲得。 |
1845 | 米、テキサス併合。 |
1846 | 米、オレゴン併合。 |
1846 | 米、メキシコとの戦争に勝ち、カリフォルニアを獲得。同地にゴールドラッシュ起こる。 (このころインドで対英戦争続く) |
1851 | 中国で太平天国の乱起こる(〜1864)。 |
1853 | ペリー、浦賀に来航。 |
1854 | クリミア戦争起こる(〜1856)。<英・仏・トルコ対ロシア> ペリー、再来航。日米和親条約結ばれる。 |
1857 | インドでセポイの乱起こる(〜1858) |
○なぜイギリスでなくアメリカなのか?
19世紀後半、世界で最も力があり、世界中に植民地を持っていたのはイギリスでした。アメリカはそのイギリスから独立して100年も経っていない新興国でした。
(問い1)では、なぜ日本に開国を迫ったのがイギリスではなかったのか、上の年表から理由を考えてください。
<ヒント>ペリーが日本に来たころ、イギリスの対外関係はどのような状況でしょう?
(問1の答へ)
○アメリカの東アジアへの関心の高まり
もともと北米東岸に建国したアメリカの関心は、もっぱらヨーロッパ(大西洋)側に向けられていました。
(問2)それが、次第に東アジア(太平洋)側に関心が移ってきました。そのきっかけを再び年表中から探してください。
(問2の答へ)
○さかんだったアメリカ捕鯨業
19世紀前半から、アメリカでは捕鯨業がさかんに行われるようになり、日本近海でも操業するようになりました。鯨は食用ではなく、各種の油・良質のろうそく・軟膏(なんこう)などの薬などに用いられました。
(問3)この他、鯨の骨を組み合わせて、ある商品をつくりました。さて、それは何だと思いますか?
<ヒント>当時の女性がとても必要とするものでした。今の女性はこんなもの使ってません。
(問3の答へ)
(問4)この各種の油が、アメリカ国内で大変需要が多かったのですが、それはなぜでしょうか、上の年表を見て答えてください。 年表へ
(問4の答へ)
○ペリーはどんな船に乗ってきたか?
(作業)ペリーが1853年に日本に初めてやって来た時に乗っていた船、どんな形か描いてみてください。
(船の正しい形は?)
(問5)当時、サンフランシスコ〜(太平洋横断)〜上海という航路で、最も速い船で行ってどれくらいの日数がかかったと思いますか?
ア)1週間 イ)3週間 ウ)8週間 エ)20週間
(問5の答へ)
(問6)ペリーは、日本(幕府)との交渉にあたって、どのような態度をとって成功したか、次から選んでください。
ア)幕府の下級役人から順に上へ取り次いでもらい、ていねいな態度で臨んだ。
イ)いきなり艦砲射撃を行い、陸戦隊もあげて臨戦態勢で臨んだ。
ウ)幕府の下級役人にはいっさい会わず、最高責任者にだけ会って強い態度で臨んだ。
エ)決まった方針はなく、その場その場で態度を変えて臨んだ。
(問6の答へ)
(問7)ペリーは第1回来航の時、なぜ「たった4隻」で来たのでしょうか?
<ヒント>問6の答及び上の年表の1844年・1851年の記事に注目。 年表へ
(問7の答へ)
(問8)ペリーは第1回来航の時、次のうちどの航路で日本にやって来たのでしょうか?
ア)米東岸プリマス→大西洋を南下、南米大陸を回ってハワイ経由で
イ)米東岸プリマス→大西洋を東進→アフリカを回ってインド→東南アジア・小笠原経由で
ウ)米東岸プリマス→北米と南米の間を通って太平洋へ→フィリピン→小笠原経由で
(問8の答へ)
◎答と解説
(問1)イギリスは当時、世界最大の植民地を有する帝国でしたが、それだけにまた抱えている問題も多かったのです。特に1851年には中国で太平天国の乱が起き、またヨーロッパ方面では1854年に起こったクリミア戦争にも対処しなければならず、さらに1857年にはインドでセポイの乱が起こり、日本への関心はなくはありませんでしたが、当時そこまでの余裕はなかったのです。
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(問2)当時アメリカは西部開拓の真っ最中であり、1845年にはテキサス、46年にはオレゴンを併合、また48年には米墨戦争に勝ち、メキシコからカリフォルニアを獲得しました。これによって、領土は太平洋岸に達したわけで、当然次の関心はその海の先の地域となります。
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(問3)女性のスカートの内側につけてふくらませるための腰当て(bustles)でした。
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(問4)年表中に、「米、大陸東岸中心に綿工業さかん」とあります。当時、目当てにしていたのは抹香鯨と背美鯨であり、前者のスパーム・オイルからは紡織用のスピンドル油をはじめ、その他各種機械類の潤滑油を抽出・精製することができました。すなわち、捕鯨はアメリカ産業革命にとって欠くべからざるものだったのです。
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(作業)
上がペリー艦隊の旗艦サスクェハナ号のイラストです。真ん中にある輪が蒸気で動く外輪です。2450トン、1850年竣工の当時世界最大の蒸気軍艦でした。この当時イギリス海軍ですらその大型艦にはまだ帆船が多かったのです。
いわゆる黒船は、蒸気船であることはご存じでしょう。ですから、それらしい形は描かれたことと思います。しかし、帆を描くことができましたか?(3本マスト)
実は、燃料である石炭は、せいぜい1週間分くらいしか積めませんでした。それ以上積むと、積み荷の方を減らさなければならなくなるからです。そのため近くに都合のいい給炭地がない場合、帆走しなければなりません。日本を開国させようとした理由の1つが、この給炭地の確保であった、といわれるゆえんです。
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(問5)答はイの3週間でした。当時、汽船建造に関しては、アメリカは、イギリスを抜いており(そういえば初めて蒸気船を試作したのはフルトンというアメリカ人でした)、サスクェハナ号2450トンは20日間の連続航海が可能でした。この間時速18ノットが維持できれば、9600マイルの航海ができました。この距離は、アメリカ東岸からインドのカルカッタにまで及びます。したがって、机上の計算ではありますが、上海までは20日から30日あれば行けることになります。
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(問6)答はウの「幕府の下級役人にはいっさい会わず、最高責任者にだけ会って強い態度で臨んだ。」です。イの「いきなり艦砲射撃を行い、陸戦隊もあげて臨戦態勢で臨んだ。」ではないことに注目してください。つまり、黒船で来航したわけですが、ペリーは極めて高度な政治的規律と高い文明をもつ日本に対し、いきなり威嚇的な手段にでれば、必ず反発と抵抗にあうことを知っていました。
そこで海上ではともかく、いったん上陸して陸戦となれば、連れてきている兵数にも限りがあるし、必ず負けてしまいます(そもそも宣戦布告の権限はペリーにはなく、上院議会がもっていたのであり、ぺりー出港時の大統領フィルモアは議会に対して極めて慎重な人で、ペリーに対しては「発砲禁止、もっぱら交渉によること」を厳命していました)。かといって弘化3年(1846)にやって来たビッドルのように、幕府の下級役人に接触しても、らちがあかないと考えたペリーは、礼儀を保ちながらも責任ある立場の者を交渉の場へ引きずり出すことに成功したのです。
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(問7)問6の答のところで説明しましたように、もともと実戦を行うつもりがなかった、というのが一応の答ですが、それでも当初ペリーは12隻で日本に向かうはずでした。しかし修理中などでそれもかなわず、さらに香港で中国情勢に対応するため(太平天国の乱の最中)「プリマス号」を残し、結局4隻になったのです。ちなみに、1842年頃のイギリス海軍中国方面隊が23隻であるのに対し、アメリカ東インド艦隊はたった2隻にすぎませんでした。アメリカ商人もわずかながら中国に居留していたので、その保護を目的に艦隊が設置されていたのです。
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(問8)答はイの「米東岸プリマス→大西洋を東進→アフリカを回ってインド→東南アジア・小笠原経由で」でした。太平洋から来たと思っている方もおられるのではないでしょうか?ペリーはイギリスの支配権を利用し(当時イギリスは経済政策を自由主義に転換しており、アメリカの日本進出に対して「さしたる援助もしないが、妨害もしない」程度の対応をとっていました)東回りでアジアに到達、上海・香港を経て日本に来たのです。
※これらの問題と答・解説は、曽村保信『ペリーは、なぜ日本に来たか』(新潮選書、1987年)、加藤祐三『黒船前後の世界』(岩波書店、1985年)、田中彰『日本の歴史15開国と倒幕』(集英社、1992年)、大江志乃夫『ペリー艦隊大航海記』(朝日文庫、2000年)などをもとに作成しました。
◎このテーマは、加筆・修正して拙著『疑問に迫る日本の歴史』(ベレ出版、2017年)に掲載しました。
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