○聖徳太子は、その神秘的な出生、幼い頃からの天才ぶり、悲運の死などもあって、今でも多くの人々に高い関
心を持たれている偉人と言えましょう。天皇中心の政治体制を確立しようとして蘇我氏と対立したというのは本当
か、また最大の疑問、なぜ天皇になれなかったのか、などについて史料を吟味しながら考えていきましょう。
1)出生にまつわる不思議は何を意味するか?
聖徳太子は厩戸皇子(うまやとのみこ)とも呼ばれていました。この名前の由来について、次のような話が残され
ています。
@『日本書紀』(720年成立)
穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)は身重のからだで宮中を見回っていたが、馬官(うまのつか
さ)に至ったとき、厩の戸に当たって苦しまずに皇子を産み落とした。
A『上宮聖徳法王帝説』(平安中期成立、法隆寺伝来の史料を用いている)
穴穂部間人皇女は、厩の戸をまたいだときに、急に皇子を産んだ。
(問1)両書の内容は似てはいますが、微妙に異なっています。このことは何を意味しているでしょうか?
<ヒント>いずれも高い価値をもつ史料です。それが微妙に異なっているということは…
(問1の答へ)
(問2)厩(=馬屋)で生まれたというのは、ある有名な西洋の人物の誕生の話と一致します。それは誰
でしょうか?
(問2の答へ)
2)蘇我氏との関係
・蘇我氏とは?
近年、「馬子の父、稲目より以前の系譜(建内宿禰ー満智ー韓ー高麗<馬背>)が不明」「馬子の母は葛城
氏という大王<おおきみ>家の姻族の家出身であった」「稲目の2人の娘が欽明天皇の后<きさき>にな
っている」などの事実が重視されるようになりました。
(問3)これらのことから、後に蘇我馬子の子、蝦夷(えみし)が王権を奪おうとしたという解釈は誤って
いたことがわかります。それはなぜでしょうか?
<ヒント>蘇我氏と大王家との関係は、かつての葛城氏と大王家との場合と同じように、単なる王とそれに従う一
豪族ということでは説明できません。ということは…
(問3の答へ)
・外交方針で対立していたのか?
聖徳太子関係年表
年 | で き ご と |
573(敏達 3) 585(同 14) 587(用明 2) 592(崇峻 5) 593(推古 1) 600(推古 8) 601(推古 9) 603(推古11) 604(推古12) 605(推古13) 607(推古15) 618(推古26) 622(推古30) 623(推古31) |
聖徳太子生まれる 敏達天皇逝去。太子の父用明天皇即位。 用明天皇逝去。蘇我馬子、皇位ねらう太子の叔父穴穂部皇子を殺害。ついで 物部氏を討つ(太子ら諸皇子これに参戦)。太子の叔父崇峻天皇即位。 蘇我馬子、崇峻天皇を暗殺。太子の叔母推古天皇即位。 太子、推古天皇の摂政となる(?)<20歳> 倭、新羅に出兵、隋に使いを送る。 太子、斑鳩(いかるが)宮の造営に着手<28歳> 太子の異母兄当麻皇子(たぎまのみこ)、撃新羅将軍に任命される。冠位十二階制定。 太子、十七条憲法制定<31歳> 斑鳩宮完成。太子、ここにうつる。 小野妹子を隋に派遣。この頃斑鳩寺(法隆寺)完成か。 隋、高句麗遠征の失敗などにより滅亡、唐が成立。 太子、斑鳩宮で逝去<49歳> 倭、新羅遠征。 |
・上の年表を見ると、600年(推古8年)以降、聖徳太子の亡くなった次の年623年(推古31年)まで、倭国は
新羅に出兵せず、一方この間数回にわたり遣隋使が派遣されていました(607年、608年、610年、614年)。
このことから、蘇我馬子=親高句麗・百済派、太子=親隋・新羅派という、外交方針をめぐり対立していたとする
説がありました。
(問4)しかしこの説には疑問があります。その理由を上の年表のある記事に注目して答えてください。
(問4の答へ)
(問5)もう1つ、623年になって再び倭国が新羅に出兵せざるをえなくなった事情が国外で起きています。
それは何でしょうか、これも上の年表からさがしてください。
<ヒント>当時倭は、朝鮮半島南端部に利権をもっていました。<年表へ>
(問5の答へ)
3)聖徳太子はなぜ天皇になれなかったのか?
(問6)太子は推古天皇が即位した翌593年、摂政となったとされています。この年と、いわゆる聖徳太子
の政策と呼ばれるものが始まる時期とを考えあわせて気がつくことは何でしょうか?<年表へ>
(問6の答へ)
(問7)もう1つ、太子の政策が始まった時期と一致して、太子に関わるあるものが造られ始めました。
それは何でしょうか、やはり上の年表からさがしてください。
(問7の答へ)
(問8)聖徳太子という名前から思い浮かぶ摂政とは別の政治的立場は何でしょうか?
(問8の答へ)
・崇峻天皇の暗殺(592年、崇峻5年)直後に太子が即位しなかった理由については、さまざまな説があります。
例えば推古天皇が自らの子、竹田皇子(早世)を天皇に即位させたかったためにこれを阻止したからだ、など
という考え方が代表的でした。
・しかし、当時の皇位継承は、血統のみでなく、世代、年齢それから天皇としての器量などが勘案されて決定さ
れたと考えられます。
(問9)下の図を見て、崇峻天皇の後の有力な天皇(大王)候補者を3人挙げてください。
<欽明の子> <欽明の孫>
敏達@ーーーーー 押坂彦人大兄(おしさかのひこひとのおおえ)
竹田
用明Aーーーーー 厩戸(聖徳太子)
穴穂部
崇峻B
推古C ※○番号は即位順
<ヒント>結果としての事実にとらわれないでください。
(問9の答へ)
(問10)もしこれらの3人が皇位継承のための諸条件がほぼ同じだとしたら、起こりうる心配なこととは何
でしょうか。
<ヒント>これには当然、豪族勢力の思惑などもからんできます。
(問10の答へ)
◎答と解説
(問1)「厩戸」という名前の意味について、少なくとも『日本書紀』編纂の時点では定まった解釈がなかった、もっ
と言えば忘れられていた、ということが考えられます。したがって、この生誕にまつわる話そのものが疑わしい
こととなり、もう1つの呼び名「豊聡耳(とよさとみみ)」に関わる「1度に10人の話を聞くことができた」たぐいの話
も同様の事情である可能性が高くなります。なお、鎌倉前期の奈良県金峰山寺(きんぷせんじ)鐘銘によれば、
大和国葛上(かづらきかみ)郡に「馬屋戸」という字名があったようです。この地名がそれ以前のいつまで遡りう
るのかは不明ですが、葛上郡は蘇我氏発祥の地とされる葛城地方の南部にあたること、太子の両親が蘇我氏
の血を引いていることから考えて、太子の名前との関連が推測されるところではあります。
(次へ)
(問2)これはもちろん、イエス=キリストです。つまり編纂者は、キリスト教の中身を知っていて、それを太子の
生誕話に用いたということになります。笑止な話にも思えますが、この当時の中国・唐には景教と呼ばれるネス
トリウス派のキリスト教が伝来していましたから、それを通じて知っていた可能性も、必ずしも否定はできないと
のことです。
(次へ)
(問3)蘇我氏はもともと大王家の「ミウチ」として王家を補完する(かつては葛城氏がその役目を果たしていま
した)要素が本質で、それゆえ王権を奪うと言うことは、イコール自己否定につながってしまうからです。
(次へ)
(問4)603年(推古11年)に、太子の異母兄当麻皇子が撃新羅将軍に任命されています。これは結果としては
実現しませんでしたが、1度はこの人事が決定していると言うことは、当然一族の太子も承認していたはずです。
したがって、必ずしも太子を親新羅派とみなすことはできないわけです。
(次へ)
(問5)太子は隋に使いを送って対等外交をめざし、「対等」である隋の権威によって新羅を倭に従属させることが
可能でした。ところが618年、その隋が滅亡したため、倭は再び自力で南朝鮮(加耶<かや>地方)からの貢納
を新羅に強制させなければならなくなりました。したがって、太子がもう少し長生きしていても、新羅討伐は行わ
れていたと考えられます。
(次へ)
(問6)603年(推古11年)から太子の主要政策とされるものがあらわれますから、摂政就任とされる年とは10年
もの間隔があいています。これはどうも不自然です。したがってこの摂政就任という記事も信憑性に欠けたものと
言えましょう。そもそも摂政などと言う地位が、この時代に確立していたとは考えられません。
(次へ)
(問7)斑鳩宮造営です。これは、執政の王族にふさわしい宮殿を営む必要性が生じたからと考えられ、その意味
でも太子が政治の表舞台に登場した時期は、あらためて考え直される必要がありそうです。
(次へ)
(問8)唯一の皇位継承者である、皇太子の地位です。しかし、この制度もこの時代には存在せず、成立したのは
文武天皇(697〜707年在位)の時からとされています。
(次へ)
(問9)世代から言って、押坂彦人大兄、竹田、そして厩戸の3人です。
(次へ)
(問10)もし彼ら3人のうち誰か1人を特定すると、それぞれを支持する豪族を巻き込み、果てしない紛争に発展
するおそれがあります。これを凍結・保留するために敏達の前大后額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)が即位
したと考えられます。その結果、推古天皇の後は、この3人はついに誰も即位できず、次に即位したのは1世代後
の押坂の子であるタムラ、すなわち舒明天皇になってしまうのです。
結局、太子が即位できなかったのは、もちろん十分なる資格はありました(世代、血統的には問題なし!)が、周
囲の妨害のためではなく、崇峻暗殺後の時点で、他の同世代の候補者を圧するほどの資格がなかった、特に年
齢的に大王となるには若すぎた(19歳)ためと考えられ、またこの当時、皇位の生前譲与のシステムがなかった
ことも大きく関係していたものと思われます。
※これらの問題と答、解説は、遠藤美都男『聖徳太子未完の大王』(NHK出版、1997年)、同『聖徳太
子はなぜ天皇になれなかったか』(角川ソフィア文庫、2000年)などをもとに作成しました。なお、古代史
専門家の方のご教示によれば遠藤氏の所説は、学界全体の動向の中ではやや突出したものでありなが
らも、学問的方法に裏打ちされていることも事実であるため、静観されている、とのことです。
◎このテーマは、加筆・修正して拙著『疑問に迫る日本の歴史』(ベレ出版、2017年)に掲載しました。
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