頼朝と東国御家人の関係

☆次の2点の史料は、いずれも頼朝が下野(今の栃木県)の有力御家人小山朝政(ともまさ)に地頭職を与える
  という内容のものです。


    @将軍家政所下  下野国日向野郷住人
        補任地頭職事
          左衛門尉藤原朝政
      右、寿永二年八月  日御下文云、以件
      人補任彼職者、令依仰成賜政所
      下文之状如件、以下、
        建久三年九月十二日 案主藤原(花押)
      令民部少丞藤原(花押)  知家事中原(花押)
      別当前因幡守中原朝臣(花押)
        前下総守源朝家臣

    A        (頼朝花押)
      下  下野国左衛門尉朝政
       可早任政所下文旨領掌所々地頭
        職事
      右、件所々所成賜政所下文也、
      任其状可領掌之状如件、
         建久三年九月十二日


(問1)上の2点の史料をみて、気がつくことは何ですか?

                               (問1の答へ)

(問2)では、なぜこのような内容の文書を2点、小山氏あてに出したのか、想像できますか?

                               (問2の答へ)

☆実は『吾妻鏡』建久3年(1192)8月5日条に次のような記述があります。

 
千葉常胤(下総<今の千葉県北部>の有力御家人、小山氏らとともに頼朝の挙兵に従う)は、地頭職任命書
 をもらった。しかし、頼朝が公卿になる前は、頼朝自身の署名入りの任命書だったが、政所がおかれた後は、
 その任命書を回収して、あらためて政所発行の任命書を与えた。常胤は「政所発行の任命書は政所の職員の
 署名で、後々の証拠になしがたい。私の分については、これとは別にjこれまでどおりの頼朝殿の署名入りの
 任命書をいただき、子々孫々まで受け継いでいきたい」と訴えた。頼朝はこれを聞き、「常胤の望みどおりに
 せよ」と命じたということだ。

(問3)常胤は、単に後々の証拠能力が高いから頼朝署名の方の任命書を欲しかっただけなのでしょうか、
    彼の気持ちを想像して下さい。

<ヒント>常胤と挙兵直後の頼朝の関係を思い起こして下さい。

                               
(問3の答へ)

(問4)頼朝はなぜこの千葉氏や小山氏のわがままな要求を受け入れたのでしょうか。

                               
(問4の答へ)

◎答と解説
(問1)日付が同じです。そして、Aの本文中にある「政所下文」が@を指すことは間違いありません。ただ、Aには
「件所々」とありますから、@以外にも何通か具体的な地名入りの地頭職任命書が出されていた可能性はありま
す。そして、
Aは@と異なり、一番最初(文書では袖<そで>と言います)に頼朝自身のサイン(花押<かおう>
と言います)が記されています。
これは形式上、源頼朝袖判下文と言って、最も格式の高いもので、したがって受
け取った者にとっては最も証拠能力の高い文書となります。

                                
(次へ)

(問2)これは次の『吾妻鏡』の史料が重要な参考になります。次へ進んで下さい。

                               
 (次へ)

(問3)千葉常胤は、治承4年(1180)8月末、石橋山合戦に敗れて安房(今の千葉県南部)に逃れてきた際に、
一族郎党を率いて頼朝に加勢して以来、ずっと貢献してきた、という自負があったのだと思います。
つまり、ここ
に頼朝個人との人間的な主従関係の強さ、を読みとることができるわけです。
朝政の義母(寒川尼)がかつて
頼朝の乳母だった関係もあって、やはり早くから挙兵に応じていた小山氏も、同様であるとみられます。

                                
(次へ)

(問4)もともとの手兵を多く持たない頼朝にとって、これら東国の有力武士たちの心をつかんでおくことは、最も
肝要なことでした。
平氏追討のために西国に遠征した弟、範頼に対しても従軍している東国武士たちに細かい
配慮をすること、彼らの人心をつかむことの重要性が繰り返し説かれています。

※以上の問題と答・解説は、石井進『日本の歴史7 鎌倉幕府』(中公文庫、1974年)をもとに作成しました。

                        
<日本史メニューへ戻る>