○今から約2000年前、日本と中国・朝鮮はどのような関係にあったのでしょうか。中国の記録に残る紀元前後
〜2世紀の日本関係の記事を追いながら、考えていきましょう。
<紀元前後>
『漢書地理志』 : 楽浪郡の南の海に倭人が住んでおり、百国あまりに分かれている。毎年、定期的に貢ぎ
物を持ってくる、という(意訳、以下同じ)。
注)楽浪郡=漢が朝鮮半島支配のために設置した4つの郡のうちの1つ
<紀元57年>
『後漢書東夷伝』 : この年、倭の奴国が貢ぎ物をささげて祝いの言葉を述べにきた。使者はみずから大夫
(たいふ)と名乗った。(中略)光武帝はこれに印を賜った。
注)光武帝=後漢最初の皇帝
紀元32年 高句麗、後漢に従う
36年 中国南方の異民族、後漢に従う
37年 白馬羌という勢力、後漢に使節送る
38年 西域2国、後漢に従う
44年 韓国の人、後漢に従う
上の略年表を見ると、紀元57年以前の25年間に、中国周辺の勢力が次々と漢王朝に従っていることが
わかり、倭の奴国の動きもその一環としてとらえることができそうです。
○金印が語ること
皆さんご存じのように、上の『後漢書東夷伝』の記事に見える印が、江戸末期に博多湾内の志賀島で
全く偶然に発見された「漢委奴国王」と刻まれた、いわゆる金印に一致する、とされています。
(問1)実は、同じ頃、大陸内の漢周辺の諸勢力も、以下のような文字が刻まれた印を賜っていました。
「石洛侯印」 「朔寧王太后璽」 「広陵王璽」
これらとの文字の上での違いは何でしょうか?
(問1の答へ)
(問2)志賀島出土の金印の取っ手の部分(これを鈕<ちゅう>といいます)は、ある動物の形をしていま
す。それは何だったでしょうか?
<ヒント>ぐるぐるっと…
(問2の答へ)
(問3)問1にあげた3つの印の鈕は、いずれも「亀」の形をしていたのです。なぜ奴国のもらった金印と
は形が違うのでしょうか?
(問3の答へ)
(問4)なぜ、漢の皇帝は日本だけをそのように扱ったのでしょうか?
(問4の答へ)
<紀元107年>
『後漢書東夷伝』 : この年、倭の国王帥升(すいしょう)等が生口を献じて謁見を求めた。後漢の桓帝・霊
帝の頃(紀元147〜189年)、倭は大いに乱れ、国どうしの勢力争いが続き、統一者が
出なかった。
(問5)この「生口」とは何だと思いますか?
(問5の答へ)
◎答と解説
(問1)「国」という字が用いられているかいないか、の違いです。印にも制度があり、これでいくと倭の場合、
本来は他の3つの印と同様、漢にとっては異民族の王なのに、倭だけが「国」の字を用いているのは
制度からはずれていることになります。しかし、印文のはじめに、漢帝が授けたことを意味する「漢」の
字があること、一辺が2,3センチの正方形という大きさが、ちょうど漢の尺の一寸四方に相当すること、
陰刻になっていること、などは制度にかなっています。
(次へ)
(問2)蛇が正解でした。
(次へ)
(問3)これも制度から言うと、亀の形であるべきなのです。しかし、そうでないということは、印文と同じように
やはり倭の王の扱いが本来の原則からはずれる部分があったことを意味すると考えられます。
(次へ)
(問4)実は、金印はこのような幾つかの矛盾点をもっていたため、偽物ではないか、という説もありました。
しかし近年、大陸の雲南省にも印制にあわない金印が発見されました。これについて中国古代史家
栗原朋信氏は「奴国王の印は、奴国王が普通の意味の外臣(漢王朝に従ってはいるが、直接の官僚
ではない者)ではなく、漢帝の徳化をこうむり、朝貢できる栄誉をもちながら、皇帝の臣下としては扱っ
てもらえない異民族の首長であったため、独自の印を授かったのであろう」と述べておられます。
(次へ)
(問5)奴隷のことです。
※これらの問題と答え、解説は、井上光貞『日本の歴史1 神話から歴史へ』(中公文庫、1973年)、
『文明のクロスワードMuseum Kyushu』32号(1989年)などをもとに作成しました。
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