〜1192(イイクニ)年は誤り!?
○ 「イイクニつくろう鎌倉幕府」とは、誰でも知っている日本史年号の暗記のための語呂合わせですが、
果たして本当にこの年に幕府は成立したのでしょうか?以下、検討していくことにしましょう。
<関係年表>
治承3(1179) J平清盛、院政を停止、後白河法皇を幽閉。
4(1180) C以仁王の令旨。D以仁王、源頼政ら挙兵、宇治で敗死。G石橋山の戦い。頼朝伊豆で
挙兵、安房に敗走。H源義仲、挙兵。I頼朝、鎌倉入り。富士川の戦い。平氏軍敗走。
J頼朝、侍所を設置。
養和1(1181) A清盛没。
寿永2(1183) D義仲、平氏軍を破る。F平氏、京を逃れ西海へ向かう。義仲入京。I寿永の宣旨。頼朝、
東国の支配権獲得。
元暦1(1184) @義仲、源範頼・義経軍のため敗死。A一ノ谷の戦いで平氏屋島に敗走。I頼朝、公文所
と問注所を設置。
文治1(1185) A屋島の戦いで義経、平氏軍破る。B壇ノ浦の戦いで平氏滅亡。I後白河法皇、源行家と
義経に頼朝追討の院宣を下す。J行家・義経追討の院宣を下す。頼朝、諸国の守護・地頭
任命権を獲得。兵粮米徴収権を認められる。
文治5(1189) C頼朝の奥州藤原氏征伐。義経自害。H奥州藤原氏滅亡。
建久1(1190) J頼朝上洛。権大納言・右近衛大将となる。K頼朝、両職を辞して鎌倉に帰る。
3(1192) B後白河法皇没。F頼朝、征夷大将軍となる。
1)征夷大将軍就任=幕府成立か?
『尊卑分脈』(そんぴぶんみゃく)という、室町時代に成立した系図集の「源頼朝」の部分に、次のような記載が
あります。
「建久三年七月十二日征夷大将軍となる、同五年十月十日将軍を辞める」
(問1)この記載からわかる、将軍と幕府との関係は何でしょうか?
<ヒント>頼朝が将軍を辞めたとき幕府は?もちろん2代目もまだ嗣いでないはず…
(問1の答へ)
(問2)そもそも征夷大将軍に任ぜられたのは、頼朝が史上初でしたでしょうか?
(問2の答へ)
○頼朝は征夷大将軍になる前、建久1(1190)年11月に右近衛大将(うこのえたいしょう)という、常に設置
されている武官としては最高位に任ぜられていました。そして実は、「幕府」とは本来、近衛大将の開いた
役所を指す言葉だったのです。ということはこの1190年が幕府成立の年、ということになるのでしょうか?
(問3)しかしこれも(問1)と同じような事情で誤りと言うことになります。その理由を上に掲げた年表から
探して下さい。
(問3の答へ)
2)自分で幕府成立の年を決めてみよう!
どうやらはっきりした幕府成立の年というのは決まっていないようです。それでは、あなた自身で成立の年を
決めてみましょう。そのために、上に掲げた年表に記されているいずれかのできごとに注目し、「こういう事実
があるので、この年に成立した」と言えるようにして下さい。
3)有力な4つの説
@元暦1(1184)年説
<根拠>この年、政務・財務をつかさどる公文所と、裁判事務を行う問注所が発足していて、政権としての
体制が整ったと判断されるから。
しかし…
(問4)下の年表を見て、この説に対する反論を考えて下さい。
治承4(1180)年 8月 伊豆国のある領地に命令を出し、知親という者の乱暴行為をやめさせる。
5(1181)年11月 新田義重に武蔵国の所領と役職を与える。
7(1183)年 1月 下総国香取社の神官に周辺の治安の乱れを正すよう命じる。
寿永3(1184)年 6月 相模国のある郷の地頭に、免税地に税をかけぬよう命じる。
元暦1(1184)年 7月 紀伊国あて川荘での狼藉(ろうぜき)を禁じる。
<ヒント>それぞれの時期に注目!
(問4の答へ)
A治承4(1180)年説
<根拠>鎌倉幕府は軍事政権として出発しました。ですから公文所や問注所にさきがけて、御家人集団を
統括する機関としての侍所がこの年11月に設置されている意味は大きいと言えます。さらに10月
には頼朝が先祖ゆかりの地である鎌倉に入り、12月には頼朝の新居が完成、その儀式のために
300名余りの御家人が参加した、と『吾妻鏡』にあります。これは新政権誕生を内外に告げる祝典
の意味があったとみられます。
<!>しかし、この時点で頼朝が実質的におさえている地域は南関東地方にとどまり、これではとても政権
とは呼べない、という批判も強いのです。
B文治1(1185)年説
<根拠>この年11月、後白河法皇に迫って全国に守護・地頭を置くことを認めさせました。これにより頼朝
は日本全体の軍事警察面の総責任者としての地位を正式に就いたこととなり、本格的な軍事政権
として出発できました。
(問5)下の年表をみて、この説の欠点をあげてください。
養和1(1181)年閏2月 7日 頼朝、土肥実平に相模国早河庄惣地頭職を与える。
寿永1(1182)年 3月 5日 頼朝、山田重澄に上野国内の一村地頭職を与える。
元暦1(1184)年 4月23日 頼朝、下河辺政義に常陸国南郡地頭職を与える。
5月24日 頼朝、宇都宮朝綱に伊賀国壬生野郷地頭職を与える。
2(1185)年 6月15日 頼朝、島津忠久を伊賀国須可庄・波出御厨地頭に任ず。
(問5の答へ)
C寿永2(1183)年説
<根拠>この年10月に後白河法皇は次のような命令を出しました。
「東海道・東山道の公領・荘園の年貢は源平の内乱の中で武士たちが勝手に奪ったりしているが、京都
にいる国司や荘園領主のもとにきちんと差し出しなさい。もしこの命令に従わない者は、頼朝に連絡して
差し出させるようにしなさい。」
(問6)この史料から、この時点で幕府が成立したと言える理由を説明してください。
<ヒント>2番目の文に注目!
(問6の答へ)
<!>しかしこの命令は、頼朝挙兵以来の東国支配の実績があってはじめてものを言うものです。また、
地域が東海・東山道という、東日本地域に限定されていることも問題です。
↓
それでは、いったい幕府の成立は何年なのでしょうか?
(知りたい人こちらへ)
◎答と解説
(問1)頼朝が将軍職を辞した建久5年10月以降も幕府が継続したことは明らかです。嫡子頼家が将軍となった
のは頼朝が没した建久10年以降です。したがって、必ずしも将軍になることが幕府成立のめじるしでは
ないことがわかります。
なお、上横手雅敬氏は、『源平の盛衰』(講談社学術文庫、1997年)の中で、征夷大将軍を頼朝が切望
したのは、奥州藤原氏征伐のためであり、当時この職に武家の棟梁という意味はなかったこと、藤原氏が
滅んだ建久年間には、この職には実質的意味はなかったが、かつて後白河法皇と頼朝がこれをめぐって
意地を張り合った事情から、法皇の死後に、親頼朝派だった九条兼実が頼朝に贈ったこと、征夷大将軍
と武家の棟梁が結びつくのは3代実朝以降であること、などを指摘しています。
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(問2)延暦16(797)年、坂上田村麻呂が任ぜられたのが最初です。この征夷大将軍という職は元来、陸奥の
蝦夷を征討するため臨時に派遣した軍の総指揮官です。田村麻呂の活躍によってこの職の格が高まった
ことは事実ですが、頼朝以前に将軍になった人物が幕府を開いたかというと、そのようなことはありません
ね。
(次へ)
(問3)翌月にはやはりこの職を辞していますから、征夷大将軍と同じ事が言えます。
(次へ)
(問4)頼朝はこの2機関が成立する以前から裁判・政務を行っていることがわかります。つまり、実質的な幕府
政治は始まっていた、ともみなせます。
(次へ)
(問5)この年表を見ると、文治元年11月以前の時点で、東日本については頼朝は自由に同様の権限を行使して
いて、この時問題となったのは、西日本諸国にしかすぎないことがわかります。
(次へ)
(問6)これにより、土地の正当な所有者か認定し、争いが起こればそれを裁決し、これに従わない者は武力を
用いて強制させる権限の一切が、東海・東山道については頼朝に正式に認められたことを意味すると判断
されるからです。
(次へ)
※このような問題に対して、何かある1つだけの正解を求め、他は全て誤りである、とするような
○×式の考え方自体が、特にこの時代には通用しません。
鎌倉幕府のことだけではありません。江戸幕府の重要な職制である大老・老中などでさえ、そ
の始まりの時期ははっきりしていないのです。むしろ、中世・近世を通じて幕府と呼ばれた武
家政治の組織では、成立の時期のはっきりしないのが普通、と言った方が正しいでしょう。
それはなぜでしょうか?この時代の政治機構について言えば、まず最初にあるのは仕事であ
り、その必要に応じて政務を行う人が配当される。それがある程度永続した後に、はじめて1
つの組織の形が備わり、やがて職名が生じるのです。今日の複雑膨大な官僚機構の場合、
しばしば人のために組織が設定され、その後に仕事が「発見」されますが、そのようなものと
はまったく原理を異にしていたのです。
※これらの問題と答・解説は、石井進『日本の歴史7 鎌倉幕府』(中央公論社、1974年)をもとに作成
しました。
◎このテーマは、拙著『疑問に迫る日本の歴史』(ベレ出版、2017年)に掲載しています。
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