○江戸時代の農村をイメージして下さい。現在では田舎の方でしかみられなくなった、のどかで、自然との共生
も実にうまくいっている風景を思い浮かべる方も多いと思います。しかし、その江戸時代に国土の荒廃が始まっ
ていたとは…
<表1>戦国〜江戸期の主要用水土木工事
1467年(応仁1)〜1595年(文禄4)の129年間 14件
1596年(慶長1)〜1672年(寛文12)の77年間 42件
1673年(延宝1)〜1745年(延享2)の73年間 13件
1746年(延享3)〜1867年(慶応3)の122年間 26件
(問1)上の表を見て、気づくことは何でしょうか?
(問1の答へ)
○利根川の大改修
戦国〜江戸初期にかけて江戸湾(現在の東京湾)に流入する主な川として、次の3つがありました。
@現在の渡良瀬川から現利根川をつききって現江戸川に入る太日川
A利根川。ただし現在の埼玉県羽生付近で南下して、太日川よりやや西よりの流路を通って旧荒川と合流。
B荒川。ただし現在の埼玉県熊谷付近で南下し、越谷の東で旧利根川と合流。
これらの3大河川が、江戸の北東部に豊かで広大な沖積平野をつくっていましたが、一度水が出るとそれら
が思い思いに流路を変えて氾濫し、とうてい人の手の及ばぬところとなっていました。こうした状態に最初に
手をつけたのが有名な太田道灌で、その後、後北条氏も工事を行いましたが、これに全面的な改修を加えた
のは徳川氏でした。
工事は主要なものは1594年(文禄4)、1621年(元和7)、1629年(寛永6)、1641年(同18)、1654年
(承応3)等、大きく分けて6次にわたって行われましたが、その結果、次のような改修がなされました。
@利根川を江戸湾に入れずに途中で折り曲げて東進させ、これを小貝川・鬼怒川・思川などが合流してできた
常陸川筋に結びつけ、銚子で太平洋に流入させた。
A荒川を熊谷市の南部で南に折り曲げて入間川の支流に合わせ、入間川筋に移し替えることで、荒川
をそれまでより西に寄せた。
これによって、それまで水をおさえきれないままに放置されていた関東平野の大沖積層平野が、
関東で最も中心的な豊かな水田地帯になりました。
○耕地面積の増大
<表2 明治以前耕地面積の推移>
年 代 耕 地 面 積 典 拠
930年頃(平安中期) 862,000町歩( 91,1) 和名抄
1450年頃(室町中期) 946,000町歩(100,0) 拾芥抄
1600年頃(江戸初期) 1,635,000町歩(172,8) 慶長三年大名帳
1720年頃(江戸中期) 2,970,000町歩(313,9) 町歩下組帳
1847年頃(明治初期) 3,050,000町歩(322,4) 第一回統計帳
注)( )内の数字は、1450年頃の耕地面積を100とした場合の指数
(問2)上の耕地面積の増え方を示す表を見て、特徴的なのはどんなことでしょうか?
<ヒント>指数に注目してください。
(問2の答へ)
○下層農民の自立
これまでみてきたような耕地面積の増大は、農業生産の飛躍的発展と同時に、それまで在地の小領主や
有力農民のもとで、心ならずも奴隷に近いような状態におかれていた下層農民たちの自立をもたらしました。
それどころか、急激な新田開発に必要な労働力としての百姓が不足するという事態が起こったのです。
例えば尾州徳川家(名古屋藩)が開発した入鹿池(いるかいけ)の新田開発には、既にそれまでの他の新田
開発のために余っていた労働力がほとんど吸収されてしまい、入植する百姓がいなくなってしまいました。困り
果てた藩は、寛永12年(1635)、次のような百姓招致の高札を掲げました。
「今度、入鹿ため池ができ、それを水源として大量の新田ができるようになった。尾州領の者はもちろん、
たとえ他国他領の者でも、また( )た者でもいいから、もし新田百姓になりたい者がいたら、
呼び集めてくるように。」
(問3)上の( )内には、どのような文が入ると思いますか?
<ヒント>相当、藩は人集めに困っていたことがわかります。これはいくらなんでも…
(問3の答へ)
○国土の荒廃
日本各地で大土木工事が行われて大河川が改修され、大量の新田が開発された江戸前期は、一方で
「洪水の時代」と呼べるほど、全国いたるところで洪水が頻発していました。この頃、特に異常気象で雨が
多かったというわけではありません。
(問4)ではなぜ洪水が頻発したのでしょうか?
<ヒント>大土木工事をしたがゆえに…
(問4の答へ)
(問5)また農民たちも一定期間年貢のかからない新田開発に熱中したため、別の問題も起きてしまい
ました。それはどんなことでしょうか?
(問5の答へ)
こうして、幕府・藩の農政は、それまでの開発至上主義から、既にある田畑に可能な限りに労働力を
投入して、一粒でも多くの収穫を得ようとする方針に変わっていきます(これは基本的には時代を超え
昭和30年代までかわりませんでした)。
○農業のありようの変化
生産量が年貢と自分たちの食べるためしかなかった時代から、残った部分が十分期待できる時代になると、
「売るための農業」に変化していきました。例えば米では、わざとそれまでの端境期に収穫できるような新品種
の開発が進んできます。
(問6)例えば享保19年(1734)当時の尾州では、ズバリ何種類の品種が作付けされていたと
思いますか?
(問6の答へ)
それから、米以外の、最初から商品化を前提としたいわゆる各地の特産物栽培がさかんになっていきます。
都市民の贅沢な食生活を満たす、いわゆる初物の販売が競って行われ、それがあまりにも過激になったため
幕府は貞享3年(1686)、販売時期を制限した初物禁止令を出したほどです(例えば椎茸は1〜3月まで、なす
びは5月〜、松茸は8月〜、みかんは9月〜3月まで、など)。
(問7)これらのことと関係して、この時期、例えば九十九里浜では鰯網漁業がさかんになりました。
それはなぜでしょうか?
(問7の答へ)
◎答と解説
(問1)江戸時代の初期、だいたい17世紀前半に工事が集中していることがわかります。
(次へ)
(問2)耕地面積の増大が、戦国期〜江戸中期に集中していることがわかります。時代が下るほど増大の割合
が大きくなると言うことは、江戸後期〜明治初期にほとんどふえていないことから増えていないことから
わかるように、正しくないのです。江戸時代初頭約100年ほどは、我が国の耕地総面積が急速に増大
した異例な時期でした。
(次へ)
(問3)原文では「御領分并他国他領之如何様之重罪たりといふとも、其咎を免許被下置候間」とあります。つまり
「どんな重罪を犯し(た者)」が正解です。いくらなんでも重罪人でもいいというのは行き過ぎで、さすがに
幕府も寛永14年(1637)10月に「新田百姓になろうという者は先の住所をよくよく調べ、たしかな者のみ
それを許可するように」と命じています。しかし、このことから、近世初頭の大新田開発ブームが引き起こし
た労働力不足が、いかに深刻なものであったかがよくわかります。
(次へ)
(問4)寛文6年(1666)2月に4名の老中が署名して発布した法令「諸国山川掟」の中に「近年は草木之根迄
掘取候故、風雨之時分、川筋え土砂流出、水行滞候之間、自今以後、草木之根掘取候儀、可為停止事」
とあり、ここからその答がわかります。つまり、近年は新田畑の開発があまりにも進みすぎて、草木の
根まで根こそぎに掘り取ってしまうのため、風雨があるとすぐ土砂が河川に流れ込んで河床が高くなり、
流水が円滑を欠いて洪水になってしまったのです。この法令は、それまでの開発至上主義を転換させた
重要な法令と評価されています。
(次へ)
(問5)それまでにあった田畑(古田畑、こでんぱた)の管理手入れを怠ったため、多量の荒廃田を生んでしまっ
たのです。当時の農村史料によく見られる「川欠砂入り」「当荒」「永荒」という文言は、このことを指して
います。
(次へ)
(問6)尾州八郡の中で最も種類が多いのは春日井郡で、早稲27種、中稲36種、晩稲46種、もち米24種の計
133種もの品種が作付けされていました。一番狭い面積の葉栗郡でも31品種が作付けされています。い
かにこの時代(江戸中期)、日本の農業の歴史の中でも稲の品種改良が熱心に行われたかがよくわかり
ます。
(次へ)
(問7)商業的な農業の発展は、多量の速効性の肥料を必要としました。そのため需要が高まったのが、日本
近海で大量にとれた鰯(いわし)を干してつくった干鰯(ほしか)だったのです。
※以上の問題と答、解説は大石慎三郎『江戸時代』(中公新書、1977年)をもとに作成しました。
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