中世農民の抵抗ー下野の場合ー


◎「正長の土一揆」に代表されるように、中世における農民の領主に対する抵抗運動は、西日本の例が圧倒的に
  多く紹介されています。しかし、東国、例えば下野国(今の栃木県)にもそのようなそのような例を幾つか見いだ
  すことができます。


1 興禅寺(こうぜんじ)領中里郷の場合
<史料>(現代語訳)
   
興禅寺領中里郷の百姓たちは、毎年逃散を繰り返し、そのあげく宮春あたりに住み、これをその所の地頭・
   名主らがそのままにしているという。今後、こういうことがあってはならない。もしこの命令に背く者がいたら、
   厳しく罰する。
     応永八年(一四○一)
         十一月二十一日                           日高戸(花押)

 ◇解説
   ・興禅寺について
     鎌倉末期に宇都宮氏が開いた菩提寺(ぼだいじ)で、同氏の厚い保護を受ける。上の史料の前後の時期
     にも上平出郷・宿之郷・砥上郷の年貢の一部が寺の造営費に充てられている。
   ・中里郷の支配関係
     鎌倉前期に宇都宮氏の一族の中里氏が領した。したがって中里郷は興禅寺へ寄進された後も、実質的
     には中里氏が支配していたと思われる。
   ・日高戸=詳細は不明だが、宇都宮氏の家臣とみられる。

(問1)中世の百姓たちは村の重大な決定を行う場合、どういう場所で団結を確認し合うでしょうか?
<ヒント>上の史料の中の「宮春」という地名

                            
 (問1の答へ)
                             
問2)百姓たちが団結するとき、おこなうある儀式がありました。それは次のうちどれでしょうか?

 
ア)皆で血判を起請文(きしょうもん)に押して、団結した場所の建物に貼り付ける。
 イ)皆でその起請文を踏みつける。
 ウ)起請文を灰にして水に混ぜて飲む。
 エ)刀で起請文を切り刻み、川などに流してしまう。

                             
(問2の答へ)

問3)最初の史料に戻って、「その所の地頭・名主」はなぜ百姓たちをとどめおいたのでしょうか?
<ヒント>かわいそうだからではありません。何か必要があったのです。

                             
(問3の答へ)

問4)領主である宇都宮氏は、このような他領に逃げた百姓に元の土地に戻るよう厳しく命じています。
    ところで室町時代、一般的に百姓や下人(げにん、領主の奴隷のような人々)が逃散した場合、
    どのようなルールがあったと思いますか?

ア)百姓・下人とも無条件で元の土地に戻らなければならなかった。
イ)年貢を納めていれば百姓については、元の土地に戻る必要はなかった。
ウ)年貢を納めていれば百姓については元の土地に戻る必要はなかった。
エ)年貢を納めていなくても百姓・下人とも元の土地に戻る必要はなかった。

                             
(問4の答へ)

2 鑁阿寺領橋本郷の場合
 
◇解説
   ・鑁阿寺について
     足利荘の足利氏の館をおこりとし、当然ながら歴代の足利氏によって厚く保護されました。足利荘内の
     多くの土地の寄進を受けていましたが、橋本郷もその1つです。
         
 ◇足利荘関係略年表
    正長 1(1423) 4代鎌倉公方足利持氏、足利荘への支配強め、幕府と対立。
    永享 3(1431) 幕府と鎌倉府和解し、足利荘内の幕府領を返す。
       10(1438) 永享の乱。
       11(1439) 足利持氏敗死。
    宝徳 1(1449) 関東管領上杉氏、鎌倉公方に足利成氏を迎える。
    享徳 3(1454) 成氏、上杉氏を殺す。内乱へ。
    文正 1(1466) 上杉氏の家臣長尾氏、足利荘の支配を幕府より認められる(以後6代続く)。
    天正12(1584) 小田原北条氏の攻撃で長尾氏降伏、足利荘を退去。
 
 ★表1 正長4年(1432)の耕作人と年貢高

耕作人 耕作地の面積 年貢高(現在の価値)
主計殿
道 観
妙応庵
弥四郎
平二郎
瓦 師
弥五郎
 6町4反
 2町5反
 1町7反
 6町1反
 5町3反
 1町
 3町4反
10貫500文(79万円)
 3貫500文(26万円)
 2貫500文(19万円)
 4貫750文(36万円)
 3貫500文(26万円)
 
 3貫500文(26万円)

注)耕作地とは畠と屋敷のみ。田は橋本郷全体で6町2反(総年貢高30貫400文)あったが、
  耕作者は不明。



 ★表2 天正9年(1581)の耕作人と年貢高

    耕作人 年貢高(現在の価値)
勅使河原筑後守
小林惣左衛門尉
植竹二郎兵衛尉
須長勘解由左衛門尉
須長新兵衛
須長助二郎
鴇田内匠介
加藤新兵衛尉
初加谷太郎右衛門尉
小林六郎左衛門尉
植竹与七太郎
1貫300文(10万円)
1貫300文(10万円)
1貫300文(10万円)
1貫300文(10万円)
2貫600文(20万円)
1貫300文(10万円)
1貫300文(10万円)
1貫300文(10万円)
1貫300文(10万円)
1貫300文(10万円)
1貫300文(10万円)

注)耕作人の耕作地面積は不明

(問5)表1の耕作人の中で明らかに変わった人がいます。それはどの人でしょうか?

                             
(問5の答へ)

問6)表1と表2の鑁阿寺へ納めるべき年貢の量を比べて言えることは何でしょうか?


                             (問6の答へ)

問7)表1と表2の耕作人を比べて大きな違いは何でしょうか?
<ヒント>名前に注目!

                             (問7の答へ)

問8)その理由は何だと思いますか?上の略年表をみて考えて下さい。
<ヒント>表1と表2の間のできごとで注目すべき事は?

                            
 (問8の答へ)

◎答と解説
(問1)
答は神社です。逃散先の「宮春」という地名も、神社の存在を想像させます。宮春という地名は現存しま
    せんが、この中里の近くに「宮山田」という地名があり(現栃木県上河内町内)、ある研究者はこの地を
    宮春に比定しています。


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(問2)答はウの「起請文を灰にして水に混ぜて飲む」です。この史料から、この頃既に中里郷の農民の逃散は、
    恒常的なものになっていたことが明らかです。逃散とは一般的に領主の苛酷な収奪に耐えきれなかった
    り、領主への要求が受け入れられない場合に、農民が他所へ立ち退くことを言いますが、これには一味
    神水→連署申状・起請文→逃散という、一定の作法があったとされています。


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(問3)この史料では宇都宮氏が逃散した農民たちを中里郷に戻すよう命じているわけですが、これを「人返し
    の規定」と言います。農業労働力としての農民が減ることは領主としては深刻な問題であり、一方
逃散
    先の領主にとっては、一般的に新たな労働力の確保ということで歓迎すべき事態でした。
このため逃散
    した農民たちの連れ戻しは、領主間の対立の原因ともなり、これを避けるために国人はその一揆契約の
    中でお互いに逃散した農民を返還しあうことを約束しました。

                              
(次へ)

(問4)答は
ウの「年貢を納めていれば百姓については元の土地に戻る必要はなかった。」です。領主への隷属
    性が高い下人については、この去留の自由がありませんでした。したがって、このような様々なルールが
    錯綜しあう中で、人返しの紛争は頻発し、これを調停する権力としての戦国大名が登場してくる、という
    歴史的展望がなされています。

                              
(次へ)

(問5)例えば
「主計殿」は、その名から単なる農民ではなく、橋本郷の有力者にして地侍とも呼ぶべき存在と考え
    られます。また
「瓦師」などという手工業者(鑁阿寺の瓦を専門に修理し、給分として年貢無しの耕作地を
    与えられていたのかも知れません)。

                              
(次へ)

(問6)耕作人の数はやや増え、
年貢高は大幅に減少、しかも天正9年の方は、ほとんど全員が同じ量である点が
    注目されます。 

                              (次へ)

(問7)天正9年の方は全員苗字をもち、また受領名・官途名を持つ者さえいます。これはもともとの武士と考える
    こともできるでしょうが、事実上の支配者長尾氏(直接的には
鑁阿寺ですが)が、有力農民を取り立てて
    家臣化した可能性の方が高いと思われます。

                              
(次へ) 

(問8)上にも書きましたが、文正1年(1466)に上杉氏の家臣の長尾氏が、足利荘の支配を幕府から認められ
    
ています。戦国領主長尾氏の足利荘支配が本格化したことが、この変化に大きく関係していると考えられ
    ます。

※これらの問題と答、解説は、『栃木県史』史料編中世1、同通史編3中世、新川武紀「中世下野における農民
 闘争についての一考察」(『東国大名の研究』吉川弘文館所収)、佐藤和彦「中世下野の農民闘争」(『栃木県
 史研究』12)、峰岸純夫「戦国時代足利領の百姓申状」(『栃木県史しおり』中世2)、佐藤博信「東国寺社領の
 構造と展開ー下野国日光山領を中心としてー」(同『中世東国の支配構造』思文閣、1989年所収)、山田邦明
 「室町期関東の支配構造と在地社会」(1991年『歴史学研究』別冊)、市村高男「山田報告批判」(『歴史学研
 究』627号)などを参考にしました。

                        
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