○参勤交代とは、江戸幕府が大名統制のために一定期間、諸大名を江戸に参勤させた制度を言います。
正しくは「参覲」と書きます。
1) 成立のいきさつ
これは服属儀礼であって、参勤しないと幕府への反逆とみなされました。江戸幕府成立後、徳川氏への人質
の提出、あるいは本人の江戸への出頭が全国の大名に拡大し、幕府も彼らに江戸での邸地を与えました。これ
が参勤定例化への道を開いたのです。
<以後の参勤交代略史>
元和 元年(1615) 大坂夏の陣で豊臣家滅亡。諸大名競って江戸に参勤。
同 3・4年頃 参勤が毎年から隔年に変化。
寛永12年(1635) 武家諸法度改定。第2条に参勤交代の規定あり。
西国大名は3月末〜4月初に江戸へ。 東国大名は同時期に国許へ。
(次の年はその逆)
寛永19年(1642) 譜代大名の参勤も命ぜられる。
享保 7年(1722) 上米の制(幕府財政建て直しのため大名に対し高1万石につき米百石の上納を命じる
かわり、参勤交代を在府半年、在国1年半に緩和)
享保15年(1730) 上米の制廃止。参勤交代制も元に戻る。
文久 2年(1862) 松平慶永・一橋慶喜らによる幕政改革で、参勤交代制改変(3年に1度に)
3年(1863) 長州征伐を機に参勤交代制を復旧。諸大名これに従わず(実質的に制度崩壊)。
2) 全国的な状況
・文化元年(1803)武鑑によると、全大名264家のうち、
隔年参勤175家 半年交代(関八州の大名)27家 定府(常に江戸詰め)水戸家など26家
(問1)この他、参勤交代をしない大名が21家ありました。なぜ参勤交代しなかったのでしょうか?
(問1の答へ)
交代の時期 外様 4月 譜代 6月か8月〜いずれもその都度幕府に伺いをたてる
3) 参勤の実態
(1) 人数 一般的には150人〜300人くらいの場合が最も多かったようです。大名行列のほぼ3分の1は
「通日雇」と呼ばれる人足によって占められていました。
(問2)最大の藩である加賀藩(前田氏、100万石)では5代綱紀の頃、どれくらいの人数だったと
思いますか?
ア) 400人 イ) 1400人 ウ) 4000人 エ) 14000人
(問2の答へ)
(2) 日数(同じく加賀藩の場合)金沢ー江戸間約120里(約480q)
参勤、交代あわせて全190回のうち、最も多かったのは12泊13日(64回)でした。
(問3)では、最少日数はズバリ、何泊何日だったと思いますか?
<ヒント>はっきり言って、すごいっす!
(問3の答へ)
(3) 費用
参勤交代の経費の内訳としては、@旅籠費(宿泊費)、A予約解消時の補償金、B幕府要人への土産代
などがありました。
(問4)この他、重要なものが1つありました。それは何でしょうか?
<ヒント>交通費の一種。でも歩きだからお金はかからないはずですって?いえいえ。
(問4の答へ)
(問5)加賀藩の文化5年(1808)の経費の総額を推測してください。
ア) 1300万円 イ) 4300万円 ウ) 1億3千万円 エ) 4億3千万円
(問5の答へ)
(4) 通行儀礼
参勤交代では、必然的に他藩の領地を通ることになります。この場合、通る方は使いをたてて領内通行の
礼を述べ、通行される方も道や橋の整備をし、通行する大名に贈り物を提供しました。お互い、気の遣いっこ
をしていたわけです。
しかし、つぎのようなトラブルもありました。
11代将軍家斉の頃、若き明石藩主松平斉宣(家斉の第53!子)が、参勤で御三家筆頭尾張藩の領内を
通過したとき、猟師源内という者の子ども(3才)が行列を横切ってしまった。家臣たちはこれを捕らえて宿泊
先の本陣に連行した。前後の宿駅の人々や村の名主、坊主、神官までもが押し寄せて許しを乞うたが、斉宣
はこれを拒み、幼児を切り捨ててしまった。尾張藩はこれを大いに怒り、使者を送って「このようなひどいことを
するならば、今後当家の領土を通らないでもらいたい」と伝えた。
(問6)これ以降、明石藩はどうしたと思いますか?
<ヒント>参勤をやめるわけにはいきませんので…
(問6の答へ)
4) 参勤交代と藩財政
参勤交代は、幕府が大名の経済力を弱めるために行ったとの説もありますが、実際のところは…
(問7)文化元年(1804)から同15年(1818)までの松江藩の財政で、参勤交代の費用は全体の
約何%を占めたと思いますか?
ア) 3% イ) 13% ウ) 33% エ) 53%
(問7の答へ)
5) 大名にとって参勤交代とは
(問8)参勤交代は大名たちにとってのメリットもありました。それはどのようなことでしょうか?
(問8の答へ)
(問9)幕府は、参勤交代の人数を減らすよう命じている(交通渋滞などの理由から)にもかかわらず、
大名たちはむしろ減らさずに、かえって行列の道具などもより華美なものとしたいと願いました。
それはなぜでしょうか?
(問9の答へ)
◎答と解説
(問1)老中などに就任している大名は、常に江戸にいるためです。なおこの他、遠隔地の対馬の宗氏は3年
1勤、蝦夷地の松前氏は6年1勤でした。
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(問2)ウの4000人です。幕府の規定(享保6・1721年)では馬上と呼ばれる騎馬武者20騎、足軽130人、
仲間・人足300人で最大でも450人にしかなりません。しかし、これは「行列の内」すなわち本隊のみの人数
であり、「行列の外」の人々がいました。加賀藩の場合、藩主に従う騎馬武者の中には5万石の家臣などもい
ましたから、その家臣が引き連れる従者の数は、他藩を圧倒したわけです。なお、この4000人は、歴代の
行列の中でも抜きんでた数字であり、江戸後期には減少し、2000人くらいになってしまいました。
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(問3)何と4代前田光高の時、寛永20年(1643)に6泊7日の記録を作りました。これは飛脚並の速さで、
1日で70q近くも行軍したことになります。小走りの連続だったのではないでしょうか。光高が急いだのは
江戸にいた妻が産気づいたためです。
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(問4)川を渡る際の「川越賃」です。加賀藩の場合、金沢から江戸まで北国下街道(富山ー高田ー善光寺
ー高崎経由)で進むとすると、幅5m以上の川が84もあり、そのうちの4割強にあたる38の河川に橋がかか
っていませんでした。例えば、善光寺の南を流れる犀川を渡る場合、江戸中期で推定される費用は240万円
です。もってこのための出費の大きさが推測できます。
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(問5)米を物差しとして考えた場合、エの4億3000万円となります。利息を物差しとした場合5億3000万円、
労賃を基準とすると6億9000万円となります。いずれにしても途方もない額ですね。
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(問6)行列を立てず、まるで町人か農民のようなかっこうで、尾張藩領内を通行しました。藩主と領民の関係
は、決してドライな面だけではなく、こうした保護する、されるの部分もあったようです。ところで、息子を殺され
た猟師の源内は、20才になった松平斉宣を木曽路で得意の鉄砲により射殺してしまいました。
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(問7)アの3%です。ただ、江戸藩邸での経費は20%と相当なものでした。しかし、何と言っても最大の経費
は、藩士の俸禄つまり人件費でした(45%)。今と同じですね。そして何と、最も重要と思われる藩の経営費
つまり国許での費用は20%にしかすぎませんでした。
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(問8)中央の政局を直に観察し、藩のために有用な情報を国許に送ることができたからです。それに18世紀
初め頃になると、諸大名は国許より江戸にいることの方が馴染んでいたのです。彼らは例外なく江戸で生まれ、
育っているからです。
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(問9)戦争もなくなった太平の時代において、大名たちの関心は江戸の儀礼的な空間の中で少しでも高い位置
を占めることでした。石高、朝廷の官位争いの他、この参勤交代でいかに少しでも高い威勢を示せるかが争われ
ました。例えば熊本藩(細川氏)では、徹底的な賄賂攻勢で、通常は認められていない行列に鑓3本を立てるこ
とを特別に認められています。儀礼国家としての日本の江戸時代においては、藩主の行列に鑓を1本加えるか
どうかが諸藩の重要な政治課題であり、それをどの大名に認めるか、というような判断が幕府の重大なる政治
的行為だったのです。
※これらの問題と答、解説は、山本博文『参勤交代』(講談社現代新書、1998年)、忠田敏男
『参勤交代道中記ー加賀藩史料を読むー』(平凡社、1993年)などをもとに作成しました。
◎このテーマは、拙著『疑問に迫る日本の歴史』(ベレ出版、2017年)にも掲載しました。
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