ミミヲキリ、ハナヲソギ
                              〜阿弖川荘(あてがわのしょう)百姓申状を読み直す

 ○鎌倉時代の地頭の横暴を最もよく示す史料として有名な建治元年(1275)10月28日付けの阿弖川荘百姓
 申状。なかでも第4条にみえる
「ミミヲキリ、ハナヲソギ」の部分は衝撃的です。しかし、この史料から、「この時
 代の地頭は大変悪らつで、百姓はこれに苦しむばかりだった」と理解してよいのでしょうか。また、同じ年の5月
 にやはり百姓たちが提出した申状は、10月のもの(ほとんどが片仮名で僅かに漢字を使用)とは異なり漢字だ
 けで決まった書式で書かれているのはなぜでしょうか?これらの申状が出される以前の状況もふまえて考えて
 いきましょう。

 
○阿弖川荘の位置と支配関係
  
阿弖川荘は、現在の和歌山県有田郡清水町付近、有田川の上流にあった周辺です。
       <本家>        <領家>            <荘官>
      京都・円満院 …→ 京都・寂楽寺
(じゃくらくじ) …→預所(あずかりどころ) …→ 農

        幕 府   …→ 六波羅
(ろくはら)探題   …→地頭湯浅氏      …→ 民

 
○経 過
文永3年(1266) 円満院門跡(もんぜき)桜井宮死去
  
これ以前は、地頭湯浅氏が預所も兼ねていて、支配は比較的安定していました。しかし宮の死後、領家寂楽
 寺の別当(寺の事務長官)任快が預所を名乗って自ら支配に乗り出し、地頭と対立するようになります。

・文永11年(1274)11月
 阿弖川荘上荘の百姓たちが円満院に対し「地頭の妨害で材木が納められない」と
                  訴えて逃散(
ちょうさん、
自分の耕作する田畑からよそへ立ち退いてしまうことする。

・建治元年(1275)3月初め 上荘の百姓ら、地頭の悪行20カ条余りを、代表者を直接本家の円満院に送って
                   訴え、逃散する。

            
             
3月9日 地頭湯浅宗親むねちか円満院から「悪行をやめよ」と命じられ、次のように回答
                   
する。
               a,百姓の訴えには事実無根のものもあります。悪行とされることは、1カ条も兼任してい
                 る預所の職務に関わるものはありません。今回の訴えの裏には私の預所の地位を
                  ねらう人物の存在があります。
               b,その人物がいろいろと百姓たちを集めてそそのかし、私を追い出そうとしています。
               c,逃散した百姓は、地頭と荘園領主の両方に属しているのだから、大罪を犯したとはい
                 え、おおめにみて荘に戻って耕作させたいと思います。

(問1)上のaで、なぜ下線部分のようなことを湯浅氏は堂々と主張できるのでしょうか?
 <ヒント1>上の阿弖川荘の支配関係の図をもう1度見てください。
 <ヒント2>武家・公家双方とも、相手の支配には口出しは原則としてできませんでした。

                              
 (問1の答へ)

2)cで、本来なら地頭はもっと百姓たちを厳しく処罰してもいいはずなのに、なぜここでは許している
    のでしょうか?

                          
  
(問2の答へ)

同年5月  円満院、書類を整えて六波羅探題の法律家に相談、「勝訴は確実」との返事を得て、円満院が
         申状を作成、探題に提出。
         ↓
       
(そうです、最初にあげた5月の百姓申状がこれなのです。)

・  6月中旬  六波羅探題で裁判開始
・  6月17日  地頭、逃散した上荘の百姓のうち27人を捕らえる。
・  7月ごろ   
円満院、ついに地頭湯浅氏の兼ねている預所職をとりあげ、従蓮(じゅうれん)という人物に
           与える。
・  9月初め  従蓮、地頭の悪行を六波羅探題に訴え出る。
・  9月中旬  従蓮の代官、
阿弖川荘に入るも、地頭により追い出される。
・ 
10月28日 片仮名書きの申状が書かれる。
    ≪内容要約、全13カ条≫
2、地頭は年貢を集めるための使者を派遣してきて、年貢・公事を強引に責め取った。
4、円満院に納めるための材木を山から取ることを地頭が邪魔した。その上、わずかに残った人夫たちを山
  に行かせようとすると、地頭が「
逃げた者の田畑を耕作しろ、もし麦をまかないのなら、おまえらの妻子ども
  を牢に入れ、耳を切り、鼻をそぎ、髪を切って尼のようにして縄で縛って痛めつけるぞ
」とひどく責める。
5、百姓が数人やむなく地頭に年貢を納めるために出かけたが、日が暮れてしまったので「ともがらの家」に
  泊まった。そこを地頭の家来が襲った。
6、10月8日〜10日、18・19日の計5日間、20余名の地頭の使いが来て接待を要求し、百姓の栗・柿まで
  奪い去った。
7、地頭は
4人の百姓を元の土地に戻すように円満院から命令されたのに、それを妨害している。この4人が
  安心して帰れるようにならなければ、どうして私たちが喜んで税を納められようか。


(問3)上の4や5の行動・言動は、単に地頭が乱暴を働いている、ととらえるだけでいいのでしょうか?

<ヒント>文永11年11月や建治元年3月初めのできごとに注目


                              (問3の答へ)

4)地頭のこうした一連の行動は、百姓だけを意識しての行動でしょうか?
<ヒント>建治元年7月ごろの記事に注目

                           
(問4の答へ)

5)上の6で、百姓の家の栗や柿まで奪い取った地頭側のねらいは何だったでしょうか?

                              
(問5の答へ)

百姓たちは、地頭や荘園領主に対し、ただおびえ無力だったのか?

(問6)当然ながらこれは百姓側の申し立てであり、それがそのまま真実とは限りません。例えば、上の
    5の主張には疑わしい点もあります。それはどういう点でしょうか?

                              
(問6の答へ)

7)上の7から読みとれることは何か?
<ヒント>この「4人の百姓」とは、どのような立場の人たちだったのでしょうか?

                              
(問7の答へ)

8)この片仮名書きの申状を作成したのは、どのような立場の人だったと思いますか?
<ヒント1>この申状は非形式的だし、ほとんど仮名書きだが、少し漢字も用いている。
<ヒント2>4の部分に答を出すカギがある!

                              
(問8の答へ)

百姓たちは、本当に経済的に苦しかったのか?
 
〔資 料〕阿弖川荘上荘の田地面積(課税のための荘園領主側の土地調査の結果による)

        
建久 4年(1193) 総面積 50町 そのうち課税対象の田地数 28,5町
         文永10年(1273) 総面積 37町 そのうち課税対象の田地数 11,3町

(問9)建久4年から80年もたった文永10年には、当然農業技術も進み、実際には上荘の田地面積が
    減少するようなことはありえません。とすると、なぜ上のように総面積が減っているのでしょうか?
  
 
                              (問9の答へ)

◎答と解説
(問1)これは地頭の権限としてやっていることであり、その任免権は幕府が握っているので、百姓たちが訴えて
    も直接に荘園領主(ここでは円満院)側はどうすることもできないからです。
したがって、円満院が任免で
    きる預所としては何も非法は行っていない、と主張しているのです。したたかですね。在地の荘官にとって
    御家人になることのメリットはこうした点にあったのです。

                               
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(問2)これは、3月初めという、1年の農作業の始まりの大切な時期に百姓に逃散されてしまったために、さす
    がの地頭としても1日も早く彼らを復帰させなければならなかったわけで、そのためのゆるやかな対応
    と思われます。
なおこのcは、3月9日付請文の翌日に円満院に出した書状の中で述べています。

                                
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(問3)前年11月とこの年3月、百姓たちは2度にわたって逃散と地頭の非法を告発する行動に出ていることが
    わかります。
つまり、地頭は彼らのこうした動きに対する弾圧という意味で圧迫を強めたとみられます。
    そもそも地頭は、管轄する領内の警察・裁判権を持っていましたから、百姓たちの行動を犯罪とみなし、
    それに対する「正当な」権限の発動をした、ととらえることができます。

                                
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(問4)3月〜10月までの流れをみていくと、本家円満院の地頭湯浅氏に対する圧迫が強まっていることがわか
    ります。特に7月ごろには、湯浅氏は兼任していた上荘の預所職を取り上げられ、9月には新たにその職
    についた従蓮が現地に入ろうとしています。
つまり、地頭が百姓たちに対する締め付けを強化しているの
    は、こうした円満院の動きを意識してのことと考えることもできるのです。


                              
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(問5)問題のところでは紹介していなかったのですが、片仮名書きの申状の11に、地頭たち35人が百姓のも
    とに居座って、1日3度の食事を振る舞わせたり(当時は1日2食)、その他豆や雑穀、馬草まで取り立て
    と、とあります。
これは地頭の「食いつぶし作戦」です。この栗や柿は、百姓たちが逃散して山中などにた
    てこもる時の大切な保存食になったはずであり、地頭はそれをできなくするために、このような挙に出たも
    のと考えられています。


                               
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(問6)まず、この前後で地頭が百姓たちの家をたびたび襲っていることからして、百姓たちから出かけて納めよ
    うとしている点が疑問です。さらに地頭に激しく抵抗している阿弖川荘内の村々はかなり近接しており、
    「日が暮れたから」
仲間の家に泊まったというのも考えにくい行動です。
つまり、これらの記述はすべて
    あやしいということになり、それは地頭が彼らを襲ったことが地頭側からみて相当正当性のあることであ
    ったことを逆に推測させるのです。ある研究者は、これは中世では禁じられている夜に百姓たちが逃散
    などのための密議を開いていて、地頭は警察権を行使してそれを取り押さえようとしたことを示しているの
    では、と説いています(関係史料に夜討ちで多くの農民が討たれたという記述あり)。


                                (次へ)

(問7)この4人は抵抗する百姓たちの代表者と考えられます。したがって地頭側からみれば張本人たちという
    ことになり、荘内からの追放に価する犯罪人になります。一方、百姓たちからみれば彼らは自分たちの
    代表として危険を覚悟で行動したわけですから、彼らが安堵されなければ絶対に納得できないわけです。
    戦国期の例ですが、村の身代わりとして処罰された犠牲者に対し、村は彼らの家の税を永久に免除し、
    苗字を与えるなどという手厚い補償をしていたことがわかっています。
この場合でも、4人の張本百姓と
    
その他の百姓たちとの強い連帯感が感じられます。ただし、これが荘園領主側から組織された面もある
    という指摘もあります。

                             
   (次へ)

(問8)当時、山から材木を切り出して荘園領主に納めるのは百姓たちが担当しており、地頭はこのことには直接
    タッチできなかったようです。4に「わずかに残った人夫を山へ行かせようとすると」という記述があり(原文
    は「わずかに漏れ残りて候人夫を、材木の山出しえ出で立て候えば」)、これによればこの申状の書き手
    が行かせようとしたわけですから、
史料の上では「番頭」などと表現されている百姓の中の有力者であった
    と考えられる、彼らは片仮名と少しの漢字を習得していた可能性が高い、とある研究者は述べています。


                                (次へ)

(問9)これはあくまで荘園領主側が把握した数字ですから、実際には百姓たちが数字を偽っているか、この80
    
年の間に少しずつ彼らが特権として自らの取り分を増やしていったものと考えられます。実は片仮名書き
    の申状の第1条に「臥田(ふせた)」というのがあって、これは領主による田数調査の際に、臥料(勘料とも
    いう)を払って帳面に記載するのを見逃してもらった田のことなのです。農民にはこうした領主権力の把握
    を免れた田が相当あったと考えられるのです。

※これらの問題と答、解説は石井進『中世を読み解くー古文書入門ー』(東京大学出版会、1990年)、
 黒田弘子『ミミヲキリ、ハナヲソギー片仮名書百姓申状論ー』(吉川弘文館、1995年)等をもとに作成
 しました。

◎このテーマは、拙著『疑問に迫る日本の歴史』(ベレ出版、2017年)にも掲載しました。

    
 
                      
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