江戸時代の百姓は本当に貧しかったか?

○江戸時代の百姓についての常識的なイメージは、「武士階級から厳しく年貢を取り立てられ、ぎりぎりの生活を
  強いられていた人々」
というようなものではないでしょうか。そして、これを根拠づけるものとして、五公五民など
  という厳しい年貢率、そして何と言っても次のような史料があげられるでしょう。

  「百姓は財の余らぬ様に、不足なき様におさむる事道なり」(『本佐録』本田正信著ヵ)
  「胡麻の油と百姓は、絞れば絞るほどいずる物也」(享保期の勘定奉行神尾春央の言葉とされる)

  
しかし、よく考えてみると、このような種類の言葉を根拠に、それをそのまま実態と理解するのは甚だ危険
  ではないでしょうか?以下、具体的な事実をもとに考えていきましょう。


○教科書には、「農民の負担する税は、田畑・屋敷にかけられる本年貢が主で、収穫の約40%(四公六民)前後
  を、米や貨幣でおさめた。その他…これらの負担はきわめて重く、また税は貧富にかかわらず同率であったか
  ら、百姓の生活は一般に貧しかった」(Y社)とあります。


(問1)幕末期、信濃国更級郡川中島平五ヵ村の年貢率は実際にはどれくらいだったと思いますか?

                             (問1の答へ)

○では、なぜこんな負担率になったのでしょうか?
 〔1〕大規模な新田開発
     江戸時代初め、日本各地に都市ができて、慢性的な米不足の状態となりました。このため米商人などが
     藩に申請し、多額の資金を投入して多くの農民(二男、三男)を呼び集めて新田開発を進めました。これ
     により例えば越後の高田藩の米の生産高は、20万石も増えました。農民が生産した商品米は、商人の
     手により大坂・江戸などの大消費地に送られていきました。
                     

領主用の米 32万俵
  商品米   

(問2)上の表は、宝永7年(1710)新潟港から積み出された越後国内各藩の蔵米と農民が販売した
    商品米の量を示しています。果たして何万俵だと思いますか?


  ア)7万俵   イ)17万俵   ウ)37万俵   エ)70万俵

                         
 (問2の答へ)

※なお、大規模な新田開発は江戸前期で終わり、中・後期は鉄製農具の改良・普及、施肥技術の向上、めざま
  しい品種改良などによって既存の田畑での収益の向上が見られました。


 
〔2〕中世末以来行われていた商品作物栽培
     
農民は、はじめ自給していて、次第に余りができてそれを商品化したわけではありません。戦国期以来、
     その土地に何をつくって販売すれば一番得かを考え、「四木三草」(茶・桑・漆、楮<こうぞ>、麻、紅花、
     藍)や綿、菜種、煙草など、
幕府や藩が作付け制限令を出したにもかかわらず、本年貢の対象外となった
     収益性の高い商品作物を栽培しました。
(問3)例えば最盛期、綿作がさかんだった摂津・河内の村々で、全耕地に占める綿の作付け率はどれ
    くらいだと思いますか?
       
ア)17%   イ)27%  ウ)47%   エ)70%

                        
(問3の答へ)

△定免制は本当に農民を苦しめたのか?
  
・定免制とは、過去数年間の収穫高を基準に年貢を定める方法で、享保の改革(18世紀前半)以後、全国に
   ひろがりました。これについて教科書は
「これにより収入の安定を図るとともに、租率を引き上げて年貢を増
   徴した」
と説明しています。
  
・実際の例を見てみましょう。島全体が天領(幕府領)である佐渡の場合です。
    享保4年(1719)
      奉行所:この年の年貢額を、享保元年、2年、3年の検見年貢(稲穂の実り具合を検査して額を決定)
            の平均をとって定めると農民側に通告。
      農民側:全村名主が協議。享保3年は大豊作で年貢額が多かったので、計算からはずしてほしいと
            願い出る。
      奉行所:農民の要求を認め、正徳5年(1715)、享保元年、2年の平均額として30810石を納入年貢
            額と決める。
    享保6年
      奉行所、全村名主に「定免制がよいか、検見制がよいか」と尋ねたところ「定免制にしてほしい」と言って
      きたので、この年から3年間を定免制と決定した。
(問4)このように、農民の方が定免制を希望したのです。自分たちに不利益な方法を選ぶはずはありま
    せん。では、なぜ彼らは定免制を希望したのでしょうか?
    
 <ヒント>今までの学習をふまえて考えて下さい。

                               
(問4の答へ)

5)では逆に、なぜ農民は検見制を嫌ったのでしょうか?
<ヒント>検見ということは、つまり役人が村に入って、米のでき方を調べるということです。

                           
 (問5の答へ)
 
                                     

6)上記佐渡の例で、もう1つ「実際の年貢の決め方」について注目すべきことは何でしょうか?

                           
 (問6の答へ)

江戸後期農法の水準
・実際の江戸後期における米の生産力はどの程度だったのでしょうか。このことを知るために好都合なのが、
 坪刈帳(検見のため村内の上・中・下田を任意に1坪ずつ選び、その収穫量を調べて記録したもの)です。
(問7)幸い、長期間にわたって坪刈帳が残っていた甲斐4ヵ村、伊豆・越後それぞれ1ヵ村計6ヵ村の
    収穫量について、「江戸中期〜明治30年平均」と「明治31年〜昭和2年平均」を比べ、平均
    約何倍に伸びていると思いますか?
    
     
ア)1.1倍    イ)2.2倍   ウ)5.5倍   エ)13.3倍


                            
(問7の答へ)

8)このことは、明治・大正期の米の生産力が大して伸びていないと言うよりも、逆にどういうことが
    考えられるでしょうか?

                            
(問8の答へ)

年貢率算定の基準〜検地
  
・幕府が行った総検地は慶長検地、寛永・慶安検地、寛文・延宝検地、そして最後が元禄検地です。
   一方、諸藩もほぼこれと同様な状況です。

(問9)このことから気づくことがないでしょうか?
<ヒント>最後が元禄検地ということは…


                              
 (問9の答へ)

10)ということは、一般に「五公五民」とか「四公六民」などと呼ばれる年貢負担率について、推測
     できることは何でしょうか?

                               (問10の答へ)

どっちが貧しい!?農民と武士
  
ある佐渡の「貧農」佐藤九左衛門(約八反の水田所有)と佐渡奉行所の「中級」役人(もちろん武士)の
   年収を比べてみましょう。

(問11)両者の年収を現在のお金にあてはめると、それぞれ次のうちどの金額にあてはまると思い
     ますか?
  
ア)50万円   イ)100万円   ウ)150万円   エ)200万円
  オ)300万円  カ)500万円   キ)700万円

                               
(問11の答へ)

◎答と解説
(問1)形式的な年貢率(年貢米の量を検地帳上の村の米の生産高<村高といいます>で割ったもの)は
    48.2%で、これだと確かに「五公五民」です。しかし、
実際の年貢率は10%にも満たないのではない
    か、という研究者の意見があります。なぜこれほどにまで違うのか?それは以下に見ていくことにします。

                               
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(問2)答は
エの70万俵です。実に領主米の2倍以上にのぼっています。米は村で生産される最大の商品だった
    のです。
「検地帳の面積と年貢の率を計算して、百姓の手元に残る米はほとんどない、というような結論を
    導き出している日本近世史の常識はどこかでまちがっている」
と、ある研究者は指摘しています。

                               
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(問3)答はエの70%です。江戸時代の庶民生活(衣食面)は向上し、衣料の原材料は江戸初期に麻から綿へ
    転換、綿作が盛んになりました。また生糸の中国からの輸入禁止にともなって、国内の養蚕業も興隆、
    これにより綿・絹織物業が展開、藍・紅花などの染物作物の需要を大幅に増加させました。
    綿は熱帯作物で高温と十分な日照時間を必要とします。日本へは室町中期ごろに伝えられました。江戸
    時代の綿作は当初は畿内・山陽道筋が栽培の中心で、中期以降には田地にも綿や菜種を作付けするよう
    になり、
検地帳に見られる耕地の用途とは大きく異なる農業経営がなされるようになったのです。

                                
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(問4)定免制が採用されるようになった享保期、
農業生産は安定し、農民は自分たちの手元に確実に作物
    が残る自信があったと考えられます。
検見制ではその都度年貢率が変えられてしまうわけですから、
    手元に残る量が減る危険性がありました。定免制採用以後、確かに幕府へ納められる年貢は増えま
    したが、例えば佐渡の場合、従来の水田からの増加は微々たるもので、
多くは新田開発による増収
    した。そして実際、佐渡では定免制の切り替え年ごとに幕府は百姓に年貢の引き上げを要求しますが
    抵抗にあい、ついに寛延年間(1748〜50年)に検見制に戻し、これにより1万2千石の年貢増徴を
    命じているのです。つまり、
江戸時代の百姓たちは、定免制の採用で、年貢が軽くなったことを喜んで
    いたのです。

                              
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(問5)
検見制が様々な政治腐敗を起こしていたからです。宝永7年(1710)、佐渡島の百姓の代表が江戸
    に赴いて提出した訴状には
「江戸から検見にやってきた役人が、村は回るけれども稲の出来は見ない
    で、有力百姓の家で酒盛りをするだけ、宿泊費・酒代はすべて村持ちで、村を回るときはすべて駕籠
    という次第です」
と、そのでたらめぶりを述べ立ててあります。

                               
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(問6)まず、農民が年貢を算定する年の選び方について発言していること、それから百姓が平均額を算出する
    年をいつにするかについて意見を述べ、幕府がそれを認めていること
がきわめて注目されます。
    租税は国家権力の中でも中枢に位置するものであることは言うまでもありません。そのありようについて、
    幕府が一方的に決定しているのではなく、
百姓と幕府が協議しているのです。幕府と農民との関係につ
    いてのこれまでの常識を根本的に考え直すべきではないでしょうか?

                              
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(問7)答はアの1.1倍(正確に言うと1.13倍)。次に実際のデータを示します(数値は平均1坪籾収量<升>)。

    坪刈り地区   記録年代 記録初年〜明30 明31〜昭2 昭3〜昭32 昭33〜昭52
甲斐国巨摩郡上笹尾村 明9〜現在  1.35 1.36 1.79 2.43
甲斐国巨摩郡渋沢村 文久2〜現在 1.70 1.77 1.89 2.42
甲斐国巨摩郡長坂上条村 文化13〜昭49 1.37 1.94 1.98 2.63
甲斐国巨摩郡小池村 文化6〜現在 1.23 1.47 1.64 2.24
伊豆国田方郡八幡村 文化14〜現在 1.64 1.91 2.11 1.96
越後国蒲原郡下和納村 文化9〜現在 1.49 1.46 1.87 2.88

                             平均1.46    1.65
 
※これを見ると、江戸中・後期〜明治中期までと、明治中期〜昭和初期の収量が、ほとんど差がないことが
   わかります。伊豆八幡村などは現在に至るまでそれほど変わっていないことに驚かされます。

                                
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(問8)
むしろ江戸中期以降明治中期までの生産力は、従来何となく考えられていたようにそれ以降と比べても
    それほど見劣りするものではなかった、ととらえるべきではないでしょうか?

                                
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(問9)開発された新田以外の従来からの水田についての検地は、江戸前期で終わっているということです。
    
                                 
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(問10)検地は村単位で行われ、村内の田・畑・屋敷の三地目の面積を測り、それをすべて1反当たりの米穀
     生産量である石盛(こくもり)で評価し、それを村全体で合計して村高(村全体としての
公式の生産高
     というのが決まります。
     ということは、この村高が
元禄以降ず〜っと変わらずに年貢率を決める際の基準になるわけですから、
     実際にはその後の村の生産高は当然アップしていくわけで、
実質的な年貢負担率とは当然農民にと
     って好都合な方向でずれていくわけです!
     
さらに、既に見たように農民は繭、生糸、綿、小豆、粟、野菜などの商品作物もつくって収入を得ていま
     すし、農産加工業の1つである酒造業の収入、農閑期の別の仕事、出稼ぎ(必ずも貧しいからしたとは
     言い切れないようです)などの賃金収入などもありましたから、これらを含めると、実質的な税率は問1で
     やったように10%未満になってしまう、というわけです!!


                                
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(問11)
「貧農」がオの300万円、「中級」役人がイの100万円です。まず前者は、米の取れ高は享保14年
     (1729)で27石9斗で、「公式」の取れ高より16%強多い数字です。この他、縮(ちぢみ、織物)の
      収入がひと冬で2〜3両、駄賃稼ぎ(馬を連れて街道荷物の運送をする)で約3両、煙草栽培で3両、
      こうしたものを合計すると、1両=10万円換算で、約300万円にもなります。
      一方、後者の「中級」役人の収入は米12石4斗、米1石を76500円で換算して約95万円にしかな
      らず、しかももっぱらの消費者であって、他に何も生産しない彼の収入はこれのみで、これで家族と
      奉公人を養い、住まいを維持し、さらに役職に関わる経費をまかなわなければなりませんでした。

      ある研究者は「百姓は…金をたくわえ、それを生産に投下しなければならなかった。江戸時代の百姓
      家が広い敷地をもち、その敷地の中に納屋や立派な土蔵をもつのは、彼らが食べ物を倹約し、粗末な
      衣服をまとったことの結果である。粗末な衣服を身にまとっていることをもって、
彼らを一方的に貧者と
      決めつけてはならない
」と述べています。深く考えさせられる指摘です。

※これらの問題、答と解説は、佐藤常雄+大石慎三郎『貧農史観を見直す』(講談社現代新書、
  1995年)、田中圭一『百姓の江戸時代』(ちくま新書、2000年)、同『村からみた日本史』(同、
  2002年)などをもとに作成しました。いずれも目から鱗がとれる書物です。是非読んでみて下さい。

◎このテーマは、拙著『疑問に迫る日本の歴史』(ベレ出版、2017年)にも掲載しました。

                      
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