○大正初期〜昭和初期の一般会計歳出及び軍事費
年 | 一般会計歳出額 | 一般会計軍事費 | 割合(%) | 年 | 一般会計歳出額 | 一般会計軍事費 | 割合(%) |
1915(大正 4) | 583,269 | 182,168 | 31.2 | 1926(昭和 1) | 1,578,826 | 434,248 | 27.5 |
1916(大正 5) | 590,795 | 211,438 | 35.8 | 1927(昭和 2) | 1,765,723 | 491,639 | 27.8 |
1917(大正 6) | 735,024 | 285,871 | 38.9 | 1928(昭和 3) | 1,814,855 | 517,237 | 28.5 |
1918(大正 7) | 1,017,035 | 367,985 | 36.2 | 1929(昭和 4) | 1,736,317 | 494,920 | 28.5 |
1919(大正 8) | 1,172,328 | 536,687 | 45.8 | 1930(昭和 5) | 1,557,863 | 442,859 | 28.4 |
1920(大正 9) | 1,359,978 | 649,758 | 47.8 | 1931(昭和 6) | 1,476,875 | 454,616 | 30.8 |
1921(大正10) | 1,489,855 | 730,568 | 49.0 | 1932(昭和 7) | 1,950,140 | 686,384 | 35.2 |
1922(大正11) | 1,429,689 | 604,801 | 42.3 | 1933(昭和 8) | 2,254,662 | 872,620 | 38.7 |
1923(大正12) | 1,521,050 | 499,071 | 32.8 | 1934(昭和 9) | 2,163,003 | 941,881 | 43.6 |
1924(大正13) | 1,625,024 | 455,192 | 28.0 | 1935(昭和10) | 2,206,477 | 1,032,936 | 46.8 |
1925(大正14) | 1,524,988 | 443,808 | 29.1 | 1936(昭和11) | 2,282,175 | 1,078,169 | 47.2 |
注)単位は千円。「割合」とは歳出額に占める軍事費の割合のこと。
(問1)上の表は、日本の大正〜昭和初期にかけての一般会計歳出額、一般会計軍事費とその割合
について示したものです。これを見て気づくことは何でしょう?
<ヒント>割合の変化に注目!
(問1の答へ)
(問2)上の答の原因として考えられることは何でしょうか?以下の年表から注目記事を探して下さい。
(問2の答へ)
1914(大正 3)G対独宣戦布告(第1次世界大戦に参加
15(大正 4)@中国に対華21カ条要求提出
18(大正 7)Gシベリア出兵宣言 H原敬内閣成立
19(大正 8)Eベルサイユ条約調印
21(大正10)J原敬暗殺。同じ政友会の高橋是清が組閣。
Kワシントン会議で4ヵ国条約成立
22(大正11)A海軍軍備制限条約成立。9ヵ国条約成立しワシントン会議終了
23(大正12)H関東大震災
24(大正13)@第2次護憲運動開始
25(大正14)C治安維持法公布 D普通選挙法公布
28(昭和 3)E張作霖爆殺(満州某重大事件)
30(昭和 5)Cロンドン海軍軍縮条約調印、統帥権干犯問題起こる。
31(昭和 6)H満州事変
32(昭和 7)D5.15事件
33(昭和 8)B国際連盟より脱退
34(昭和 9)Kワシントン海軍軍縮条約破棄をアメリカに通告
36(昭和11)A2.26事件 J日独防共協定締結
○日本は日露戦争の「勝利」後、満州地域への勢力拡大、日韓併合、第1次世界大戦への参加、など軍事
拡大政策を進めていたわけですが、なぜそうした日本の抑制をめざすアメリカによって主宰されたワシントン
会議に参加し、またその軍縮条約締結に同意したのでしょうか?
□世界的な建艦競争時代
・19世紀末〜1910年代、世界は空前の軍事拡大の時代に突入していきました。特にアメリカの海軍軍人・
史家のマハンが唱えた、いわゆる「マハン理論」(「海上権力」<海軍力・造船能力・経済力・根拠地などを総合した
力>の拡充による制海権の掌握こそが、膨張主義的世界政策を成功させるための要である、とする)に基
づき、いかに他国より強力な軍艦(特にこの当時戦力の中心と見なされていた戦艦)をつくるかという、いわ
ゆる大建艦競争時代がやってきたのです。
・この中で、常に世界をリードしていたのは、やはりイギリスでした。特に1906年12月に完成させた、いわゆる
ドレッドノート型戦艦(弩級戦艦)は、排水量18,110トン、12インチ主砲10門を搭載しつつも、蒸気タービン
エンジンの採用により従来の装甲巡洋艦なみの21ノット(約40キロ)の速力を誇る、建艦史上革命的なもの
でした。
(問3)弩級戦艦1隻は、主砲のみで比べて弩級戦艦以前の戦艦1隻の何倍の攻撃力を持っていると思い
ますか?
ア)1.15倍 イ)1.30倍 ウ)1.85倍 エ)2.50倍
(問3の答へ)
・ドイツ、アメリカなどが追随して弩級戦艦をつくる中、イギリスは1912年、13.5インチ以上の主砲と防御力を
強化した大型戦艦(排水量22,000〜30,000トン)、いわゆる「超弩級戦艦」を完成させ、再び他国をリード
しました。
□日本も建艦競争に参加
・日露戦争後、ようやく自前で軍艦をつくれるようになった日本も、こうした建艦競争に参加していきました。
(問4)しかし、たとえ日本が新式戦艦をつくりはじめたとしても、完成以前の段階で旧式戦艦になって
しまうことがありました。それはなぜでしょう?
<ヒント>上の説明を読めば、簡単ですよね。
(問4の答へ)
(問5)例えば、1921年(大正10)に完成させた戦艦陸奥の建造費は、現在のお金に換算していくら
くらいだと思いますか?
ア)16億円 イ)160億円 ウ)1600億円 エ)5600億円 オ)1兆6000億円
(問5の答へ)
※ワシントン会議の直前、日本はこうした戦艦を16隻もつくろうとしていたのです!!
(問6)大建艦競争時代の初期、日本の経済状況はきわめて良好で、この膨大な財源を必要とする
競争も可能ではないかと政府・軍の要人たちに思わせてしまいました。しかし、1920年にな
ると、恐慌がおこり、日本の財政は逼迫しました。これらの原因は何だったでしょうか?
<ヒント>年表へ戻りましょう。
(問6の答へ)
↓
もうおわかりのように、日本がワシントン会議で主力艦の建造を10年間建造禁止することを盛り込んだワシン
トン海軍軍縮条約に調印したのは、国家財政に余裕をなくし、これ以上の特にアメリカとの軍拡競争を続ける
ことが困難だった、という経済的事情があったためなのです。
もちろん、その他にも幾つかの要因がありました。
◇ 第1次世界大戦の直後で、世界に平和と軍縮を求める雰囲気がありました。
◇ 日本をめぐる国際関係の激変
・日露戦争後、日本はイギリスとロシアとの提携を深めていくことを国際政治上の基軸としていました。
ところが、イギリスは戦争には勝ったものの極端に疲弊し、世界最大の帝国の地位をアメリカに譲り、
ロシアに至っては1917年の革命によって消滅してしまったのです。日本はこのままでは世界から
孤立することとなり、アメリカとの協調がどうしても必要だったのです。
◇ 加藤友三郎全権(海軍大臣)の功績
当時日本海軍では、仮想敵国アメリカの強大な海軍力に対抗するためには、少なくとも対米7割以上の
主力艦保有が必要という主張が強かったのです。その1人、加藤寛治中将は、会議の主席随員で、全権
である加藤にもこれを強力に主張しました。しかし、加藤はワシントン会議第2回総会において「日本は
アメリカの提案が各国国民の負担を軽減し、かつ世界平和に貢献するものと信じ、喜んでこれを受諾
する」旨の演説を行い、会議の大勢を決定づけました。
当時、海軍内において日本海海戦当時の連合艦隊参謀総長だった加藤の権威と統制力は絶大で、反対
派もこれに服さざるをえなかったのです。
(なお、反対派は後に「艦隊派」と呼ばれ、加藤の流れを汲む「条約派」と対立、1930年のロンドン海軍軍縮条約の際は、統帥権
干犯問題を起こすのです)
◇ 駐米大使幣原喜重郎の活躍
この加藤と信頼関係に結ばれていたのが、後に外相としていわゆる「幣原外交」を展開する幣原喜重郎
でした。彼は日米交渉が決裂寸前に至った際に「自分は軍事問題は素人だが」と言いつつも交渉妥結
のための私案を米国務長官ヒューズに提示し、(加藤は無理だと思った内容でしたが)了承を取り付ける
ことに成功したのです。
(問7)加藤全権の決断を可能にしたのは、当時の国内の政治情勢も関係していました。それはどのよう
なことですか。上の年表を見て答えて下さい。
(問7の答へ)
□会議で譲歩したのは日本だけか?
・この会議を開催したアメリカの真の目的が、日本の軍事拡大を抑制することであったことは間違いありま
せん。
・ところで、この頃、日米は本格的な対立状況にはなっていませんでしたが、将来的にそうなる可能性もある
(現にアメリカではカリフォルニアで日本人移民排斥問題が起きていました)ため、日本がアメリカを仮想敵
国としたように、アメリカも対日作戦計画(いわゆるオレンジ計画)を策定、そこではグァム島への要塞基地
建設が作戦遂行上、極めて重要とされていました。
(問8)ところがワシントン会議で締結された、いわゆる四か国条約の第1条には「締約国は互いに太平洋
方面の島々の属領地に関する権限を尊重すべきことを約す」とあります。ということは、この条約は
アメリカにとってすべてプラスとなった、と言えるでしょうか?
(問8の答へ)
◎答と解説
(問1)一般会計に占める軍事費の割合が、1921(大正10)年の49%をピークに、その後下がり、大正末期〜
昭和初期にかけては30%を切っていることが注目されます。
(次へ)
(問2)これは当然、1920〜21年にかけて行われたワシントン会議での決定によって、軍縮が実現したから
です。
(次へ)
(問3)答はエの2.5倍です。弩級戦艦は、10門の主砲のうち8門を左右どちらかに、6門を前方に一斉に向ける
ことができました。それまでのいわゆる前弩級戦艦は左右ならば4門、前方ならば2門しか使えませんでし
たから、2倍と3倍を平均して2.5倍です。
(次へ)
(問4)いわゆる前弩級戦艦をある国が「最新鋭」と信じて造り始めても、その途中でそれを大きく上回る弩級戦艦
が他国で造られ始めた時点で、既に旧式艦になってしまうからです。軍艦において速度や主砲の数が上回
るものと戦うことは、絶望的に不利だったのです。
(次へ)
(問5)答はオの1兆6000億円です。国家予算を基準に算出しました。当時の国家予算が15億円、その中で戦艦
陸奥の建造費は3000万円でした。これは国家予算の2%にあたり、現在の国家予算を80兆円とすると、
この数字が出てきます。
この当時GNPにして9.7倍のアメリカを相手に正面から建艦競争を挑み、国家財政の半分を軍事費(3分
の1を海軍費)につぎ込んでもまだ足りない、というようなとんでもない状態でした。
(次へ)
(問6)第1次大戦による、いわゆる「大戦景気」で、日本の経済状況が大きく好転しました。1914(大正3)年には
31億円だった農・水産業、鉱工業の生産額が、1919(大正8)年には119億円つまり3.8倍に伸びまし
た。しかし大戦後、ヨーロッパ諸国の復興が進んで、その商品がアジア市場に再び出回るようになると、
日本経済は一気に悪化したのです。
(次へ)
(問7)加藤の出発時、首相は「平民宰相」原敬でした。原は、第1次大戦後、戦争が総力戦の時代に入ったこと
を認識していました。国防の充実は彼の4大政策の1つでしたが、今まで見てきたような軍拡競争により
国家財政が危機的な状況であったこと、そして時あたかも世界的な軍縮の傾向があることを察知した原は
次のような意見を述べています。
「一般国民は再び戦争が起こることを非常に心配しており、いつかは軍縮の問題が湧きおこる」
(『原敬日記』大正8年9月)
「元来軍備というものは相対的なものだから、列国の協調によってこれを制限することには異議はないし、
これによって幾らかでも国民の負担を軽くすることができれば、最も喜ばしい」
(「立憲政友会北信大会に於ける演説」大正10年10月)
原はワシントン会議開催直前の1921(大正10)年11月4日に、東京駅で暗殺されますが、彼のこの方針
は、次の高橋是清内閣に引き継がれていきます。
(次へ)
(問8)アメリカも日本を仮想敵国としていました。ということは想定される戦場は当然太平洋ということになります。
太平洋上には大戦後に日本がドイツから引き継いだ島々がありますが、これを排除することはできなくな
りました。
また、アメリカ側が対日戦にとって必要なフィリピンやグァムへの前進基地をつくることもできなくなったわけ
です。
つまり、相手国の軍事力を抑えるために、アメリカもまた自らの軍事力及び戦略に少なからぬ制約を課さな
ければならなかったのです。決して一方的に日本にのみ不利というような内容ではありませんでした(但し
日本国内の強硬派にとっては話は別ですが)。
またアメリカは、会議の冒頭で国務長官ヒューズが爆弾発言をしました。彼はアメリカの海軍計画を述べた
後、これを制限するために即時現在建造中の主力艦15隻を廃棄してもよい、と述べたのです。これには
日本を始めとした満場の喝采を受けました。アメリカ側にも自らの軍縮について、相当な覚悟が必要だっ
たのです。
◇なお、普通こうした大規模な国際会議では、入念な予備折衝や下工作がなされ、ある程度めどがついた
段階ではじめて本会議開催となるのが慣例ですが、この時はほとんど予備折衝もなく、また会議の細か
な議題さえ決まっていませんでした。こういう状態では豊かな実りを期待することは相当困難なはずです
が、終わってみるとほとんど誰もが予想しなかったような成果を得ることができたのです。
※これらの問題と答、解説は、山田朗『軍備拡張の近代史』(吉川弘文館、1997年)、川田稔『原敬
と山県有朋』(中公新書、1998年)、野島博之『謎とき日本近現代史』(講談社現代新書、1998年)
岡崎久彦『幣原喜重郎とその時代』(PHP研究所、2000年)、『日本歴史大系16』(山川出版、1997
年)などをもとに作成しました。
◎このテーマは、拙著『疑問に迫る日本の歴史』(ベレ出版、2017年)にも掲載しました。
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