真珠湾攻撃指揮官の苦悩〜連合艦隊司令長官山本五十六


○日米戦争の開幕を告げる、昭和16年(1941)12月8日の日本海軍によるハワイ・真珠湾攻撃は大戦果をあげました。この作戦の立案から実
  戦指揮にあたったのが、ときの
連合艦隊司令長官山本五十六(いそろく)大将でした。その山本が、開戦直前に次のような言葉を残しています。

  「日米戦争は世界の一大凶事であって、日本としては対中国戦争に続き強敵を新たに得るのは誠に国家の危機である。日米両国お互いに
   傷ついた後、ソ連やドイツが世界制覇をめざしたら、どこの国がこれを防げようか。…日本が尊重されるのはわが海軍が実力を保持している
   場合のみであり、ゆえに日米正面衝突を回避するため両国はあらゆる策をめぐらす必要がある」

                                                  (昭和15年夏ごろ、ドイツとの同盟問題に関する意見書、提出先不明、意訳)

  「目下ワシントンで行われている日米交渉が成立した場合は、出動部隊に引き揚げを命ずるから、その命令を受けた時は、たとい攻撃隊の
   母艦発進後であっても直ちに反転、帰航してもらいたい」

                                                  (昭和16年11月13日、岩国での真珠湾作戦の説明と打ち合わせの際の発言)

    

   このように、山本は
最後まで対米戦には反対でした。その山本がなぜ、先陣をきることになってしまったのでしょうか?
   そしてまた、「真珠湾奇襲」と言われることがありますが、本当に
単なる思いつきの突飛な作戦だったのでしょうか?

山本五十六関係年表

・明17(1884)新潟県長岡に生まれる。
・  37(1904)海軍兵学校卒業(第32期)。
・  38(1905)日露戦争に従軍。日本海海戦に参加、負傷。
・大 8(1919)駐米武官。
・  10(1921)海軍大学校教官。
ワシントン会議で日本の主力艦はトン数で米英5に対し3に抑えられる。
・  13(1924)霞ヶ浦航空隊副長兼教頭。
・  14(1925)駐米武官。ミッチェルの対艦爆撃実験について日本海軍に報告。
・昭 3(1928)空母赤城艦長。
・   4(1929)ロンドン軍縮会議随員(この間に少将に昇進)。
・   5(1930)航空本部技術部長。
・   8(1933)第1航空戦隊司令官。
・   9(1934)ロンドン軍縮会議予備交渉代表(この間に中将に昇進)。
・  10(1935)
1月九試単座戦闘機、8月九試中型攻撃機完成。12月航空本部長。
・  11(1936)12月海軍次官。
・  14(1939)8月連合艦隊司令長官兼第1艦隊長官。
・  15(1940)11月大将に昇進。
・  16(1941)12月真珠湾攻撃を指揮、大戦果を得る。
・  17(1942)6月ミッドウェイ海戦を指揮、大敗。
・  18(1943)4月中部太平洋ソロモン諸島上空で戦死(死後、元帥)。

○ワシントン会議後の日本海軍の国防方針
  大正12年(1923)に改訂(第2次)された「帝国国防方針」では明確にアメリカと将来戦うとの判断が示され、「用兵綱領」にも対米戦の
  シナリオが次のように記されました。

   
海軍は開戦初期に速やかに東洋にある敵艦隊を制圧するとともに、陸軍と協力してフィリピン、グァムの敵海軍根拠地を破壊し、
   その主力が東洋方面に来航したら、その途中で順次その勢力を減殺
(げんさい、少なくしていくこと)することに努め、機を見てわが
   主力艦隊をもってこれを撃破する
(一部意訳)

(問1)日本海軍は、日露戦争での日本海海戦の大勝利を模範とし、それまでは艦隊決戦主義(戦艦を中心とした艦隊が一気に全戦力を集中して
    
 進出してきた敵主力艦隊を迎撃して決戦を挑む)にこだわってきました。しかしそれがなぜ「漸減」→決戦という風に変わってしまったので
    しょうか?

 
<ヒント>ワシントン会議の結果結ばれた軍縮条約の内容はどんなものだったでしょうか?

                                    (問1の答へ)

 
 しかし、「漸減」の段階で日本は主力艦である戦艦を投入することはできません。艦隊決戦のために温存しておかなければならないからです。

(問2)以下の表を見て、気がつくことは何でしょうか?
 
<海軍主要艦艇の年度別完成数>

戦艦 空母 巡洋艦 駆逐艦 潜水艦
1917 (1)2   (2)
1918 (1)1   (2)
1919 (1)  (3)2    3    2
1920 (4)1  (3)1   13    4
1921 (2)1  (3)4   12    
1922   1  (6)3   10    
1923    3        
1924  (4)1        7
1925  (2)3        
1926            5
1927   1  (2)2        
1928   1  (2)1        
1929 (1)    3        5
1930    4    3

( )内は起工数 ※巡洋艦=戦艦と駆逐艦の中間的な攻撃・防御力をもつ。艦隊決戦では戦艦とともに主力部隊を形成。魚雷を装備し、機動部隊
                  ・船団の護衛、上陸作戦の擁護などを任務とする。
           ※駆逐艦=水雷艇が大型化したもの。速力・砲力も優れ、遠距離航海が可能。魚雷を装備。商船団や機動部隊の直衛、対潜水
                   艦攻撃や防空、陸上砲撃、兵員・物資の輸送などを任務とする。

                                 
問2の答へ

  
 ↓
  こうした状況の中で開かれたのが、ロンドン軍縮会議だったのです。

○ロンドン軍縮会議と日本海軍
(問3)下の表からアメリカに比べて日本の巡洋艦の優れている点を見つけてください。
<日米7,000トン級・10,000トン級巡洋艦の性能比較>

日・古鷹型 米・オマハ型 日・妙高型 米・ペンサコラ型 米・ポートランド型
   排水量(トン)   7,100    7,050  10,000     9,097     10,258
  主砲(口径×門数)  20cm×6  15cm×12 20cm×10  20cm×10   20cm× 9
魚雷(直径×発射管数) 61cm×12  53cm×10 61cm×12  53cm× 6     なし
  最大速力(ノット)    34,5     34,0    35,5      32,5      32,5
   1番艦完成年    1926     1923    1928      1930      1933


                                  問3の答へ

 
しかし、会議の結果結ばれたロンドン海軍軍縮条約では、日本の大型巡洋艦は対米6割に抑えられ、潜水艦も現有量から32%も削減
 しなければならなくなりました。これを海軍軍令部が要求している対米戦「所要兵力」と比べてみると、巡洋艦は「所要兵力」14隻に2隻
 足りない12隻に、潜水艦は63隻の3分の2の42隻に減らされることになります。反面、軽巡洋艦や駆逐艦は現有より多い数字が認め
 られました(このように軍縮条約とは一部軍拡をも含むことがあります) が、海軍内の対米強硬派(いわゆる艦隊派)は、自分たちの主導
 で作成した
漸減→決戦の作戦が不可能になると大きな危機感を抱きました。
 
 なお、山本五十六はこの会議の随員として参加し、また結果的には物別れに終わった1934年のロンドン軍縮会議予備交渉では
 日本政府を代表して交渉に当たっており、この前後に国際法について相当な勉強をしたと言われています。

 さて、海軍はロンドン会議以後、条約の範囲内で可能な限りの手段を用いて既成作戦プランを維持しようと図りました。
   @補助艦個々の性能の向上(重武装・高速化) 
   A条約で制限されていない水雷艇など小艦艇の重武装化
   B航空機の開発・生産(後述)
(問4)それとあともう1つ、どんな手段を用いたでしょうか?
<ヒント>今は○○ではないが、あらかじめ…

                                  (問4の答へ

○航空主兵論のめばえと山本五十六
  航空機がただ飛ぶだけではなく、戦力として戦史に登場するのは第1次世界大戦後のことです。日本海軍もこのことに注目し、1910年代
  後半から航空隊の設置や飛行訓練を開始しました。1921〜23年、アメリカ陸軍准将ミッチェルは、空爆によって戦艦など各種艦艇を撃沈
  する実験を行いました。
(問5)このミッチェル実験と山本五十六との関係を上の<山本五十六関係年表>から探してください。

                               
問5の答へ

 
 これからの海戦は、戦艦同士が主砲を撃ちあうようなものではなく、航空機による対艦攻撃が主流になる、という航空主兵論は、当初まっ
  たく異端の軍事思想であり、したがって海軍部内でも意見対立はありましたが、その一方で徐々に航空予算は増加されていきました。
  例えば1923年から30年の間に、航空予算は実に47,9%も伸びています。
  また、航空機生産は当初まったくの外国依存でしたが、1919年には民間で生産をさせることとしました。新鋭機開発のためには年1回の
  予算に縛られる官営工場では無理であるとの判断があったためです。

(問6)1920年代、主力艦の主砲の射程距離はどのくらいだったでしょうか?
  
 
         ア)1,300m   イ)3,000m   ウ)13,000m   エ)30,000m

                               
問6の答へ

 
海軍は昭和2年(1927)以降、航空部隊による艦艇攻撃訓練を始めていましたが、昭和9年(1934)には魚雷攻撃で夜間でも70%の命中率
 (昼間では前年度に88,4%!)を得て、大いに自信を深めました。


(問7)こうした航空機及び戦闘技術の向上と、山本五十六との関連を伺わせることを上の<山本五十六関係年表>から探してください。

                               
問7の答へ

問8)次の表を見て、零式艦上戦闘機(いわゆる零戦)が同時期の他国の戦闘機と比べて優れていた点をあげてください。
<各国主力戦闘機の性能、1940年当時>

        戦 闘 機 名 馬力 全備重量 最高速力 航続力 兵装(機銃口径×装備数)
三菱/A6M2零式艦戦21型  940 2336kg 533km 2220km 20mm×2、7,7mm×2
グラマン/F4F−3ワイルドキャット 1200 3176kg 531km 1360km 12,7mm×6
スーパーマリン/スピットファイアーMk.T 1030 2415kg 571km  805km  7,7mm×8
メッサーシュミット/Bf109E−1 1050 3010kg 550km  660km 20mm×2,7,9mm×2


                                  問8の答へ

問9)零戦は、山本が指揮する真珠湾攻撃の中心的役割を果たしますが、その際(問8)でみた長所がどのように生かされた
    のでしょうか?


                                  (問9の答へ

日独伊三国同盟に徹底して反対〜海軍次官時代
  
山本五十六は、昭和11年(1936)12月、広田弘毅内閣の海軍次官に就任します(直接の上司である海軍大臣は永野修身)。以後、林
   銑十郎内閣(海相米内光政)、第1次近衛文麿内閣(海相米内光政)、平沼騏一郎内閣(海相米内光政)と4代の内閣で留任しました。

  ・ときあたかも
日独伊三国同盟締結問題が起こり、山本は同じ意見の米内、さらに昭和12年10月からは最も強硬な対米非戦論者井上
   成美軍務局長とも連携して、
締結反対を貫き通しました。同盟条項の中に、独伊が対英米戦に入ったら日本も自動的に参戦しなければ
   ならないような内容が含まれていたからです。

  ・日本はソ連が対独戦を始めた場合には参戦するが、ソ連中立、第3国(事実上英米を指す)が枢軸国と戦争した場合には必ずしも義務を
   負いたくない。独伊は自動参戦させたい。この駆け引きが続きます。
   このことに関する昭和14年(1939)6月頃の山本次官の発言です。
   
「参戦は各状況によって決まる。…われわれは戦争が起こった場合、はじめから終わりまで何らの責任ももたない。換言すれば、
    われわれは決して参戦しないだろう」

  
・このような言動のため、山本はこの頃陸海軍の主戦派や右翼勢力からさかんに脅迫を受けていました。

○連合艦隊司令長官へ
  平沼内閣の総辞職にともない、山本は海軍次官を辞め、昭和14年(1939)8月30日、海軍実戦部門の最高職である連合艦隊司令長官
  に補せられました。
  ・海軍の一部には山本を海軍大臣にして、日米非戦という意志をより徹底させるべき、との意見もありました。
(問10)このことについて聞かれた米内光政は「山本を無理にもってくると…」、さて、この後米内は何と言ったと思いますか?

                              
 問10の答へ

  
阿部信行内閣の後、米内は組閣の大命をうけ総理として同盟締結を阻止しましたが、陸軍が反発、畑俊六の後の陸相を推薦してこず、
   米内内閣は昭和15年7月、わずか半年で瓦解しました。
  
  ・第2次近衛内閣で吉田善吾海相は諸方面からの圧力で入院、かわった及川古志郎海相は、もう耐えきれずとみて同盟締結に同意して
   しまいました。9月上旬に開かれた海軍首脳会議の席で、
山本は「大臣の処置には従うが同盟を結べば現在全資材の8割を米英からの
   輸入に頼っている。この不足を補う手だては何か」
と及川に問いました。及川は「いろいろ意見もあろうが賛成願いたい」と繰り返すのみで、
   結局一同賛成と言うことになってしまいました。同盟は同月27日、ベルリンで正式締結されました。


  
・同じ時期、山本は近衛首相と荻窪の近衛私邸で面会しています。そこで近衛から日米戦が起こった場合の海軍の見通しについて尋ねられ、
   次のように答えました。
    「それは、是非やれと言われれば、初め半年や1年は、ずいぶん暴れて御覧に入れます。
しかし2年、3年となっては、全く確信は持てま
     せん。三国同盟ができたのは致し方がないが、かくなった上は、日米戦争の回避に極力御努力を願いたい
と思います。」

○真珠湾奇襲と山本の願い
  航空機によるハワイ奇襲構想が、開戦にともなう主作戦として浮上してくるのは、この年11月頃です。山本司令長官は、同月付け及川古志郎
  海相宛ての書簡で次のようにその方針を述べています。
   「日米戦争において第一に行うべきは、開戦劈頭
(へきとう、まっさきにの意味)主力艦隊を猛撃撃破して米国海軍及び国民を救いがたいほどに
    落胆させることである。
…敵主力の大部分が真珠湾に在泊している場合は飛行機隊を以て徹底的に撃破し、かつ同港を閉塞する。」

  日本は、このハワイ奇襲も含め、フィリピン、マレーをも同時に攻撃する必要があったので、それまで日本海軍がとっていた基本的な戦術で
  あった大艦巨砲主義は無効となり、異端として批判の多かった航空戦力に頼らざるを得なくなりました。その技術、装備面を営々と鍛え上げ
  てきたのが、(問7)でみたように、他ならぬ山本五十六だったのです。
山本は、政治的には反対だった対米戦を、結局は自らが育て上げた
  日本海軍の航空戦力で実行する役回りになってしまった
のでした。彼自身、親友の堀悌吉予備役中将に宛てた手紙にこう書いています。
   
「個人としての意見と性格に正反対の意見を固め、その方向に一途邁進のほかなき現在の立場は誠に変なものなり。これも命という
    ものか。」

(問11)山本は、開戦日になぜこれほどまでの大戦果をあげようとしたのでしょうか?
<ヒント>これまでみてきた山本の言動を思い起こせば、何のために大戦果をあげようとしたかわかりますよね。

                                   
問11の答へ

 ※しかし、ほとんどの人々がこの大戦果に浮かれ、敵を軽視し、結局日本は山本が願ったのとは逆の方向に突き進んでしまうのでした。


  
「どんな角度から検討してみても、この奇襲作戦は大成功と思われ、幕僚一同浮き立つ思いを抑えかねている中に、山本一人は、まるで
   吐息でもつきそうな、深く沈んだ様子に見えたということである。」(阿川弘之『山本五十六』より)

◎答と解説
1)ワシントン条約によって、主力艦が対米6割に抑えられてしまったため、決戦以前の段階である程度敵戦力を減らしておかないと、勝利は
    困難である
という判断をするようになったからです。

                                       
 (次へ)

2)主力艦である戦艦は、ワシントン条約により建造停止になっていますが、補助艦である巡洋艦、駆逐艦、潜水艦の建造のペースは衰えて
    いないことがわかります。
その結果、1930年代初めには、巡洋艦保有量がアメリカとほぼ同じの約20万トン、潜水艦も対米9割の保有量
    をもつに至ったのです(含建造中)。

                                        
(次へ)

3)決定的な違いは、日本の方が魚雷発射管が多く、かつ口径も大きいということです。日本の巡洋艦は、対艦攻撃に有効な魚雷を重視して
    いたのです。当時の魚雷は、口径53pというのが国際的標準サイズでしたが、日本は爆薬量を多くするために61p口径の魚雷を装備しま
    した(53p魚雷に比べ1,5倍)。しかもこれを秘密にし、53p魚雷と公表していました。
日本海軍は、主力艦の劣勢を、巡洋艦・駆逐艦によ
    る61p魚雷を使った肉薄攻撃でアメリカ主力艦を漸減させることで補おうとした
のです。したがって高速力も求められました。

                                        (次へ)

4)今は軍艦ではないが、あらかじめ軍艦に改装することを想定して商船をつくったりしました。軍縮条約によって実際に軍縮が進むというような
    ものではなく、各国はその抜け道を探して別の意味の軍拡が行われていたのです。


                                        (次へ)

5)すぐわかるように、当時山本は2回目の駐米武官としてアメリカに滞在していました。このミッチェル実験の経過とアメリカ軍内部の論争
     も含めて、
彼が逐次日本海軍に報告していたのです。彼自身のコメントはありませんが、帰国後、海軍大学校教官時代(大正10年
     12月〜同13年12月)には既に航空主兵論者になっていましたから、山本がこのミッチェル実験から相当大きな衝撃を受けたと想像
     できます。

    
 なお、山本は2回の駐米経験があるため、アメリカの膨大な資源と工業生産力を熟知していました。彼は「デトロイトの自動車工場と
     テキサスの油田を見ただけでも、日本の国力で、アメリカ相手の戦争も、建艦競争もやり抜けるものではない」
と語っています。

                                        (次へ)

6)答はエの30,000メートル、つまり30qです。東京駅から発車ならぬ発射したとすると、大宮駅まで優に届いてしまうことになります。
    したがって、レーダーの未発達な当時にあっては、主力艦にとっても航空機による索敵は必要不可欠となったのです。また軍縮の
    対象外だった大型空母(戦艦や巡洋艦から改装)を保有するようになって、航空戦力の意味合いは一段と大きくなってきました。

                                        (次へ)

7)山本は大正13年霞ヶ浦航空隊勤務を出発点として、以後航空畑を歩んでいくことになります。航空本部技術部長時代、国産の飛行機
     開発に乗り出しますが、なかでも敵の攻撃に対して脆弱な空母に頼る必要のない長大な航続力をもつ地上発進の大型攻撃機を構想、
     昭和10年(1935)には三菱重工が九試中型攻撃機(後の九六式陸上攻撃機)を完成させました。これは航続距離4,380qを有する
     世界的優秀機です。また、同じ年にやはり世界水準に達する九試単座戦闘機が完成、日本海軍は当面の目標としていた航空技術の
     「自立」だけでなく、世界トップレベルの航空機保有という、自らも予想し得なかった目標をも一挙に達成してしまったのです。
     この陸上攻撃機は、後に中国の重慶爆撃や、マレー沖海戦でその力を発揮しました。

                                        
(次へ)

8)まずはその長大な航続力。表には2,220qとありますが、落下増槽を装備した場合は3,500qまで増大します。また世界に先駆けて
    20o機銃を装備している点にも注目できます。防御力が弱いという大きな弱点がありますが、
小型で軽量=操縦性良好、しかも航続力と
    攻撃力は強大なもの
でした。

                                        
(次へ)

9)真珠湾攻撃がどんな戦術だったかをご存じの方は、もうお気づきだと思います。つまり、これは敵の虚をつく奇襲戦法であり、米軍が日本
    軍の来襲に気づくのが早ければ早いほど逆襲を受ける可能性が高くなり、
そうなると空母6隻という虎の子の機動部隊は、ハワイからなる
    べく離れた地点にいた方が、逆襲から逃れやすくなるわけです。したがってそのためには、より航続力の長い航空機であった方がいい、
とい
    うことになります。

                                       
 (次へ)

問10「殺される恐れがあるからねぇ」と言ったそうです。山本は三国同盟締結を主張する勢力から脅しを受けており、彼自身も死を覚悟したよう
      な遺書めいた手紙もこの時期書いています。山本を連合艦隊司令長官にしたのも、そのような暗殺の危険のまずない海上へ彼を置いて
      おきたいという人々の配慮もあった、との説もあります。


                                        (次へ)

問11)開戦前の9月、山本が東京で笹川良一に対して述べたという言葉を紹介します。
     「そりゃ、初めの間は、たこが脚をひろげるように、思い切り手足を広げて、勝って勝って勝ちまくってみせる。しかしやれるのはせいぜい
      1年半だからね(注:ここまでは近衛に対する発言と同じです)。きっかけは、シンガポールが陥落した時だ。シンガポールが陥ちると、
      ビルマ、インドが動揺する。インドの動揺は、英国にとっては一番痛いところで、英国がインドを失うのは、老人が『あんか』を取られる
      ようなものだ。
しかし、そこを読んでしっかりした手を打ってくれる政治家が果たしているかね。
      
      
つまり山本は、日米戦はある程度の戦果をあげたところで講和に持ち込む以外に手はないと考えていたわけです。しかも、山本の
      考えていた講和条件は、勝ちいくさのさなかに日本側から持ち出すものとしてはかなり譲歩した内容だったようです。

      
実際にシンガポールが陥落した2ヶ月後の昭和17年4月、山本は桑原虎雄少将に対し「今が政府として和を結ぶ唯一の、絶好の
      チャンスじゃないのか。日本としてそれを切り出す以上は、
領土拡張の気持がないことをよく説いて、今まで占領した所を全部返して
      しまう、これだけの覚悟があれば、難しいけど、休戦の成立の可能性はあるね。
しかし、政府が有頂天になってしまっているからなぁ
      と言ったそうです。

※この問題と答、解説は阿川弘之『山本五十六』(新潮社、1973)、山田朗『軍備拡張の近代史』(吉川弘文館、1997)、
 テオ・ゾンマー『ナチスドイツと軍国日本』(金森誠也訳、時事通信社、1964)などをもとに作成しました。


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