江戸時代の飢饉と百姓一揆を見直す


○江戸時代には、しばしば飢饉が起き、またこうした飢饉を背景として、百姓一揆が起きました。このことに関して、ある教科書は次のように説明し
 ています。

 「農民は、租税の減免や、専売制度の緩和・撤廃を要求したが、財政難の領主は農民の要求にほとんど応じなかったので、しばしば百姓一揆
  起こった。この時代の百姓一揆は、一般農民を指導者として広範囲の農民が団結した大規模な一揆となった。幕府や諸藩は農民の要求の一
  部を認めることもあったが、多くの場合は指導者を厳罰に処し、武力で鎮圧した…百姓一揆や打ちこわしは一時的暴動に終わることが多かっ
  たが、たびかさなる一揆によって、封建社会の基礎は大きくゆらいだ」

 しかし、本当にこうしたとらえ方でいいのでしょうか?これでいくと、重税に耐え切れぬ農民の暴動←強大な権力による弾圧で終結、その一方で
 集まった農民数の多少、権力側の狼狽ぶりを指摘して「封建権力の揺らぎ」へ結びつけていく、というだけの理解になってしまい、それ以外の内
 実には目が向けられなくなってしまいます。以下、考えていきましょう。

1)右肩上がりの「百姓一揆の発生件数」グラフの不思議

(問1)教科書・資料集に必ずと言っていいほど掲載されているこのグラフは、江戸時代前半には発生件数は少なく、後半になってどんどん
    増えていくことを示しています。しかし、何か不思議な点はないですか?
 
<大ヒント>江戸時代前半には、税は低かったのでしょうか?

                                     
問1の答へ
)飢饉はすべて天災か?

 江戸時代、飢饉(ききん、農作物が実らず、食べ物が不足して
飢え苦しむこと)がしばしば起こったと言われています。なかでも有名なのが、次の
 3つです。
 @享保の大飢饉(享保17,1732年、西日本一帯でうんかが大発生)
 A天明の大飢饉(天明2〜7、1782〜87、東北地方中心、冷害による)
 B天保の大飢饉(天保4〜10、1833〜39、多数の餓死者、農村荒廃)

 
しかし、これらの飢饉は本当に天災だけが理由なのでしょうか?
(例1)寛永19年(1642)佐渡は不作でした。しかし飢饉は農村には起きず、佐渡銀山の中心地相川で餓死者が出たのです。これは?
(例2)宝暦5年(1755)佐渡は冷害に見舞われ、翌年飢餓が襲いました。ところが…
(問2)この時、餓死者が出たのは幕府勘定奉行管轄の代官の支配地で、老中管轄の奉行所の支配地では餓死者は出ませんでした
   (寛延の一揆があった1750年以降、幕政初期からの後者に加えて民政取り締まりのため前者が設置されていました)。これは
    なぜだったと思いますか?
 
<ヒント>たまたま代官支配地の方が冷害がひどかったということではなさそうです。だとしたら…

                                    
 (問2の答へ

 
○飢饉発生のメカニズム
   
@農村に貨幣経済が深く浸透し、農民たちの消費支出は拡大傾向にありました(例えば生産拡大のための金肥や備中鍬など進んだ道具の
     購入など)。これは不作の年でも急には縮小できない性格のものでした。
   Aその一方で…

元文4(1739) 17俵
延享1(1744) 23俵
延享4(1747) 25俵
寛延3(1750) 26俵
宝暦2(1752) 28俵
宝暦5(1755) 27俵
宝暦7(1757) 30俵

(問3)上の表は、佐渡で幕府が商人に売り出した米(払米)が、10両(約100万円)でどれくらいの量が売れたかを示したものです
    (1俵は一升瓶40本分)。これを見て気づくことは何でしょう?

                                     問3の答へ


問4)上の答と上の@を結びつけると、飢饉の原因の1つが見えてきます。それは何でしょうか?

                                    
 (問4の答へ

3)百姓一揆の「常識」の嘘を暴く!?(ちょっと過激?)
@一揆が起きる理由の嘘
  百姓一揆が起きた最も常識的な理由は「年貢の重圧」でしょう。確かに、一揆の訴状の全てには「年貢が重くて生活が立ちゆかない」と
  いった台詞が書かれており、これを史料的根拠としてそのように信じられてきたのです。

  しかし、ここに年貢が一気に2倍になったのに一揆が起きなかった、という実例があるのです!
   元禄5年(1692)、佐渡奉行荻原重秀(後に勘定奉行)は、全島の村名主を奉行所に集め、田地を実際に耕作している者の名前とその
   収穫高を申告させました。2年後、この申告を基に検地を実施し、その結果年貢はそれまでの2万3千石から4万石へ、つまり約2倍には
   ね上がりました。
(問5)この時、さすがに減免などは一部で認められましたが、大幅な年貢の増収がありました。しかし、それにもかかわらず反対一揆
    は起きませんでした。それは1つには申告した土地が自分の土地として正式に認められたためですが、もう1つの理由は何だと
    思いますか?
 
<ヒント>もう1度、問題文の上の文章を読んでみて下さい。


                                     
問5の答へ

   寛延3年(1750)、佐渡で大きな騒動が起こりました。この2年前に幕府は突如、役人を派遣して田んぼの検見を実施し、その結果5150
   石の年貢増加を決めました。さらにこの前年に幕府は、それまでの定免法では生産の増加分を年貢増加に結びつけにくいという判断から
   享保年間(1710年代)以降、百姓の強い要求におされて採用していたこの定免法をとりやめ、再び検見法に復帰することを決めていまし
   た。

   これは
幕府側から見れば、政策の転換ということですが、百姓側から見れば、長い間行われてきた約束事を一方的に破棄されたことを
   意味します。このため百姓の代表は江戸への越訴を行ったのです。この時最初につくられた訴状には「5150石の年貢増加は
約束違反
   「その後の奉行の検見による年貢増加も不当」などとあって、(年貢量に目がいきがちですが)要は
幕府の不当を訴えているのです。

A一揆は無秩序な行動だったのか?
   明和3年(1766)の大洪水による不作に見舞われた佐渡の三ヵ村の百姓から奉行所に嘆願書が提出されました。その内容は次のような
   ものでした。
    「私たちの村は年貢米を納める際、縄や俵が粗末で受け取れないと言われた。そこで取り替えて納めたところ、今度は米の質が悪いと
     大部分を突き返されてしまった。そこで今度は悪米を1粒1粒取り除き、精米し直して納めたところ、代官所の御蔵奉行谷田又四郎様は
     …」
(問6)さて、この代官所の役人谷田はどんな仕打ちをしたと思いますか? 
     
     ア)米の量が足りなくなったとまた突き返した。   イ)自分でその年貢の半分をとってしまった。
     ウ)代表の百姓をさんざん殴った。           エ)俵をひらいて米を地面にまき散らした。

                                     
問6の答へ

  
 この仕打ちに怒った百姓は、島の全村に次のような回状を回しました。
   「胴蓑をつけ、編み笠をかぶり、…1人に竹槍1本、…まさかりを10人に1人が持つこと。他にははしご、鎌、武具の類は持ってはならない。
    おちあった時に唄ったり、喧嘩をしてはいけない。相川へ行って、第1に谷田又四郎の館の屋根から石をとり、…屋根を破ること。次に
    代官所の門、役所も同様にすること。奉行所にはいっさい手をかけないこと…」
(問7)上の回状を読んで、気がつくことは何ですか?

                                     
問7の答へ

B一揆は何の成果もない絶望的な行動なのか
   ふつう百姓一揆は、年貢の重圧にぎりぎりのところまで追いつめられた農民が自暴自棄になって立ち上がる、そして結果は首謀者が
   処刑され悲惨な結果に終わる、というようなイメージでとらえられてきたと思います。
ところが、

   
(例1)慶長7年(1602)、佐渡の代官たちは私的に年貢の割り増しを行いました。これを百姓の代表3名が幕府へ訴え、その結果遣わさ
       れた役人が吟味したところ、代官の越度(おちど、ミスのこと)であることがわかり、代官の1人は自殺、もう1人は改易、他2名も免職
       となりました。
百姓側はまったく処罰されていません。

   
(例2)元禄7年(1694)の検地以来、佐渡奉行荻原重秀(前出)の家来が毎年佐渡に渡ってきて、村々を回りました。しかし実際には稲の
       出来具合などは見ず、酒盛りをするばかりでしかもその費用は村々の百姓が負担していました。これを訴えるとたちまち牢屋に入れ
       られ、名主も奉行所と親しく取り次いでくれません。百姓たちは正徳年中(1711〜16年)にこの窮状を幕府より派遣されてきた巡検使
       に密かに訴え、その結果、
当時勘定奉行の要職にあった荻原は罷免されてしまいました。

  
このように、一揆は百姓たちにとって、一定程度以上の成果をあげている場合もあるのです。これまで、幕府政治は幕府の主体的な政策変更
  という形で説明されてきましたが、どうやら
こうした民意に基づいて(もっと極端に言えば押されて)展開していった、と考えた方がよさそうです。
       


C幕府の一揆首謀者への態度
   
確かに越訴や一揆は大罪であり、その首謀者は厳罰に処せられました。そうして処刑された人々に対する幕府の態度は…
  

・上でとりあげた明和の一揆で、首謀者6人が捕らえられ、そのうち訴状をつくった智専という僧侶が斬罪処分となった。
・百姓たちの要求は、かなりの部分で実現した。
・佐渡の村の各所には「憲盛法印供養塔」(智専を供養する塔)があり、最近まで供養の行事が行われていた。
・憲盛法印を描いた掛け軸の中には、佐渡奉行所お抱えの絵師が描いたものもある

(問8)これらの事実から、幕府が一揆の首謀者をどのようにとらえていたと言えるでしょうか?

                
                  問8の答へ



◎答と解説
問1)江戸時代の前半、幕府や藩による年貢の重課や抑圧はなかったはずはありません。つまりこのことは、一揆が単に量的な収奪の
    強化によって機械的に起こるというような現象ではなく
、百姓たちが家計を自立させ、検地帳に名請人として登録され(検地は年貢
    を捕捉されるというマイナス面だけが強調されますが、
農地に対する所有権が公認されるプラス面がありました)、いわば1人前の
    生産者・税負担者・消費者としての主張をもつことで初めて起こる、という性質をもっていたことを示しています。


                                        
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問2早くから設置された奉行所は、佐渡の実状に応じた柔軟な支配を行っており(そのあたりが幕府トップから見れば生ぬるく映ったので
    しょうが)この時も救米の処置などをいち早くとったのに対し、
幕府上層部におもねる勘定奉行配下の代官所は、実態を無視して、冬の
    間は百姓たちの自業自得として何の処置も講じなかったためです
。奉行の中には、これは天災ではなく、明らかに人災だと断じる人さえ
    いたのです。

                                        
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問310両で買える米の量が増える傾向が見られ、これは米価の下落を示しています。これにより農民の収入は減っていきます。 

                                       
 (次へ

問4百姓たちのとめどない支出増加と、米価下落による家計バランスの崩れが、飢饉の背景として浮かび上がってきます。

                                        
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問5百姓自身の申告に基づいた検地であったため反対できなかったのです。つまり、百姓たちは、年貢がある一定の許容量を超えると一揆を
    起こしていたのではなく、それが厳しいものであっても、
百姓たちとの約束に基づいた理にかなったものであれば、一揆は起こさなかった
    とがわかります。なお、これにより幕府は年貢の増収に成功しますが、ここで検地帳に載った小百姓と呼ばれる人々の力によって、村落内部
    の力関係が変化し、村政が彼等の意向によって動かされるという事態になっていくのです。

                                        
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問6答はエの「俵をひらいて米を地面にまき散らした」でした。     

                                        
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問7)百姓側の状況に応じて処置をとった奉行所は攻撃しないこと、とあって、ここで彼等がとろうとした行動が自暴自棄の無秩序なものではなく、
    
明確な目標(この場合はひどい仕打ちを受けた代官所の役人谷田を襲う)をもっていたことがわかります。武器にも制限を設けており、殺人
    を目的にしていないことも判明します。

    
百姓一揆を土民の起こした暴動だというのは、支配者側の言い分です。百姓たちが大変な思いをして納めた米を、土の上にまき散らして恥
    じない蔵奉行の行為が糾弾されたととらえる必要があります。

                                       
 (次へ 

問8)たくさんの憲盛法印の石塔が建立されたことを、奉行所が知らないはずはありません。とすればこれは
許した(少なくとも黙認した)ということ
    になるでしょう。おまけに奉行所お抱え絵師が法印の掛け軸を描いたと言うことは、
奉行所も、智専を時代の犠牲者と思わずにはいられなか
    ったことを示している
と言っていいでしょう。幕府にとって一揆首謀者は決して政治上の極悪犯罪人などとは見ていなかったのです。

※これらの問題と答、解説は、いずれも田中圭一『村からみた日本史』(ちくま新書、2002年)、『百姓の江戸時代』(同、2000年)、
 『帳箱の中の江戸時代史』(刀水書房、1993年・1995年)をもとに作成しました。

                              
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