○江戸時代の学習は、数々の有名な法令や三大改革に代表される幕府の政策などが中心に扱われてきました。
しかし、法令の中身は実態とは異なります(これは今も同じこと)。むしろ、それに反することが多いからそれを禁じる法令ができた
わけで、やや極端に言えば、実態は法令とは逆なのです(例:携帯電話を使いながら車を運転する人があまりに多く、事故が絶え
ないからその禁止令ができる)。
○それに、こうした法令や一連の「改革」と称される政策は、本当に幕府が高い理想をもってつくったものなのでしょうか?
1 田畑永代売買禁止令(寛永20年<1643>)
この有名な法令の目的は「幕府が本百姓の経営を維持し、その没落をふせぎ、年貢の徴収を確実にするため、できるだけ耕地
面積と労力のバランスがとれるようにするため」だったと一般的には説明されています。
そしてこの法令に違反した場合、田畑を売った者は牢屋に入れられた上、追放。買った者は罰金の代わりに牢屋に入れられる
(いずれの場合も本人死亡の場合は子が同罪)と定められています。
ところが!
↓
実際の村に残った史料をみると、この禁令に違反した田地売券(確かに売ったことを証する売り主から買い主に渡す書類)は
いくらでも存在する一方、この法令によって処罰された例をあげることはなかなか難しいのです。
実は、この禁令は、次のような形で出されたのです(一国天領である佐渡国の場合)。
一、庄屋・惣百姓とも、これ以上身分にあわない家をつくってはならない。
一、百姓の衣類はこれまでの決め事のように、庄屋は妻子とも絹・紬(つむぎ)・布木綿を着てよいが、百姓は布木綿だけを着る
ように、この他は襟(えり)・帯などにも絹・紬を用いないこと。
一、庄屋・惣百姓とも、衣類を紫・紅梅に染めてはならない、この他は何色であっても型無し染め物を着ること。
一、百姓の食べ物は常に雑穀を用いること、米をみだりに食べないように申し聞かすべきこと。
一、うどん・切麦・そうめん・そばきり・まんじゅう・とうふなどは五穀の無駄になるから商売はやめること。
一、市中にでてむやみに酒を飲まないこと。
一、田畑をよく手入れし、草も油断なくとり、念を入れるように。もしそうしない百姓がいれば見つけだして処罰する。
一、1人住まいの百姓が病気で耕作できないときは、五人組の百姓はもちろん、一村としても互いに助け合い、田畑を作り取り
入れができるようにすること。
一、庄屋・百姓が駕籠(かご)に乗ることは禁止する。
一、よそから村に引っ越し田畑も耕作しないような者は村に置かないように。もし隠すようなことがあれば罪の軽重をただし、かく
まった者は処罰すること。
一、田畑永代の売買はおこなわないこと。
一、百姓が年貢のことを訴訟するとして在所をあげて欠落(かけおち)した場合は、その者を泊めないように。もし背いた者は調査
の上、処罰されること。
一、仏事・祭礼などで身分にあわないふるまいをしないこと。 <意訳>
(問1)これらを全体として読むと、内容的に法令というより何か違う印象を受けます。それはどのようなものと言えばいい
でしょうか。
(問1の答へ)
ところでこの頃の佐渡は、次のような状態でした。
寛永13年(1636)相川の銀山大洪水。坑内に水が流れ込み、操業がストップする。
15年(1638)たばこの売り上げによる税が3000両に及ぶ
17年(1640)日照りにより農作物不作。年貢は2割減り、税率も2割減とされる。
18年(1641)また大洪水で諸銀山坑内に水が流れ込む。
19年(1642)凶作に近い不作。米不足となり米価高騰。たばこ税この年800両徴収とされる。
20年(1643)金銀山衰える。奉行所、生活苦におちいった市民を鉱山復旧工事に雇用し、救済する。
(問2)これらのことから、「田畑永代売買の禁止」を含む寛永20年の13の御条目は、どのような状況の中で出されたもの
とわかりますか?
(問2の答へ)
(問3)さて、この「田畑永代売買の禁止」令、よ〜く読むと「抜け道」はないでしょうか?
<ヒント>「田畑を永代売ったり買ったりしてはならない」、この「永代」がポイント!
(問3の答へ)
(問4)この「抜け道」に気づいて、「この法令は無意味だから廃止したほうがよい」と幕府上層部へ訴えた、テレビの時代劇
でも有名な人物がいます。その人物とは?
ア)水戸黄門 イ)大岡越前 ウ)長谷川平蔵(鬼平) エ)遠山の金さん
(問4の答へ)
※上の13の御条目でわかるように、田畑永代売買の禁止には、当初罰則規定はありませんでした。これに冒頭で紹介したような
厳しい罰則規定がついたのは、18世紀に法典の編さんが行われた時です。法は形式として厳然と存在しましたが、それを守る
者がいなくても世の中は平和でした。
2 慶安の触書(慶安2年<1649>)
江戸時代を代表する法令と言っていいもので、小学校の教科書以来児童・生徒にもおなじみの内容です。「朝は早起きして草を
刈り、昼には田畑の耕作、晩には俵や縄を作り、油断なく仕事をせよ」など、農民の細かな生活まで幕府が厳しく統制している
ことがわかると説明され、これらのことから江戸時代の農民のイメージが決定づけられていると言っても言い過ぎではないでしょう。
ところが!
↓
不思議なことに、これまで慶安2年当時の現物の法令が全国のどこからも発見されたことがないのです。「どこの誰かは知らない
けれど、誰もがみんな知っている♪」まるで月光仮面のような法令です。そこで、以前からこの法令に関する疑問は研究者に
よってたびたび唱えられてきました。その結果、現在では高校はもちろん、中学の教科書の多くもこの法令を慶安2年に幕府が
出したという記述を控えるようになっているのです。
はたして、慶安の触書とはどのようないきさつで現在のような形で知られるようになったのでしょうか?
○モデルは甲府藩の藩法だった!
ある研究者が平成4年(1992)、「慶安の触書」と同じ条文数(32カ条)、全く同じ内容の法令集「百姓身持之覚書」を山梨県内
のある家で発見しました。年号は元禄10年(1697)で、これまで知られていた類似のものは、天明2年(1782)「百姓身持書」
でしたから、これを一気に85年もさかのぼることになったのです。
この「百姓身持之覚書」は、内容的にも元禄期の甲斐国にふさわしいものであることが確認されています。
○「百姓身持之覚書」にもモデルがあった!
その後、山梨県と長野県で、「百姓身持之事」と題する写本が相次いで確認されました。後者には寛文5年(1665)2月14日に
写されたとありました。ところが内容は、31カ条で見たことがない文章がところどころにあり、いわゆる「慶安の触書」とは異なる
ものとわかりました。すなわち、年代的に考えて、「慶安の触書」のモデルとなった甲府藩法「百姓身持之覚書」の原型が、この
「百姓身持之事」だったのです。
○両者を比べてわかること
・「百姓身持之覚書」(1697)
第5条:朝は早起きして草を刈り、昼には田畑の耕作、晩には俵や縄を作り、油断なく仕事をせよ。
・「百姓身持之事」(1665)
第11条:下人や下女を7,8人も10人も使う百姓は、仕事の指図ばかりで下人に任せっぱなしにして、自分では仕事場に行
かない者がいる。豊かなうちはそれでもいいが、やがて落ちぶれたら、下人もいなくなり、自分で農作業をしなけれ
ばならず、それまでの楽はみな水の泡となる。その時を想像して、ふだんから朝早起きをし、まず下人を草刈りに行
かせ、帰ってきたら一緒に農地に出て、農作業の指図をせよ。そうすれば下人たちも油断なく稼ぐものである。
第12条:農地に出て、明日は雨が降りそうなら、雨が降ったらできない仕事をまずしなさい。本当に降ってきたら、田を耕した
り修理をし、効率よく農作業をしなさい。そして下人には晩に縄をなわせたり、俵を編ませ、どんなことにも油断しない
こと。それから下人の苦労を少しは思いやって、少しは遊ばせたりすること。
(問5)これらを読み比べると、どのような違いに気づきますか?2つあげてください。
<ヒント>1つは全体的な印象。もう1つは同じ百姓でも…
(問5の答へ)
・ところで「百姓身持之覚書」第17条には「少しは商い心を持ち、身上を上げるようにせよ」とあります。
(問6)これはもし慶安2年(1649)に出されたものとしては問題がある、と以前から言われてきました。それはなぜか、わかり
ますか?
(問6の答へ)
○江戸後期における全国的流布
甲府藩法「百姓身持之覚書」の後、しばらくその姿はみられなくなります。しかし18世紀後半の宝暦8年(1758)に、下野国
黒羽藩(大関氏、1万8千石)が「百姓身持之事」の一部を教諭書として採用しました。そしてこの黒羽藩本「百姓身持教訓」は、
周辺の藩や幕府直轄領、旗本領、さらに遠くは陸奥国南部藩領や近江にも伝わっていきました。
その後、文政13年(1830)、美濃国岩村藩(松平氏、3万石)でいわゆる「慶安御触書」として初めて木版出版されます。これ
は全国各地の大名、旗本、幕府代官などに受け入れられ、さらには幕府学問所総裁の林述斎が、当時編纂していた歴代将軍
の正史『徳川実紀』に、3代将軍家光が慶安2年2月26日に発令した全国法令としてこれを収録したのです。ここに、大いなる
誤解が始まりました。
(問7)ところで、岩村藩本「慶安御触書」が諸藩に受け入れられたのは、天保年間(1830〜44)に集中している、という
事実があります。これはなぜでしょうか?
<ヒント>この頃、全国的規模でどのようなことが起こっていたでしょうか?
(問7の答へ)
ここで、岩村藩本「慶安御触書」を受容した藩を列挙してみます。
上野国沼田藩(3万5千石)、遠江国掛川藩(3万石)、米沢藩(15万石)、信濃国千村平右衛門預所(4900石)、備中国
成羽知行所(5千石)、三河国吉田藩(7万石)、上総国柴山藩(5万石)
(問8)これを見て気がつくことを2つあげて下さい。
<ヒント>1つは地域的な問題、もう1つは( )内に注目。
(問8の答へ)
○明治国家と慶安の触書
明治に入ると、慶安の触書は司法省編纂『徳川禁令考』に収録され、活字化されます。このことは慶安の触書を全国幕令として
定着させる最大の原因となりました。
○有名にした最大の立て役者=戦後の教科書
その後、戦時中も皇国史観のもとで、人民支配や人心教化を示す材料として利用され、戦後は農地改革による農民の自立
という民主主義のプラス面を際だたせるため、封建領主の過酷な年貢収奪と共同体規制が厳しかったマイナス面を強調する
目的で歴史の教科書に登場するに至ったのです。
3 分地制限令(延宝元年<1673>、正徳3年<1713>、享保7年<1722>、宝暦9年<1759>)
〜誰がつくったのか?
これは例えば正徳3年令では、生産量10石、耕地1町より少なくなるような耕地分割相続をしてはならないという内容で、
「幕府が耕地分割による農民の没落を防ぎ、本百姓体制<年貢・諸役を負担する正式な農民を中心とする体制>を維持
する目的で発布した」などと説明されています。
ところが!
↓
元禄13年(1700)、越後国魚沼の塩沢村では、入会山(いりあいやま、村人が肥料・飼料・屋根葺き用などの草や薪、
建築用材を採取するために共同で利用する山)の利用をめぐって百姓間の対立が起きていました。その時、次のような
連判状が代官所宛てにつくられました。
入会山を開発して田畑をつくったら早速申請するようにということですが、惣百姓の多くが入会山を開発したら、馬草を
干す場所がなくなるので、開発は許可しないでいただきたい。
しかし、これでも決着はつかず、やがて享保18年(1733)、村人は相談して次のような「村掟」をつくりました。
一、元禄3年時点で、3石以下の高しかもたない百姓は、今後分家を出さないこととする。
一、8月29日以前に水呑百姓(土地をもたない農民)は入会山に入れないこととする。
一、20年間水呑をつとめない百姓は、百姓の相続権を認めない。
一、家にいる伯父や甥はその家から分家をたてない。
一、水呑が家の普請をする時は村に申し出て、村の改めを受けること。
(問9)これを読んで、何か気づきませんか?
<ヒント>特に1番目や4番目の条項は…
(問9の答へ)
同国頸城郡天林村でも同様な村決めを行い、「もし勝手にこの取り決めに背く者がいたら、御役所へ訴えて御指示を願うこと
にした」としています。
かつてみずから新田開発の先頭に立った百姓たちは、ここではそれをやめさせるために村掟をつくり、幕府にその法制化を
求めたのです(言うまでもなく、百姓たち自身に法を出す権能はなく、形式上、支配者側が発令します)。生産社会での状況
の変化が新しい法を必要としたのです。実質的にこの法令をつくる原動力が誰であったかは明らかです。
田中圭一先生は次のように述べておられます。
「村の経済のありようが法をつくり、経済の変化が法を変え、新しい法を生むと考えなければならない。1度出された法がいつ
までも通用していたなどと考えてはならない。法は社会の生きものなのである。」
◎答と解説
(問1)日常の生活姿勢についての道徳的な教えを説いているような内容です。こうしたものに、「本百姓の没落を防ぎ、耕地面積
と労力のバランスがとれるような政策」などという政策目的を付けては、事が大げさになるだけでなく、事の本質を見失わせる
と田中圭一先生は説いておられます。
(次へ)
(問2)何もない中で、幕府が大きな方針に基づいて定めたものではなく、緊急事態に対処する形で出されたものである、ということ
です。鉱山のみさかいのない開発によって、相川の山々に木がなくなり、大雨が降っても山で吸収されずに大洪水になって
しまったこと(これは明らかに人災の面があります)、それにもかかわらず人々の消費水準は上昇し続けていること(たばこの
消費量の増大がその一例)、こうした切迫した状況の中で、幕府の願いは年貢の確保ですから、何とか百姓がぜいたくをや
め(実際には禁令を出しても無理なことなのですが)、年貢の基礎となる農作業が安定して行えるようにすることを書き上げ
たわけです。そしてその中に、田畑永代売買の禁止が含まれていたのです。
(次へ)
(問3)永代、つまり永久ではなく一時的に売るのであればいいと解釈できるわけです。17世紀半ばの村の史料には、年季売り
証文というものがしばしば見られます。3年とか5年と、年季を限って売るのです。この場合、その年季中は買った方が田
地を実際に耕作する場合が多いようです。しかしこれだと売り手が買い戻そうとした時に、所有権が戻りにくいという問題が
ありました。そのためこの年季売りはなくなり、質入れという形に変わっていきます。これは田地を担保にお金を借りる者が
これまで通り耕作を続け、借りた金に見合う金額を金を貸した側に引き渡す、というしくみです(年季売りの方はこうした利息
はありません)。この場合、借りた金を返せなければ、質流れといって金を貸した側に所有権が移ることを認め、その年季は
10年とされました。こうして、田畑の売買方法は永代売りと質地売りの2方法が生まれましたが、前者が禁令の対象となり、
後者はならない、という混乱した状況となりました。
(次へ)
(問4)答はイの大岡越前、すなわち忠相です。江戸町奉行として名高い彼ですが、その後昇進した寺社奉行の任期中にあたる
延享元年(1744)に次のような意見書を提出します。
「質地に出すとは言っても、田畑を質に入れて金を借りなければならないほどの者には、返せる見込みなどあろうはずが
ない。だから質地売りは、永代売りと同じ事だ。なのに一方は罰せられ、一方は許されるというのはおかしい。田畑永代
売買の禁止令は廃止した方がいいのではないか。これがあるばかりに裁判が複雑になる。」
しかしこれに対し幕府は、これまでこれでやってきたのだから、ということでこの意見を採用しませんでした。
(次へ)
(問5)「百姓身持之覚書」の方が一応法令としての形を整えているのに対し、「百姓身持之事」は農民を教え諭すことを目的とする
教訓書にあたります。ここでは下人使用の心得の部分をあげましたが、他にも牛馬の飼育方法など、農業技術の規定などが
長い文章で記されているのが特徴です。
もう1つは、「百姓身持之事」では、朝早く起きて働くのは百姓本人ではなく、彼等が使役する下男・下女たちだったことが
わかることです。つまりこの教諭書が念頭に置いていたのは、下人などの家内労働力を利用して大規模な農業経営を行う
上層農民でした。一般に、中部・東海地方においてこうした上層農民から分離・独立して夫婦2人とその子供で構成される
単婚小家族経営(小農、小百姓)が見られるようになるのが17世紀後半とされています。したがって、「百姓身持之覚書」
が小百姓を対象とする条文に改められているのは、こうした変化に対応しているわけです。
(次へ)
(問6)もしこの御触書が本当に慶安年間のものだとしたら、17世紀前半、つまり幕藩体制の成立当初から商品経済が農村にまで
深く浸透していたこととなり、江戸時代を封建制(日本で言えば農民が米を領主に収めることで成り立つ、商品経済を中心と
はしないシステム)と見なす基本理解を危うくする可能性が出てくるからです。
ところが、実は「百姓身持之事」(1665年)では、この商い心についての原文は次のようなものでした。
「年貢を全て納めるために雑穀類を売らなくてはならず、他人に出し抜かれないためにも、また身上を持ち上げるためにも
商い心が必要だ。しかしそれより大事なのは、昔からことわざにあるように『遠商(とおあきない)をするよりは、冬枯れの
田に水を張って稲株を腐らし、土地を肥えさせ翌年の収穫を上げる方がよい』。」
この青い部分は、「百姓身持之覚書」(1697年)ではすべて削除されてしまっているのです。この部分、商い心は極めて
限定的で消極的にしか使われていないことにお気づきでしょう。やはりこの部分も、17世紀後半に投機的な遠隔地取引
が主流だった状況を反映しているのです。それが17世紀末には克服され、商品経済は広く農村にまで浸透していったの
で、「百姓身持之覚書」ではこの遠商いの部分がとられ、商い心が積極的に農民にも奨められるようになったのです。
(次へ)
(問7)これは天保4年〜7年(1833〜36)に全国的に起こった、いわゆる天保の飢饉との深い関係が考えられます。つまり、慶安
御触書は飢饉対策の一環として諸藩に採用されたのではないかと思われるのです。
ところでこの天保の飢饉は、もちろん天候不順による自然災害が大きな原因ではありますが、餓死者だけで比べると、天明
の飢饉(天明元年〜寛政元年、1781〜1789)の方がはるかに深刻でした。天保の飢饉の時は、飯米になるべき米が酒造
に回されたり、領内の飢餓よりも江戸への販売による利益を優先したりして、人災という面も少なからずあったのです。民心も
変化して幕府に公然と異議を唱えるようになり、各地で一国規模の広域的な民衆蜂起が一揆という形で起こりました。
こうした状況の中で、幕藩領主が、民心を抑える手段として選んだのが、この岩村藩版慶安御触書でした。既に過去のものと
なった、村と百姓の(あくまで領主にとっての)理想像が描かれており、だからこそ領主たちは争ってこれを採用したのです。
(次へ)
(問8)1つは採用したのが、若干の例外を除き、ほとんど全て東日本の幕藩領主であったことです。これはこの御触書が、既に述べ
ましたように、そもそも東日本で成立したために、西日本では適用しにくい内容があった(農業のやり方など)ためと思われます。
そしてもう1つは、採用した藩が、これも若干の例外を除いて、いずれも所領規模の小さい者たちばかりで、いわゆる国持大名
クラスはほとんど採用していないことです。これは小藩が相対的に弱体な統治機構しかもっておらず、その不備を補うために御
触書を利用しようとしたからと見られています。
(次へ)
(問9)村において農民自らが、その危機意識(このままいったらわれわれは共倒れする!)から、分地制限を取り決めていることが
わかります。つまり幕府や藩は、基本的な施策の意図をもっているのではなく(もしもっているのだったら、なぜ幕政初期に分地
制限令にせよ田畑永代売買禁止令にせよ出さなかったのでしょうか?)、村から出てくる要請を調整しているだけなのです。
※これらの問題と答え、解説は、田中圭一『百姓の江戸時代』(ちくま新書、2000年)、同『村からみた日本史』
(同、2002年)、山本英二『慶安の触書は出されたか』(山川出版社日本史リブレット38、2002年)などをも
とに作成しました。
◎このテーマのうち、慶安の触書に特化したものを拙著『疑問に迫る日本の歴史』(ベレ出版、2017年)に掲載しました。
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