○最初にズバリ、聞きます。江戸時代の農民って、休みはあったのでしょうか?あったとすれば、それは年間何日くらい
だったと思いますか?
→(この答えは、とりあえず保留しておきます。その数字を覚えておいて、次に進んでください)
(1)定められた休日数
次の史料は、下野国芳賀郡三谷(みや)村(今の栃木県二宮町)の江戸末期の休日数を示すものです。(現代語訳)
年中休日定日之事
一 正月 元日 二日 三日 七日 十一日 十五日 十六日
一 二月 八日 初午 十五日
一 三月 三日 七日 廿九日
一 四月 八日 十七日
一 五月 五日
一 六月 一日 八日 十五日 廿日 廿一日
一 七月 七日 十四日 十五日 十六日 二百十日
一 八月 一日 十五日
一 九月 九日 十五日 十七日
一 十月 廿日
合計〔 〕日 このうち、正月三日は丸一日休み その他は半日休み
一 十一月 休日無し
一 十二月 休日無し
一 閏月 休日無し
村の休みの日数を書き上げて、提出せよとの命令でしたので、右のとおりで間違いないことをご報告します。
ここで定めた休み以外は、決して休まないことを村人全員承知いたしました。もし、心得違いで休んだ者は、どのような罰でも
お受けいたします。ここに印をおして、その証拠といたします。
天保十三年(1842) 野州芳賀郡三谷村
七月 小前 万右衛門 印
(他二十五人 略) (「海老澤久蔵家文書」)
(問1)上の史料から、この三谷村の1年間の休日を計算してください。
(問1の答えへ)
(問2)同じく上の史料の中で、農民たちに村の休日数を提出するよう命じているのは、どのような立場の人でしょうか?
(問2の答えへ)
(2)実際の農民の休日数は?
同じ下野国都賀郡助谷(すけがい)村(今の栃木県壬生町)のある村役人は、江戸後期に細かく日記をつけており、その中で
年間の休日数を●印で克明に記録していました。以下は、享和2年(1802)の休日数です。
月 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 |
休日数 | 14 | 10 | 8 | 8 | 2 | 7 | 8 | 10 | 9 | 1 | 3 | 2 |
(問3)今度は、この日数を合計してみてください。これが、冒頭の質問の答えとなります!
(問3の答えへ)
休日とは言っても、何のための休みかが記されているものもたくさんあります。例えば、
「ひかん(彼岸)」「初午」「馬作らい」「日光参」「祭礼」「ぼん(盆)」「風祭り」「庚申」「百万遍日待」などです。村の鎮守のお祭りや
農業に関わる行事などが中心でした。
しかし、当然ながら例えばお祭りでは、お店が出たり、興行(見世物など)が行われたりして、現在で言うレジャー的な面もあったの
です。
(問4)ところで、各月の休日数には相当な偏りがあることにお気づきだと思います。例えば、5月や10月が極端に
少ないのは、なぜでしょうか?
(問4の答えへ)
(3)幕府や藩はどう対応したか?
「村の鎮守のお祭り日以外にも、休日と言って農業をせず、遊んでいるということがあるそうだが、大いに間違っている」
(天明4年〈1784〉被渡仰候御書付之写帳、「高橋悦郎家文書」) (意訳)
(問5)上は、宇都宮藩が出した、農民取締令の一部です。この中で、休日を増やしている農民たちを間違っている、と
言っているのはなぜでしょうか?
〈ヒント〉ただ身分が下なのにけしからん、というわけでもなさそうです。百姓が休みを増やすことで領主が最も心配するのは?
(問5の答えへ)
(問6)もし、こうして村で増やした休日に、働いた農民がいたとします。この農民に対し、村の他の農民は、どんな態度を
とったと思いますか?
@「まじめな人だなぁ」とほめる。
A特に何の反応もしない。
B「休日に働くなんて」と文句を言い、村役人に罰してもらおうとする。
(問6の答えへ)
(4)農民の休日が増えたわけは?
日本の耕地面積は江戸初期から中期にかけて大いに伸び、それ以後は明治初期段階までほとんど伸びませんでした。
つまり、江戸期の新田開発は、ほとんど中期までで終わっていたのです。
(問7)では江戸中期以降、農業の生産量をあげるために、どのような工夫がなされたのでしょうか?
〈ヒント〉「千歯こき」「備中鍬」「踏車」なんでしたっけこれ?
(問7の答えへ)
次は、河内の木下清左衛門という人が、天保13年(1842)に著した『家業伝』という書物に掲載された、農事暦と言われる
ものの一部です。
月 | 日 | 稲 作 | 綿 作 | 畑 作 | その他 |
4月 | 1日 10日 20日 晦日 |
田の畦回りの手入れ 畦ごしらえ、苗取り、馬 鍬入れ |
播種 穴肥を施す、最初の中耕、 除草 間引き、綿苗選び(畦1間に 22〜23本立) 中耕、除草、下肥施肥 |
麦の除草 薄肥施肥、菜種刈り取り 大豆播種、菜種の殻・枝 取り(夜業)、麦の穂むしり (女) |
牛の飼料用意、畦に堆肥を積む、 刈草で土肥つくる、土肥積み出し、 かけ肥手配、牛馬糞用意、長おおこ ・とんぼ・穂むしろなどの手入れ |
5月 | 1日 5日 20日 |
田植え 除草開始(7日目ごと に除草)、田草返し 除草・畦塗り |
畦肩の除草、綿苗選び(17 〜18本立)、土寄せ、 中耕、除草、土寄せ |
麦刈り、麦の乾燥 薩摩芋の苗植え付け、麦 藁取り、麦の脱穀 畑に灰施肥 |
堆肥の積み上げ、冬作の細肥をつく る、田の畦の手入れ |
6月 | 1日 20日 |
四番草(株間の除草) 五番草(畦間の除草) 六番草(株間の除草) 施肥、落水して地固め |
土肥・人糞尿施肥、三番肥、 摘芯 |
苧の畦肩の草削り、灌水 大豆植え付け |
タン子・柄杓の手入れ、 菜種・米の売り物に心を配る |
(『図録農民生活史事典』柏書房より)
(問8)これを見て、どのようなことに気づきますか?
(問8の答えへ)
(問9)問7と8から、江戸後期以降の農民たちが、多くの休日を村で定めた理由を説明してください。
(問9の答えへ)
◎答えと解説
(問1)一応、32日となります。一応、としたのは、1月3日以外は半ドン(今は懐かしい言葉?)ですので、これを0.5日に勘定
すると、16.5日となります。かなり少ないですね。
(次へ)
(問2)これはもちろん、領主です。なお、三谷村は、幕府天領の時期と、旗本松平氏領の時代とがありました。
(次へ)
(問3)落ち着いて計算すれば、82日とわかります。「万日記」によれば、年によって日数は変動しており、この享和2年(1802)
という年は、その中で最も多い日数です。しかし、その他の年もそれほど大きな変化はなく、寛政11年(1799)から文化
7年(1810)までの10年余りの平均休日数は、73日になります。これは、問1でみた、領主に申告している日数より、は
るかに多いことが注目されます(もちろん時代も場所も違いますが、「公式」の休日と、実際の休日にかなりの差があった
ことは間違いないようです)。
(次へ)
(問4)これもおわかりですよね。5月は田植え、10月は稲刈りの時期ということで、いわゆる農繁期に当たるので、休んでは
いられないわけです。
(次へ)
(問5)領主の最大の眼目は、安定した年貢収入を得ることです。そのためには、農民が多く休んで、農業に支障が出るようでは
困るわけです。間違っている、というのはあくまでも領主側の立場に立った判断です。他の史料に書かれていますが、休
みが多いと、自然とだらだらとした暮らしとなり、遊びにうつつをぬかし、治安も乱れる、と言っています。
(次へ)
(問6)答えは、Bです。実は、紹介した宇都宮藩の風紀取締令の中に、「休日稼ぎ(村で定めた休日にも働くこと)をした者が、他
の村民から責め立てられた場合、役所へ遠慮なく訴え出るように」と書かれているのです。ということは、実際にそうして責
め立てた者がいた、ということが推定できるわけです。こうして村の総意として決められた休日は、きっちり守るということが
村内では求められていたことがわかり、注目されます。
(次へ)
(問7)ヒントにあげたものは、農業生産力をあげるために開発、改良された農具です。この他、お金を出して肥料を買い、もうほぼ
限界点に達していた田畑で、今度はいかに単位面積当たりの収穫量をあげるかの努力がなされるようになりました。いわゆ
る集約的農業の始まりであり、この流れは基本的に昭和まで続きました。
(次へ)
(問8)季節ごと、時期ごとに実に細かい農業スケジュールが決められていたことがわかります。これを1つ1つ気を抜かずにこなして
いくことには、大変細かな神経と忍耐強い努力が必要だったはずです。
(次へ)
(問9)これまでみてきた集約的な農業技術の発展は、農民たちに「研究的な態度で一生懸命集中して農業に励む」という生活習慣
を身につけさせ、その結果として、休日は増やすものの、それ以外は厳しい勤労を強制する、という村の体制ができてきたこと、
村は独自の機能によって、住民たちに勤労と休養のバランスを保たせていたこと、がわかります。
〔参考文献〕
・これらの問題と答え、解説は、阿部昭他『栃木県の歴史』(山川出版社、1998年)、佐藤常雄・大石慎三郎『貧農史観を見直す』
(講談社現代新書、1995年)などをもとに作成しました。
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