承久の乱は、御家人どうしの争いだった!?

 鎌倉時代の前期、承久3年(1221)に起こった承久の乱は、幕府と後鳥羽上皇との争いでした。これは、天皇・貴族・寺社などの
 いわゆる旧勢力と、成立して間もない武家政権との正面衝突であり、後者が勝利したことによって、幕府の支配は西国にまで及び、
 いよいよ強固なものとなった、と理解されています。
 確かに乱は、短期間に幕府軍の勝利で終わりましたから、そのような印象を持ってしまいがちですが、本当にこうした理解で正し
 いのでしょうか?
 この「御家人どうしの争い」というテーマの中に、乱の背景と意義をより深く考えるためのカギが隠されています。以下、検討してい
 きましょう。
                                〔承久の乱関係年表〕

    年                         で    き    ご    と
正治元(1199)
   2(1200)
建仁3(1203)
元久元(1204)
   2(1205)
建暦2(1212)
建保元(1213)
   2(1214)
   3(1215)
   6(1218)
承久元(1219)


   3(1221)

@源頼朝死去。C2代頼家の権限を制限、御家人13人の合議制を定める。
@梶原景時、討伐され、敗死。
H北条時政、比企氏を討ち(比企氏の乱)政所別当となる。頼家、伊豆に幽閉され、実朝が将軍となる。
F頼家、伊豆で殺される。
E時政、畠山重忠父子を殺す。閏F時政失脚、義時が執権となる。
A後鳥羽、延暦寺衆徒の反園城寺の行動を制止。
D義時、侍所別当和田義盛を滅ぼす(和田合戦)。G後鳥羽、延暦寺衆徒の反清水寺の行動を制止。
C延暦寺衆徒、園城寺を焼く。G後鳥羽、在京武士に命じ興福寺衆徒の上洛を防がせる。
B後鳥羽、今度は延暦寺領を荒らした園城寺衆徒を捕らえる。
H延暦寺、領地をめぐって強訴。
@将軍実朝、頼家の遺児公暁に暗殺される。B後鳥羽、幕府に摂津国長江・倉橋両荘の地頭の罷免を
要求(幕府これを拒否)。E九条道家の子、頼経を鎌倉殿とする。F大内守護源頼茂が上皇方の武士に
殺される。
D上皇、兵を集める。義時追討の宣旨を諸国に下す。幕府軍、鎌倉を出発。E尾張川の一戦で京方敗北。
宇治・瀬田の戦いで京方大敗、幕府軍入京(承久の乱)。F後鳥羽上皇を隠岐に、順徳上皇を佐渡に配流。
土御門上皇も土佐にうつる。


1 幕府軍の「楽勝」だったのか?
 戦闘そのものは、わずか2ヵ月で決着したため、幕府の大勝は最初から約束されていたように理解している方も多いと思います。
 しかし、
 ・幕府首脳の作戦会議の際、はじめ大方の意見は、箱根・足柄の関を守って徹底抗戦すべし、という消極策だったが、大江広元
  は京都攻撃という積極策を主張した。
 ・結局大江案が採用されたものの、兵の集まりを待っている間に慎重論がまた強まってきたため、あらためて大江と、重病の三善
  康信も即時出兵を唱えた。そこで直ちに北条義時の子、泰時がわずか18騎でひとまず鎌倉を出発した。

(問1)さらに、東山道軍として進軍した武田信光は、美濃東大寺まで来たとき、同僚の小笠原長清に次のように話したと
    言われます。
      
     「鎌倉方が勝てば(      )、京方が勝てば(      )というのが弓取る身の習いだ」

    さて、この2つの(      )内にはどのような言葉が入るでしょうか?

                                  (問1の答えへ)

 
幕府は、なぜそれほどまで朝廷を恐れたのでしょうか?

    年                 で   き   ご   と  
文治元(1185)
正治2(1200)
建仁元(1201)
I源義経、朝廷より頼朝追討の宣旨を得る。
@鎌倉を追われた梶原景時、鎮西管領の宣旨を賜ったと称し、反乱を企てる。
@城長茂、源頼家追討の院宣を求めたが、許されず。


(問2)このことに関して、上の年表から気がつくことはないでしょうか?
〈ヒント〉反乱を起こした(起こそうとした)武士が、共通して行ったことは?

                                  (問2の答えへ)

 西国における御家人
 (1)西国御家人の数
     『吾妻鏡』によると、文治元年(1185)10月、義経との関係が決裂した時、頼朝のもとに集まった東国15国の御家人の
      数は、主な者だけでも2096名いました(単純に一国平均にすると138人)。

(問3)これに対し、例えば鎌倉初期の播磨国(現在の兵庫県)の御家人は、ズバリ何人いたと思いますか?

                     
          
 (問3の答えへ)

 
(2)御家人へのなりかた
(問4)西国武士と東国武士では、御家人へのなりかたについて、大きな違いがありました。その違いとは?
    〈ヒント〉そうですねぇ、後の時代で例えれば江戸幕府における旗本と御家人に違いが参考になるかも? 


                                  (問4の答えへ)

 在京御家人が後鳥羽上皇方についたわけ
  ・後鳥羽上皇方についた武士の代表としては、藤原秀康があげられます。秀康は、河内・大和付近を根拠地とし、幕府の
   御家人とはならず、一族みな北面・西面の武士として院に仕え、数国の国司を歴任しました。
  ・また、御家人の中にも後鳥羽上皇方についた武士がかなりいました。御家人には大きく分けて、「鎌倉中」(ふだん鎌倉
   に住む東国の有力御家人)、「在京」(ふだん京都に住む御家人)、在国の御家人がいました。

(問5)このうち在京御家人は、御家人最大の義務である、京都大番役を免除されていました。それはなぜか、わかり
    ますか?

    〈ヒント〉発想を逆転させて考えてください

                                  (問5の答えへ)

 
 ・幕府の地方支配の要(かなめ)である守護の中にも、京方についた者がかなり出ました。下にあげたのはそのリストで、
   (   )内は、管轄した国名を示します(一部推測も含む)
    
・大内 惟信(美濃、伊賀、伊勢、越前、丹波、摂津)
    ・佐々木広綱(近江、長門、石見)
    ・小野 盛綱(尾張)
    ・安達 親長(但馬、出雲)
    ・後藤 基清(播磨)
    ・宗  孝親(安芸)
    ・佐々木経高(淡路)
    ・佐々木高重(阿波)
(問6)これを見て、気づくことは何でしょう?
    〈ヒント〉国名に共通することは?

                                 
 (問6の答えへ)

 乱の意義〜幕府権力は「圧倒的に」西国にも及んだのか?
 (1)乱は旧勢力全体によるものだったのか?
     例えば、旧勢力の1つ、畿内の有力社寺について見てみましょう。

(問7)承久の乱の際、延暦寺は、敗色の濃くなった上皇から出兵を求められましたが、これを拒否しました。それは
    なぜか、冒頭の年表からヒントを探して答えてください。

                                  (問7の答えへ)

   
同じように藤原氏などの貴族たちも、寺社ほどではないにせよ、乱に際しては傍観者的な態度をとっています。さらに天皇
   家内でさえ、上皇の子である土御門などはほとんど積極的に動きませんでした(幕府も乱後、後鳥羽と順徳は配流としまし
   たが、土御門には沙汰はなく、自らの意志で土佐に赴いたのです)。
   これらのことをあわせ考えると、上皇の挙兵は、上皇とその近臣たちの間で密かに進められたもので、旧勢力あげての動き
   とはなりえなかったようです。

(問8)このことをふまえると、乱後の幕府の全国支配に関してどのようなことが言えるか、考えてみてください。
〈ヒント〉旧勢力の中でも後鳥羽とその一派だけが失脚しただけですから…

                                  (問8の答えへ)
 (2)「御家人どうしの争い」の意味は?
   既に今までのところでも、「東国御家人VS西国御家人」という構図があったことがわかりました。その他、2つの面を見てい
   きましょう。
(問9)次のA・Bグループとしてあげたのは、いずれも乱に際し京方として戦った武士たちです。それぞれに共通することは
    何でしょうか? 
      
○Aグループ
       ・勝木則宗(筑後武士、梶原景時の乱に参加)
       ・糟屋氏(相模武士、比企氏と姻戚)
       ・和田朝盛(乱を起こし敗死した和田義盛の孫)
       ・三浦胤義(2代将軍源頼家と近い関係にあった)

      
Bグループ
       
・二位法印尊長、一条信能(頼朝の妹婿一条能保の子孫)
       ・熱田大宮司家(頼朝生母の実家)
       ・大内惟信(源氏一族)

                                 
 (問9の答えへ)

◎答えと解説

(問1)
 鎌倉方が勝てば
鎌倉につき、京方が勝てば京方につく、と言ったのです。これは『承久記』に見える話で、事実かどうかはわかり
ません。しかし、『吾妻鏡』にも6月14日、雨で増水した宇治川を渡ろうとして急流に押し流され、幕府軍800騎以上が水死した際、
大将北条泰時は「今においては大将軍死すべきの時なり」と、いったんは自害を覚悟していたことが書かれています。後世から見
れば盤石の幕府軍のように思えますが、幕府が成立して約30年、まだまだその政権基盤は不安定だったようです。

                                   
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(問2)
 
いずれの武士も、幕府に対して兵を起こそうとする際に、天皇の命令である宣旨をもらおうとしている点が共通していることに気づ
きます。それだけ幕府は、天皇の存在を恐れ、天皇を敵に回すことを極力避けようとしていたわけです。


                                    
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(問3)
 答えはたったの
16名です。他に、建久7年(1196)の若狭で33名、承久3年(1221)の淡路13名、正嘉2年(1258)の和泉30名、
弘安8年(1285)の但馬で43名というデータがあります。東国に比べて、いかに畿内・西国の御家人が少ないかがおわかりになると
思います。


                                   
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(問4)
 東国武士の場合は、直接将軍に会って臣従を誓い、これに対し将軍から本領安堵の下文を与えられるという手続がとられました
が、支配地域の拡大という状況の中で行われた西国武士の場合は、(物理的に将軍が西国にいないということもありましたが)将軍
の代官が御家人になることを望む武士たちの交名(きょうみょう、人名を書き連ねた名簿のようなもの)をとりまとめて幕府に送り、こ
れに対し将軍が下文を出すという、簡略な方法がとられたのです。これでは、将軍への強い忠誠心が期待できませんよね。

 
      
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(問5)
 
もともと在京御家人の主な仕事が、洛中を警護することだったからです。旧勢力の支配が比較的強く及んでいた畿内の治安維持
は、院の命令によって彼らが行っていました。ですから、御家人とは言っても実質的には院の家来のような形で仕事をしていたわけ
です。もちろん、その見返りとして院は、大寺院や貴族などから「荘園整理」の名目で取りあげたことなどによって築いた膨大な自ら
の所領(名目は娘や親しい女性、寺院の領地としました、たとえば八条女院領や長講堂領など)から、彼ら在京御家人たちにも恩賞
を与えました。つまり、
彼らは幕府と院と二重の主従関係を結んでいたことになるのです。

※なお、こうした院の強引な所領集積の動きが、幕府への地頭罷免要求へとつながっていきました。しかし、幕府にとって御家人の
 地頭職を保証することは、いわば生命線でしたから、強く拒否しました。このあたりが、対立の大きな原因になっていきます。


                                   
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(問6)
 
守護として管轄している国が、尾張以西の畿内・西国である、という点に気づきます。つまり、「御家人どうしの争い」のなかみの1
つは、御家人による東西対決だったのです。


                                    (次へ)

(問7)
 
延暦寺は、他の有力寺院などとの争いに際して、院からたびたび制止を受けており、おまけに前にもあげましたが荘園整理の名目
で、領地を削減されたりもしていたため、後鳥羽上皇には相当反感を持っていたと考えられています。

                                    
(次へ)

(問8)
 
後鳥羽上皇と距離を置いた天皇家、大寺社、貴族勢力は、なお厳然として生き続けましたから、乱後、幕府がこれら旧勢力に対し
圧倒的な力を持ったとは言えなくなるわけです。

 また、よく京方所領3000カ所を没収したと言われます。確かに量的に幕府の西国への支配は拡大したわけですが、質的な面では
新しさはありませんでした。さらに、新地頭の得分も、多くは没収前の先例にならったようなのです。
 このように、承久の乱に勝利したことの幕府にとっての成果を、あまり過大に評価することには問題があります。

                                    
(次へ) 

(問9)
 まずAグループは、北条氏が幕府内で実権を握っていく過程で起きた、幾つかの乱の犠牲者に関連した人物である点が共通して
います。次にBグループは、いずれも源頼朝、頼家など源氏将軍家関係の人物です。
両方とも、北条氏が執権政治を確立する上で
除外された人々であること
にお気づきでしょう。実朝は後鳥羽上皇とは融和的な部分を持っており、上皇も実朝の死後に挙兵している
点に注目すべきです。この乱が「御家人どうしの争い」と言ったもう1つの意味は、「北条対反北条」ということでした。


※なお、これらの問題と答え、解説は、石井進『日本の歴史7 鎌倉幕府』(中公文庫、1974年)、同「鎌倉幕府論」(旧岩波講座『日本
  歴史』中世1、1964年)、上横手雅敬『日本中世政治史研究』(塙書房、1970年)、山本幸司『日本の歴史9 頼朝の天下草創』
  (講談社、2001年)などをもとに作成しました。

◎このテーマは、拙著『疑問に迫る日本の歴史』(ベレ出版、2017年)にも掲載しました。

                                
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