改革に挑んだ「金権」老中〜水野忠邦と天保の改革〜


1 大御所時代の「つけ」〜改革前の状況
   
寛政の改革の後、その反動で11代将軍家斉が実権を握った18世紀末〜19世紀前半は、再び放漫財政となり、表面的には庶民文化
   の栄えた華やかな時代でしたが、その一方で幕政の様々な矛盾が深刻の度合いを増していきました。
  
   (1)慢性的な財政危機
         この頃、諸藩と同様、幕府も厳しい財政危機に直面していました。幕府首脳は、これに対する有効な手段をうちだすことができず、
       結局はたび重なる貨幣改鋳(金貨・銀貨の金銀含有率を下げ、「出目」と呼ばれるその差益を得る)に頼らざるをえませんでした。
         例えば文政元年(1818、老中水野忠成〈ただあきら〉)の改鋳による金含有率は、その前の元文金65.71%から56.41%に下げられ
       たのです。
(問1)こうした中、ある罪人が捕らえられて処刑場に連行される途中、「私を処刑するなら幕府役人のほうが罪が重い!」と大声で
    叫び、道ばたでこれを聞いた大勢の人々はどっと大笑いしたそうです。さて、この人はどんな罪を犯したのでしょうか?
 
〈ヒント〉この人にとって、自分が罰せられるのなら、ひどい貨幣改鋳を行った幕府役人も、と思ったのでしょう。 

                                 
(問1の答へ)

   (2)「子だくさん」が幕府の根底を揺るがす!?
         将軍家斉には実に55人もの子どもがあり、そのうち25人が成人しました。彼らを養い続けることは財政上困難であり、幕府は彼
        らを大名家に押しつけたのです(男子は婿養子、女子は嫁がせる)。


(問2)一見このことは、大名家にとって名誉で歓迎すべきことのように思えますが、実際にはその逆でした。それはなぜでしょう?
 〈ヒント〉もちろん大名家の財政負担が重くなるということもありますが、その他に…

                                    (問2の答へ) 

         
このため、幕府は将軍の子女を押しつけた藩に対し、その見返りとして次のような優遇策をとりました。
               @加増や有利な領地替え       A拝借金貸与      B家格の引きあげ

(問3)このうち@には大きな問題がありました。それはどのようなことでしょうか?
 〈ヒント〉領地替えは相手があることですから… 

             
                          (問3の答へ)

(問4)さらにBには、きわめて深くて大きな問題が隠されていました。それはどのようなことでしょうか?
 
〈ヒント〉戦さのない時代における家格とは…

                                     (問4の答へ)

 こうした状況の中、水野忠邦が歴史の表舞台に登場してきます。

2 「郷に入っては郷に従え」〜忠邦の猛烈な昇進運動
   水野家は家康の生母の実家であり、徳川家譜代の名門でした。歴代当主の多くが幕府の要職に就いており、忠邦もまた幕政のトップ
  である老中への昇進をはやくから熱望していました。

    文化9年(1812) 父忠光の跡をつぎ、肥前唐津藩主となる(19歳)。
       12年(1815)幕府奏者番(22歳)
       14年(1817)浜松藩主へ。寺社奉行を兼ねる(24歳)。
    文政8年(1825)大坂城代(32歳)
       9年(1826)京都所司代(33歳)

   上にあげたように、忠邦は出世街道をほぼ順調に歩んでいきますが、実はこのために莫大な金品を、ときの権勢家、老中水野忠成
  など幕閣の要人たちに贈り続けたのです。

(問5)自らの藩財政がきわめて厳しい中、忠邦はどのような方法で出世工作のための資金をつくり出していたのでしょうか?
    2つ考えてください。

 
〈ヒント〉方法1:昇進にともない新たに領地が与えられます。これをただ貰いっぱなしにせずに…
      方法2:えっ!こんなことができたの?これをもし今やったら、どんな人でも警察の「手入れ」を受けてしまう…


                                     (問5の答へ)

   1で見てきたように、ときは将軍家斉の時代、金権腐敗の悪習がひろがっていました。たとえ忠邦の本意が清新な幕政の大改革
  にあったとしても、そのためにはそれを実現できる地位(老中首座)に就かなければならなかったのです。
ですから、この出世工作
  の過程で、忠邦自身も「金権腐敗」というダーティーなイメージが世間に強く印象づけられてしまいました。

    文政11年(1828)待望の老中へ(しかしこれは西の丸老中、すなわち次期将軍付き。プロ野球でいえば2軍監督?失礼
    
天保5年(1834)水野忠成の死により、いよいよ本丸老中となる。
        8年(1837)勝手掛(幕閣トップ、今でいえば首相)に任命。家慶、12代将軍となる。
       10年(1839)老中首座。
                ↓
               しかしここでもまだ忠邦は、全権をふるうことができませんでした。なぜなら、前将軍家斉が大御所として実権を
               握ったままであり、これを補佐する人々もまだ幕府の要職に残っていたからです。

3 改革の断行と挫折
     天保12年(1841)閏1月 大御所家斉逝去
                ↓
       いよいよ機は熟しました。忠邦は4月には家斉を補佐していた人々を次々と罷免し、自らに近い改革派の人物を幕府の要職
      に配していきました。そして5月、将軍家慶の訓示(「享保・寛政の改革の精神にのっとって幕政改革を断行するように」)という
      形で改革が始まったのです。

 (1)「質素もつらいよ」
      忠邦は、改革成功のためにはまず為政者が身を正さなければと、役人に対する質素倹約を徹底させます。

(問6)例えば「もっと粗末な服を着用して執務せよ」という命令を出しましたが、これによりかえって役人たちは出費が増えてし
    まったそうです。それはなぜでしょうか?

 〈ヒント〉指定された服があまりにも粗末なものだったので…

                                     (問6の答へ)

 (2)都市対策をめぐって
    @基本方針
     A:身分格式に応じた衣服・礼式は守りつつ、その中で倹約の励行を求める。その倹約も、やみくもなものではなく、余った金で
       ぜいたく品でも買えば、お金が市中に出回って天下の為にもなる。
     
     B:ともかくぜいたくは厳しく取り締まらなければならない。その結果として江戸の町が衰え、商人たちの営業が成り立たなくなって
       も一向にかまわない。
(問7)上のA、Bのどちらか一方が、寛政の改革(1783〜93)を行った老中松平定信、もう一方が天保の改革における水野忠邦
    の、それぞれ都市対策に関する基本的な考え方です。このうち忠邦の考えはどちらでしょう?


                                     (問7の答へ)

   
A都市対策=農村対策?
     ○「人返し令」の成果は?
          江戸に集中した農民を村に帰して農業を復興し、もって年貢収入の確保を図るために、忠邦は天保14年(1843)3月、いわ
         ゆる「人返しの法」を出します。
(問8)この法は、既に寛政の改革の時に1度出されています。その時、結果として村に帰った人は、ズバリ何人だったと
    思いますか?


                                     (問8の答へ)

     
○江戸町奉行が抱く心配ごととは
         忠邦のやり方に対し、江戸の実態を掌握していた町奉行は、異を唱えました。彼らは「町人にはぜいたくをせず分限相応の
        生活を求めると同時に、江戸が淋しくならず、賑わうように心がけるべきだ」と主張したのです。


(問9)ここで反対した江戸町奉行の1人は、テレビでもお馴染みの大変有名な人物です。いったい誰でしょうか?

 
〈ヒント〉大岡越前ではないですね。ということは残るは…

                                     (問9の答へ)

        
 こうした考え方から、町奉行たちは、風俗の乱れを正すという点については同意したものの、忠邦が唱えた寄席や芝居小屋
        の全面廃止には反対し、ついに移転や営業の縮小ということで落着しています。

(問10)町奉行たちが、こうした江戸町人の楽しみを奪い去ることに猛反対したのには、ある大きくて切実な理由がありました。
     それは何でしょうか?
 
〈ヒント〉そうしたささやかな楽しみさえ奪われてしまうと、ついに庶民たちは…

                                     (問10の答へ)

 
(3)物価対策
    ○株仲間の解散
       物価対策として、忠邦は天保12年(1841)暮れ、十組問屋をはじめとするすべての業界団体を解散させました。これにより競争
      を自由にし、その結果として物価が下がることを期待したのです。
       ↓
      しかしこれにより、かえって市場は混乱し、効果はありませんでした。


(問11)しかも、こうした各種業界団体の廃止は、例えば浮世絵の検閲などに関しても重大な支障をもたらしました。それは
     いったいなぜだと思いますか?
 
 
〈ヒント〉実は検閲は、忠邦の命令以前から実施されていたのです。

                 
                  (問11の答へ)

 
   物価統制VS庶民の知恵
        なかなか物価が下がらないことに業を煮やした忠邦は、諸商品の一律2割値下げを断行しました。

(問12)これに対し、例えば豆腐屋さんは、ある対抗策をとりました。それはどのようなものだったでしょうか?
 
〈ヒント〉豆腐「一丁」に対し2割値下げなんですから…(今もやられてるかな?) 

 
               
                        (問12の答へ)

 
(4)迫り来る対外危機への対応
      忠邦は、アヘン戦争で清がイギリスに敗れたことに大きな危機感を抱きました。またモリソン号事件(
天保8年〈1837〉異国船
      打払令に基づいて、漂流民送還のため江戸湾に入ろうとしたアメリカのモリソン号に対し浦賀奉行が砲撃した事件。砲撃にまったく効果がなかったこと、
      後にアヘン戦争の情報を聞いて、こうしたことが開戦のきっかけになると幕府が気づき、強い危機感を抱くこととなる
)で、日本の対外防備の無力
     さを痛感し、西洋式の砲術を採用し、鉄砲方を増強したり、大筒(
大砲のこと)組の創設などを行っています。
     さらに、蒸気船や蒸気機関車の輸入計画を立ち上げたり(
後に中止)、諸大名に対する軍備増強命令を出したりしています。

(問13)この諸大名に対する軍備増強命令は、これまでの幕府の基本的政策から考えて、きわめて注目されるものです。
     どのような点で注目されるのでしょうか? 
       
 

                                      (問13の答へ)



    
印旛沼掘割工事の真の目的
        
田沼意次の時代にも行われましたが、失敗している印旛沼工事のこの時の目的は、一般的には田沼時代と同じよう
       に干拓による水田開発、周辺の水害除去による耕地の安定だったとされてきました。
         これに対し藤田覚氏は、忠邦がこの工事の目的は、従来から印旛沼を航行している四十石積みの船ではなく、最大
       五百石積みのもの(全長27b)もある高瀬船も航行できるような運河を完成させることにある、と述べていることに注目し
       ています。


(問14)この忠邦の述べたことと、以下のヒントから、この工事の真の目的を推測してください。
 
〈ヒント〉@モリソン号事件やアヘン戦争の情報から忠邦は対外的危機意識をもっていた。
       A江戸は食料などは自給できず、大坂や東北地方からの輸送でまかなっていた。
       B工事が完成すれば、銚子〜利根川〜印旛沼〜掘割〜検見川〜江戸湾という水路ができあがるはずでした。


    
                                 (問14の答へ)

 失脚
  ○命取りとなった政策「上知令」
     忠邦は天保14年(1843)6月に「上知(あげち、じょうち)令」を出します。これは、江戸・大坂周辺の大名・旗本領を没収し、
    そのかわり地方の土地を替地として与える、という内容です。目的は、
    @それまで、大名・旗本領の方が幕府領より年貢率が高かった。そこでこれを交換して幕府財政を建て直すため。
    A江戸・大坂周辺は領地が細かく分かれているため、治安上問題が多かったから。
    B対外危機に対応するため。
     などとされています。
       ↓
     これに対しては、国内各階層からいっせいに反発の声があがりました。

(問15)これまで一般的には反対が多い中で、忠邦を支持し、その政策断行を助けてきた他の老中や幕府要人たちも、
     この上知令については、反対に回りました。それはなぜでしょうか? 
 
〈ヒント〉彼らも今は幕府高官ですが、もともとは…

                                 
 (問15の答へ)
   
  
      最後は側近にも裏切られ、将軍家慶の信頼も失ったため、忠邦は同年閏9月、老中を罷免されました。その9ヵ月後、彼は
    いったん老中に返り咲きましたが、この理由は定かでありません(
一説にはいよいよ高まる対外危機に対応させるため、あるいは消失した
     江戸城本丸の再建を託されたためとも
)。実際にはほとんど仕事らしい仕事はせずに弘化2年(1845)2月に病気を理由に辞職してい
    ます。9月、忠邦は収賄の罪を犯した(
天保の貨幣改鋳の際に、その差益で潤う金座の後藤三右衛門から金品を贈られていたことは事実のようです
    として、2万石及び居屋敷没収となり、渋谷の下屋敷に蟄居謹慎の身となりました。そして6年後の嘉永4年(1851)2月10日に
    死去しています。

      よく3大改革などと言われますが、それぞれを取り巻く条件は大きく異なりました。例えば、改革の責任者が享保の場合は
    将軍自身、寛政の時も将軍になる可能性もあった松平氏だったのに対し、天保の場合は譜代とはいえ、小さな大名にすぎず、
    実行力という点で前2者より遙かに困難な条件をもともと持っていました。
      そして何よりも、
幕府支配の矛盾に関する深刻さの度合いが、天保の時は、前の2つの改革時とは比較にならず、崩壊寸前
    
といった状況だったことに留意すべきだと思います。もう幕末・開国は目の前に迫っていたのです。

◎答と解説
(問1)答は「にせ金づくり」です。彼らは、幕府の貨幣改鋳にともなって現れた犯罪者のようですが、基本的にやっていることは幕府と
    変わりません。幕府はいわば国家的犯罪によって財政を補っていたのです。普通、高校の教科書では、綱吉の時代に勘定吟味
    役の荻原重秀が行った貨幣改鋳だけがとりあげられていますが、江戸後期にはもっと頻繁にやられていたんですね。

                                    
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(問2)例えば嫁に来た将軍の子女やそのお付きの者たちは、
嫁ぎ先の大名家より自分たちの方が格上だという意識をもち続けたため
    に、その大名家の人々は皆、悔しい思いをしました
。また、将軍の息子を迎える場合、大名は自らの嫡子を廃して、養子の方を跡
    継ぎにしなければならなかったため
、大名自身も、それから嫡子付きの家臣たち(彼らも嫡子が順当に当主となれば、栄達が期待できた
    も失望し、結果としてこうした婚姻政策が幕府への恨みとなって蓄積されていきます。幕末維新期に将軍一門の家や姻戚関係の
    あった大名家の多くが討幕派に組したのも、こうしたことが遠因と考える人もいます。
      なお、東京大学の赤門が、家斉の21子、溶姫の嫁ぎ先である加賀前田家の上屋敷でつくられたもの(
姫及びお付きの者のために
     新しい御殿をつくり、迎える側の大名が三位以上の時は門を赤く塗る習いがあった
)であることはよく知られています。

                                   
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(問3)玉突きのように相手先の藩もどこかに移らなければならず、その移った先の年貢収入が額面の石高を下回る可能性も多分にあっ
    
たからです。また、そこの農民は、年貢率があがるかもしれないということで、やはり大いに反対しました。有名な例として、いわゆ
    る「三方領知替問題」があります。家斉の53子、斉省(なりさだ)を押しつけられた川越藩松平氏は、財政再建のため有利な地への
    所替(ところがえ)を画策、幕府はこれをうけて天保11年(1840)11月、川越藩を出羽庄内藩(額面14万石、実際は30〜40万石)
    へ、その庄内藩を越後長岡へ、長岡藩を川越に移す命令を出しました。これに対し、増税と藩の移転費用を転嫁されることを恐れた
    庄内の農民が大規模な一揆を起こし、これに押される形で複数の大名も反発しました。忠邦は、大名は幕初以来、幕府の命により
    転封してきたのであって、必ず従うべきであると主張しましたが、情勢を察知した将軍家慶は忠邦に所替中止を命じ、翌年7月に正
    式に撤回されたのです。

                                   
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(問4)各大名家の家格は、江戸時代中期までには、例えば官位は正○位下、官職は○○守まで、などと定まり、それにともない大名間の
    家格の上下関係も固定し、それによって安定した秩序が保たれていました。
ところが、ここで将軍子女を押しつけられた大名家だけ
    
が家格を上げることになれば、それまでの秩序が乱れてしまうこととなり、幕政を不安定にしかねない状況となるわけです。

                                    
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(問5)方法1:新たにもらった領地を担保にして、鴻池、住友など大坂の豪商に大金を借りたのです。忠邦は、大小多数の商人から借金を
         しましたが、ほとんどは返済せずに踏み倒したり長期繰り延べをしたりして、豪商10家のみに返済しました。そして、忠邦が
         江戸へ出て老中になってからも彼らとの関係(金脈)を維持したのです。
    
    方法2:
「無尽」の講元になることです。無尽とは頼母講(たのもしこう)と同じで本来は互助的な金融組合のことを指し、掛け金をかけて
          くじを引き、当たった者がその金を借りられるというものですが、不正なものもあって、当たると退会し、以後掛け金はおさめ
          ないという仕組み(
ほとんど賭け事と同じ)になっていました。そしてもちろん、無尽を取り仕切る講元は、莫大な金を手に入れる
          ことができます。幕府法では、無尽そのものは庶民の場合は合法でしたが、武家は禁止でした。しかし
実際には、幕府の要
          
人たちが大坂でこうした不正無尽を開かせ、その講元となっていたのです。天保8年2月に蜂起した大坂町奉行所の元与力
          大塩平八郎は、当時の老中全員に宛てて送った「建議書」の中で、この不正無尽のことをあばいています。
          忠邦は西の丸老中時代の文政13年(1830)、国許浜松の家臣に出した指示の中で、「無尽が違法なのはわかっている。…
          (
忠邦が行わせている)上方の無尽は借金という形に切り替えよ。特に違法性の高い無尽は至急中止し、証拠書類は焼却せよ。
          
浜松領内の無尽は続けてもかまわない。」と書いています。いやはや…

                                    
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(問6)余りにも粗末な服を着るようにという命令だったので、幕臣たちはそんな服を持っておらず、金もないのにわざわざ新調させたからです。
    笑い話にもなりませんね。

                                    
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(問7)答はBです。この意見に限っては、忠邦に比べれば、まだ定信の方が現実的だった感じもします。

                                     
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(問8)寛政2年(1790)に出された旧里帰農奨励令(前年までに江戸へ出てきた者のうち、帰郷を望む者に故郷までの旅費と食料・農具代など約3両〈今のお金
     にして30万円程度か〉を支給するもの
)に応募した者は、たったの4人でした。ずいぶんと幕府も大盤振る舞いをする覚悟だったようですが、
    それでもなぜこんなに応募者が少なかったのでしょうか。
    実は、既にかなり以前から、地方の農村は荒廃し、商品作物や工業製品の値段があがり、米価は下落していました。その一方で、商
    品経済、貨幣経済が農村にまで深く浸透していたため、多くの農民が、経済の中心地江戸に職を求めて流入してきました。彼らは「江
    戸にはたくさんの職があり、しかもそれらにはほとんど技能も必要なく、農業よりも楽そうだ。それで日銭を稼げば、農村では考えられ
    ないような食べ物(寿司、蕎麦、丼物など、江戸時代のファーストフードやぁ!)が食べられ、その上様々な娯楽があり、気楽に暮らせ
    そうだ」と思っていたのです。
    地方の幕府領代官や町奉行の意見を聞いた忠邦は、さすがに現状では人返し令の効果は期待できないことに気づき、今後の流入
    人口を減らすための方策や、不法滞在者を除くための人別改めの強化などを指示することしかできませんでした。都市問題はすなわち
    疲弊した農村問題と背中合わせになっていて、幕府の命令1つで解消することなどできるはずのない根の深い問題になっていたのです。

                                     
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(問9)ズバリ、「遠山の金さん」こと、遠山左衛門尉景元です。遠山氏は美濃の出で、家康以来、徳川家に仕えた家です。天保の改革の頃は
    北町奉行、さらには大目付に出世しました。若い頃は遊び人で、桜吹雪の入れ墨があるという話は、ある程度根拠があったようです(た
    だし入れ墨の模様は首から上の美女を描いていた、などという話もあります)。町奉行としてきわめて優秀で、将軍家慶がその裁きを見
    て激賞した話が残っています。遠山は、江戸の実情をよくふまえ、忠邦に対し、しばしば反対意見を言いました。


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(問10)およそ遠山ら町奉行にとって、最も心配なことは、こうした下層庶民たちが不景気となってわずかな収入も得られなくなり、さらには落
     語や芝居などのささやかな娯楽さえ奪われてしまったら、
ついには蜂起してしまうのではないか、そうすればごくわずかな人数で江戸
     の町を治めている奉行は、治安維持の責任が持てない、
ということだったのです。首都の治安崩壊は、そのまま幕府の崩壊にもつな
     がりかねません。現に天明の飢饉(1781〜89)で米価が高騰した際、江戸や大坂では庶民が打ちこわしを行い、それが田沼政権の
     崩壊に大きく影響したのです。 

                                    
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(問11)享保頃から浮世絵の検閲は、わいせつなものや幕政批判を内容とするものが販売されて処罰されることを未然に防ぐために、出版元の
    組合が自主的に行っていました。寛政の改革で規制が厳しくなりましたが、実際には幕府は、その検閲を従来どおり版元組合に委任した
    のです。
    ところが、
忠邦がその組合の解散を強行したため、皮肉にも実際の検閲作業ができなくなってしまいました。こうした統制を徹底させるた
    めには、
もともと人手の足らない幕府は、それまでどおり庶民の代表者に作業を任せなければできなかった仕組みでやってきたのに、そ
    このところに気がつかず(あるいは気づいていてもそれに代わる有効な処置もとらず)にやろうとしたため、こうしたことが起きたのです。

                                     
(次へ)

(問12)大きさも2割減にしたのです。

                                     
(次へ)

(問13)
幕府はこれまで諸大名に対し、政権の保持・安定を図るために、軍備の増強を厳しく禁じてきました。例えば大筒にしても、極端に言えば
     大坂夏の陣の頃のものが、そのまま幕末維新の戦争に使われたのです。ところがその幕府が、逆に軍備増強を命じたのですから、
へた
     をすればその力は、幕府自体に向けられることもありえた
わけです(現に薩長はその後、そのようにしたのです)。

                                     
(次へ)

(問14)莫大な数の消費者が住む江戸への食料は、主に船で大坂や東北地方から送られてきます。その船が江戸湾に入る直前で通るのが、浦
     賀水道です。ここをもし、外国船が封鎖してしまったら…。江戸は短期間で飢餓状態となり、パニックとなるでしょう。戸田氏栄氏は、この
     銚子から品川に通じる水路は、東北地方からの物資輸送を念頭においたものだと言います。
つまり印旛沼工事は、対外危機に備えて、
     江戸への流通ルートを確保する目的があったというのです。

                                     
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(問15)例えば忠邦の同僚である老中土井利位(
としつら)は、下総古河7万5千石の大名でしたが、他に播磨や摂津に飛び地領を持っていました。
     このうち
摂津領が、上知令の対象地域に入っていたのです。このため領民は激しい反対闘争を展開し、このことは利位が上知令反対の
     立場に変わる上で、影響を及ぼしたものとみられています。

                                    
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※これらの問題と答、解説は、藤田 覚『政治改革にかけた金権老中水野忠邦』(東洋経済新報社、1994年)、同『天保の改革』(吉川
  弘文館、1989年)、同『遠山金四郎の時代』(校倉書房、1992年)、北島正元『日本の歴史18 幕藩制の苦悶』(中公文庫、1974年)、
  鈴木浩三『資本主義は江戸で生まれた』(日経ビジネス文庫、2002年)などをもとに作成しました。

◎このテーマは、拙著『疑問に迫る日本の歴史』(ベレ出版、2017年)にも掲載しました。



                                 
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