政府がまるごと長期海外出張!?〜岩倉使節団


○1871年(明治4)末、右大臣岩倉具視(ともみ)を大使とする、岩倉使節団が欧米十数カ国を視察する旅に出発しました。
  この使節団の構成や海外での視察の様子、派遣された時期、帰国後の政治情勢などを調べていくことによって、維新後
 まもない明治政府の特徴、帰国した指導者たちの考えや気持の変化、それが日本にもたらしたものなどを検討していきま
 しょう。 


1 岩倉使節団の実態

・使節団は正式メンバーが46名、その随行18名、それに43名の留学生がいました。
 (大使)右大臣岩倉具視  
 (副使)参議木戸孝允〔長州〕、大蔵卿大久保利通〔薩摩〕、工部大輔伊藤博文〔長州〕、外務少輔山口尚芳〔肥前〕 

(問1)上のメンバーを見て気づくことは?
〈ヒント〉日本に残る人で、この人たち以上に有名な人ってどれくらいいる?

                                 (問1の答えへ)

(問2)この使節団の出張期間は、はじめ10ヵ月の予定でした。実際にはどれくらい延びたでしょう?

     ア)1ヵ月間    イ)3ヵ月    ウ)半年    エ)1年

                                 (問2の答えへ)

※使節の目的
@幕末に日本と修好通商条約を結んだ欧米諸国を歴訪し、その元首に正式な挨拶をする。
A廃藩置県後の内政整備のため、先進国の制度・文物を見聞する。
B条約改定のための協議期限(明治5年5月26日)を前に、条約改正のための予備交渉を行う。
 (日本に譲歩するどころか、かえって攻勢に出るであろう諸外国の先手をうって、改正をしばらく延期させ、その間に国内体制の
  整備を進めよう、とするねらいがあった)

(問3)問1の5名以外のメンバーの出身について、最も割合が高かったのは、次のうちどれだと思いますか?

     
ア)薩摩藩  イ)長州藩  ウ)土佐藩  エ)肥前藩  オ)旧幕臣

                                 (問3の答えへ)

(問4)使節団46名中、年齢のわかる44名の平均年齢は、ズバリ何歳だと思いますか?

                                 (問4の答えへ)

 訪問した国々で
@アメリカ
  ・明治4年12月6日、サンフランシスコ到着、大歓迎を受ける。
  ・歓迎会での伊藤博文「日の丸演説」
(大意)
   
「日本は今、急速に海外知識を吸収しつつある。…日本の国旗に描かれている赤い丸は、将来、昇る朝日の象徴となり、
    世界の文明諸国と肩を並べて、前方に、かつ上方に動こうとしている」
                  
ここに、使節団の心意気や使命感がよくあらわれています。

(問5)一行がアメリカの大きなビルの中で、おそらく日本人として初めて経験したこととは何だと思いますか?
 
〈ヒント〉小さな「部屋」に入ったとたん!…

                              
(問5の答えへ)

 ・「好意」と「交渉」は別〜2つの無知による条約改正交渉の失敗
  (1)伊藤らは、あまりの歓迎ぶりに、予定にはなかった条約改正交渉を行ってもうまくいくのでは?と考えた。
      ↓
    アメリカ側に、日本の最高権力者天皇の委任状がないと交渉できない、と回答される。
      ↓
    このことを知らなかった使節団は、結局委任状を取りに、伊藤と大久保が一時帰国するはめに…
    
(この間することのない現地使節団は、おかげで?実に様々なところを見て回ることができた)

  (2)修好通商条約が日本側のみに「最恵国待遇」(ある国に認めた条件は、自動的に他の締結国にも認められてしまう)が
    あったことに気づいていなかった。

Aイギリス(当時、資本主義が最も発達していた国)

(問6)大久保、木戸の2人は、ロンドンのある一画を見て、そのすさまじさに声を失ったと言います。それはどんなところ
    だったでしょう?
〈ヒント〉資本主義は、○○組も出るが、××組も出ます。

                            (問6の答えへ)

(問7)もう1つ、使節団の人々が資本主義の怖さを実感したことが起こりました。それは?

ア)イギリスに来た時に会った大金持ちが、離れる頃にはみすぼらしい姿になっていた。
イ)滞在期間中に、物価が3倍にはね上がった。
ウ)自分たちの旅費や手当を預けていた銀行が倒産し、お金が戻ってこなかった。
エ)滞在期間中に視察した工場が、まもなく閉鎖されてしまった。


                               
(問7の答えへ)

Bフランス
 一行がパリに着くと、そこには前年にあったパリ・コミューンと政府軍との抗争の爪痕が残っていました。彼らは、パリ・コミュー
 ンについては、「賊徒」「暴徒」「賊軍」などと表現し、手厳しい評価を加えています。

*パリ・コミューン:1871年3月〜5月の72日間にわたり、パリに樹立された自主管理政権のこと。プロシアとの戦争に敗れた際、
 パリで小市民、労働者により結成された国民軍が発展してできた。フランス臨時政府・議会は、敵国プロシアの支援を得てこ
 れを壊滅させた。史上初の社会主義政権という評価もある。

Cドイツ(プロシア)
 ・鉄血宰相ビスマルク(当時、プロシアを中心としたドイツ帝国統一を成し遂げたばかり)との会見
   ビスマルクは、夕食会の席で次のように演説しました
(大意)
 「今、世界各国はみな親しく交わっているように見えるが、実は弱肉強食というのが本当のところである。…あのいわゆる
万国
  
公法も、列国の権利を保全する不変の法とは言うものの、それは大国が有利な状況ではじめて通用するのであって、いったん
  不利になれば、公法ではなく武力がものを言うのである

   ↓
   この痛烈な実体験を基にした発言は、一行(特に木戸、大久保)に強い衝撃を与えました。五箇条の御誓文にも記されている
   ように、明治政府は万国公法に基づく国家をつくりあげようとしていたわけですが、少なくとも対外関係においては、これよりも
   武力が優先する、ということを思い知らされたのです。

3 国別の滞在期間比べ

(問8)アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、フランス、ロシア、イタリア、スイス。これらの国々を滞在期間が長かった順に
    並べると、正しいのは?
       ア)アメリカ、イギリス、ドイツ、フランス、ロシア、イタリア、スイス
       イ)アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、スイス、イタリア、ロシア
       ウ)イギリス、アメリカ、ドイツ、フランス、ロシア、スイス、イタリア
       エ)ドイツ、イギリス、アメリカ、イタリア、フランス、ロシア、スイス


                                
(問8の答えへ)

 使節団帰国後の政治情勢

明治4年(1871) 7月 廃藩置県
           11月 岩倉使節団、日本を出発
明治5年      1月 全国初の戸籍調査
           3月 大久保と伊藤、アメリカより一時帰国(5月再出発)
           8月 学制公布
          11月 太陽暦の採用(明治5年12月3日を明治6年1月1日とする)
明治6年      1月 徴兵令制定
           5月 大久保、留守政府の命令により帰国
               血税一揆相次ぐ
           7月 地租改正条例。木戸も同じく帰国
           8月 西郷隆盛を朝鮮に使節として派遣することを決定
           9月 岩倉ら使節本隊が帰国
          
10月 明治6年の政変。西郷、大久保や岩倉らに朝鮮派遣を止められ、参議を辞職
          11月 大久保、内務省を設置、内務卿となる(大久保政権の誕生)
明治7年      1月 板垣退助、副島種臣ら、民撰議院設立建白書を提出
           2月 佐賀の乱
           6月 政府、琉球島民の殺害を理由に台湾征討を決定
           8月 大久保、台湾征討問題で清国へ赴く
明治8年      9月 江華島事件(日本の軍艦が朝鮮を挑発、江華島を占拠)

 使節団は出発に際して、留守政府と12ヵ条の約定を結び、外遊中、国内の大きな改革はできるだけ行わない、と取り決めま
した。ところが上の年表でもわかるように、実際にはこの間に重要な改革が次々と行われ、この間に政府内の薩長勢力は衰え、
江藤新平など肥前藩出身者の力が台頭していました。首相格の西郷は、国内の混乱を鎮めるためには、朝鮮問題の打開以外
にないと考え、自ら使節となって赴くと主張、これがいったんは決まりかけました。

(問9)大久保は、岩倉らの帰国を待ってこの西郷らの動きを阻止します。しかし、征韓に反対したわりにはその後の
    大久保政権の動きには不思議な点が見られます。それは何でしょうか?

                       
          (問9の答えへ)


 使節団がもたらしたもの

 明治34年(1901)、使節団の一員で後に東京日日新聞社長などを歴任した福地源一郎は、使節派遣30周年記念の集まりで、
この使節団の成果に関し、次のようなことをあげました。

・日本に西洋の経済学、法学、科学技術の種をもたらし、それを植えたこと
・憲法の制定、国会の開設、貴族院・衆議院をつくったこと
・急進的な突飛な議論がやんで、秩序的開化に進んだこと 

 これらの中で特に注目すべきなのは、憲法に関することです。大久保は明治6年政変直後の11月に、「立憲政体に関する
意見書」を提出します。

(問10)この中で大久保は、日本がとるべき理想の政治体制はどのようなものと言っていると思いますか?

  ア)これからずっと天皇に絶対的な権力を持たせる形でやっていくべきである。
  イ)当面は天皇専制でいくが、そのうち天皇と一般国民が憲法のもとでともに政治を担っていくべきである。
  ウ)当面は天皇専制でいくが、できるだけ早く一般国民が憲法のもとで政治を担うようにするべきである。
  
                                   
 (問10の答えへ)

・久米邦武は、『米欧回覧実記』の中で、「国が豊かさは、土地の豊かさ、人口の多さ、優れた頭脳によるものではない。ただ
 
その国土の実情をよく把握し、その中でよりよい国にしていくために懸命につとめることのみによるのである(意訳)」と述べて
 います。使節団の人々は、ただ西洋諸国の進んだ文明を鵜呑みにしようとしたわけではなく、表面的な現象の背後にある、
 本質的なものは何かを見極めようとし、さらに随所で東西の社会や文化の対比を行っています。つまり、今までの日本の伝
 統の全てを否定するのではなく、それを残しつつ、日本独自の近代国家をいかに創り出すか、という目で、為政者としてのき
 わめて強い責任感、使命感をもって観察したのです。

・泉三郎氏は、その著『岩倉使節団という冒険』の最後に、次のように記しています。
 「
岩倉使節団の旅は、19世紀後半の帝国主義時代、侵略が当たり前のような時代にあって、日本がいかに独立を確保し、
  列強に対等に伍していくかの課題に、真っ向から挑んだ大いなる旅であったといいうるだろう


◎答えと解説
(問1)
 この時点で健在な明治維新のトップリーダーと言うと、岩倉、木戸、大久保と、あとは日本に残った西郷の4人です。と言うこと
は、
トップリーダーのほとんどが使節団に参加したことになり、言わば政府自体がまるごと長期海外出張に出かけてしまったこと
になります。
その証拠に、残った日本の政府は「留守政府」と呼ばれています。日本の長い歴史の中で、政府そのものと呼んで
もよいような人々が、これほどの長い期間、外遊したという例は空前絶後、他にないでしょう。その意味でも、この岩倉使節団の
ことはもっと重視してよいように思います。

                                      
(次へ)
(問2)
 
答えはエの1年です。これだけ延びたことが、後に留守政府のメンバーとの政治的対立を助長してしまうことになります。

                                      
(次へ)
(問3)
 
答えはオの旧幕臣で、28名中、13名を占めます。以下、肥前7、土佐4、長州3、薩摩1の順です。旧幕臣の中には、既に外国
を経験している者や洋学を学んだ者がほとんどで、これらのことからこの
使節団は、藩閥の実力者を中心としながらも、一方で
はそれにとらわれずに広く有能な者から構成された集団であった
ことがわかります。

                                     
 (次へ)
(問4)
 
答えは32歳です。最年長の岩倉でさえ、47歳でした(木戸39歳、大久保42歳、伊藤博文は31歳)。欧米という、新しい当時の
日本人にとって新しい世界に対応するためには、それまでの伝統社会にとらわれない、
若くて柔軟な頭脳と感受性を必要として
いた
のです。

                                      
(次へ)
(問5)
 
答えはエレベーターです。使節の一員、久米邦武は、その回顧録の中で、ホテルのボーイに案内され、小さな部屋に西洋人の
男女2、3人と入れられたとたん、「アツと思ふ間にドキンと動き釣り上げられた」と記しています。彼らはこうした経験をさまざまな
ところで繰り返していたに違いありません。

                                     
 (次へ)
(問6)
 いわゆる
スラム街の様子に驚いています。大久保は「あれを見て、世の中が浅ましくなった」と嘆いたそうです。都市部に、今で
言うホームレスが多いことにも注目しています。一行は、
文明開化には裏があることを知ったのです。

                                     
 (次へ)
(問7)
 
答えはウです。一行がアメリカのニューヨークに滞在中、ロンドンから南貞助という男(旧長州藩士で、あの高杉晋作の従兄弟)
がやってきて、自分が勤めているナショナル・バンクに預金するよう一行に勧めたのです。それで多くの人々がこれに応じたので
すが、一行がイギリスへ着いてまもなく、その銀行の親会社があることで倒産し、その影響で銀行も閉鎖、預金は吹き飛び、一同
開いた口が塞がらなかった、という事件が起きました。
彼らは高〜い授業料を払って、資本主義のカラクリと厳しさを文字通り身を
もって体験した
のです。

                                      
(次へ)
(問8)
 
答えはイです。日本は憲法などでドイツ(プロシア)の影響を強く受けているので、ドイツ滞在が長かったと思っている人もいるか
もしれませんが、この当時の政府首脳の関心は、まずアメリカ、ついでイギリスに向いていたようです。それと注目されるのは、ス
イス滞在が意外と長かった点です。小国ながら自主独立の気風をもっていたことが、彼らの関心を誘ったのかもしれません。

                                     
 (次へ)
(問9)
 
台湾征討や江華島事件など、大久保政権も対外的行動を積極的にとっていた点です。実は木戸なども、はやくから征韓論は唱
えており、これらのことから、留守組と外遊組の対立は、征韓を焦点としたものではなく、藩閥体制の中での主導権争い、国内改革
を急進的に行おうとする留守組と、西洋諸国との圧倒的な実力差を実感し、まずは着実にじっくり進めていこうという考えに変わった
外遊組との対立、などがより大きな争点だったのです。


                                      (次へ)
(問10)
  
答えはイです。注意していただきたいのは、大久保は人民が政治に参加することを根本的に否定して強権的とも言える政治を
行ったのではないという点です。彼はその意見書の中で、日本がイギリスのように君民同治ができないのは、それを担うことので
きる「愛君憂国の志」をもつ人民がほとんどいないからだ、と述べています。つまり、彼がこの頃始まった自由民権運動を弾圧した
のは、
この当時の状況でこうした運動がもたらす結果がどのようなものになるかを、自らの外遊の体験で十分に知っていたから
そ(おそらくパリ・コミューンのことなどが念頭にあったのではないでしょうか)であり、根本的にそれらが間違っているという認識の
もとでの弾圧ではなかった、というわけです。

                                     
 (次へ)

※これらの問題と答え、解説は、泉三郎『岩倉使節団という冒険』(文春新書、2004年)、田中彰『岩倉使節団『米欧回覧
 実記』』 (岩波現代文庫、2002年)、勝田政治『〈政事家〉大久保利通』(講談社選書メチエ、2003年)などをもとに作成
 しました。

◎このテーマは、拙著『疑問に迫る日本の歴史』(ベレ出版、2017年)にも掲載しました。

                             
<日本史メニューへ>