○戦国時代と言うと、大名同士の熾烈な戦いだけに目がいきがちです。しかし、こうした戦争の絶え間ない時代にも、農民たちは
生活をしていたのです。それについて、私たちは具体的なことをどれほど知っているのでしょうか?
1 境界線上の農民たちは?
・例えば、領地が接する2人の戦国大名がいたとします。その境目付近にある村などは、当然ながら戦場になる危険性が他の村
に比べて非常に高かったと考えられます。
・しかし戦争のたびにその村の農民が殺されたり、作物が荒らされたりしたら、村は潰れてしまいますよね。
(問1)実際のところ、こうした村の農民たちは、どのように行動したと思いますか?
@村で話しあい、どちらかの大名に味方することを決めて行動する。
A両方の大名に年貢を半分ずつ差し出し、双方に安全を保証してもらう。
Bどこか境界ではない土地を求めて村ごと移住してしまう。
(問1の答へ)
・ここで、次の史料を見てみましょう。
(史料1)結城晴朝制札
中久喜城に対し、上生井・下生井の地が半手と決まったからには、当方からのこれらの地域での軍事行動を禁止する。
もし違反した者は、処罰する。
(晴朝黒印)甲さる(天正12年・1584年ヵ)8月21日 (意訳)
(参考)結城晴朝は、下総の戦国領主。当時、常陸の大名佐竹氏の支援をうけ、北条氏の影響下にあった下野の領主小山氏と対立、軍事的緊張状態にあった。
2 史料に出てくる「半手」とは?
・史料1の中に「半手」とあります。半はもちろん半分の意味、では「手」とは?
(問2)「手」のつく漢字2字の熟語を3つあげてみましょう。
(問2の答へ)
(問3)上であげた熟語に含まれる「手」は、だいたい同じような意味で使われています。それは?
(問3の答へ)
3 大名・農民にとっての「半手」とは?
(問4)では、「半手」の状態になるのは、領主からの働きかけでなるのでしょうか、それとも農民側から要求したのでしょ
うか?
@領主からの働きかけ
A農民が要求した
Bどちらの場合もあった
(問4の答へ)
(問5)「半手」になった村は、戦争をしている大名にとっては、敵でしょうか、味方でしょうか?
(問5の答へ)
(問6)「半手」となることは、大名にとってはプラスでしょうか、マイナスでしょうか?
(問6の答へ)
◎答と解説
(問1)すみません、ここでは答は保留します。ただ、@だと、味方すると決めた大名が、もし負けてしまったらどうなるでしょうか?
またBも、それほど都合の良い土地があるとは限らない感じがしますね。
(次へ)
(問2)例えば、「手先」「相手」「手下」などです。
(次へ)
(問3)人間どうしの関係、誰がどこに属しているか、誰が誰を支配しているか、などを示している点が共通しています。つまり、
これらを総合すると、「半手」とは、双方の大名に半分ずつ年貢米を差し出して、両方に属し、村の安全を確保すること
を意味していました。すなわち、保留していた(問1)の答は、Aということになります。
(次へ)
(問4)次の史料を読んでみましょう。
『北条五代記』 26「戦船を海賊といひならわす事」
見しはむかし、北条氏直と里美義頼弓矢の時節、相模・安房両国の間に入海有て、舟の渡海近し。故に敵も味方も兵船
おほく有りて、たたかひやん事なし。夜るになれば、或時は小船一艘二艘にて、ぬすみに来て、浜辺の里をさはがし、或
時は五十艘三十艘渡海し、浦里を放火し、女わらはべを生捕、即刻夜中に帰海す。嶋崎などの在所の者は、わたくしに
くわぼくし、敵方に貢米を運送して、半手と号し、夜を心安く居住す。故に生捕の男女をば、是等の者敵方に内通して買
返す。
↓
これでわかるとおり、この場合は、在所つまり農民側から敵方(里見氏)と交渉し、貢米を支払って平和を維持していた
ことがわかります。
もちろん、大名側から働きかける場合もありました。つまりBが答ということになります。
(次へ)
(問5)この答も次の史料から読み取ってください。
古河公方足利義氏掟書(「喜連川文書」)より
一 敵方へ半手の諸郷の者共、佐野門前の南木戸より内へ入るべからざる事
↓
つまりこの場合、本来味方の領内だった郷なのに、敵方にも半分年貢を差し出した郷の者どもの、一定区域内への進入
を禁止しているわけで、軍事上は敵とみなされていたことがわかります。
一方、新たに半分年貢を獲得した大名にとっても、完全に自分の方に属したのではないわけですから、理屈は同じだと
考えられます。
(次へ)
(問6)これは、立場によって異なってきます。本来領内にあった村が、新たに敵方に半分年貢を差し出すようになったら、経済
的にはマイナスですね。反対に、敵の領内にあった村が新たに年貢を半分差し出してきたら、これはプラスです。
ここで、次の史料を見てください。
諸半手書立(『越前史料』所収「山本文書」)より
右のように申しつけた。これまで野中一人に申しつけていたため、半手の徴収が滞っていた。そうならないように、
右の衆(略)に分担させた。これらの諸郷が納入することを見届けよ。さらに、こちらからの働きかけによっては、新
たに半手となる郷も、解消する郷もあろう。
↓
これより、半手の状態は変動しやすいことがわかります。さらに、(問4)との関連で、この場合は領主から村へ半手
になることを働きかけていた可能性があることがわかります。
以上見てきたように、戦国時代の農民は日常的な危機的状況の中で、ただ泣き寝入りをしていたのではなく、なるべく自分
たちの村の安全を確保すべく、積極的に行動していたようです。いわゆる危機管理が、ちゃんとなされていた、ということにな
りますかね。
*なお、近年の研究によれば、「半手」は必ずしも両方に属するのではなく、どちらにも属さない場合もありえたこと、また「半」
とはいっても実際には半分ではなく、場合によっては双方にそれぞれ今までと同じ量の年貢を差し出す(つまり総量として
は2倍の負担!)という厳しい条件をあえて呑んでも、安全を維持していたこと、などが明らかになってきています。
※この問題と答、解説は、峰岸純夫『中世災害・戦乱の社会史』(吉川弘文館、2001年)、滝川恒昭「『半手』と『半済』」(『千葉
県史研究』11、2003年)などをもとに作成しました。
◎このテーマは、拙著『疑問に迫る日本の歴史』(ベレ出版、2017年)にも掲載しました。
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