−「宇都宮家弘安式条」を読む−
1 幕府のきまりと御家人
鎌倉幕府は、有名な御成敗式目やその他の法律(まとめて追加法などと呼ぶ)を制定しました。しかし、これらは原則として各御家人の所領内の
問題には干渉できませんでした。したがって、御家人たちは、それぞれ自らの所領内のみに適用するきまりをつくっていた可能性が高いのです。
(問1)では、そのような御家人のつくったきまりとして、現在知られているものは、全国でいくつあると思いますか?
@3 A13 B53 C103
(問1の答へ)
この中に、下野の御家人宇都宮氏が制定した「宇都宮家弘安式条」があります。
2 弘安式条からわかる宇都宮氏の所領支配
「宇都宮家弘安式条」は、条文数が70で、宇都宮氏が二荒山神社(宇都宮社)の神主でもあるため、社寺に関する規定が多いこと、領内の
裁判の手続きが充実していること、などが特徴としてあげられます。
年 | で き ご と |
元暦1(1184) 建久5(1194) 元久2(1205) 寛元1(1243) 正元1(1259) 文永6(1269) 文永10(1273) 弘安4(1281) 弘安6(1283) |
宇都宮朝綱、宇都宮検校職(けんぎょうしき)を安堵される。 公田押領のかどで朝綱一族が配流となる。 宇都宮頼綱、謀反の疑いをかけられ出家、蓮生と名乗る。 宇都宮泰綱、幕府評定衆に任ぜられる。 「新○和歌集」撰集。 宇都宮景綱、引付衆に任ぜられる。 景綱、評定衆に任ぜられる。 宇都宮貞綱、元の襲来により出陣、筑紫(今の福岡県)に下向する。 貞綱、弘安式条を制定する。 |
(問2)これほど詳しい裁判規定をもつきまりをつくれたのはなぜでしょうか?上の略年表を見て答えて下さい。
〈ヒント〉特に1260年代以降に注目!
(問2の答へ)
○宇都宮家当主(惣領家)と一族との関係
〔史料1〕弘安式条第53条(意訳、以下同じ)
一 鎌倉番役の怠慢のこと
鎌倉への参集日はあらかじめ知らせてあるはずなのに、それを延ばすために病気と称して来なかったり、身代わりに子どもや
親類などをよこすことは、一切禁止する。今後、本当に病気かどうか検分して、大した病気でなければ、所領を召し上げる。
※鎌倉番役=東国15ヵ国の有力御家人に課された、将軍御所などを警護する役。
(問3)宇都宮家当主が、一族に対してこうしたきまりをつくらなければならなかったということは、裏を返せばどのようなことが
推測できるでしょうか?
〈ヒント〉実際には一族たちは…
(問3の答へ)
上の史料1にあるように、御家人宇都宮氏は、当然ながら鎌倉幕府への奉公を重視していました。
(問4)それでは次にあげる3つの事がらを、宇都宮氏が重視していると思う順に並べてください。また、その理由も考えて
ください。
@鎌倉にいて、幕府に奉公していること
A京都大番役を勤めること
B二荒山神社の行事に参加すること
(問4の答へ)
〔史料3〕弘安式条第61条
一 下働きの者自身が市で商いをすること
下働きの者が生活のために商いをすることを止めることはできないが、神聖な神社に仕える身としては、恥ずべきことで、けし
からぬ。そのような者は、今後一切召し使うことはしない。
(問5)この史料3からうかがい知れる宇都宮城下の様子とは、どのようなものでしょうか?
〈ヒント〉「止めることはできないが」あたりに注目!
(問5の答へ)
○領主と農民との関係
(問6)宇都宮氏の下級家臣が、領下の農民の家に入って乱暴狼藉をしたら、その処置はどのようなものだったでしょうか?
@自分の家臣だから、お咎めなし
A言葉で厳重注意
B所領没収、あるいは領内より追放
(問6の答へ)
◎答と解説
(問1)答は@です。全国に3つしか残っていません。他の2つのうち、1つは豊後大友氏がつくった「新御成敗状」(仁治3年=1242年、
寛元2年=1244年制定。44条。御成敗式目、幕府の追加法を施行したものが中心)で、もう1つは筑前宗像(むなかた)氏がつ
くった「宗像氏事書」(正和2年=1313年制定。13条。社領の幕府直轄化などの危機に対処したもの)です。
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(問2)この頃、宇都宮泰綱・景綱父子が引付衆、評定衆という幕府の、それも特に裁判関係の要職にあったことが関係していると
考えられるから、です。
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(問3)一族たちが、番役の負担に耐えかねて、なるべくこれを避けようとしていたこと、惣領である宇都宮氏当主は、彼らに何とか
適正につとめさせようとしていたこと、などがわかります。惣領制というと、惣領(当主)のもとで、一族がきちんとその命令に
従っていたようなイメージがありますが、実態はこのようなものだったのかもしれません。特に、鎌倉時代の中・後期になると
こうした傾向が一般に(宇都宮氏以外にも)強まっていったようです。
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(問4)次の史料を見てください。
〔史料2〕「弘安式条」第7条
一 神官が鎌倉にいる際に、宇都宮社(二荒山神社)で神事があった場合のこと
この場合は、神官たち(宇都宮一族)は、たとえ鎌倉にいる場合でも、神社に戻って神事を行うこと。ただし、大番役
などの重大な任務によって京都にいる場合は、先例にならい帰国しなくともよい。
つまり、A>B>@の順です。
理由としては、原則として自分たちのよりどころである二荒山神社の神事を重視する(幕府も御家人各家の内部の問題には
原則不介入でした)が、京都大番役は、幕府御家人として最も基本的な任務であったため、こちらの方を最優先させたため、
と思われます。
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(問5)自らの下級家臣が、商売に関わること自体は止められない、と宇都宮家当主が不本意ながら認識している、ということは、
それほど鎌倉時代後期の宇都宮には商業経済が浸透していた、ということを意味していると考えられます。なお、別の条文
(第58条)には、そうした商業の拠点となったと思われる「宿、上河原、中河原、小田橋」という4つの宿(中世の場合、単に
旅館のある町というだけでなく、定期的に市が立つ場所も指し、都市の意味合いに近い)があったことが見えます(宿を一般
名詞ととらえれば3つ)。
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(問6)答はBです。宇都宮氏にとって、領下の農民は自らの収入の基礎となる年貢を負担する人々であり、彼らを保護しようとして
いた面があったことがわかります。
※これらの問題と答、解説は、『宇都宮市史』中世史料編(1980年)、同通史編(1981年)などをもとに作成しました。
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