「旅する危険なお役所」-遣唐使-


★奈良時代から平安時代前期にかけて、日本から中国には十数回、正式な使節が遣わされました。この遣唐使が、日本に先進的な政治制度や
  国際的な文化をもたらし、大きな影響を与えたこと、それが寛平6年(894)に菅原道真の建言によって取りやめなったことなどはよく知られてい
  ます。しかし、具体的な使節派遣の様子や中国での行動などについては、ほとんど教科書には記述がありません。そこで、これらの一見細々と
  した内容を見ていくことから、その中に見え隠れする日中両国の思惑などを探っていくことにしましょう。

                                     《遣唐使一覧表》

 次数     出発年         使   節   名  洛陽・長安入りの年月  帰国年  
 1  630(舒明天皇2)  犬上御田鍬、薬師恵日  不明  632  唐使高表仁来日
 2  653(白雉4) 吉士長丹(大使)、吉士駒(副使)他  不明   654  
 3  654(白雉5)  高向玄理(押使)、河辺麻呂(大使)、薬師恵日(副使)  不明
655   高向玄理、唐で死す
  659(斉明天皇5)   坂合部石布(大使)、津守吉祥(副使)、伊吉博徳  659年閏10月  661  2隻のうち1隻、行きで南海の島に漂着、大使らが殺される
 5  665(天智天皇4) 守大石、坂合部石積、吉士岐弥、吉士針間(送唐客使)   不明  667  唐使を送る
   667(天智天皇6)  伊吉博徳、笠諸石(送唐客使) 不明   668  唐使を百済に送る(唐には行かず?)
   669(天智天皇8)  河内鯨  不明  不明  
   702(大宝2)  粟田真人(執政使)、高橋笠間(大使)、坂合部大分(副使)、巨勢邑治(副使)、山上憶良(少録)  702年10月  704~718  
   717(養老1)  多治比県守(押使)、大伴山守(大使)、藤原馬養(副使)  717年10月  718  玄昉、阿部仲麻呂、吉備真備ら留学
 10  733(天平5)  多治比広成(大使)、中臣名代(副使)、平群広成(判官)、秦朝元(判官)  734年正月ヵ  734~739  玄昉、吉備真備ら帰国
 11  746(天平18)任命  石上乙麻呂(大使)      停止
 12  752(天平勝宝4)  藤原清河(大使)、大伴古麻呂(副使)、吉備真備(副使)  752年12月以前  753~754  鑑真ら来日。大使藤原清河、阿部仲麻呂帰国せず
 13  759(天平宝字3)  高元度(迎入唐大使使)、内蔵全成(判官) 不明   761  
 14  761(天平宝字5)任命  仲石伴(大使)、石上宅嗣(副使)、藤原田麻呂(副使)    船破損のため停止
 15  762(天平宝字6)任命  中臣鷹主(送唐客使)、高麗広山(副使)      渡海できず停止
 16  777(宝亀8)  佐伯今毛人(大使)、大伴益立(副使)、藤原鷹取(副使)、小野石根(副使)、大神末足(副使)  778年1月  778  大使、病と称し行かず。唐使来日
 17  779(宝亀10)  布勢清直(送唐客使)  780年2月  781  唐使を送る
 18  803(延暦22)、804(延暦23)再  藤原葛野麻呂(大使)、石川道益(副使)  804年12月  805~806  短期留学僧最澄、空海
 19  836(承和3)、837(承和4)再、838(承和5)再々  藤原常嗣(大使)、小野篁(副使)  838年12月  839~840  副使、病と称し行かず
 20  894(寛平6)  菅原道真(大使)、紀長谷雄(副使)      菅原道真の上表により停止

                                                                    (東野治之『遣唐使』より改変)
註・「執政使」「押使」=大使の上に置かれ、天皇から全権を委任され使節を総括した。
  ・本により、遣唐使の回数や使節の肩書きに異なる部分がある。

1 初期の遣唐使(第1期、第1次〔630〕~7次〔669〕)
 

    第1次遣唐使を送るためとして、ときの唐の皇帝太宗は、高表仁(こうひょうじん)という人物を日本に遣わしました。

(問1)この時、日本側は高表仁をどのような態度で迎えたと思いますか?

      
①皇帝の代理として、臣下の礼をとって丁重に迎えた。
       ②新羅などと同じように、日本の臣下として尊大な態度をとった。
       ③日本と唐のどちらが格上か、あいまいな形にした。

                                
(問1の答へ)

問2)こうした日本と唐の関係が大きく変化するきっかけとなったできごとが、この第1期の終わり頃に起こります。それは何という
    できごとでしょうか?
 
  
〈ヒント〉簡単な年表でも出ている、有名なできごとです。

                                 
         (問2の答へ)

    
7次遣唐使について『新唐書』日本伝には、「唐の高句麗平定(668年)を祝うためのものであった」と記されています。ここに至り、
    日本は唐に対し、心から服従することを表明しました。

    その一方で日本は、唐の来襲に備えて国内に多くの山城を築き、30年以上も次の遣唐使を送らず、唐の出方を窺っていたのです。

2 安定期の遣唐使(第2期、第8次〔702〕~17次〔779〕)

    この時期に入ると、日中関係はきわめて友好的になり、8世紀初めには20年に1度、朝貢する(日本が家臣として唐を訪れ、貢ぎ物を
    捧げ挨拶する)取り決めがなされたようです。朝貢は本来、毎年あるいは年に何回も行うのが通例ですが、唐は日本が遠方にあるた
    め配慮して20年としたのでしょう。実際に上の表を見ると、間隔は20年より短いのですが、これは決められた年数より短い間隔で行く
    ことにより、日本が唐に対して忠誠心を示したもの、と考えられています。

    ここで、第1期と第2期で遣唐使に任ぜられた主な氏族を比べてみましょう。
    
     第1期:犬上、吉士(きし)、高向
     
     第2期:大伴、藤原、石上、石川、平群、佐伯

(問3)これを見て、何か気づくことはないでしょうか?
 
 〈ヒント〉特に第2期の下線を引いた氏族に注目。

                                   (問3の答へ)

4)しかしそれにしても、ある特定の人たちが遣唐使には選ばれていません。それはどのような人たちでしょうか?
  
〈ヒント〉ごくごく特定の人たちと言えば…

                                   
(問4の答へ)
3 唐使の構成

    メンバーは大きく4グループに分けられます。

A 使節  大使、副使、判官、録事。他に史生(書記)と従者
         大使は四位クラスの官人から選ばれる。使節の格は八省と同じ。

B 船員  公民(一般民衆)から徴発された。無事帰還すると、全ての税が3年間免除。なかには能力を買われ、下級役人に取り立てられ
       た人もいた。

C 技手  使節を補佐する特殊技能を持つ人たち。例えば神主、医師、画師(今で言えばカメラマン)、射主(警護官ヵ)、陰陽師、様々な
       特殊技術(ガラスや釉薬、鍛金、鋳金、木竹工、舞、薬など)の研修生

(問5)このうち陰陽師は、今で言うとどんな役割を果たしていたと思いますか?
  〈ヒント〉航海中に占うこととは?

                                   
 (問5の答へ)

D 学者  中国学を学ぶ者と仏教(学)を学ぶ僧侶がおり、それぞれ長期(そのまま中国へ残り、次回の遣唐使とともに帰国)と短期(必
         要なことだけ学び、使節とともに帰国)に分かれていた。


(問6)これらのメンバーの中で、トップである大使に次ぐ手当をもらったのは、副使の他にどんな立場の人だったでしょうか?

     
①船長    ②神主    ③医師    ④長期留学者

                                    (問6の答へ)

4 の苦難

  
・使節の規模  第2期から船4隻、総勢500人前後。ただし、このうち半数以上は船員(風のない時、船を漕ぐ水手〔かこ〕)でした。

  ・旅のルート   よく知られているように、第1期は朝鮮半島~黄海~山東半島という北路を用いていましたが、8世紀に入り、新
             羅との関係が悪化したため、第2期以降は、東シナ海~江南という南路へ変わりました。

  ・遭難が多かった本当のわけは?

(問7)全ての遣唐使の中で、無事に日本へ戻ることができた人数の割合は、おおよそどれくらいだったでしょう?

          
①35%    ②60%    ③75%    ④90%

                                    (問7の答へ)

    
これまで言われてきた遭難が多かった理由としては、
    ・船のしくみがとても幼稚で、外洋の航海にはもともと無理があった。
    ・季節風の存在を知らないなど、外洋を安全に航海できるだけの気象知識に欠けていた。
    
    などのことがあげられてきました。しかし、本当にそうだったのでしょうか。

    まず船のしくみは、史料が無く遣唐使船が実際どのようなものであったか明らかではないのですが、参考となる資料から「構造船、
    船底はとがり、帆は網代帆(竹を細く裂いて編んだ帆)あるいは麻布の帆(最澄の日記より)、長さ約30㍍、幅9㍍弱、喫水(船の
    一番下から水面までの長さ)2.6㍍、排水量270トン程度と推測されています。これは当時最高水準の外洋船とそれほど遜色のない
    ものであったようです。
    また、同じ頃行われていた遣渤海使の成功率は遣唐使より高く、これは当時の人々が季節ごとに気象条件が変わっていると
    知っていたことを示しています。
     ↓
    とすると、他に何か理由がある?

(問8)ところで、使節が「運よく」中国に到着したとしても、洛陽や都の長安に入れるのは一部に制限されていました。使節団全
    員の何%が入れたでしょうか?


         
①80%    ②65%    ③40%    ④25%

                                    
(問8の答へ)

9)実はこのことが、遭難が多かったことと大いに関係があると言われています。それはどういうことだと思いますか?
  
  
〈ヒント〉唐王朝の遣唐使に対する制約は、入京の人数だけではありませんでした。航海に関する制限とは?そしてそれが遭難とどう関わる?

                                    
(問9の答へ) 


 遣唐使とりやめの背景

 平安時代になると、結局遣唐使は2度しか派遣されませんでした。しかも間隔は30年以上空いています。
 この理由の1つは、唐を中心とした東アジアの秩序が変化したことです。

(問10)唐において8世紀後半に、このきっかけとなるできごとが起きています。それは何でしょうか?

                                 
(問10の答へ)

11)9世紀末の時点で朝廷がもっていた中国学の書籍(多くは遣唐使がもたらしたものと推測される)数は、8世紀前
    半、最も盛んだった時期に唐王室がもっていた全ての書籍数の何%くらいだと思いますか?

         
①5%    ②15%   ③35%   ④50%

                                    
(問11の答へ)

 
さらに3つめとして、既に見てきたように、優秀な人材を失うリスクの大きさがありました。
 ところで、遣唐使のとりやめは、やはり菅原道真の建言が決め手になったのでしょうか?

  寛平6年(894)7月、朝廷は、唐にいる日本人僧中瓘
(ちゅうかん)が送ってきた手紙に対し次のように返答します。
  「江南の実力者朱褒
(しゅほう)が、日本からの朝貢使が長らくないから、一度派遣してくれと要請しているとのこと。朱褒の政治は
   安定し、唐の皇帝も信頼しているというから、使節を送りたいとは思う。しかしいろいろ事情もあるから、派遣は遅れると伝えて
   ほしい」
  8月21日 菅原道真が遣唐大使に任命されます。
  9月    道真は使節を代表し、次のように派遣を考え直すよう申し出ます。
         「中瓘は遣唐使派遣に反対と言ってきています。これまでも渡海中に死んだり殺されたりした者は少なくありません。
          それでも唐に着けば安全だったのですが、中瓘によれば近年はそうでもなくなってきたそうです。このことをよく考え
          て、派遣すべきかどうか判断してほしいのです。これは国家の大事だから言うのであって、決して自分たちの身が可
          愛いからではありません」
          ↓
 
 つまり、道真が建言する以前に、唐にいた中瓘が派遣に反対していたというのであり、これが事実とすれば注目すべきことです。

(問12)それともう1つ、上に書いた朝廷の返書の中の下線部分から言えることは何でしょう?   
    
〈ヒント〉このことを裏返して考えると…

                                    
(問12の答へ)

 ※少なくとも当初は遣唐使の「廃止」ではなく「停止」であった

13)次は、この頃の朝廷高官の職員録(『公卿補任』10世紀半ばに成立)のうち、菅原道真の部分を抜き出したものです。これを
     見て、不思議だと思うことはありませんか?

    〈ヒント〉たくさんある肩書きをよく見ると…あれ?

 寛平6年(894)参議 従四位下 左大弁 式部大輔 春宮亮 勘解由長官 8月21日兼遣唐大使 12月15日兼侍従
 寛平7年    参議 従四位下 左大弁 式部大輔 春宮亮 勘解由長官 遣唐大使 1月21日兼近江守 10月日任権中納言 同日
           従三位
 寛平8年    中納言 従三位 左大弁 春宮権大夫 式部大輔 侍従 遣唐大使 8月28日兼民部卿  
 

 
                                   
(問13の答へ)

◎答えと解説
(問1)
答は②です。この時の模様を記録した『旧唐書』によれば、高表仁は接待をめぐって朝廷と対立し、そのため太宗から託された日本を
臣下として扱う旨の命令も伝えずに帰国しました。漢以来、歴代の中国王朝は周辺の国々を臣下とみなし、朝貢を促しました(冊封体
制)。しかし日本は、この中に入ろうとしなかったので、こうした対立が起きたと考えられます。とは言え、中央集権的な国家体制をつく
り始めた日本としては、唐との交流は欠かせませんでしたし、一方唐にとっても、朝鮮半島に未だに影響力をもつ日本は無視できなか
ったため、対立を含みながらもお互いの腹をさぐりあう中で、遣使が行われていたようです。

                                      
(次へ)

(問2)
663年8月、朝鮮半島南西部の白村江
(はくそんこう)下流で唐・新羅軍と百済・日本軍との間で行われた白村江の戦です。これは、既に
述べた両国間の矛盾が武力衝突の形であらわれたもので、第5次・6次の遣唐使は、この敗戦後の処理にあたりました。

                                      
(次へ)

(問3)
第1期は中小氏族で渡来系の人々が多い(実務型)のに対し、第2期は、大伴氏や平群氏など、大和朝廷以来の名族が中心になって
います。つまり、8世紀以降、中国の文化はこうした上流貴族にも行き渡るようになり、彼らの中から使節にふさわしい人を選べるように
なったことを示しています。

                                      
(次へ)

(問4)
皇族です。これは、もし皇族が行って、あからさまに中国皇帝の臣下として扱われてしまう(場合によっては阿部仲麻呂のように本当に
仕えてしまうこともありえます)のを避けるためと考えられています。このことからみても、日本側の本音は、唐に臣下扱いされたくない、
ということだったと推測できます。実際、大宝律令でも唐は新羅と同じように「蕃夷」(辺境の野蛮な人々)扱いでしたし、天皇は、唐から
すれば本来認められない「皇帝」や「天子」と表現していました(ちなみに新羅や渤海は、唐に配慮して自らの首長を「王」と称していまし
た)。ただこれを唐がことさら咎めなかったのは、日本が地理的に遠かったことが影響しているようです。

                                      
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(問5)
この時代の陰陽師は、中務省に属する陰陽寮という役所の役人で、天文や気象、暦、時刻などを司っていました。したがって、航海では
天文や気象観測を担当したと考えられています。科学と呪術が一体だったこの時代、陰陽師はいわば科学者としての役割を果たしてい
たのです。

                                      
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(問6)
④の長期留学者です。この点からも、エリートたちによって唐文化をじっくりと学ばせ、それを日本で活かしたい、という朝廷の願いが、遣
唐使の外交的使命と同じくらい重要だったことが確認できます。

                                      
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(問7)②のおよそ60%です。例えば、天平5年(733)第10次遣唐使の帰国時の顛末は次のようなものでした。
     734年10月、4隻で蘇州を出帆、まもなく悪風のためバラバラとなる。
     

       第1船(大使)         第2船(副使)        第3船(判官1)        第4船(判官2)
 いったん中国南部に拭き戻され11月後半種子島にたどり着く。  東南アジア海域へ流される。
735年3月、広州へ戻る。玄宗皇帝に願い出、736年5月以前に帰国。
 インドシナ(今のベトナム)に漂着。現地人に襲われ、病死者も出て4人だけ生き残る。玄宗皇帝の計らいで渤海経由で739年に帰国。        出発後まもなく沈没 


                                      (次へ)

(問8)
もともと全体の約半数を占める船員は除かれます。その他の言わば正式な使節・随員のうち、さらに半数の入京が認められていまし
たので、最初の全体数から言うと4分の1、すなわち④の25%となります。居残りを命じられた随員の中には、どうしても入京したいと
中国人に変装して紛れ込もうとした人もいたそうです。

                                      
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(問9)
これは少し難しかったかもしれません。渡海の時期も制限されていたのです。具体的には、朝貢の使いは元日に長安で行われる朝
賀の儀(家臣が皇帝に年頭の挨拶をする儀式)に参列するのが原則とされていましたから、これに合わせて、航海には適さない現
在の9月頃に日本を出発せざるをえませんでした。つまり、遣唐使の遭難は政治的な理由も絡んでいたというのです。

                                      
(次へ)

(問10)
安史の乱(755~763。安禄山・史思明の唐王朝に対する反乱)。この後、節度使という地方有力者の自立化が進み、唐は衰退してい
きます。そのため私貿易も活発となり、日本でも遣唐使によらなくても中国製品を商品として輸入できるようになりました。なかには
日本の下級役人で、こうした貿易に直接携わるような人たちまで現れたのです。

                                      
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(問11)
答は④の50%です。正確には本の種類で5割強(1600種類)のものが日本にあったということです。巻数にすると17000巻弱です。つ
まり、あくまで宮廷内のことではありますが、紀元前からの中国文化の粋が、9世紀末の段階で既に相当程度日本国内に蓄積されて
いたことがわかるのです。

                                      
(次へ)

(問12)
もしここで唐側からの働きかけがなかったら、日本が遣唐使派遣を計画する動きは起きなかったでしょう。既に前回の派遣から実に
60年近くも間隔が空いているのです。道真の建議がなかったとしても、遣唐使は自然消滅していったのではないでしょうか。

                                      
(次へ)

(問13)
普通言われているように、寛平6年(894)に遣唐使派遣のとりやめが決定していたとすると、その翌年も、翌々年も道真が遣唐大使
に任ぜられたままであるのが不思議だ、ということです。このことから、遣唐使派遣問題は、道真の建議があったものの、結論が出
ないまま、なし崩し的に停止になった、というのが実情と考えられています。なお、そもそも道真の遣唐大使任命自体がジェスチャー
にすぎず、もともと朝廷には派遣の意志がなかった、とする説もあります。

※これらの問題と答、解説は、東野治之『遣唐使』(岩波新書、2007年)、同『遣唐使船-東アジアのなかで-』(朝日新聞社、
 1999年)青木和夫『日本の歴史3 奈良の都』(中央公論社、1965年)、坂本太郎『菅原道真』(吉川弘文館、1962年)な
 どを参考に作成しました。 

                            
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