自由民権運動の理想と現実

  ○わが国初の近代民主主義革命運動、との評価もある自由民権運動。確かにこの運動のもつ歴史的な意味は、とても大きい
    のですが、その半面で明治前期における日本各地の政治・社会的状況を、この一言でくくって、それで終わりにしてしまうと、
    実際には見えにくくなる部分も少なくないのです。

                                
自由民権運動(前期)関係年表

                         で  き  ご  と (丸数字は月を示す)
明治6(1873)
   7(1874)
   8(1875)
   9(1876)
  
  10(1877)
  11(1878)
  12(1879)
  13(1880)

  14(1881)

I征韓論争。西郷隆盛、板垣退助、江藤新平ら、参議を辞め下野。
@板垣退助ら、愛国公党を結成し「民撰議院設立建白」を提出。A佐賀の乱。C板垣ら、土佐で立志社を設立。
C漸次立憲政体樹立の詔勅。E讒謗律(ざんぼうりつ)、新聞紙条例。
I神風連の乱(熊本)、秋月の乱(福岡)、萩の乱(山口)。K茨城、三重、愛知、岐阜などで農民たちによる地租
改正反対一揆起こる。
@地租を地価の3%から2.5%へ軽減。A西南戦争。E立志社片岡健吉ら、国会開設を建白(立志社建白)。
F郡区町村編制法。府県会規則、地方税規則(3新法)。H愛国社再興大会。
B東京府会開会(府県会のはじめ)。
B愛国社、国会期成同盟と改称。C集会条例。河野広中ら、有志8万7千人余の署名をもち国会開設上願書を提
出するも、受理されず。J国会期成同盟第2回大会で13万人余の署名を集める。
B参議大隈重信、国会の早期開設、政党内閣制を訴える意見書を提出。F開拓使官有物払い下げ事件。I明治
23年を期し国会を開設する旨の詔勅。参議大隈らを罷免(明治14年の政変)。自由党結成。

(1)政府がおそれた相手は?

   明治7年(1874)、民撰議院設立建白に始まったとされる自由民権運動は、士族を中心としたものから、地方の豪農(有力農民
  で村役人を兼ねる者が多い)
主体としたものに変わっていきました。彼らの多くはまた、地方名望家とも呼ばれ、幕末〜明治初
  期に混乱した地域社会の秩序や経済を建て直し、新たな時代に適応した地域産業の発展を何よりも願う人たちでした。しかし、
  彼らの力だけで、この運動の目標を達成することは困難だったのです。

(問1)それでは政府は、特にどのような人々の動きに神経をとがらせていたのでしょうか。上の明治9〜10年のできごとを
    ヒントに考えてください。

                               
 (問1の答へ)

(問2)明治7年(1884)以降、国会開設の建白書や嘆願書は、全国で130件、その署名者数は約32万人にものぼりました。
    この人数を現在にあてはめると、全国民の約何%にあたると思いますか?


      @0.4%    A4%    B14%    C40%

                                (問2の答へ)

(2)運動の広がりを支えたもの @「新聞」

    そもそも自由民権運動の発端となった民撰議院設立建白は、もちろん政府によって採用されなかったものの、「日新真事誌」
   という新聞に掲載されたことによって、広く一般の人々へも知られたのでした。

(問3)明治14年(1881)当時、東京で発行されていた「東京日日新聞」は、今のお金にしてズバリいくらで売られていたと
    思いますか?

    
 〈ヒント〉米価を基準に算出しました。現在の全国紙は150円くらいでしょうか。

                                (問3の答へ)

    かし一般国民は、町のあちこちに新聞縦覧所が設けられていたので、そこへ行って新聞を読むことができました(当時の新聞
   は、現在と異なり1枚なので、立ち読みも簡単でした)。また各地に数多くできていた民権結社の中には、図書館的な機能をもって
   いた所もあり、社員や地域の人々に本や雑誌、新聞を閲覧させたり、貸し出したりしていたのです。
    このように当時、新聞は広く読まれていました。新聞には、民権思想を積極的にとりあげ、政府に批判的なものも多かったので、
   これらを読むことを通じて、自由民権の考え方は人々の間に浸透していったのです。一方、これを憂慮した政府は明治8年(1875)、
   讒謗律(ざんぼうりつ)と新聞紙条例を出し、こうした動きに対する制限を強化しました。

(問4)しかし明治初めの段階では、政府はむしろ新聞の発行を保護・奨励していました。それはなぜだと思いますか?
    〈ヒント〉初期の明治政府が、まずめざしたことから考えてください。

                                (問4の答へ)

(3)運動の広がりを支えたもの A「演説」

    演説会は、明治12年(1879)後半頃から全国的に広がり、同14年には、この年起きた開拓使官有物払い下げ事件が政府攻撃の
   格好の問題となったこともあって、ピークを迎えました。
    当時、庶民には大した娯楽もなかったので、身振り手振りをまじえて講談のように熱弁をふるう弁士の演説を楽しんでいた部分も
   ありました。例えば川上音二郎という新派劇の俳優が、民権運動の内容を盛り込んだ「オッペケペ節」で人気を博したのは有名な
   話です。

(問5)これに関連して、自由民権運動家たちが街頭などで「ある方法」を用いて政治や時事問題を一般の人々に伝えました。
    これは後に一種の芸能となりましたが、漢字2文字で何というでしょう?

    〈ヒント〉「演説」の中の一文字が使われています。直接的なつながりはありませんが、今も広く愛されているものです。

                                (問5の答へ)

    時          ス ケ ジ ュ ー ル
20日 7時
    16時
    夜
21日午後
    夜
22日 昼
    夜
26日16時すぎ
    夕方
27日
28日 
人力車で大阪を出発
和歌山に到着。
演説会(聴衆600人)
演説会。
演説会(聴衆800人)
演説会。
演説会(聴衆500人)
汽車で出発。
滋賀県大津に到着。
片岡村(現滋賀県大津市内)で演説会(聴衆100人)
片岡村で演説会(聴衆150人)


 上は、代表的な自由民権運動家、植木枝盛の明治13年(1880)5月後半のスケジュールですが、まるで人気タレント並の忙しさで
あったことがわかります。


(問6)片岡村での2回の演説会で、村の全人口のどれくらいの割合の人が集まったと思いますか?

   
@10%    A30%    B60%    C100%以上?

                                (問6の答へ)
 
 さて皆さんの中には、演説会で弁士の言動を制止しようとする警官や、それをヤジる聴衆たちの様子を描いた絵をごらんになった方も
多いと思います。政府は明治13年4月に集会条例を出し、政治結社や集会を届出制とし、結社間の連絡や屋外での集会を禁じました。
また警官を演説会の会場に派遣して、演説の内容が国家の安定を妨げるものと判断した場合は、退去・解散を命令できることとしました。
 これに対し庶民は、日頃から些細なことで警官に捕らえられたり罰せられたりしていたので、ここぞとばかりに弁士を応援したのです。

(問7)こうした演説会の雰囲気は、決して好ましいものではないという見方もできるでしょうが、その一方で民権派にとっては
    大きな利点ともなりました。それはなぜでしょうか?

    〈ヒント〉新聞のようにただ読んだり、また話を聞くにしても、おとなしく聞くのと違って…

                                (問7の答へ)

 
ところで、以下はある民権結社が行った演説会の演題です。
 

   「男女同権論」 「家庭教育」 「日本未来記」 「米国沿革談」

(問8)これらの演題に共通する特徴は何でしょうか?

                                (問8の答へ)

(4)自由民権運動の問題点
     自由民権運動というと一見現代的な自由と平等を訴えた理想的な考え方と受け取りがちですが、やはり19世紀後期(明治
    前期)の日本という、歴史的条件の中での問題点もありました。
    @対アジア観
       日本の国内政治に関しては政府と鋭く対立していた民権家の多くも、例えば対朝鮮問題については、政府と同じような
      認識でした。

(問9)それは、自由民権運動の中心的人物とも言える板垣退助の経歴にもよく示されています。どういうことでしょうか。
    冒頭に掲げた年表から関係する記事を探してください。


                                (問9の答へ)

    
A民権家と一般民衆の「ズレ」
       明治中期のいわゆる松方財政により窮迫した農民たちは、負債の減免を求めて各地に借金党、困民党などと呼ばれる集団
      をつくり、直接的な行動を起こすようになりました。

       明治17年(1884)と推定されている11月18日付で、有名な民権家中島信行は、神奈川県粕屋村(現伊勢原市)の豪農で、自
      由党員でもあった山口左七郎という人物に対し、関東地方でしきりに「窮民の暴挙」が起こり、伊勢原付近でも借金党の動きが
      あったと聞いている、などという内容の手紙を送っています。

(問10)この手紙の内容から、中島は、こうした一般民衆の動きをどのように評価していたとわかるでしょうか?

                                (問10の答へ)

       
時の一般民衆の本音は、以下のようなものでした。
       〔1〕負債からは逃れたい。
       〔2〕借金を軽減してほしい。
       〔3〕誰が天下をとってもいいから、とにかく安心してご飯が食べられるようにしてほしい。

11)これらの内容は、民権家から見た場合、指示できる内容でしょうか?それぞれ理由も考えてください。

                             
(問11の答へ)

◎答と解説
(問1)
 農民などの一般庶民です。それは、明治9年(1876)に全国各地で起きた、農民たちによる地租改正反対一揆をうけ、政府が早速翌年
に地租を軽減して妥協しようとしたことによく示されています。

                                  
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(問2)
 
C40%。江村栄一氏によれば、明治13年(1880)末における20歳以上、50歳未満の人口は約770万人で、32万人はこの4%にすぎま
せん。しかし当時は一戸で一人しか署名しないのが普通で、なおかつ交通・通信などがはるかに今日より制約されていたので、これは
現在にあてはめると3000万人くらいに相当するのではないか、とのことです。
 この状況をみた伊藤博文や山県有朋ら政府首脳は、国会開設はやむをえないと認識したようです。つまり、自由民権運動の目標を実
現させるためには、広く一般民衆の支持を得ることが必要だったのです。

                                  
(次へ)
(問3)
 当時一部4銭で、これは
現在のお金にすると約900円になります。最も安い「読売新聞」でも1.5銭、約340円でした。「東京日日新聞」は
1ヵ月だと85銭、約19,000円となり、地方の読者はさらに郵送料25銭、約5,600円がかかりました。当時、よほどの高収入の人でないと自
宅で新聞は購読できなかったようです。

                                  
(次へ)
(問4)
 
明治政府はまず、わが国の近代化をめざし、率先して欧米文化をとりいれ、それを一般国民に広めようとしました。そのための手段とし
て、新聞による啓蒙運動を促した
のです。

                                  (次へ)
(問5)
 
「演歌」。現在のものは、いわゆる歌謡曲の一種で、もの悲しい日本的メロディーやこぶしをきかせた歌唱法を特色としていますが、「艶」
はともかく、「演」の字が使われているのを不思議に思ったことはありませんか?実はそもそも、自由民権運動の中で演説を歌にしたもの
(演説歌)から来ています。前にあげた「オッペケぺ節」の他、「ダイナマイト節」「改良節」などが初期のものです。
 この他、講談や演劇の形でも自由民権の考え方は広められました。議会開設後、演歌は政治色をなくしていき、大正期に入ると「カチュ
ーシャの唄」や「船頭小唄」などに代表されるように、大衆芸能化していきました。
 なお現在の演歌は、自由民権時代のものとの直接的なつながりはなく、1950年代ぐらいから民謡や浪曲などをベースにつくりあげられて
いったものです。

                                  
(次へ)
(問6)
 
Cの100%以上。片岡村の全人口は約240人でしたので、数字上はこうなります。もちろん政治集会ですから、動員されたということも考
えられますが、この場合は自主的な参加だったようで、植木も28日の日記に「大いに感動した」と記しています。ただ実際には、もちろん
片岡村だけではなく、近隣の村々からも相当集まってきたものと考えられています。いずれにせよ、地方の小さな村でも演説会への関心
は、相当高まっていたようです。

                                  
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(問7)
 そうやってヤジを飛ばしたり、ときには石を投げたりして盛り上がることによって、
間接的ながら政治の世界に参加したことになり、これが
民権思想をより定着させ、広めることに効果があった
と考えられています。

                                  
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(問8)
 少なくとも演題を見る限り、
直接政治を論じたり、政府を批判するようなものではなく、啓蒙的、学術的なものになっていました。もともと民
権結社は、ただ自由民権運動をするだけではなく、そうした社会的・文化的運動を推進するという面はありました。ただ、この場合は明治
15年(1882)6月に
集会条例が改正され、政治批判を目的とした結社や演説会に対する規制を強化したことに対応した、民権結社側の工夫
の結果とみなされています。
 他にも「民権運動会」と呼ばれるデモンストレーション(寺社境内や河川敷などで、壮士らが民権派と政府派になぞらえて紅白に分かれ、
綱引きや旗奪い、棒倒しなどを行う)をしたりして、気勢をあげました。

                                 
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(問9)
 明治6年(1873)10月、いわゆる征韓論争が政府内で起こった際、
当時参議の要職にあった板垣は、西郷隆盛らとともに強く征韓を主張し
ましたが、岩倉具視、大久保利通、木戸孝允らに反対されて容れられず、これを不満として参議を辞職、下野していました

 また、この他、最も進歩的な民権家として知られた大井憲太郎も、明治18年(1885)に、朝鮮の内政改革を企てました(大阪事件)。
 やはり、当時欧米列強により推し進められていた帝国主義の影響を強く受けていたのです。

                                  
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(問10)
 
「暴挙」と表現していることから、少なくとも一般民衆の直接的行動を肯定したり、支持してはいなかったことがわかります。ただ中島はその
一方で、同じ手紙の中に「何とか彼らをなだめる方策はないものか」と記しているように、
一般民衆そのものを敵視していたわけではありませ
でした。秩父事件をはじめとする全国各地の過激な行動のすべてに自由党が関わっていたわけではないことは、教科書にも書かれていま
すが、実はこのことが自由民権運動を考える上での大きなポイントになっています。

                                  
(次へ)
(問11)
@徴兵は、当時国民としての義務であり、民権家も「租税徴兵の二事を負担すれば、参政権は得られるはずだ」(田中正造らの国会開設建白
  書)という論法で要求していたので、
徴兵拒否は賛成できないことでした。

A江戸時代までは習慣として行われていた借金の軽減や延滞も、近代的な契約や所有権の絶対性からみると、認められないことでした。この
 点で最も大きな矛盾を抱えていたのは、前に紹介した山口左七郎のような地方の豪農たちです。同じ民権運動に参加しながらも、山口のよ
 うに自らの家での金融活動に関しては、一般農民の借金返済を猶予したりして前代以来の慣行を認める人がいた一方で、あくまで近代的な
 契約を守り、借金を厳しく取り立て、その結果借金党の襲撃のターゲットとされてしまうような人たちもいたのです。つまり、この時期の日本の
 「自由民権運動」を一言で表現してしまうと、かえって見えにくくなるさまざまな事情が混在していた、というわけです。私にはこうした点に歴史
 というものの本質があるように思えてなりません。

Bもちろん民権家としては、自分たちが政権に参加できるような運送にしたいので、賛成できませんでした。それ以前に、江戸時代までの一般
 民衆は、国家と政府は一体のものであり、自らが政治に参画して政府をかえようという意識はもっておらず(もたあいような体制づくりを為政者
 がしてきたとも言えます)、一方で国家そのものは自分たちも守る責任があるなどとは考えていませんでした(それは専ら武士の仕事だったの
 です)。これが@徴兵拒否の理由の1つにもなっていたのです。

※これらの問題と答、解説は、佐々木克『日本の歴史17 日本近代の出発』(集英社、1992年)、稲田雅洋「自由民権運動は何を残し
 たか」(『新視点 日本の歴史』6 近代編、新人物往来社、1993年所収)、牧原憲夫『民権と憲法』(岩波新書、2006年)、渡辺尚志
 『東西豪農の明治維新』(塙書房、2009年)などをもとに作成しました。

◎このテーマは、拙著『疑問に迫る日本の歴史』(ベレ出版、2017年)にも掲載しました。

                            
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