〜ヨーロッパ
○シンデレラの時計
17世紀末にフランスの作家シャルル・ペローは、民話から取材した『ペロー童話集』を出版しました。この中に
「シンデレラ物語」という話があります。ご存じのように、シンデレラは仙女と約束して夜中の12時を少しでも過
ぎないことを条件に舞踏会に行くことを許されます。1日目は大丈夫でしたが、2日目はこの約束を破ってしま
い、このため魔法がとけてみすぼらしい姿に変わってしまうのです。
この話には「12時を少しでも過ぎたら…」という時間に対する厳格な意識が読みとれます。17世紀末の段階
での昔話ですから、16世紀末段階でそんな正確な時計がフランスにあったのでしょうか?
○中世における「時」の支配者は?
(問1)中世の前半から時間を厳格に守っていたのは次のうちどこ(誰)でしょうか?理由も考えて下さい。
ア)領主 イ)教会・修道院 ウ)農民 エ)職人
(問1の答へ)
・15〜16世紀にかけて市庁舎や市場などの公共広場に機械時計が設置されるようになりました。これによって
市民たちは、秩序ある生活を営むようになります。一方、農民は自然のリズムに従った農村の時間で暮らして
いました。こうして中世後半になると、都市では人工の時間、農村では自然の時間、という2つの時間が併存
するようになったのです。
○不定時法から定時法へ
不定時法:日の出〜日没、日没〜日の出をそれぞれ12時間とする時法
(問2)これだと昼間の1時間と夜の1時間の長さはどうなりますか?
(問2の答へ)
・機械時計の出現・普及とともに、ヨーロッパでは不定時法から定時法への大転換が起こりました。
○時間意識の革命
機械時計による定時法がひろがると、労働者(職人)の労働に対する意識に大きな変化が起こりました。
(問3)それ以前は職人は( ア )中心の労働をしていましたが、これによって( イ )に縛られる賃労働
に変わっていきました。さて、ア、イにはそれぞれ何という語句が入るでしょうか?
(問3の答へ)
・定時法普及に積極的だったのは、都市の商人たちでした。そして、利子をめぐる問題で彼らは教会勢力と
対立しました。
▽教会側「キリスト教における時間とは神が支配するものである。だから、時間を売って利子とする行為は
神を冒涜(ぼうとく)するものである」
▼商人側「利益追求を目的とする我々にとって、時間は組織的・計画的に利用すべきものである。だから
時間は、神から離れた客観的なもの、すなわち定時法によるものでなければならない。」
↓
こうして時間は、商人にとっては貨幣となり(だからこそ正確に計られなければならない)、やがてそれは
資本に転化していきます。
○怠惰は賃金カット
・イギリスでは16世紀前半までは、注文の品物の出来高払い制がとられていましたが、1563年徒弟法に
よって、初めて全国的一般的賃金規定が定められました(女王エリザベス1世治世下)。同法第9条に
すべての職人及び労働者は朝は5時または5時前に仕事につき、夜は7時と8時の間まで仕事を
続けるべし。但し、朝食、夕食あるいは飲酒の時間(最大2時間半以内)を除く。…違反した者は、
1ペンスを賃金から差し引かれるべし。
とあります。
(問4)この1ペンスとは、今の日本円にしてズバリどれくらいだと思いますか?
(問4の答へ)
○工場の監督による時間の「支配」
・時計ははじめ、当然ですが相当高価な品物でしたから、イギリスでも王侯・貴族・ブルジョワと呼ばれる上層
市民くらいしか所有できませんでした。
・1700年ごろの工場では、ブルジョワに属する監督くらいしか時計を持っていませんでした。
(問5)このため、既にこのころ労働時間は規定されていましたが、監督は「ある方法」でもって
時間を「支配」しました。さて、その方法とは?
(問5の答へ)
○スイスが時計製造で有名なわけ〜ヨーロッパ時計産業の盛衰
・16世紀のヨーロッパにおける時計工業の中心地は、南ドイツ(ニュルンベルグやアウグスブルグ)とフランス
(パリとブロア)でした。
(問6)当時の時計職人は、他の鍛冶工、錠前工、宝石工などと比べてひときわ知的水準の高かった
人たちだと言われています。それはなぜでしょうか?
(問6の答へ)
(問7)現在でもスイスというと、高級腕時計のメーカーが多いのですが、それはフランスの時計職人たち
のある行動が起源になっています。それはどんなことでしょうか?
<ヒント>16世紀後半〜末にフランスで起こった大事件といえば?
(問7の答へ)
・そうしたできごとの影響で、その後、時計工業の中心地はイギリス、さらにはスイスへ(さらに後にはアメリカ、
日本!と変遷していきますが)移っていきました。
(問8)17世紀後半に発明された正確な振り子時計に強い関心を示した、当時のイギリスの最高指導者
と言えば誰でしょうか?
(問8の答へ)
◎答と解説
(問1)答はイの教会・修道院です。6世紀半ばに成立したモンテ・カシノの聖ベネディクト修道院の日課を見ると、
お祈りや読書、労働といった内容が15分ないしその倍数の単位できっちりと決められていました。当時、
無秩序だった世俗に対抗して、精神的に緊張して厳格に生活していたのです。勿論、当初は機械時計は
なく、砂時計で15分1単位を計っていました。こうした事情から、どこよりも機械時計の出現を望んできた
のが教会、修道院だったのです。農民たちは、3時間おきになっていた教会の鐘によってのみ時を知りま
した。
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(問2)春分・秋分の日を除いて、季節と緯度によって同じ「1時間」の長さは違ってしまいます。定時法の考え方
は機械時計出現以前から、ありましたが、実際の人々の自然のリズムに沿った生活とはズレがあるため、
使われることはありませんでした。つまり、機械時計が出現してはじめて、人間は「人工的な時間」に自ら
縛られるようになってしまったのです。
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(問3)アには「作品」、イには勿論「時間」が入ります。職人自身が満足のいくまで時間をかけて良い作品をつく
っていたのが、仕事が時間に縛られた賃労働に変わっていったのです(アフター5の起源はここか?)。
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(問4)仮に今の日本の労働者の時間給を1000円とすると、12時間労働で12,000円。当時のイギリスの労働
者が1日7ペンスだったと言いますから、これを12,000円として、その7分の1とは、1700円になります。
日給の14%が1時間さぼっただけで引かれるとは!時間に対する厳格さがよくわかります。
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(問5)工場監督は、ときには時計を早く進ませて定められた始業時よりも早くベルを鳴らし、仕事が始まると今度
は時計の針を遅らせて終業のベルが鳴るのを遅らせたのです。恐ろしい「時間の支配」ですね。これと同じ
ようなことは、明治末年の日本(例えば信州諏訪地方の生糸工場)でも行われていました(『職工事情』)。
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(問6)時計職人たちは、特に高度で精密な計算を必要とする先端技術を扱うために、算数の知識の他、読み
書き、製図、天文学なども学んでいたためです。後のことですが、イギリス産業革命の立て役者の1人
で水力紡織機を発明したアークライトに協力したのは何人かの時計工でしたし、ジェニー紡織機を発明
したハーグリーブズは、彼自身が時計工でした。また鉄工業での画期的な発明とされる「るつぼ鋳鋼法」
を発明した(1740年)のも、ハンツマンという時計工でした。
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(問7)ユグノー戦争(1562〜98年、フランス旧教派と新教派の内戦)でユグノーすなわち新教カルヴァン派で
あったフランス国内の時計職人たちは弾圧されて多くが国外へ亡命しました。その主な亡命先の1つが
カルヴァン派の本拠であるスイスのジュネーブだったのです(もう1つはイギリス)。この後もフランスは
豪華な装飾を特徴とする時計を生産していましたが、17世紀末〜18世紀初めにかけて再び国内のユグ
ノーを追放したため、衰退が決定的となりました。
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(問8)答はピューリタン革命の立て役者にして後に護国卿となったオリバー・クロムウェルでした。彼は振り子
時計の正確さと、そのことによって期待できる厳格な宗教的時間規律が、ピューリタンの教義に一致する
という点で、この振り子時計の有力な支持者になりました。
※これらの問題と答、解説は、角山栄『時計の社会史』(中公新書、1984年)などを参考に作成しました。
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