1 米はどこから来たか?
(問1) 次の植物のうち、日本にもともとあったものはどれでしょうか?
<ヒント> 2つあります。
小麦 稲 大根 セリ 粟 蕎麦 ウド 里芋
(問1の答へ)
2 米作りと日本人
日本は温帯に属し、夏は熱帯、冬は冷帯並みの気候となります。したがって、本来熱帯の植物である米も、夏に生長期をもってくるようにすれば、作ることが可能となります。このため、日本人には鋭い季節感覚が備わっていきました。
(問2) 日本で発展した季節感覚と深く関わる芸術(文学)には何がありますか?
(問2の答へ)
日本での米作りは、一面では大変な手間を必要としました。しかし、このことが原産地をはるかに上回る収穫量を実現する集約的な技術をもたらし、日本人に勤勉の美徳を植え付けました。
(資料) 1ヘクタールあたりの米の収穫高(1987年)
日本 6,19トン
アメリカ 6,14トン
韓国 6,02トン
インドネシア 3,92トン
ベトナム 2,68トン
タイ 1,96トン
3 めでたい時に「赤飯」を食べるのはなぜ?〜米の炊き方いろいろ
@ 湯立て: お湯を沸騰させてから米を入れる。
A 湯取り: 多量の水で米を煮て、わいたら火を止めて「おねば」を捨て、再び弱火で蒸す。
B 炊干し: 現在の日本での炊き方
C 蒸し飯: こわめし(強飯)のこと。
* 日本では、平安時代の貴族がCの方法で食べていました。中世には禅宗の僧侶の影響で、Bの原型である姫飯(ひめいい)がひろがり、江戸時代にはこれが一般化しました。そして強飯は儀式用(多くは仏教行事として)残りました。
○鎌倉時代には、「椀飯(おうばん)」といって御家人が将軍を招いてごちそうを差し上げる行事が公式化しました。
(問3) この言葉から、現在でも人をもてなす時に使う表現が生まれたとされています。それは何でしょうか?
(問3の答へ)
4 米の別称
(問4) お米の別の言い方を考えられる限りあげて下さい。
(問4の答へ)
(問5) お米の別の呼び方の1つが含まれる、お正月の子供にとってはとても大切なならわしは何でしょうか?
(問5の答へ)
5 米は「お金」だった
江戸時代には「二合五勺桝」というのがありました。これは大人1日1食分の基準量であり、五合が1人扶持と呼ばれ、給与として武士に支払われました。千年前から貨幣を持ちながら、給与を食物の量に換算して支払っていた国は他にはないでしょう。
(問6) 1万石の大名は、約何人扶持ということなりますか、計算してみて下さい。
<ヒント> 10合=1升 10升=1斗 10斗=1石です。
(問6の答へ)
6 あこがれの主食「ごはん」
江戸時代、米の収穫量は飛躍的に増えましたが、そのほとんどは税として支配者に差し出され、庶民はあまり口にできませんでした。有名な慶安のお触書(1649年)には「百姓は(中略)麦粟ひえ菜大根その他何にても雑穀を作り、米を多く食いつぶし候はぬ様に仕るべく候」とあります。
(問7) 1740年ごろ、信州伊那郡福島村の地主の食事は「元日 朝は雑煮、晩は米ばかり 2日 ついたちの通り 3日 朝は同じく雑煮、晩はあずき飯 4日 朝雑煮 晩は少し入る飯なり」だったそうです。これをみて気づくことは何でしょう?
(問7の答へ)
◎答と解説
〔問1〕
答はセリとウドです。その他は全て外来種だったんですね。もちろん米もその1つです。
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〔問2〕
これはもちろん短歌と俳句です。「季語」を入れる約束がありますよね。
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〔問3〕
答は大盤振る舞いです。中世初期の武士の食事風景を描いた絵巻物を見ると、飯がお椀に高々と盛られています。
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〔問4〕
ヨネ、八木(米という文字を分解した)、めし、しゃりなどという呼び方があります。「めし」は、「召し」からきたものとされ、米が貴人の召し上がるものというところからこう呼ばれたということです。しゃりはもちろん「舎利」すなわち、仏陀・聖者の遺体を火葬にした後に残る小さな骨(ちょうど米粒のような形をしています)からきた呼び方です。いずれも米が非常に貴重なものであったところからきた呼び方であることがわかります。
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〔問5〕
答は「お年玉」です。米のことをトシと呼んだことは「万葉集」にも見えますし、今も方言で残っています。タマはもちろん魂のことで、トシダマとはもともと米を作るのに必要な威力、霊力を指した言葉でした。これがないと米は作れないので新しい年ごとに迎えたのです。このトシダマの象徴が米であり、米で作られた餅であり、また握り飯でした。タマは「年神様」「正月様」と呼ばれる神様から1人1人に分け与えられるものなのです(来年からのお年玉はお餅にしてみては?子供に怒られますよねぇ)。
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〔問6〕
5合で一ヶ月1斗5升、1年で18斗になります。1万石は10万斗ですから100000÷18=5555,555となり、答は5556人扶持ということになります。でも1万石は領地の全収穫量を指しますから、五公五民として実際に大名自身の収入は半分の5千石となります。
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〔問7〕
地主という、村でも最も豊かな立場の人でさえ、しかも正月で米だけの食事は元日の晩御飯だけです。いかに米の食事が日本人の大多数であった農民と縁遠いものであったかがわかります。しかし人々の理念の中では米は常に主食であったと言えます。毎日(それがだめなら、できるだけ多くの日々)少しずつ米を食べ続ける努力がなされました。純粋の米飯は特別の慶祝用にとどめ(めでたい日に赤飯を食べるのはこれと関係する)ふだんは様々な混ぜ飯が考案されました。
※ これらの問題と答・解説は『日本文化史3』(有斐閣新書、1977年)、大塚滋『食の文化史』(中公新書、1975年)、宮本常一『絵巻物にみる日本庶民生活誌』(同、1981年)、牧田茂『神と祭りと日本人』(講談社新書、1972年)をもとにして作成しました。
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