※注意:お食事の直前・直後にチャレンジなさることはお控え下さい。
(問1)トイレ(便所)の、別の呼び方をできるだけたくさんあげて下さい。
(問1の答へ)
(問2)人類がトイレという特別な場を設けるようになった、最も大きなきっかけとなったと考えられて
いるできごとは、次のうちどれでしょうか?
ア) 直立歩行 イ) 狩猟・採集 ウ) 農耕開始にともなう定住
(問2の答へ)
◇変わったトイレ
(問3)中国には「こん」と呼ばれるトイレがありました。これはどんなトイレでしょうか?下のヒントをもと
に考えて下さい。
ヒント1:ある動物が関係しています。
ヒント2:究極のリサイクル・トイレです。沖縄にもありましたが、衛生上の問題で戦後姿を消しました。
(問3の答へ)
・アフリカ中央部のサバンナ地帯に流れる川に、「アフリカ式ロープ・トイレ」があります。川上と川下に杭が
うたれ、これにロープが張られたものです。
@裸になって川に入り、川上に向かってロープにつかまり、中腰で「ふん」ばって用を足す
(究極の「かわや(川屋)!)。糞は当然、川下へ流れていく。
A川下に向かってロープにまたがる。そう、川の流れで自然に押されながら前に進み、お尻
がふけてしまう(これもある意味トイレウォッシャー??)。
(問4)次に使う人はきたなくないのでしょうか?いえいえ大丈夫です。なぜかわかりますか?
(問4の答へ)
○平安貴族のトイレ「樋箱(ひばこ)」
・寝殿造りに暮らす貴族たちは、「樋殿(ひどの)」と呼ばれる空間に、屏風や几帳(きちょう)、御簾(みす)
などで間仕切りをして、ここに樋箱と呼ばれる箱形持ち運び式トイレを置いて用を足しました。樋とは、
雨水を流す樋(とい)のように、排泄した糞尿を水で洗い流すことにあるようです。十二単(じゅうにひとえ)
を着た姫たちが用を足すときは、侍従たちの手も借りて大変だったようです。
○平安時代庶民は?
・「餓鬼草紙(がきそうし)」という絵巻物に、京都の路次で排泄する人々の周りに、そのものを食う餓鬼が
群がっている様子とみられる場面があります。「伊勢拾遺物語」には、あるできごとがきっかけで、四条
北の小路が「糞の小路」と呼ばれるようになったが、時の帝があまりにも汚い呼び名なので、これを「錦
小路」に呼び直させた、という話が載っています。これらから、特定の都小路がトイレ空間として利用され
ていたことが推測されます。
(問5)「餓鬼草紙」の絵では、排便の際に足元や着物を汚さないように、みすぼらしい子どもでさえ
使っていた当時としては高価なものが描かれています。それは何だと思いますか?
(問5の答へ)
○戦国時代のトイレ−油断するべからず−
・いわゆる「金隠し」がついたトイレの、確認されている最古の例は、越前一乗谷の朝倉氏遺構のものです
(15世紀末〜16世紀末)。金隠しは、下肥(しもごえ)確保のため、糞尿が外に飛び散らず確実に便槽中
にたまるように、という本来の目的の他に、もう1つ目的があったとされています。
(問6)これと同じような理由で、金隠しはトイレの部屋の入り口側につけられていました。さて、その
目的とは何でしょうか?
<ヒント>世は戦いの続く時代でした。たとえトイレと言えども…
(問6の答へ)
○水戸「黄門」様のトイレ
(問7)水戸光圀の隠居所、西山荘(茨城県常陸太田市)の小便器には、悪臭を消し、用を足すときの
音を小さくし、跳ね返りをなくす、ある工夫がなされていました。それはどんな工夫だと思います
か?
(問7の答へ)
○江戸庶民の糞尿の値段
・江戸初期には大規模な新田開発が進みました。このため、それまでは山野の草を刈って農地に敷くことで
地力の回復をしてきたのですが、開発で山野が減り、草が不足するようになりました。このため肥料として
注目されるようになったのが、人糞(下肥、しもごえ)です。17世紀後半には、江戸に下肥の流通体系が整
ったと考えられています。
・18世紀中頃、江戸周辺で江戸への蔬菜がさかんになり、下肥の需要はますます高まりました。このため
値段(有料!)もあがる一方でした。
(問8)松平定信が政治を主導した18世紀末頃、江戸町民(100万人)が出した下肥は、しめていくらの
値段(現在のお金に換算して)になったと思いますか?
(問8の答へ)
○日本初の洋式トイレ
・腰掛け型の洋式トイレが日本に初めて現れたのは、幕末期の開港地にあった外国人居留地の洋館だった
と考えられていますが、これは残念ながら残っていません。
(問9)現存する最古の洋式トイレは、ある有名人の屋敷跡に残っています。さて、その有名人とは?
ア) 福沢諭吉 イ) 大隈重信 ウ)新島襄 エ)津田梅子
(問9の答へ)
◎答と解説
(問1)@かわや(川屋、厠):川の上にトイレをつくり、水の流れで流してしまう、いわば天然の水洗トイレ。日本
では『古事記』(712年)が初見。実際、縄文時代のある遺跡にも川屋がありました。
Aちょうずば(手水場):本来は神社などで手を清める場所を指しましたが、終わって手を洗うことからトイレ
を指すようになったと言われます。
Bせっちん(雪隠):禅寺のトイレ西浄(せいじん・せいじょう)からきたとする説などがあります。
Cとうす(東司)・せいじん・せいじょう(西浄):禅寺の東西にあるトイレのことです。
Dかんじょ(閑所):1人で閑をかけて入る場所の意味かと思われます。
Eこうか(後架):禅寺で僧堂の後ろに掛け渡して設けられた洗面所のことですが、この側にトイレがある
ことから、転じてトイレの意味をもつようになりました。
Fはばかり(憚):人目を避けて遠慮して用を足す場所の意味からこう呼ばれます。
Gごふじょう(御不浄):汚い場所という意味ですが、なくてはならない場所ですから御が付けられました。
※ところで、「W.C」の意味は、「Water Closet」(直訳すれば水に流す小部屋)だったというの、ご存じ
でしたか?私、「尻」ませんでした(ふざけすぎ、すみません)。
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(問2)答はウの「農耕にともなう定住」です。大昔は他の動物と変わりなく、危険さえなければいつでもどこでも
排泄しようがかまわない、トイレという概念さえ持たずに暮らしていたと考えられます。しかし、定住すると、
悪臭を放つだけでなく、病気の原因ともなり、自然に、皆の共通の認識のもとで、生活に支障をきたさない
ところを選んで排泄するようになっていったのでしょう。
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(問3)答は豚便所のことです。四角または丸い囲いの中に豚が飼われ、囲いの上に小屋すなわちトイレがあり
ます。ここで用を足すと、糞が下の放豚場に落ち、その餌となるわけです。「えっ?うんちが餌?」と思わ
れたかもしれませんが、人間の糞は他の動物にはまだもったいないほど栄養分が残っているそうなん
です。特に豚は強い消化力を持っています。ちなみに豚くんは、冷えたものより、「できたて?」のホカホカ
したものを好むそうです。こうして育てた豚を人間が食べ、そして「こん」で糞をして…何という見事なリサイ
クル!しかし衛生上では問題有りそうですね。
(次へ)
(問4)ロープの汚れた場所には魚が集まって来て、これをついばんでしまいますから、次の人が使う頃には
きれいになってしまうのです。う〜ん見事。でも、前の人の直後にするのは控えましょう。
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(問5)答は高下駄でした。当時の庶民のほとんどは、ふだんは裸足か草鞋履きでした。
(次へ)
(問6)入り口から入ってくるかも知れない敵に背中を見せないためと考えられます。
(次へ)
(問7)小便器の中に杉の葉が敷き詰められていたのです。
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(問8)1両を仮に5万円とすると、約13億円です。これを聞いてくみ取りの組合の人々は「くそっ!」と言ったか
どうかはわかりませんが、値下げ要求をし、ついには「もし江戸の武家・町民が値下げに納得しないのなら
くみ取りを2〜30日間拒否する」と主張したものですから、町民たちも糞尿がたまる一方ではたまったもの
ではないと、この要求に応じたそうです。
(次へ)
(問9)答はウの新島襄でした。彼は明治8(1875)年に同志社を創設し、キリスト教主義を始めたことで有名
です。彼は明治11年9月に自邸を竣工しますが、その中にいわゆる洋式トイレを設置します。尤もその
横には和式トイレも併設されており、外国人客などは洋式を、これに慣れない家人は和式を利用したと
言われています。
※トイレにも文化があります。その文化は、人種、民族、気候、風土、習慣など、多くの要素に影響を
受けていることがわかりますね。
※※これらの問題と答、解説は、大田区立郷土博物館編『トイレの考古学』(東京美術、1997年)、大石
慎三郎『江戸時代』(中公新書、1977年)などをもとに作成しました。
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