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【Q1】7世紀後半以前、下野国(現在の栃木県)は2つの国に分かれていました。下毛野国(しもつけのくに)と
あと1つ、何という国でしょうか?
ア) 那須国 イ) 河内国 ウ) 芳賀国
【Q1】の答へ
【Q2】白鳳(はくほう)時代、天武天皇のころ(7世紀後半)、今の南河内町に日本三戒壇(かいだん)の1つ、
薬師寺が建てられました。この「戒壇」とは?
ア) 天皇が訪れる施設 イ) 僧侶の資格を与える施設 ウ) 有名な仏像がある施設
【Q2】の答へ
【Q3】8世紀初め、下野出身の豪族、下毛野古麻呂(しもつけのこまろ)という人の行ったことは?
ア) 大化の改新に参加した イ) 大宝律令をまとめた ウ) 『日本書紀』をまとめた
【Q3】の答へ
【Q4】「源頼朝は宇都宮二荒山神社にお参りしたことがある」ホントかウソか?
【Q4】の答へ
【Q5】「足利氏には、実は室町幕府を開いた尊氏を生んだ一族とはまったく別の一族がいた」ホントかウソか?
【Q5】の答へ
【Q6】「戦国時代、下野には武田氏や上杉氏、後北条氏と同じクラスの戦国大名がいた」ホントかウソか?
【Q6】の答へ
【Q7】「織田信長、豊臣秀吉、徳川家康は、いずれも下野に来たことがある」ホントかウソか?
【Q7】の答へ
【Q8】江戸時代末期、下野にはいくつの藩があったでしょうか?
ア) 3 イ) 8 ウ) 15 エ) 30
【Q8】の答へ
【Q9】戊辰(ぼしん)戦争(明治新政府軍と旧幕府軍との戦い)のとき、宇都宮藩の態度は?
ア) 新政府方 イ) 旧幕府方 ウ) 中立
【Q9】の答へ
【Q10】明治2年(1869)の版籍奉還(はんせきほうかん)で、いちはやく県が設置され、下野支配の拠点と
なったのは?
ア) 日光 イ) 宇都宮 ウ) 栃木 エ) 足利
【Q10】の答へ
◎答と解説
【Q1】答はアの那須国です。湯津上村にある国宝「那須国造碑」(なすのくにのみやつこのひ)の碑文に那須
国造であった那須直韋提(なすのあたえいで)が西暦689年に評(国の下の単位、後に郡となる)の
長官に任命された、とあり、この時点で那須国はなくなっていることがわかります。
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【Q2】答はイの「僧侶の資格を与える施設」です。仏教の力で国の平安を守ろうとする当時の政府にとって、
こうした場を設けることは切実な問題だったのです。
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【Q3】答はイの「大宝律令をまとめた」です。701年、大宝律令は刑部(おさかべ)親王、藤原不比等ら19人に
よって作成されますが、この中に古麻呂が含まれていたのです。彼は河内郡辺りを根拠地とする地方
豪族で、中央政府の中で、今で言う防衛庁長官、人事院総裁のような要職につきます。下野薬師寺は、
もともとはこうした高い地位をもつ下毛野氏の氏寺で、ここに戒壇が置かれたのも下毛野氏の中央での
地位が大きく関わっているのではないか、との見方もあります。
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【Q4】ホントです。文治5年(1189)7月25日、頼朝は奥州藤原氏征伐のため、下野古多橋駅(こたはしのうま
や、現宇都宮市下河原町付近か)に到着し、宇都宮社、すなわち二荒山神社に戦勝を祈願しています。
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【Q5】これもホントです。尊氏を生んだ足利氏は源氏一族ですが、藤原姓の足利氏がいたのです。武門の棟梁
というと、普通源氏と平氏を指しますが、実は藤原氏(特に秀郷流)の方がもっと古い時期から活躍してい
たのです。ではなぜ藤原姓足利氏はそれほど有名ではないかというと、源平争乱の時に平家方についた
ために敗亡してしまったからです。「歴史とは実は勝者の歴史」なんですね。なお、同じ秀郷流でも小山氏
の方は、頼朝方についたために、下野守護の地位を認められ繁栄していったのです。
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【Q6】これはウソです。戦国時代、下野には小山氏(秀郷流は南北朝末期に断絶、一族の結城氏や山川氏が
名跡を嗣いでいた)や宇都宮氏、那須氏など中小規模の領主は多く存在していましたが、一国全体を牛耳
るような大名はいませんでした。したがって彼らは周辺の大勢力であった後北条氏や上杉氏に翻弄され
続けたのです。
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【Q7】これもウソです。秀吉は天正18年(1590)7月に小田原の後北条氏を討ち、その後、奥州平定のため
出陣、同月26日に宇都宮に到着、ここで東北の大名たちを呼び寄せ、支配体制を整えています。8月
4日、宇都宮を出発、東北へ進み、12日にまた宇都宮に戻っています。宇都宮が秀吉にとって奥州支配の
ための重要拠点になっていたことがわかります。
また家康は石田三成方の上杉氏を討伐するため、慶長5年(1600)6月に大坂を出発、挟み撃ちをもく
ろむ三成の挙兵を知って下野小山で評定を行い、西へ反転して三成を攻めることを決定しました。
つまり、信長だけは下野には足を踏み入れていません。
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【Q8】答はエの30藩です。このうち11藩が下野国内に本拠をもち(宇都宮、壬生、吹上<栃木>、茂木、高徳
<塩谷郡内>、喜連川、黒羽、大田原、烏山、佐野、足利)、残り19は水戸藩、結城藩、会津藩、秋田
藩など他国に本拠を置く藩でした。いろいろな勢力に細かく分かれていたんですね。
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【Q9】答はアの新政府方です。幕末、はじめは中立的立場で、非政治的な尊皇である天皇陵修補事業を行った
ため、朝廷・幕府双方から支持され天下で有名になりました。その後、幕府との関係が悪化し、慶応4年
(=明治元年、1868)1月に新政府軍と幕府との戦争が始まると、3月に宇都宮藩は勤王すなわち新政
府方の態度でまとまりました。このため新政府軍が宇都宮城に入って守備することになりましたが、4月に
は土方歳三率いる旧幕府軍が下妻→下館→真岡→鬼怒川を経て宇都宮城下に入り、同月19日には田
川を越え簗瀬口(現在のJR宇都宮駅よりやや南の地)で激戦となり、城下の大半を焼いて城を占拠しまし
た。23日には新政府軍が巻き返し、六道口(現在の宇都宮工業高校付近)で旧幕府軍を破り、城を奪回
したのです。
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【Q10】答はアの日光です。下野の初代知県事に任ぜられた佐賀藩主一族の鍋島道太郎は、役所を2箇所置き
ましたが、このうち宇都宮落城の後、治安が悪く、かつ幕府領の中で特別扱いをうけて農民の状態も悪
かったため、新政府の命令も一番及びにくいとみなされていた日光に本庁が置かれたのです(もう1つの
出張所は石橋)。その後、明治4年(1871)7月の廃藩置県で、それまで存続していた10藩が県へ移行
し、さらに11月にそれらが整理統合され、栃木県と宇都宮県になりました。さらに明治6年(1873)6月
15日、宇都宮藩を廃し、栃木県が誕生したのです。この6月15日は現在、「栃木県民の日」になってい
ます。
※これらの問題と答、解説は、栃木県教育委員会編『ふるさと栃木県の歩み』(ぎょうせい、1986年)、阿部昭
他著『栃木県の歴史』(山川出版社、1998年)等を参考に作成しました。
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