遺跡分布図から見た日本列島
旧石器時代
旧石器時代には定住化がまだ始まっておらず、住居や墓などの「遺構」は極めて少
ない。この時代の遺跡とは、礫群(れきぐん 握り拳ぐらいの石の集まり)、石器ブロッ
ク(破片や石器などの集まり)、木炭集中(たき火とは断定できないので)などを指す。
石器が確実に残るのに対して、木器、骨角器、人骨などはほとんど出土していない。
石囲い炉が数件発掘されているが、それも基本的には例外といっていい。比較的長
期わたって使用された「炉」なら残る。しかし、短期あるいは単発使用の「たき火」ともな
ると、まず遺跡として残らない。
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旧石器時代の遺跡は、仙台平野、秋田平野など一部を除き、関東平野を含む西日
本に集中する。ただし、この分布図は捏造事件の遺跡を含むものであり、その点では
多少問題がある。だからといって、3千件に及ぶ旧石器時代の遺跡のすべてが否定さ
れるわけではない。西日本に遺跡が集中すると判断しても問題はないだろう。
この時代の日本列島は、現在より海水面が100m程度低く、北海道は樺太を経由
して大陸と陸続きになっていた。それだけではなく、瀬戸内海は干上がり、九州、四国
本州が陸続きであった。九州にある壱岐・五島列島は、この陸地に繋がっていた。ほ
ぼ九州とおなじ程度の平地が、この地域に広がっていた。
当時、日本にはマンモスやナウマン象、ヘラジカ、オオツノジカ、バイソン、オーロクス
(ウシの先祖)、ウマなどが生息していた。これらの動物が乾燥して寒い草原を闊歩(か
っぽ のし歩く)していたと考えられている。旧石器人は狩猟採集を生活の糧としてい
たから、動物たちの移動を観察しやすい高台で生活していたと思われる。それが、旧
石器時代の遺跡を比較的多く残した要因であろう。そうでなければ、海水面が上昇し
たとき、ほとんど海の中へ消えてしまうはずだから。
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ここで使う分布図は遺跡数の多いところを抽出してプロットしてある。空白部分は全
く遺跡がないか、あるいは「まばら」な地域であることを意味する。地名は遺跡名では
なく、また所在地でもない。その場所、あるいはその近くにあるという「目安」である。

縄文初期
縄文時代になると気温が上昇し、海水面が100m高くなる。日本は大陸から切り
離される。それと同時に黒潮の勢力が強くなり、日本海に流れ込むようになる。暖流
が流れ込むようになり、日本列島を暖め大量の雨をもたらすようになる。雨が少なく平
原に草食動物が群れていた時代は、急速に終焉のときを迎える。樹木が繁茂し、大型
獣の好む草原は消滅した。おそらく植生も変化したと考えられる。それに伴い大型獣
は絶滅し、現在の日本と同じ環境が出現した。これは旧石器人に強い衝撃をもたらし
ただろう。このことが、縄文時代という新しい時代を開く扉になったのである。
旧石器時代と縄文期の違いは土器の出現である。ドングリなどの果実を調理する
土器は、移動生活を困難にさせることは間違いない。
ここでは縄文時代を、初期・中期・後期に分けることにする。縄文初期は、草創期
(約1万2千年前〜)・早期(約8千年前〜)のうちの早期部分を対象としているが、
遺跡の年代測定の誤差、振り分けの判断などの誤りが少数だが確実にあると思わ
れるので実体とは言い難い。それで誤解を避けるために、時代区分で使われない「
初期・中期・後期」という表現にした。中期は、前期(約6千年前〜)、中期(約5千年前
〜)のうち中期を対象とする。これも対象によっては後期に当たるものも含まれるかも
知れない。後期は、後期(約4千年前〜)、晩期(約3千年前〜約2千4百年前)は晩
期を対象とする。
初期の遺跡は、定住化の確立を示す竪穴住居が増えてくる。2本または4本の柱を
もつ。後半になると、住居内に炉が出現するようなる。また、貝塚の形成もこの時期か
らである。

旧石器時代と縄文初期の遺跡分布を比べると、縄文初期になると信州・関東以北
に遺跡が集中するようになる。旧石器人と縄文人が血縁関係にあるとすれば、西日
本から東日本へと移動したと考えられる。実はこの遺跡分布は、マンモス動物群の分
布とほぼ一致する。マンモスの分布は、信州から東側となる。一方、ナウマン象の分
布域は北海道の南部から九州までとなる。ナウマン象の絶滅が約2万5千年前、マン
モスが約2万年と推定されていて、(他に異論がある。)年代のズレはともかく、最初
南のナウマン象が、次に北のマンモスが絶滅したとすれば、次のような推定ができよう。
旧石器人は、防御性の高い、長い毛を持つマンモスより、ナウマン象を好んで狩猟
対象としていた。しかし、ナウマン象が絶滅した為、マンモスの住む東日本へと移動し
た。そして、マンモスも絶滅し食糧転換を迫られることになった。
人口の減った西日本の穴を埋めるように、南九州では南方系の縄文遺跡が増える。
縄文中期
約6300年前、鹿児島沖にある鬼界カルデラが噴火し、南九州の縄文人は壊滅的
な打撃を受ける。この縄文人が使っていた「丸ノミ石斧」とほぼ同じものが、四国や紀
伊半島、関東で発見される。この事から、南九州の縄文人の移動が指摘されている。
中期の遺跡には、規模の大きな環状集落が出現する。立石・配石などの記念碑的
な遺構の発生もこの時代である。土器の装飾が発達し、浅鉢・壺・注口(ちゅうこう)・
片口・香炉・匙など用途も多様化する。赤漆、黒漆の使用も開始されて、技術的な向
上が広範囲に起こっていることが伺える。

縄文初期と中期の分布を比較すると、海岸周辺の遺跡が増えていることが理解で
きよう。それと同時に、縄文初期には存在しなかった日本海側の遺跡も急速に増え
ている。おそらく、南方系の縄文人が舟と魚漁をもたらしたと考えられる。それは、舟
による交易ルートの開拓でもあったのだろう。少なくとも現時点では、旧石器人が舟を
使っていたという確実な証拠はない。
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