![]() たとえこの指先が離れても 二人の願いは消えないと あの時は信じていられたのに 涙が、何時間経っても枯れることがない。 ビビは、涙のせいでぼやけてしまう月を見上げながら、こみ上げてくる嗚咽をかみしめた。 分かっていたはずなのに。諦めようとしていたはずなのに。 気持ちが溢れてくる。彼の温もりを探している。 あの時も、こんな月夜だった。 初めてビビに『結婚』話が出たのは9歳の時。 あの時は知らない人と結婚をするのが嫌で、無理やりサンジと婚約まがいの約束をさせた。 自分の泣き場所で息を潜めていても、必ず見つけ出して 優しく笑いかけてくれるあの人が、大好きだった。 本格的な婚約の話が出始めたのと、サンジの態度が変わり始めたのは、ビビが12歳の時だったか。 元からビビに対して以外は冷めた性格をしていたサンジが、『結婚』に対しても どこか受け入れがちな言葉をビビに話すようになり、何度彼に隠れて泣いたか分からない。 否、全てを知っていたのだと思う。 自分が泣いているのを知っていても何も言ってくれないサンジは、それでも好きで、愛しい人だった。 本格的に見合いが決まった日の夜。ビビは明かりを落とした一室で月を見上げていた。 『ビビちゃん…?』 サンジが、ドアをノックしながら入ってくる。 『体を冷やすだろう?ほら、窓を閉めて…』 『開けておいて』 月から目をそらすことなく強く言うビビの姿に、サンジの手が止まった。 『…何を見ているんだ?』 煙草に火を点けながら、サンジがビビに問う。 ただ一点を見つめていたのは、知っているけれど。 『ピーターパンを待っているの。ネバーランドへ案内してもらうために』 『昔から本当に好きだな。そんなに行きたいか?おとぎの国へ』 ビビだってあれが作り話だと理解する年齢になったのに。 それでも彼女は、何かあるたびにその言葉を口に出す。 『一生このままでいられるなら…。行きたいわ、お兄ちゃんと一緒に』 驚くサンジと、その瞳を真っ直ぐに射抜くビビの視線がぶつかった。 『自由で、楽しくて、何も私たちを縛るものなんてないの。 ずっと二人で、このままでいられる場所へ行きたい』 最初にサンジが目を逸らした。一瞬だけ見せたビビの"女"の顔に、心臓が煩いくらいに騒ぐ。 『俺はもう15歳だぜ?無理だよ、ネバーランドへ言っても帰されちまう。 …俺には、ネバーランドなんて必要ない』 ビビの顔に、絶望の表情が浮かんだ。 『…分かったわ』 ずっと一緒にいたい、というビビの願いを、サンジは拒絶した。 涙がこぼれる。 透明な雫は真っ直ぐに地面へと落ちて、サンジの視線も下へと落ちる。 その一瞬の隙に、ビビは窓枠に乗り上げた。 『ビビちゃん!?』 『ばいばい、お兄ちゃん。ビビはネバーランドへ旅立ちます』 涙の跡が月明かりではっきりと浮かび上がる。 淡い光はビビの体を照らし、精神を同調させる。 息を呑むほど綺麗だった。 ビビは笑ったまま勢いよく窓枠を蹴り上げて、同時に大きく両手を広げた。 『ビビ!!』 サンジの手が、一瞬遅れて宙を掴んだ。 次に目が覚めたときにはベッドの中で、体中が痛くて動かない状態だった。 何日も何日も寝たまま、ただひたすらにサンジの訪問を待っても、 結局サンジは一回もビビの元にくることは無かった。 きっとサンジは知らないのだろう。 夜寝る前に、毎日泣いていたことを。明日はきっと来てくれるよう、祈っていた事を。 ようやく起き上がれるようになった頃、ビビが会ったのは、 眼鏡をかけて無表情に敬語を使うサンジの姿だった。 何を話しても、笑いかけても、反応してくれないサンジを見て、 ビビは自分の我侭で本当に嫌われたのだと悟った。 分かっていたのに。 サンジにしてみれば、あの約束は自分を慰めるためだけだったのだと。 付き人としての行動だったのだ。 情緒不安定だったビビの事を考えれば、無責任と責められない。 そのことに気付けなかった自分が情けなくて、子供だった自分が大嫌いで。 世界で一番身近にいた人は、そのときから世界で一番遠い人になった。 「ビビ様?」 サンジの言葉が、いやにビビの中で響いた。 その声を聞くのも、随分と久しぶりのような気がする。 「こんな所にいては風をひきますよ。ほら、窓を閉めて下さい」 伸びてくるサンジの手を、ビビが握り締めて止めた。 「覚えてますか?この部屋」 ビビがぐるりと視線を走らせた。 4年前のあの時から、ちっとも変わらないこの部屋に。 「…忘れられるわけ、ないです」 あの日から後悔しなかった日は無い。 窓から飛ぶようにして落ちていくビビの姿。 鈍い音。立ち込める砂煙。動かないビビの姿。全てが今もサンジを責めたてて離さない。 「今度は、飛べるかしら」 軽く笑うと、ビビはあの時と同じように窓枠に立った。 「止めてください、ビビ様!」 サンジの制止も無視して、ビビは危なっかしい足取りで桟の上を移動する。 「教えてください。どうしてあの後、私の付き人を辞めなかったんですか?」 「それが…俺の仕事ですから」 月を背にして、完全にビビは立ち止まった。 逆光で、表情は読み取れない。 「そうですよね、私が馬鹿だったんですよね。あなたの行動に一喜一憂していた私が。 迷惑だと分かっていても、嫌われていると分かっていても、 それでも"誓い"なんかにこだわっていた私が…!」 ガクン、とビビの体が外に向かって倒れた。 スローモーションのようにゆっくりと落ちていく様子が、サンジの網膜に焼きつく。 「行かせない…!」 サンジの手が、ビビの腕を掴んで引き寄せる。 ビビは倒れこんだ衝撃でサンジに抱きとめられる形になり、その手がぶつかってサンジの眼鏡が落ちた。 はあ、と熱い溜息が出る。 この少女は、時々誰も考え付かないことを平気でやらかしてくれる。 「サンジさん…?」 抱きしめられたままな事を不思議に思ったのか、ビビがわずかに身じろぎをした。 その声に、サンジは腕の力を強める。 暖かい体にビビが今、自分の腕の中にいることを実感する。一度は離してしまったその体を。 心臓が止まるかと思った。無我夢中で手を伸ばして、力いっぱい引き寄せていた。 「今度こそ、掴めた…」 大事な、愛しい人の存在を。 「あの時、ビビちゃんを助けられなかったこと、本気で後悔した。 年取ってだんだん現実見えてきて、俺の力なんかじゃ到底守れないと思って… いっそ、別のお子とこの方が君を幸せにできると思った」 「だから、結婚を勧めたりしたんですか?」 「そう、あんな行動に出るなんて思わなかったんだ」 無垢ゆえの行動。何も知らないからこそ、感情のままに行動できたビビを、羨ましいとも思う。 「あれからいろいろ話し合った結果、付き人からは外されないことになったけど、このままじゃ駄目だって…。 だから、決めたんだ。もう『お兄ちゃん』は辞めようって。守れるようになるまで、距離を置こうって」 ビビの目から、あの時と同じように涙がこぼれる。 今、この瞬間は、自分に都合の良い夢なのではないかと思う。 「だからあんな風に…?私がどれだけ悩んだと思ってるんですか!」 言葉は途中から嗚咽に代わってしまい、声がうまく出てこない。 そんなビビを、サンジは優しく見つめている。 「ごめん、悩んでいるのは知ってた。でも、これは俺のけじめだから」 ビビの視界いっぱいに、サンジの苦笑した顔が映った。 「ネバーランドなんか必要ないって、あれすっごく傷ついたんですよ!」 ここぞとばかりにサンジを責めるが、当の本人は笑ったままだ。 「でも、あれは本心だから」 「どうして?一生あの頃のまま、一緒にいたいと思っちゃいけないの?!」 「そんな後ろ向きな考え、ビビちゃんらしくないよ」 そう言って不意打ちで、ビビの額に口付ける。 「君は前を見続けなければいけない人だ。やがてこの国を治める時に、そんなんじゃ国民が困るだろ? それに、大きくならなきゃ、あの誓いも守れないしね」 「覚えてたの?」 「当たり前だろ。俺ってそんなにいい加減な奴に見える?」 ビビからの返事が返ってこなくて、サンジは内心盛大な溜息を吐いていた。 今まで自分は、約束破りのいい加減な最低ヤローだったらしい。 ビビは、ネバーランドへ行きたいと言った。 自分とずっと一緒にいたいと言ってくれた。 でも、サンジはそう思わなかったから。 早く、一分一秒でも早く大人になって、ビビを自分の手で守りたいと思った。 だから、ネバーランドなんて必要ないと思っていた。 うまくそれが伝えられなくて、わざわざ自分から溝を作った。 「でも、いざここまで来てみたら結婚も断れなくなっているし、ビビちゃんとは気まずいしで参ったよ」 妹を守るのではなく、一人の女性として守ろうとするのは予想以上に大変で。 自分を許せるのにここまで時間がかかって、いっそこのままの方がビビのためなのではないかとさえ思った。 「そうだ、忘れてた!」 ビビの婚儀はすぐそこまで迫っているのだ。 「大丈夫、約束したろ?絶対守るよ」 「でも…」 具体的な解決策があるわけではない。このままでは本当に結婚させられてしまう。 「そうだな、本当にだめだったら、ネバーランドにでも逃げこもうか?」 冗談めいた言い方なのにまじめな目で見つめられて、ビビはようやく、ゆっくりと顔をほころばせた。 ----------------------------------------------------------------------------------------- 突っ込もうにも、どこから突っ込んで良いのやら…。
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