勝鹿の真間娘子(をとめ)を高橋連蟲麻呂の詠む歌一首  短歌を并せたり

鶏が鳴く 吾妻の国に 古
(いにしえ)にありけることと 今までに 絶えず言い来る 勝鹿の
真間の手児奈が 麻衣
(あさきぬ)に青衿(あおくび)着け 直(ひた)さ麻(お)を 裳には織り着て 髪だにも 掻きは梳(けづ)らず
靴をだに
 穿かず行けども 錦綾の中につつめる 齋児(いつきご)も 妹に如かめや 望月の
(た)れる面わに 花の如 笑みて立てれば 夏蟲の 火に入るが如 水門入(みなとい)りに 船漕ぐ如く
行きかぐれ 人のいふ時 いくばくも 生けらじものを 何すとか 身をたな知りて 
波の音
(と)の 騒ぐ湊の 奥津城(おくつき)に 妹が臥(こや)せる 遠き世に ありける事を 昨日しも
見けむが如も 思ほゆるかも  1807

反歌

勝鹿の 真間の井を見れば 立ち平
(なら)し 水汲ましけむ 手児奈し思ほゆ   1808

弘法寺(ぐほうじ)・手児奈霊堂
万葉ウォーキング
















      日本学術振興会の英訳では次のようになっています。著作権侵害になりそうですがちょっと参考まで。

Of the Maiden of Mama of Katsushika

In the cock-crowing land of Azuma
 
---As men have handed down to us
The tale of long ago---
It was a maiden Tekona
Who lived at Mama of Katsushika.
She wore blue-collared hemp,
And skirt of plain hemp-cloth that she wove;
She walked unshod, her hair uncombed,
And yet no high-born damsel dressed in rich brocade
Compared with this country girl.
When she stood smiling like a flower,
Her face like the full moon,
Many were the suitors seeking her,
As summer moths the fire,
As ships in haste the harbour.
Why did she wish to die
When life is but a breath?
She laid herself in her grave,
The river-month, under the noisy surf.
This is of the days long past,
Yet it seems that I had gazed
Upon her yesterday.

Envoy
When I see the well at Mama of Katsushika,
It reminds me of Tekona
Who stood here oft, drawing water.


真間川のほとりの浮島弁財天と文学の道

真間の継橋はこの辺に複数あっただろう

階段を登り真間山弘法寺の仁王門をくぐる

弘法寺祖師堂と巨大な枝垂桜の「伏姫桜」

真間の手児奈が祭られている手児奈霊堂

天平13年聖武天皇の詔で建立・下総国分寺

鴨に餌をやるべからず 鴨の天国蓴菜池

里見公園「夜鳴き石」里見軍将士亡霊の碑

       2006・3・26(日) 我が家の相棒の仕事がようやく一段落したというので、一年前に行ったことのある『真間の手児奈伝説』をめぐる散歩コースを歩くことにした。一度行ったことがあるのでまったくお気楽で地図や弁当、水筒など何も持たず(もちろんカメラだけは持って)11時ごろに家を出発。途中、京成線の東京の小岩駅までのり過ごしてしまってあわてて市川真間駅まで引き返した。既にお昼時の12時を過ぎて桜咲く『文学の道』を歩くものの、空腹が気になる。この辺は有名な文人が住んでいたらしいがあまり興味も持てない。真間川は護岸工事されていて周辺も埋め立てられて住宅地になってしまった。かつては真間の入り江と言われていた美しいところだっただろうと思われる。

葛飾の真間の入り江に打ちなびく玉藻刈りけむ手児名し思ほゆ  (山部赤人)(433)
  この歌の「真間の入り江」とは市川市北部を形成する下総台地とその南につくられた市川砂洲(現在、国道十四号と京成電鉄が平行して走っている地域)との間にできた入り江のことです。
  それは現在の江戸川に開口している真間川の河口付近から、須和田、菅野、国分、北方、柏井、大野にわたる低地一帯に広がっていたもので、柏井と大野を結ぶ「浜道」は、或る時期の入り江の岸辺であったと思われます。
  この入り江に生えている美しい玉藻を、手児奈が水に入って刈っている情景がしのばれます。
  玉藻は食料にしたものか、または加工して生活必需品にしたものか、あるいは神に捧げる神饌であったのかはよく分かりません。

葛飾の真間の浦廻を漕ぐ船の船人騒ぐ波立つらしも (作者不詳)(3349)
  真間の浦廻とは、現在の市川市域の海岸線を指したものです。しかし、万葉時代の海岸線は今日とはまったく異なった地形だったと考えられます。
  当時、下総国府のおかれた国府台をはじめ市域に属する下総台地の前面には、東西に長く市川砂洲がつくられていました。そして台地と砂洲の間には真間の入り江がく深く入り込んでいたのです。
  更に井戸川は上流から土砂を運んで、行徳の地域が形成されていきました。このような海岸線を当時はままの浦廻と呼んでいたのです。
  海に近い下総国府には、国府の外港としての国府津が、この浦廻の何処かに置かれていたのでしょう。だから船人の騒ぎの様子も知ることが出来たのであり、其処はさぞかし出船、入船で賑わいをきわめていたことでしょう。

真間川にでたら左折して浮島弁財天のほうに向う。浮島弁財天の歴史は古く、天宝十二年とあるが恐らくはそれ以前の創建とされる。

弁財天は、サンスクリット語名をサラスヴァティーといいブラフマン 大梵天(仏法護持、国土護持の神)の妃である。サラスヴァティーは「湖に富むもの」を意味し、河川を神格化した女神で、滔滔とて流れる水の音が、食物や富をもたらし、生命を養う妙なる音として聞えるところから、一名を妙音天、美音天、大弁才天女などといわれ、略して弁天、俗に弁財天とも書く。リグ・ヴェーダ(インド最古の宗教的文献)以来非常に崇拝されたこの神は、人の汚れを払い、富・名誉・福楽・食物を与え、勇気と子孫とを恵むといわれ、のちブラーフマナ神話では、学問と技芸の神としても知られ、雄弁と知恵の保護神としても高い地位を与えられた。仏教では、人をして無碍の弁才をそなえ、福知を増し、長寿と財宝を恵さしめ、また天災地変を除滅し、かつ必勝を得される天女とされている。・・・・・・ 

     ブラフマン(バラモン)、またはブラーマはもともとヒンズー教の神だったが仏教に入って大梵天となった。神様の親玉みたいなものだろう、と勝手に解釈しておくことにする。その奥さんが弁財天でこの浮島弁財天はとっても霊験あらたかだったらしく、かつては数多くの参拝者が後を絶たず縁日もたったりして殷賑をきわめた、とある。でも今ではポンプ場敷設のため現在地に移転した。

浮島弁財天の祠は、いぜんは川を隔てて真間小学校の斜め右手、現在のポンプ場のあるところに、通称弁天さまの森と呼ばれた、真間川の中に突き出た格好の島に鎮座していた。当時は浮島弁財天に参詣するためには二方からの橋を渡らなければ行かれず、祠のうしろには、御神木といわれる大きな欅の古木があって、根元の虚には白蛇が住んでいた。

     おそらく蛇がすんでいたところからこの弁財天のお守り、お札は財福をまねく蛇の抜け殻を護符として共に内封してあるらしく亀井院で手に入れることができると書いてあったが、いくらかかるかは書いてなかった。興味があれば寄ってもいいだろう。
     真間川を渡ると真間の継橋があるけれども、これは観光用。かつてここは海辺だったところに弘法寺まで官道が通っていて洲から洲へ複数の継橋が架かっていた。観光用の橋には説明もあり、立ち止まって読む人もいつもよりは多そうだ。説明板を眺めていた学のなさそうな中年オヤジが「ナンテくだらん歌を読んだものだ!」と捨て台詞をはいて去っていった。自分の理解できないものを価値のないものと思う《くだらん》やつはいつの時代にもいる。

真間の継橋:
  その昔、市川市北部の台地と、その南に形成された市川砂洲との間には、現在の江戸川へ流れ込む真間川の河口付近から、東に向って奥深い入り江ができていた。この入り江を「真間の入り江」と呼び、手児奈の伝説と結びつけて伝えられた「片葉の葦」やスゲ等が密生していた。
  国府台に下総国府の置かれたころ、上総の国府とをつなぐ官道は、市川砂洲上を通っていた。砂洲から国府台の台地に登る間の、入り江の口には幾つかの砂洲ができていて、その洲から洲に掛け渡された橋が、万葉集において詠われた「真間の継橋」なのである。この継橋は
        
『足の音せず行かむ駒もが葛飾の真間の継橋やまず通わむ』
(3387)
(足音せずに行く駒がほしい。葛飾の真間の継橋をいつも手児奈のもとに通いたいものだ)の歌で有名となり、読み人知らずの歌ではあるが、当時の都びとにまで知れわたっていたのである。
  この真間周辺には継橋をはじめ、手児奈の奥津城(墓)、真間の井など、万葉集に詠まれた旧跡が多い。これらの旧跡も歳月が経つにつれて、人々の間から忘れら去られていくのであるが、これを憂えた鈴木長頼は、弘法寺の十七世日貞上人と議して、元禄九年(1696)その地と推定される位置に碑を建て、万葉の旧跡を末永く顕彰することを図った。この碑が今に残る「真間の三碑」である。

      「真間の三碑」は今でも残っていてその場に立っている。継橋を過ぎて右折すれば手児奈霊堂、右折せずに直進すれば真間山弘法寺の入り口、更に石段を登っていくと仁王門に至る。そばに解説がある。

天平の昔、行基菩薩が来錫し、真間の地に語り伝わる手児奈の霊を供養して一宇を建て、「求法寺」と称したが、その後、空海(弘法大師)によってこの山上に七堂伽藍が造営され、「真間山弘法寺」と改められたのが、本寺の起こりと伝えられている。

      つまり、坊さんの行基が来錫(仏教を広めるためにやってきた)、そして手児奈供養のために一宇(一軒のお堂)を建てたのがこの寺の前身「求法寺」である。古く天平の時代からこの寺は存在していて真間の手児奈伝説にいたってはそれより更に古いことがわかる。説明は続く。

元慶五年(881)天台宗に転じたが、健治三年(1277)時の住職了性法印は、若宮の富木常忍と問答の末、敗れて寺を去った。常任は日蓮の指示に従い、六老僧の一人であった義子日頂を開基として日蓮宗の寺に改宗した。

      つまり、この寺の坊さん同士が口げんかして負けた坊さんが寺を追い出されたということ。寺の住職は一番えらいと思っていたけれどその住職がが負けるなんて情けないではないか!空海と言えば真言宗、その後天台宗に変わって、けんかに勝った坊さんが今度は日蓮宗にしてしまったらしい。江戸時代には紅葉の名所として知られたこの弘法寺も明治二十一年(1888)火災のため諸堂が焼失、数多くの楓の木も失われた。今あるお堂はすべて再建されたものだ。仁王門を過ぎると祖師堂が見えてくる。そのそばに「伏姫桜」と名前の付いている巨大な枝垂桜があり、訪れたときは満開だった。どおりで人が多いのもうなずける。去年来たときはまだ3月中旬で花は咲いていなかったが今日はこれを見ただけでも一見の価値あり。


名所江戸百景:真間の紅葉
(安藤広重)
勝手に載せていいのかわかりませんが・・・

鳰鳥(にほどり)の葛飾早稲を饗(に)へすともその愛(かな)しきを外(と)に立てめやも (作者不詳)(3386)
  葛飾とは葛の葉の生い茂ったところといわれ、現在の江戸川を中にして、東西に大きく広がった地域が下総国葛飾郡と呼ばれました。
  この下総国を治める役所が国府台に置かれたところから、市川市の北西部は地方政治の中心地になり、やがて国分寺が建立されて仏教文化が広まりました。
  こうしたなかで農民たちは良質な早稲の栽培に懸命でした。これが葛飾早稲で、この地方での特産種として知られていたのでしょう。
  さて、新嘗の祭りには農民たちはその年の新穀、即ち葛飾早稲を神に捧げる神事が行われ、この夜は物忌みのため他人を家の中に入れない風習がありました。
  この歌には「いかに新嘗の夜とはいえ、あの愛しい人を戸外に立たせておかれましょうか」と、愛しあう農民の恋の姿が歌われているのです。

                  鳰鳥はカイツブリのこと。巧みに水に潜って魚を捕えるところからカヅク(潜く)意で、カヅシカにかかる枕詞

     上の説明は弘法寺本殿の横、赤門の近くにある。この前は女坂を下ったがお土産を買いたいと言うので今日は戻ることにした。露店も並んでいて我が家の相棒は相変わらずお土産狂、手作りカリントウと手作りカステラ更に手作りナントカを買って満足のご様子。細かいお金がないと言うのでワタクシもお金をだすことに・・・。『お店で軽食もやってますのでよってみてください。』などと言われて我が家の相棒はもうすっかりその気になっている。
     弘法寺の石段を下っていくと涙石と呼ばれる石段の石があるが説明はないので誰も注目せずに通過していく。いつもぬれているのでそう呼ばれるのだろう。石段をくだって左折し手児奈霊堂に向かう。ここにも露店が数店あり、子供たちも遊んでいた。

奈良時代のはじめ、山部赤人が下総国府を訪れたおり、手児奈の伝承を聞いて、
        『われも見つ人にも告げむ葛飾のままの手児名が奥津城処』
(432)
と詠ったものが万葉集に収録されている。手児奈霊堂は、この奥津城処(墓所)と伝えられる地に建てられ、文亀元年(1501)には弘法寺の七世日与上人が、手児奈の霊を祀る霊堂として、世に広めたという。
手児奈の物語は、美人ゆえ多くの男性から求婚され、しかも自分のために人々の争うのを見て、人の心を騒がせてはならぬと、ままの入り江に身を沈めたとか、継母に仕え真間の井の水を汲んでは孝養を尽くしたとか、手児奈は国造の娘でその美貌を請われ、或る国の国造の息子に嫁したが、親同士の不和から海に流され、漂着したところが生まれ故郷の真間の浦辺であったとか、さらには神に司える巫女であったりする等、いろいろと形を変えて伝えられている。万葉の時代から今日に至るまで、多くの作品にとりあげられた真間の地は、市川市における文学のふるさとであるといえる。
注)この歌は山部赤人の作

     亀井院に向う。手児奈霊堂から手児奈が水汲みをした真間の井がある亀井院はすぐ隣だ。

真間之井と亀井院:
  万葉の歌人高橋虫麻呂は、手児奈が真間の井で水を汲んだという伝承を聞いて、

    
勝鹿の 真間の井を見れば 立ち平(なら)し 水汲ましけむ 手児奈し思ほゆ (1808) 
 
(葛飾の真間の井を見ると、いつもここに立って水をくんだとう手児奈が偲ばれる。)の歌を残した。この真間の井は亀井院にある井戸がそれであると伝えられている。
  亀井院は寛永十二年(1635)真間山弘法寺の十一世日立上人が弘法寺貫主の隠居寺として建立したもので、当初「瓶井坊」と称された。瓶井(かめい)とは湧き水がちょうど瓶に水を湛えたように満ちていたところから付けられたものである。
  その後、元禄九年(1696)の春、鈴木長頼は亡き父長常を瓶井坊に葬り、その菩提を弔うため坊を修復したのである。以来瓶井坊は鈴木院(れいぼくいん)と呼ばれるようになった。
  長頼は当時弘法寺の十七世日貞上人と図り万葉集に歌われた「真間の井」、「真間の娘子(手児奈)の墓」、「継橋」の所在を後世に継承するため、それぞれの地に銘文を刻んだ碑を建てた。本寺の入り口にあるのがその問いの真間之井の碑である。
  長頼没後、鈴木家は衰え鈴木院の名称も、また亀井坊と改められた。これは井のそばに霊亀が現れたからといわれている。
  北原白秋が亀井院で生活したのは、対象五年五月中旬からひと月半にわたってのことである。それは彼の生涯でもっとも生活の困窮した時代であった。
       
『米櫃に米の幽(かす)かに音するは白玉のごと果敢(はかな)かりけり』
  この歌は当時の生活を如実に表現している。こうしたなかにあって真間の井に関しては次の一首を残している。
       
『蕗(ふき)の葉に亀井の水のあふるれば蛙啼くなりかつしかの真間』
  その後、江戸川を渡った小岩の川べりに建つ、離れを借りて暮らしたが、これを紫烟草舎とよんでいる。

      この小岩にあった白秋の紫烟草舎が現在は里見公園の中に移築されている。
      亀井院をでて下総国分寺に向かう。なんせ地図がないのでアバウトな方向しかわからない。この前来たときは遠回りをしてバス通りを歩いていったのだが、今日は近道をして中を突っ切ろうなどと考えたのが間違いですれ違う人に場所をたずねながら行ったり来たりの迷い道。偶然須和田遺跡のある須和田公園に出くわしてその中を通過、既に我が家の相棒は先週からの仕事で疲れきっているのに加え、今日の昼飯抜きが相当堪えているらしく不機嫌で疲れきった表情。昼食をする店が見つからず、こんなことならコンビニでパンでも買っておくべきだったと後悔しながら、でもこれ以上不機嫌になるとまずいと思ってお店を見つけようと必死になる。途中から運よくバス通りに出て少し戻るとスカイラークガストがあってようやくお昼にありつけて(不機嫌を食い止めることが出来て)ほっとした。食べ終わるとまったく表情が変わり機嫌よさそうで元気になるのが不思議でもありおかしくもある。国分寺バス停のところから上っていくと高台の上に出てそこに下総国分寺がある。かつては緑の木々の山奥にある寺だったろうが、いまはその周りは住宅地になっている。

下総国分僧寺跡:天平十三年(741)春、聖武天皇は全国に国分寺建立の詔を発し、一国一寺の建立を指令されました。下総国では、市川に国府がありましたので、ここに国分寺が建立されたのです。その建立年代ははっきりしませんが、奈良時代であることは確実です。

      もちろん、過去数回の火災で今の姿は当時のものではない。発掘調査で法隆寺様式の伽藍配置だったことがわかっている。裏庭に七重塔跡の碑、お墓の真ん中に講堂跡の碑が建っているだけだ。宝暦年間に建立された山門も明治時代に焼失して今はあまり重みのなさそうなコンクリの山門になってしまい、当時の面影を推測するしかない。そのあと、この近くにある国分尼寺跡をめざすもののあまり大きな公園ではないため気づかずに通り過ぎたようだ。次に目指すのはジュンサイ池。すでに日は傾いてきて夕日に近い。
      蓴菜池は市民の憩いの場所だ。桜の咲く季節でもあり、多くの人が歩いたり休んだりしている。鴨がものすごく多いところで餌をまく人に群がっている。何でこんなにたくさん鴨がいるんだろうなどと思ってみていると、池のほとりを歩いてきたジャージ姿の元気な老人が突然大声で「鴨に餌をやらないでくださーい!鴨がかわいそうで〜す!看板よく見て〜!」と叫んだので周りの人々がびっくり。老人が通り過ぎるとみんな目立たない看板の周りに集まって注意書きを読みはじめた。でも餌をやらなくなったら鴨もここでは生きていけないだろう。ぐるっと池を一周して戻ってきたらまた別の人たちがこれでもかとばかり餌をやりまくっていた。この辺で餌を売っているわけではないのでわざわざ家からパンくずなどをもってきたらしい。看板など見向きもせず餌をばら撒いている姿を見て怒るよりも笑ってしまう。『餌をやらないでください』『池に入らないでください』『魚を取らないでください』といろいろな注意書きがあって文明社会もたいへんだけれど餌をやるなといったってこれだけ鴨がいれば誘惑に勝てない人も多いに違いなく、そのうち鴨池公園とでも名前を改めたほうがよさそうだ。その鴨池公園から西に坂を登っていき国府台癌センター前の道路を横切ってしばらく進めばかつての国府台城跡、今の里見公園に到る。

国府台城跡:文明11年(1479)7月、太田道灌は千葉良胤を援け、臼井に籠る千葉孝胤討伐のため、この地に城を築いたのが国府台城の起りと伝えられている。

      すなわち、国府台城はワレラが臼井城を攻めるために築かれたのだ。その後、臼井城は太田道灌の弟、太田図書によって攻略されてしまうのだが、図書も命を落とすことになり、墓が臼井城址公園にある。臼井との意外なつながりがここにはある。

その後天文七年(1538)10月足利(小弓公方)義明は里見義尭をはじめ、房総勢一万余騎を率い、北条氏綱の従える二万余騎と、この地で対陣した。このとき江戸川を渡って進出した北条軍を迎え、義明は激闘のすえ戦死し、房総勢は敗退した。この合戦から26年後、永禄七年(1564)正月、里見義尭の子義弘は、兵八千をもってふたたび国府台に出陣し、北条氏康、氏政父子の二万余騎を迎え討った。里見軍は緒戦において大勝をえたが、翌朝里見勢の油断をついて国府台城に攻めこんだ北条勢のため、城中は大混乱に陥り、たちまち五千の戦死者を出し義弘は安房に敗走した。以後、この地域は北条氏の支配するところとなった。天正十八年(1590)徳川家康が関東を治めるや、国府台城は江戸俯瞰の地であるところから廃城となり家綱のとき関宿より総寧寺を移した。その後明治に至って、陸軍の兵舎が立ち並ぶ軍隊の街となったが、昭和三十四年(1959)この地を公園とし、里見公園となづけた。現在園内には二重に囲まれた土塁とその間に残る空濠の跡を窺うことができる。これは天文、永禄の合戦に里見軍の構築したものと思われる。数千の戦死者を出したこの合戦に後世里見将士の霊を慰めるため三基の慰霊碑が建てられた。

      三基の慰霊碑のあるところには「夜泣き石」もいっしょに置かれていて別の説明もある。上の写真を参考にしてほしい。

里見広次並びに里見軍将士亡霊の碑:
  永禄七年(1584)一月四日、里見義弘は八千の軍勢を持って国府台に陣を構え、北条氏康の率いる二万の兵を迎え撃ちました。しかし、八日払暁北条軍は寝込みを襲い里見の陣を目がけて一斉に攻撃をかけたのです。鬨の声に驚いた里見軍は「あるいは鎧、太刀よ馬に鞍おけと呼(さけ)びまた太刀一振り鎧一領に二人三人と取付いて我よ人よとせり合ひ、兜許(ばか)りで出づるもあり鎧着て空手で出づるもありという狼狽ぶりを呈しました。
  この合戦で敗北し里見軍は里見広次、正木内膳らをはじめとして戦死するもの五千名と伝えております。その後里見軍戦死者の亡霊を弔う者もなくやっと文政十二年(1829)に至って里見諸士群亡塚(左側)里見諸将霊墓(中央)が建てられ、また年代は不詳ですが石井辰五郎という人によって里見広次公廟(右側)が建てられました。
  ここに二五六年の歳月を経てようやくこの地で討死した里見軍将士の亡霊が慰められ、今日に残されたものです。

      夜泣き石の伝説についても説明板があってそれを要約すると、国府台の合戦で敗れた里見広次の末娘(12,3歳)が安房の国からやってきて悲惨な戦場を目にし石にもたれて泣き続け息絶えた。それから毎晩この意志から泣き声が聞こえるようになり人々は「夜泣き石」と呼ぶようになったが、一人の武士が姫の供養をしてからは泣き声が聞こえなくなった。この合戦時、広次(掲示板では弘次となっている)は15歳の初陣で戦死したので娘がいるはずはないのだが・・・。その理由はこうある。

この話は里見公園内にある弘次(広次)の慰霊碑が、もと明戸古墳の石棺近くに夜泣き石と共にあったところから、弘次にまつわる伝説として語り伝えられたものと思われます。

     要するに事実ではなく伝説である。もう夕方、曇りがちの天気だったがその分、日射しを気にせず汗もかくこともなく江戸川沿いの堤防の上を歩き国府台駅にいたる。2度目とはいえ安心して歩くなら地図は必需品、下総国分寺まで行くならなおさらだ。弁当持参で行くほうが楽しいかもしれない。遠い昔に思いをはせて一日を終わる。蓴菜池に着いたときに帽子をかぶっていないことに気づき、あのスカイラークでハンバーグを食べたときに忘れてきたことがわかったのだが、戻る気力もなくどうすることも出来ず、そのまま帰ってきてしまった。いつもかぶっている帽子がないと不安になる。また買わなくてはならないだろう。休みがあっても遠く山に出かける気力もなくこういうローカルなところが多くなってしまうけれどこの辺も昔は山の中で自然豊かだったろうと思ってこのページ「山と自然」に載せることにした。

勝鹿の真間娘子の過ぐる時、山部宿禰赤人の作る歌一首  并に短歌

(いにしへ)に 在りけむ人の 倭文幡(しづはた)の 帯解きかへて 伏屋(ふせや)立て 妻問(つまどひ)しけむ 葛飾の
真間の手児名が 奥つ城を こことは聞けど 真木の葉や 茂りたるらむ 松が根や
遠く久しき 言のみも 名のみもわれは 忘らゆましじ
         431
 
反歌
 
我も見つ人にも告げむ葛飾の真間の手児名が奥津城處       432
葛飾の真間の入り江に打ちなびく玉藻刈りけむ手児名し思ほゆ  433