甚大寺
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初代、堀田正俊 (まさとし)の墓 |
九代、堀田正睦 (まさよし)の墓 |
十代、堀田正倫 (まさとも)の墓 |
| 2月12日(月) 本当に今日の朝になるまで三連休とは知らず、あせって起床しようとしたので、世の中の流を何も知らないんだから、といかにも馬鹿にした態度をとられ気分が悪い。 そういえばいつも土日は疲れてどこにも行きたがらないのに、どういうわけかおとといと昨日は何処かに行きたがるのでおかしいとは思っていた。三連休と知っていればもっと違ったすごし方もあったろうが、もともとボケてるし初詣5回目と思えば怒りも静まろうというものだ。(本当は6回目ですが)。結局、遠出は出来ないし近場も行ったことがあるところばかりなのだが、我が家の相棒がまだ行っていない佐倉の寺めぐりに連れて行った。車を国立民族博物館に止めて姥ヶ池、麻賀多神社を通って甚大寺までの散歩。甚大寺には佐倉藩の家老だった堀田家の墓地がある。十代堀田正倫が私財を投じて援助した学校が今の佐倉高校となっている。以下は甚大寺墓地の解説の一部抜粋。今日の収穫があるとすればこのページを作りながら佐倉の歴史を少し学ぶことができたことだろう。 それにしても最近ローカル散歩ばっかりです。今度三連休があったらもう少し計画的に過ごしたいものだ・・・と反省。次回を楽しみにしながら連休を終える。 |
| 初代、堀田正俊 | 三代将軍家蜜の老中として活躍した佐倉十一万石の城主堀田加賀守正盛の三男。 幼い頃春日局の養子となり、その遺領三千石、また慶安四年父殉死後、その遺領一万石を継ぎ、合わせて一万三千石の大名となる。その後、安中城主で老中のとき、綱吉擁立に大功を顕わし、天和元年(1681)大老に進み、古河藩十三万石を領した。 正俊の政治は世に「天和の治」と称された。しかし、その剛直な性格が禍し、貞享元年(1684)江戸城内で春日局の義孫若年寄稲葉正休によって刺殺された。 ・・・延享三年(1764)五代正亮は老中となり再び佐倉に入封、その後幕末まで百二十二年間佐倉は堀田氏が治める所となった。 |
| 九代、堀田正睦 | 天保四年(1833)渡邊弥一兵衛を年寄役に抜擢し、潮田監物の献策をいれ、藩士の借財を一掃するとともに、厳しく質素倹約の制を課して藩風を一新した。 また、西洋文化を積極的に受け入れ、藩校の成徳書院を拡充し、蘭方医の佐藤泰然や英学の手塚律蔵を佐倉に招くなどして、佐倉藩の近代化を遂げ、佐倉をして西の長崎と比肩する文化の地とした。 安政二年(1855)老中主座となり、諸外国からの開国要求という難局にあたって、日本を開国へ導く大役を果たした。しかし、十三代将軍家定の継嗣問題で、大老の井伊直弼と対立し、安政六年(1859)隠居を命ぜられ、更に開国を罪とし蟄居の刑のまま、佐倉城内で卒した。 |
| 十代、堀田正倫 | 安政六年(1859)、正睦の隠居に伴い満七歳九ヶ月にして家督を継ぎ、幕末維新の動乱期に佐倉藩最後の藩主を勤めた。 慶応四年(1868)、十五代将軍慶喜の助命嘆願のため京都へ上ったが、途中で官軍に阻止され、京都妙心寺で謹慎処分を受けた。 翌明治二年(1869)藩籍奉還、佐倉藩知事に任ぜられたが、二年後の廃藩置県により職を解かれ、東京在住を命じられた。同二十三年、佐倉野狐台に邸宅を新築し移り住む。 その後は、藩校の流れを汲む学校の運営に私財を投じて援助したほか、堀田家農事試験場を設けるなど、当地の産業・教育の振興に貢献した。 |
| 安城山甚大寺 | 甚大寺はもともと山形城下にあったものを、五代正亮(まさすけ)公が佐倉城主として転封されるときにこの地に移したものである。大伽藍を容した旧本堂は、明治初期の大火で焼失。現在の本堂は坂東二十八番札所滑川龍正院の建物を昭和三十六年に移築したもので、享保十一年(1726)六月、当時下総の国を挙げて建立したものである。 |