目黒不動
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目黒区行人坂 かつては難所だった |
大火死者供養に作られた大円寺の石仏群 |
安藤広重の江戸名所百景に出てくる椎の木 |
江戸名所百景目黒太鼓橋夕日の岡の太鼓橋 |
目黒不動 正しくは 泰叡山瀧泉寺という |
目黒不動の仁王門 戦火焼失のため再建 |
羅漢寺 内部撮影禁止のため外で撮影 |
目黒大鳥神社 目黒村の総鎮守だった |
| 2007年、あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。 というわけで、1月2日 近くの星神社に初詣をした。初詣に行きたいとはいっても、そんなに遠くまでいけるわけもなく、新聞によれば一番人気は近くの神社仏閣だというし、のんびりしたければそれは当然と言える。何を好んでわざわざ芋を洗うようなところに行く必要があろうか。のんきに手ぶらででかけたのでカメラをもって行くのも忘れてしまった。 その翌日3日、目黒不動。ここも実は毎年来ているので目新しいこともないのだけれど、昔を偲んで歩くにはいろいろと面白いところだ。京成線、都営浅草線、都営三田線を乗り継いでいけば目黒駅に至る。JR目黒駅とは目と鼻のさきだけれども直接はつながっていないようだ。わがファミリーは後をついてくるかと思って振り向いたら誰もついてこない。どうやらみんなバスに乗ったらしい。こちらはかつての雰囲気を味わうためにも意地でも行人坂を下ろうと思う。 目黒駅から南に下っていくには坂が幾つかあるが、もっとも大きな通りが目黒通りでバスも走っている。その脇に狭い道が下っていてそれがかつての古い道【行人坂】と呼ばれていた急坂だ。 寛永の頃、出羽(山形県)の湯殿山の行人が、このあたりに大日如来堂を建立し修行を始めました。次第に多くの行人が集まりすむようになったので、行人坂と呼ばれるようになった、と言われています。 という説明がある。 この坂はかつて江戸中心と目黒をつなぐ主要道だったらしい。今では車でも往来できるものの幅が狭く歩く人が多い。目黒不動への参道でもあった。坂を少し下ると【富士見茶屋と夕日の岡】跡の碑が立っている。ここはかつて富士山が眺められたところで富士見茶屋という茶店があり、旅人が足を休めた所だ。今ではビルが多くて何も見えない。 行人坂の途中には大円寺がある。ここの境内には大円寺石仏群といわれるたくさんの仏像が祭られていている。その数に驚く人は多く、一見の価値がある。 明和九年二月(1772)、本堂から出火、江戸六百余町を焼き、多くの死者を出しましたが、その供養のために造られた「釈迦三尊・十六大弟子、五百羅漢の像などの「大円寺石仏群」が建てられています。 とある。火事とけんかは江戸の花、と言うのはほんとうだったようだ。 更に下っていくと目黒雅叙園というところを過ぎる。この辺はかつて何の役にも立たないうっそうと木の茂るさびしい場所だったという。自殺する人も多かったらしい。あまりに寂しいところで鉄道が出来てからも目黒駅から下ってくる人も怖くて夜は一人では歩けず、次の電車でやって来て同じ行人坂を下る人を待っていたくらいだといわれる。その山を買って雅叙園を造ったのは土建屋の叔父さんだったらしい。先を見る目が合ったというべきか。義理の母が言うには行人坂が舗装される前に、その坂をオートバイで登ろうとしてひっくり返った人を見たことがあると言うのだがそれほどの急坂だった。 やがて太鼓橋に至る。その前にいかにも古い椎の木がたっているのだが、それは広重が江戸名所百景で描いた目黒太鼓橋夕日の岡という浮世絵の中にも描かれているのと同じ木で今も残っていることに感動。残念ながら太鼓橋は作り変えられてしまってまったく平らなフツーの橋となってしまい、かつての面影は全然ないけれども木を見るだけでも昔が偲ばれるところだ。太鼓橋をかつての姿のように作り直してくれていたらもっと名所になったろう。目黒川も護岸工事が施されてよく氾濫していたころの面影はない。 目黒通りと山手通りの交差点にあるのが大鳥神社である。大同元年(806)創建の目黒区最古の神社とされる。その他幾つかの説明があったけれど、歴史が古く目黒村の総鎮守だったとかかれていた。かつてはもっと広い場所だったのだが山手通りの拡幅工事のため土地を売ってしまったため、かなり狭くなってしまった。交差点は大きくなったもののそれでもまだ車をさばききれないような印象がある。個人的には神社の所領を残しておいてくれたほうがよかったかもと思えるけれど、どんなものだろうか。 目黒不動は正式名を泰叡山瀧泉寺という。戦災で多くを焼失してしまって本堂や仁王門などは再建されたもの。慈覚大師円仁の開基(808年)とされ、境内には慈覚大師が独鈷をなげたらそこから泉がわきだしたとされる独鈷の滝がある。最も今では滝というにはあまりにか細い水が滴り落ちているだけだ。私の知り合いが子供の頃は今とは比べ物にならないほどの多くの水量があり、その下でよく行者が水を浴びて修行していたのだと言う。地下水の流れが寸断されてしまったのかもしれない。慈覚大師のこの手の話は関東以北によくある話で眉唾物だろう。伝説になるほど偉大な仏道の修行者だったということだと思う。 羅漢寺はもともとここにあったものではなく、江戸本所に建てられた寺が明治になってここに引っ越してきたものである。五百羅漢と言うけれども、実際は305体らしい。元禄年間に松雲禅師が一人で全部彫ったものらしくこれは一見の価値がある。ふたたび我が家の相棒の思い出で恐縮ですが、子供の頃はまさに廃寺寸前で、荒れ果てたところだった。夏は蚊がたくさん飛んでいてとても長居できるようなところではなかったらしい。最も今の寺はあまりに今風でちょっと付いていけないようなところもあって、昔の寂れてお化けでも出てくるような廃寺だったら雰囲気も最高だったろう。近所からの苦情も多かったことだろうけれど。 目黒通りを帰る。大鳥神社から目黒駅までは上り坂で「権之助坂」と呼ばれている。目黒村の名主の菅沼権之助は罪人としてこの坂を連れて行かれた。そしてこの坂の上で故郷の村を振り返った。行人坂に対して幕府の許しもなく「新坂」(今の権之助坂)を作ったからだともいうがはたしてなんの罪があったのかはわからない。この坂の両側は崖になっていて商店街はその崖に張り出すように造られている。殆ど戦後に作られたものだ。険しいところだったのだろうと思われる。 江戸の中心からすれば目黒はかつては山の中だった。目黒の秋刀魚でも描かれているように殿様の御狩場だったところだ。そんなところに思いをはせて歩いてみれば意外と面白いところが見つかるはず。帰宅夜12時。疲れた。 |