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このド暑い中、避暑に行くのに渡良瀬遊水地とはこれいかに。でも世の中には仕方のないこともある。我が家の相棒はこの夏どこへも出かけていないのでどこかへ連れて行ってほしがっていたが、朝の11時を回ってそんなことを言われてもなかなか適切なところはない。ああでもない、こうでもないと言ううちに時間も過ぎていく。べつに銚子でも御宿でも大東崎でもかまわないのだが、山に行くのも遅すぎるし、それでも少しは遠出をしてみるかと思ってじゃあ、渡良瀬遊水地でもということになった。
行ってみてやはり暑かった。ぐるっとひと回りしたものの、暑い中を歩くのは容易なことでなく、何しろ日差しをさえぎってくれるところは少ない。ウィンドサーフィンをする若者は多かったが、こちらができるわけでもなく、ただ我慢して谷中村跡地を見学、湖畔を帰るとき、散歩につき合わされている犬が暑さに苦しんでいてかわいそうだった。ふと振り返ると、さっきの犬が飼い主の手を離れて紐をつけたまま湖畔に疾走、直前で止まるかと思いきや、どんどん池の中に入りこみ、首だけ出して体全体を水の中に沈めてしまっていっこうに陸にあがろうとしない。飼い主はそれを湖畔で見つめるのみ。犬は暑さには弱い動物である。犬もここまで付き合うのは辛かったろう。思わず笑ってしまった。晩秋、初冬ならまわりの山々がはっきりと見え展望抜群のところだけれども、夏は暑いので歩くには不適だろう。
遺跡谷中村
○谷中村は その昔 下宮村 内野村 恵下野村 三村が合併して谷中村となった。
○谷中村の歴史は、古く室町時代(一四0七年)頃既に開けた赤麻沼畔の豊かな村であった。その後、古河藩(茨城県)によって開墾が奨められ画期的な発展を遂げた。谷中村は古来地味肥沃 魚介類の生息も多く 自然に恵まれた穀類豊穣の平和な農村として繁栄を続けた。
○明治十八年頃より、足尾銅山から流出する鉱毒が渡良瀬川を汚染し、谷中村附近一帯の地域をも毒害するに及んだ。全村がその被害により 年を追って毒中に埋没し、悲壮な死の沼と化した。爾来三十年に亘り谷中村民は田中正造翁を先頭に足尾銅山の鉱毒との闘いを続けた。
明治三十七年十二月十日栃木県議会は堤防修築と言う名の許に谷中村買収案を強行採決した。
買収金額 金四拾八万円也
堤内 九百七十町歩
堤外 二百三十町歩
戸数 三百八十七戸
人口 二千五百余人
○明治三十九年七月一日栃木県当局は谷中村議会の反対決議を無視し、谷中村を藤岡町に合併せしめた。
○明治四十年六月二十九日よろ県当局は堤内に残留する十六戸の住民家屋を強制破壊し 住民百余人は雨露に晒されることとなった。
○大正六年二月限り残留民は各町村に移住し田中霊祠は藤岡町に遷宮した。谷中村は名実共に滅亡した。
谷中村遺跡を守る会
谷中村遺跡 延命院共同墓地
延命院は室町時代に谷中村古川に創立された寺院であり、共同墓地の墓石は江戸時代初期より連綿と存在する。谷中村は五穀豊穣の地として栄えていたが、足尾鉱毒事件により、この延命院もまた強制買収され廃寺となり、いまわずかに墓石を残すのみとなる。
田中正造翁が谷中村に入って六年、明治四十三年四月一日の日記の一部に谷中村事件を次のように記している。「谷中と銅山の闘いなり。官権これに加わりて銅山を助く。人民死を以って守る 何を守る 憲法を守り地方自治の権を守り祖先を守り ここに死をもって守る」と主張した。
この地は昭和四十七年谷中湖造成計画に入っていたが公害闘争の原点であり 谷中村事件の唯一の生証人として残すべきと谷中村の遺跡を守る会の陳情運動により保存されたものである。
谷中村遺跡を守る会
旧谷中村遺跡 雷電神社
雷電神社は、旧谷中村のほぼ中央の丘の上に鎮座し、谷中村民の深く崇敬した社である。
足尾銅山鉱毒事件の折、県当局の谷中村強制買収反対運動に生命を賭して戦った田中正造翁もこの神社をこよなく敬愛し、この社殿で村民青壮年と共に寝食を忘れて談じ、或る時は難戦苦闘する村民を慰め激励した処でもあった。
田中翁は病気重態の折、我が身を担架に乗せて遠く谷中に送り届けよと頻りに要望したほど翁が最後の静養を志したのもこの社地であった。
この神社跡地こそ、日本公害の原点地、谷中村の存在を永久に証する無くてはならぬ貴重なる遺跡であると云い得る。
谷中村遺跡を守る会
かつてこの周りは田んぼだったはずだが、今では広大な遊水地と化した。解説板にはあまりお金がかかっていないようで読むのに苦労した部分もある。成田空港とか、諫早湾干拓とか、みんなのためだからという胡散臭いところはあまり昔と変わっていないようだ。 |