――文化・民族誌・ポストコロニアル――
日本で「カルチュラル・スタディーズ」という言葉が注目されはじめたのはほんの数年前の1996年のことである。1990年頃にアメリカ合衆国でカルチュラル・スタディーズが新しい分野として広まり、1990年代にイギリスやアメリカの大学でカルチュラル・スタディーズの「学科」や「学部」が設立されていったことの影響もあって、1996年に、カルチュラル・スタディーズの代表的存在であるスチュアート・ホールやメディア研究でのオーディエンス論を展開したデイヴィット・モーリー、フェミニズムの立場からサブカルチャーを研究しているアンジェラ・マコロビー、人種研究を展開しているアリ・ラタンシらを招いて東京大学社会情報研究所でシンポジウムが開かれ(そのシンポジウムの記録は、1999年に刊行されている[花田/吉見/スパークス
1999])、また、その前後に『思想』(1996年1月号)や『現代思想』(1996年3月号)といった雑誌にカルチュラル・スタディーズの特集が組まれて大々的に紹介されたことで、「カルチュラル・スタディーズ」という語は一気に広まった。
1998年には『現代思想』誌が『総特集
ステュアート・ホール』という臨時増刊を出し、1999年にはグレアム・ターナーの『カルチュラル・スタディーズ入門』[ターナー 1999]が翻訳されて出版された(原著は1996年出版)が、これがおそらく日本で「カルチュラル・スタディーズ」が書名に入った最初の本だろう。2000年になると、上野俊哉と毛利嘉孝の『カルチュラル・スタディーズ入門』[上野/毛利
2000]と社会学者の吉見俊哉の『カルチュラル・スタディーズ』[吉見 2000]が出され、2001年には講談社選書メチエの「知の教科書」のシリーズとして吉見俊哉編『カルチュラル・スタディーズ』が出版されるなど、日本語で書かれた入門書が次々と出版されている。また、雑誌の特集として、『言語』が3月号で「カルチュラル・スタディーズとはなにか」という特集を組み、翻訳でも、2000年から2001年にかけて、「カルチュラル・スタディーズ」という言葉を題名に入れた翻訳書がいくつか出版される(1)など、ちょっとした出版ブームになっている。そして、2002年になっても、上野俊哉と毛利嘉孝の『実践カルチュラル・スタディーズ』[上野/毛利
2002]や英文学者の本橋哲也による『カルチュラル・スタディーズへの招待』[本橋 2002]が出され、Introducingシリーズ(イラスト版の入門書)の『Introducingカルチュラル・スタディーズ』の翻訳[サルダー/ヴァン・ルーン 2002]も出るなど、まだブームは続いている。
このブームは、30年前の「構造主義」ブームにすこし似ているかもしれない。そして、カルチュラル・スタディーズと構造主義は実は無関係ではない。イギリスでのカルチュラル・スタディーズの誕生は、ちょうど日本に構造主義ブームが起きた1970年頃、フランスの現代思想であった構造主義――とくにアルチュセールの構造主義的マルクス主義、レヴィ=ストロースの構造主義的人類学、ロラン・バルトの記号論――のイギリスへの紹介と密接に結びついていたのである。そして、構造主義が学問の領域を横断するものであったのと同じく、カルチュラル・スタディーズも学問の領域を横断するものである。両者の大きな違いは、構造主義がアカデミズムのなかの思想運動だったのに対して、カルチュラル・スタディーズが当初は反アカデミズム的でより広い政治的な社会運動と結びついた思想運動だったという点にある。
レヴィ=ストロースの構造主義は当然にも、現代の文化人類学に大きな影響を与えた。カルチュラル・スタディーズと現代の文化人類学は、その出発点を共有しているのである。そして、それ以外にも、二つのあいだには共通点がある。まず、ともに「文化culture」という概念を共有していることが挙げられる。カルチュラル・スタディーズは、「文化」という特殊な概念を人類学から借用したのである。そして、二つ目に、カルチュラル・スタディーズは、人類学から民族誌的方法をも借りている。さらに三つ目として、現在のカルチュラル・スタディーズと人類学は、植民地に端を発する人種的・民族的アイデンティティという同じ問題に直面しているという共通点がある。本論考では、日本におけるカルチュラル・スタディーズの紹介の特徴を見るとともに、カルチュラル・スタディーズと人類学のあいだの「文化」概念、民族誌的方法、植民地に由来する文化的アイデンティティの問題という三つの共通点を取り上げて、カルチュラル・スタディーズと人類学それぞれが「文化」の研究に対して何を貢献できるか、ということを考えたいと思う。
カルチュラル・スタディーズという思想運動の直接的な始まりは、1964年イギリスのバーミンガム大学にCCCS(Centre for Contemporary Cultural Studies 現代文化研究センター)が設立されたことにある。ここから、「カルチュラル・スタディーズ」という名前が一般的な文化研究という意味から、特定の思想運動を指す言葉へと変わっていった。CCCSの初代所長(ディレクター)は『リテラシーの効用
The Uses of Literacy』(1957年刊行)の著者として知られているリチャード・ホガートであり、1969年にスチュアート・ホールがホガートの後を継いで所長になってから、CCCSは、ポピュラー・カルチャーや若者文化を中心とするサブカルチャーの研究や、メディア研究など、現在のカルチュラル・スタディーズを進展させるための中心的な役割を果たしてきた(ホールは1979年にCCCSのディレクターを辞め、オープン・ユニヴァーシティに移り、CCCSは1980年代後半にはバーミンガム大学のカルチュラル・スタディーズ学部となり、逆にカルチュラル・スタディーズの中心という地位を失っていったとされている)。
つまり、カルチュラル・スタディーズがイギリスで誕生してから、もう30年以上の歴史がある。さらに、イギリスのカルチュラル・スタディーズにはスターリニズムに反対した「ニューレフト」と呼ばれる労働者階級出身のマルクス主義的研究者たちによる「労働者階級文化の研究」という前史があった(2)。「ニューレフト」たちのうち、カルチュラル・スタディーズの誕生に直接的な影響を与えたのは、CCCSの初代所長となったホガートのほか、文学批評家のレイモンド・ウィリアムズと歴史家のE・P・トムソンの3人とされている。彼らによる労働者階級文化の研究は、もちろん最近のカルチュラル・スタディーズの紹介以前に早くから日本に紹介され、翻訳もされていた。1957年に出版されたホガートの『リテラシーの効用』の翻訳(『読み書き能力の効用』[ホガート
1974])が晶文社から1974年に出版されており、1958年に出版されたウィリアムズの『文化と社会 Culture and Society
1780-1950』も、翻訳が1968年にミネルヴァ書房から、そして同じくウィリアムズの『長い革命』(1961年)の翻訳も1983年にミネルヴァ書房から出ている。
では、ホガート、ウィリアムズ、トムソンらによる労働者階級の文化の研究はどんな特徴があったのか、そしてそれがどのようにカルチュラル・スタディーズにつながっていったのか。それは、第二次世界大戦後のイギリスの大学での教育や研究の状況の変化と、それにともなう「文化 culture」という概念の変化に関連している。
ウィリアムズの『キーワード辞典』[ウィリアムズ 2002]によれば、「文化culture」という概念は、19世紀中頃まではヨーロッパの諸言語において明確な意味をもっていなかった。イギリスでそれを確立するうえで大きな役割を果たしたのは、1867年に出版されたマシュー・アーノルドの『文化と無秩序Culture
and Anarchy』(岩波文庫の翻訳[アーノルド 1965]の題名は『教養と無秩序』)だった。その本で、アーノルドは、「文化」を、偉大な文学作品や芸術や哲学などの「これまで考えられ語られてきた最高のもの」と捉え、その当時、リテラシーを身につけたけれどもそれらの価値に対する鑑賞能力のない都市の大衆の登場と彼らの俗物的な趣味によって、それら高級な「文化」が脅かされていると感じ、「文化」は、それらを理解できる「教養のある」少数の人びとのみによって維持されなければ滅びてしまうものと主張した。
このように、「文化」という概念は、それが「外部の汚い世界」によって脅かされると感じたときにはじめて防衛すべきものとして成立したといえる。しかし、イギリスでちょうどエリートたちによる「高級文化」という意味の「文化」概念が確立した頃、もう一つの文化概念が生れていた。1871年に人類学の父と呼ばれるエドワード・B・タイラーが『原始文化 Primitive Culture』[タイラー 1962]という本を出し、その中で文化ないし文明について、「知識、信仰、芸術、道徳、法律、慣習、その他、人間が社会の成員として習得した能力、習性などを含む複合的総体である」という文化人類学的な定義を行なっている。このような「社会生活のなかで習得したあらゆる行為」を包摂した「文化」概念は、それまでさまざまな社会の違いを生物学的「人種」によって説明し、たとえばアフリカの黒人種には「文化」がないとしてきたヨーロッパの考え方に対する異議でもあったが、そのような概念は、20世紀前半までは文化人類学でしか用いられておらず、一般的には「文化」という概念は「高級文化」という意味で使われていた。そのような意味での「文化」という語は、日本でも「文化生活」「文化住宅」といった語として移入されている。
アーノルドが防衛しようとした「文化」は、20世紀になると、利益ばかりを追求する功利的な商業主義や、大衆向けに大量に印刷される新聞・雑誌や映画やポップ・ミュージックなど、科学技術を用いた複製技術やマスメディアによっても脅かされる。第二次世界大戦前、そのようなテクノロジーと経済の発達による大衆文化の発展という状況のなか、ケンブリッジ大学の文学者F・R・リーヴィスを中心に集まった学者や批評家たち(リーヴィス派とか、彼らの雑誌の名前からスクルーティニー派と呼ばれる)は、英文学者や批評家の役割は、大衆文化のはびこる中で最高の文学的価値を護ること、いいかえれば、何が「偉大な作品」かという「カノン(canon正典)」を確立し保存すること(つまりミルトンやシェイクスピアやチョーサーといった偉大な作家・作品と、その他の群小な作家・作品とに分けること)だとした。そういった「カノン形成」(カノンを確立させること)の成果のひとつが、イギリスの小説の「偉大な作品」を並べたリーヴィスの『偉大なる伝統』(1948年刊行)である(3)。
労働者階級出身のホガートやウィリアムズが大学で文学や文芸批評を学んだ頃は、そのようなエリート主義的な「カノン防衛」と大衆文化批判がアカデミズムにおいてなされていた時期だった。けれども、戦後になるとそれまで大学に行くことのなかった労働者階級や下層中流階級出身の学生たちが大学に行くようになり、働きながら大学に行くことができるような成人教育(社会人教育)のクラスも大学にできた。ホガートもウィリアムズも最初は成人教育の教師であり、その中で非エリート・非アカデミズム・非カノン主義的な「文化」についての研究と教育を始めた。つまり、アーノルドやリーヴィス派たちのいう「高級文化」や、白人男性の批評家や研究者、教師などの特権的なエリート集団が決めた「偉大な文化」からは、非白人や下層階級や女性といった非特権的な集団が担ってきた「文化」が「文化」として認められていなかった(実際には非白人や女性たちも白人男性と同じような「芸術作品」を作っていた)状況のなかで、労働者階級出身の教師が労働者階級出身の学生を教える成人教育のクラスで、「文化」というものを教えるとはどういうことなのか、という問題をホガートやウィリアムズは追求し始め、「文化」という概念をエリート主義的な「文化=教養」という意味ではなく、「生活における諸実践の総体」という文化人類学的な「文化」の概念を取り入れ、ポピュラー・カルチャー(民衆文化)としての労働者階級の文化を研究し始めたのである。
ホガートは、イギリス労働者階級の「伝統的な民俗文化」の没落を指摘する(ホガートが本当の「民衆文化」を語るとき、自分が子どもの頃の個人的な体験を交えながら、ノスタルジックに語っている)一方で、当時のイギリス労働者階級の若者たちがアメリカの大衆文化を受け容れていることに批判的だった。彼は、伝統的な民衆文化(ポピュラー・カルチャー)と大衆文化(マス・カルチャー)とを区別している。ホガートのいう大衆文化とは、ミルク・バーのジュークボックスやラジオから流れるアメリカのポップスやテレビ番組や、大衆雑誌やセンセーショナルな日曜新聞などに掲載される暴力小説やマンガや犯罪記事などを指しており、それらは、パブや労働者特有の言葉づかいやコミュニティ活動に支えられた労働者の身近な社会的な絆や日常的経験に結びついていた民衆文化を破壊しているとホガートはみなしていた。つまり、ホガートは、イギリスの労働者階級はいまやアメリカの文化帝国主義とマスメディアが大量に流通させている通俗出版物によって「植民地化」されていると考え、労働者階級文化の研究を、そのような「植民地化」を批判するものと捉えていたといえる。それは、アドルノとホルクハイマーの『啓蒙の弁証法』[ホルクハイマー/アドルノ
1990]のなかの「文化産業」による大衆文化批判にも通じている面がある。
このような大衆文化と区別された「本物の伝統的な民衆文化(ポピュラー・カルチャー)」というホガートの捉えかたは、最近の文化人類学やポストコロニアル研究などでは、「本質主義」的な文化の捉えかたと批判されるものだろう。そこで批判されている本質主義的な文化の捉えかたというのは、人種や民族や階級などのカテゴリーと、その人びとのもつ文化とが自然な結びつきを持っていて、それは容易に変化しがたい本質をなしており、そこに帰属する人びとの行動や思考がその文化によって一様に規定されていると捉える考え方を指している。たしかに、従来の人類学者は、他民族の文化を研究するときに、それぞれの民族の文化は他の文化と明確に区別しうる境界をもつ「実体」(客観的な実在物)であって、その民族の変わらぬ「本質 essence」としての文化を実体的に把握することによってその人々の本当の姿を客観的に知りうるし、表象しうるとするという立場をとり、近隣の民族から移入された文化や、植民地化や近代化にともなって入ってきた近代文明や欧米の制度や事物を、研究対象とすべき不変の本質から区別して、純粋な伝統文化の「汚染」と見なすがあった。そして、人類学者のジェームズ・クリフォード[Clifford
1988]が批判しているように、その汚染の広がりを前にした人類学者たちの「消滅しつつある伝統文化」という「エントロピックな語り」(消滅の語り)は、人びとが外から入ってきた欧米の文化などを異種混淆化して創造している現在の文化を否定しているといえる。
そして、高級文化や大衆文化と区別された「労働者階級の本物の民衆文化」というホガートの捉えかたは「本質主義」的な捉えかたにみえるし、マスメディアや輸入アメリカ文化に「汚染」されて消滅しつつある「本物の民衆文化」というホガートの言いかたは、「本物の高級文化」を守ろうとしたリーヴィス派の言いかたと同じように、「エントロピックな語り」に聞こえる(ホガートへのリーヴィス派の影響が指摘されることもある)。たしかに、ホガートは階級や階級文化を実体的に他から区別できるものとしているところがある。
けれども、ホガートによる大衆文化と民衆文化の区別は、リーヴィス派による高級文化と大衆文化の区別を批判するものだった。ホガートは、「いま進行している文化闘争を、まあたとえて言えば、『タイムズ』紙と絵入り大衆紙とがそれぞれ代表している勢力の間の正面闘争、といった風に見なすのは間違いだ」と述べて、人口の大多数がいつか『タイムズ』紙を読む日がくることを期待するのは一種の知的俗物主義で、「品の良い週刊誌を読む能力が、そのままよい生活を送るのに必要欠くべからざるものではない」とし、つぎのように言う。「真理に触れるには、ほかの道がいくらでもある。より詰まらない大衆娯楽に私が反対する最大の理由は、それが読者を『高級』にさせないからではなく、それが知的な性向をもっていない人びとがかれらなりの道をとおって賢くなるのを邪魔するからだ」[ホガート 1974: 263-264]。そして、ホガートが指摘していたのは、大衆新聞やハリウッド映画が産み出そうとしている「階級のない階級」や「画一的なインターナショナルな人間タイプ」によって、「階級文化」が「階級のない文化」や「顔のない文化」に取って代わられていく危険であった。後で述べるように、ホガートによる「植民地化」された大衆文化と民衆文化の区別は、文化人類学やカルチュラル・スタディーズが現在陥っている「異質化・ヘテロ化の罠」から脱出するための手立てとして再考の余地があるものであろう。
ホガートの実体的な階級文化の捉えかた(本質主義的な捉えかた)を修正していくうえで重要なのが、E・P・トムソン[Thompson 1966]による「階級文化」の捉えかただろう。ジャウディン・サルダーが述べているように、トムソンは、労働者階級によるジョン・バニヤンの『天路歴程』やメソジストの宗教活動の受け入れ方を例に挙げて、「労働者階級の文化は、上流階級の文化とはまったく異なる資源からつくりだされているわけではない。ただ労働者たちは、資源に対する独自の関わり方や思考、創造的活動によってまったく新しい特徴的な文化をつくりだしているのだ」[サルダー
2002:34]ということを明らかにした。そして、労働者階級は上流階級との関係の中で自らの社会的位置を認識し、その関係の変革や意味づけのために自分たちの階級文化を創造していったことを指摘したのである。このように、トムソンは、「階級」や「階級文化」というものを、ある集団が不変的にもっている本質とは無縁な、長期の社会的プロセスのなかから生み出されるアイデンティティと見なした。「労働者階級の文化」の独自性・自律性は、貴族階級やブルジョワ階級との隔絶によるものではなく、それらの階級との社会関係のなかで、同じ資源に対するアプローチの仕方や利用の仕方にあると捉えた。そのような捉えかたは、フランスの歴史家ミシェル・ド・セルトーの「民衆文化」の捉えかたに通じるものがある[ド・セルトー
1987]。ド・セルトーは、「民衆文化」を支配的文化・エリート文化と隔絶された固有の区画をもつものという見方を批判し、その独自性・固有性を、支配的文化が作りだして押し付けている生産物を人びとが日常の中で活用する際の「独特のやりかた」にあるのだと述べていた。
トムソンの「階級文化」の捉えかたは、その後のカルチュラル・スタディーズに大きな影響を与えた。そして、この労働者階級の「独特のやりかた」は、たとえば、ジョン・クラークやディック・ヘブディジによる「サブカルチャー研究」では、レヴィ=ストロースの「ブリコラージュ」という用語を使って表されている。そこでは、労働者階級の若者を中心とした英国の若者たちが、アメリカや旧植民地から移入された文化を独自のやりかたで「流用」していることが示されている。たとえば、ヘブディジは、『サブカルチャー』(1979年)のなかで、ブリコラージュという概念を、つぎのように使っている。「モッズが、別の系列の商品を流用してあるひとつの象徴的な全体のなかに置き、それによってその商品のもつ本来のまともな意味を消し去ったり破壊したりしたとき、モッズはブリコルールとして機能したと言うことができよう」[ヘブディジ
1986: 148、訳文は一部変更した]。具体的には、モッズがノイローゼの治療薬として処方された薬をドラッグとして飲んだり、まったく上品な乗り物であったスクーターを、グループの団結の威嚇的なシンボルに用いたり、さらに狡猾なものとして、ビジネスマンの世界のコンヴェンショナルしるしとしての、スーツや、カラーとネクタイ、短い髪などから、それら本来の意味である機能性や野心、権威への従順さといったものを奪い取って、「空っぽ」の呪物、すなわち、それら自身の価値において欲望され、愛撫され、評価されるモノへと変形するといったことが挙げられている。そして、ヘブディジは、それらの破壊行為を、ウンベルト・エーコの「記号論的なゲリラ戦」という言葉を用いて呼んでいる。
これによって示されているのは、労働者階級の若者たちが、マスメディアや文化帝国主義によって「植民地化」されながらも、完全に受動的にそれらの生産物を受け容れているのではなく、トムソンが明らかにした「労働者階級の文化の創造」と同じように、与えられた資源から独自の新しい意味や組み合わせを「ブリコラージュ」しながら、社会的プロセスのなかから生み出される自分たちのアイデンティティとしての「サブカルチャー」を創りだしていることである。
ホガート、ウィリアムズ、トムソンによる非エリート・非アカデミズム・非カノン的な「文化」の研究という特徴は、そのままカルチュラル・スタディーズに受け継がれていった。そして、ホガートが所長の時代のCCCSでは社会科学的研究とともに文学批評や歴史的研究にも重点が置かれていたが、スチュアート・ホールの時代になると、フランスの文化人類学者レヴィ=ストロースの構造主義的人類学や、同じくアルチュセールの構造主義的マルクス主義やロラン・バルトの記号学的分析などを取り入れるという変化や、社会科学的な研究に重点が移行するとともに、文化人類学から民族誌(エスノグラフィー)的な方法を取り入れるようになった。そして、非カノンの「文化」の研究も、労働者階級の「文化」だけではなく、非白人、とくにアフリカ系移民出身の文化(ホール自身が西インド諸島からのアフリカ系移民だった)や、女性や若者たちといったマイノリティの「文化」について研究されるようになっていった。カルチュラル・スタディーズは、階級/人種/ジェンダーといった区分によって既成のアカデミズムから排除されてきた領域を積極的に扱いはじめたのだが、それらを個々バラバラに研究するのではなく、領域横断的に研究することに特徴がある。
では、英国のカルチュラル・スタディーズが、具体的にどのような研究をしてきたのかを簡単に紹介しよう。まず、カルチュラル・スタディーズが現在のカルチュラル・スタディーズらしくなったのは、1976年のホールとトニー・ジェファーソン編集の論文集『儀礼を通した抵抗:戦後の若者のサブカルチャー Resistance
Through Rituals』[Hall and Jefferson 1993]と1978年に出たホールやチャス・クリッター、ジェファーソン、ジョン・クラーク、ブライアン・ロバーツの5人の共同執筆による『危機を取り締まること:マギング・国家・治安維持
Policing the Crisis』[Hall et al. 1978]という2つの本によってだろう。これらはともにCCCSの共同研究の成果だった。
『儀礼を通した抵抗』は、「戦後の若者のサブカルチャー」という副題の通り、スキンへッズ、モッズ、テッズ、パンク、ラスタといった60年代から70年代の若者のサブカルチャーについての共同研究で、ホールやジェファーソン、ジョン・クラークといったスタッフ以外にも当時CCCSの大学院生でのちにカルチュラル・スタディーズのサブカルチャー研究の中心的な存在になるディック・ヘブディジやアンジェラ・マックロビー、イアン・チェンバースらが参加している(つまり、アカデミズムにとって「教養=文化」から排除されていたそれらのサブカルチャーは彼らにとっては身近なものだったはずだ)。そして、この研究では、60年代のモッズが軍用(ミリタリー)コートを着てイタリア製のスクーターを乗り回したり、パンクがレザー・ジャケットに包んだ体に安全ピンや洗濯バサミなどをつけたり、レゲエのファンがジャマイカのラスタファリアンを真似て「ドレッドロックス」のヘアースタイルをしたりすることを「儀礼的行為
ritual」とみなし、そうした儀礼的行為からなる「文化」を共有する若者のグループ(階級やエスニシティ、人種、世代、地域、趣味によって細分化された小集団)を「部族
tribe」と呼び(日本でも80年代くらいまではサブカルチャーの担い手である若者のグループを「〜族」と呼んでいたことに似ている)、そのような「部族」の儀礼的な慣習行為の「民族誌的研究」を通して、その行為の意味を、社会の主流の文化や親の世代の文化、学校や職場などの制度に対する「抵抗resistance」であると捉えている。
また、『危機を取り締まること』では、1972年頃から、黒人の少年による「マギング」(路上での「ひったくり」や「強盗」)という語が突如メディアを賑わし、「モラルパニック」が起こったという現象を扱っている。実際の統計によれば、少なからぬ白人の少年も「ひったくり」を行なっていたにもかかわらず、メディアによる表象では「マギング」といえば、黒人少年による特定の地域の犯罪として報道され、襲われるのはきまって白人の女性や老人であり、イギリス社会全体に対する脅威として報じられた。ホールたちは、新聞など当時のメディアの表象を仔細に分析して、メディアがどのように黒人少年と「マギング」という語を結びつけていったのか、それがどのように黒人全体に対するステレオタイプ的なイメージを創りだし、その結果警察などの実際の政策にどのような影響を与えたのかを検証した。
この共同研究は、カルチュラル・スタディーズが「人種」を初めて本格的に取り上げたものとして意味がある。そして、それは、同じ1972年にCCCSの中に設立されたポール・ギルロイやヘーゼル・カービーたちを中心とした「人種と政治グループ」に引き継がれ、その成果が1982年に『帝国の逆襲:70年代イギリスの人種と人種主義』[CCCS
1982]として出された。そのなかでギルロイは、それまでのカルチュラル・スタディーズにおいては、「人種」に関する問題が無視されてきたと批判し、「人種」をカルチュラル・スタディーズの中心的な問題とすべきだと主張した。そして、実際に「人種」および民族的アイデンティティの問題は、カルチュラル・スタディーズの中心的な問題となっていった。
これら3つの共同研究(『儀礼を通した抵抗』『危機を取り締まること』『帝国の逆襲』)はいまだに翻訳されていないが、カルチュラル・スタディーズの成果は、いくつか日本に紹介されていた。例えば、『儀礼を通した抵抗』にも寄稿しているポール・ウィリスの『ハマータウンの野郎ども Learning to Labour: How working class kids get working class jobs』(1977年)が1985年に翻訳され、1986年には同じく『儀礼を通した抵抗』の寄稿者の一人であるディック・ヘブディジの『サブカルチャー』(1979年)が翻訳されている。翻訳されているウィリスの『ハマータウンの野郎ども』とヘブディジの『サブカルチャー』という2つのカルチュラル・スタディーズ文献に共通したテーマは、サブカルチャーによる「抵抗」であり、ともにカルチュラル・スタディーズの民族誌的研究の代表作と言われている。けれども、これらの翻訳の訳者あとがきでは、カルチュラル・スタディーズや、カルチュラル・スタディーズの運動の中心的な役割を担っていたバーミンガム大学のCCCS(Centre
for Contemporary Cultural Studies 現代文化研究センター)にはまったく触れていない。ウィリスの『ハマータウンの野郎ども』の翻訳の「訳者あとがき」では、イギリス労働階級とその文化の研究として既に日本に翻訳されていたホガートの『読み書き能力の効用』が挙げられ、ウィリスの研究もそのような伝統に深く根ざしていると指摘されているが、ホガートが初代所長だったCCCSには言及されていない。そこでは、この本の新しいところとして、「最近になって日本でもやかましく論じられるようになった文化人類学や文化記号論の問題意識を、ウィリスが独自に取り込もうとしたこと」と書かれているが、これはウィリスの独自性というより、CCCSの2代目の所長だったスチュアート・ホール以降のカルチュラル・スタディーズの特徴である。
ヘブディジの『サブカルチャー』のほうは、CCCSの共同研究として1976年に出された論集『儀礼を通した抵抗』のテーマを、レヴィ=ストロースの「ブリコラージュ」といった考えや、クリステヴァの「過程(プロセ)のなかにある主体(フランス語のsujet
en process には「告訴され裁かれる係争中の主体」という意味もある)」という考えやロラン・バルトのポピュラー・カルチャーについての記号論的分析などを用いて展開した本で、これもホールによるフランス構造主義の導入の影響下で登場した研究といえる。けれども、ヘブディジの本もまた、翻訳された当時はカルチュラル・スタディーズの成果の一つとして紹介されたわけではなかった。つまり、日本では1980年代までは、カルチュラル・スタディーズなどという語は日本ではほとんど知られておらず、その成果も若者文化論とか労働者階級論といった各分野で紹介される新しい個別研究としてしか受け取られていなかったことがわかる(4)。
さて、ここで、カルチュラル・スタディーズの民族誌的研究のなかでも、最も文化人類学に近い研究方法を用いている、ウィリスの『ハマータウンの野郎ども』の内容を紹介しておこう。ウィリスはイギリス中部にある大都市圏に位置する地方工業都市にある男子校の「新制中等学校」(11歳から16歳まで)の労働者階級の少年たち、とくに「学業に背を向けた、学校に反抗的な生徒のグループ」12人について、卒業の前の年から卒業後に労働者になって6ヶ月間たつまで、授業中から放課後の気ままな活動まで参与観察し、定期的にグループへのインタヴューをするという調査(フィールドワーク)を行なっている。そして、主な調査対象となったそのグループ以外にも、比較のために5つのグループ(同じ学校の同学年の「学校に順応的な生徒のグループ」、A同じ町の男女共学の新制中等学校に通う労働者階級の「学校に順応的な生徒のグループ」といったグループ)から三人ずつ抽出して同じようにインタヴューと観察を行い、またそれ以外にも、少年グループの父母の全員、学校で指導的立場にあった教職員の全員、少年グループと交流のあった若手教師たちなどにも長時間にわたるインタヴューをしている。
そして、ウィリスは、そのメイン・グループの「不良少年」たち(〈野郎ども〉)が、権力装置としての学校における公認の規則や交換関係を、自分たちの利害や感情や価値観に引き寄せて解釈しなおし、公認のものとは別の規則や関係に読み替えながら、そこにインフォーマルな空間や反‐規律のネットワークを創りだし、フォーマルな規則=支配の裏をかいて抵抗する姿を描いている。「学校に対する反抗の基本的な様相は、学校制度とその規制をかいくぐって、インフォーマルな独自の空間を確保し、『勤勉』というこの制度公認の大目標を台無しにしてしまう所業に集中して現われる」[ウィリス 1996:70]のである。
〈野郎ども〉は、独特のファッション・スタイルや、学校の規則の隙間をついた悪ふざけや気晴らし、仲間うちにのみ通じるスラングなどにより、インフォーマルな反‐規律のネットワークを創りだす。そのファッションについて、ウィリスは、カルチュラル・スタディーズのサブカルチャー研究に共通した視点から、「商業主義によって一定の意味をあらかじめ与えられたスタイルが、〈野郎ども〉の手許で彼ら固有のもっと具体的な意味づけを加えられて利用されている」のであり、「若者たちによって取り上げられみずからのものとして使いこなされるときには、それが商業主義の動機からは予測しえなかった若者たちの率直な自己表現の媒体になりうる」[ウィリス 1996:47-8]と指摘している。
けれども、ウィリスの議論の特徴は、〈野郎ども〉が、自分たちが創造した「反学校の文化」ゆえに、勤勉や精神労働を軽蔑して肉体労働を選びとり、支配文化が彼らに割り振っている資本制社会の下積みとしての役割をすすんで受け入れ、階級体制を再生産していくという「抵抗の逆説」を結論とする点である。ウィリスは、イギリスの労働者階級の若者たちが、知的労働を女々しいものとみなし、自分のからだで稼ぐ労働を積極的に肯定する彼ら固有の文化(そして、それはイギリスの労働者階級の文化と連続している)に基づいて、知的労働と従順性のための装置としての学校に反抗し、独自のやり方で学校の規律=訓練をやり過ごすことが、従属的な肉体労働に彼ら自身が進んで就いていくことにつながっていると分析してみせる。
現代社会では、支配的な公式文化によって知的労働と肉体労働が区別され、肉体労働が劣位におかれるが、彼ら労働者階級は、その押しつけられた規範や意味を受動的・機械的に内面化しているのではなく、それを組み変え、肉体労働の劣位という意味を逆転させ、手による労働こそ男らしい本物の労働だとする独自の意味を生みだす。そのような主体的な創造、独自の意味の転倒が、既存の支配的な階級構造の維持や貫徹に寄与する結果に終わるということを示していくのである。つまり、反学校の文化から労働者階級の文化への連続性において、彼らは「まさにぎりぎりのところで上手に身をかわし、それでいて『規則=支配』をかいくぐ」りながら、「インフォーマルな世界に立てこもることでいかにもしたたかな抵抗を持続させる」[ウィリス
1996:61]のだが、彼らがたてこもるインフォーマルな世界が従属的なものとして位置づけられているゆえに、その抵抗は、自分たちの従属を結果するというのである。
もっとも、ウィリス自身は、自分の結論はこのような悲観的な逆説ではなく、「この研究で私が示そうとしたのはこれと逆のことであり、まさにそのかぎりで、私の立場はより楽観的である。……社会を構成する人間的主体は、支配イデオロギーの受動的な担い手にとどまりえないのであり、既存の社会構造を再生産するにしても、闘争や抵抗や部分的な洞察を行なう、イデオロギーにたいする能動的な改竄者としてそうするのである」[ウィリス 1996:408-409]。けれども、〈野郎ども〉の生活誌を記述する民族誌的部分では受動的かつ能動的な改竄者としての姿を描いているが、分析の部分になると、その抵抗が既存の体制を再生産するという結論にしか読めないのもたしかである(この点は、ブルデューの『再生産』における議論と親和性がある)。
ウィリスの分析が自身の楽観的な立場を裏切ってしまうのは、分析の枠組として、話し言葉に代表される「かれらの世界」における「洞察」と支配イデオロギーによるその「制約」というホガート流の図式を使っているからだろう。ウィリスは、〈野郎ども〉の洞察――従順さや勤勉さや成績証明は、学校当局が言うようには生徒たちの地位を押し上げるのに役に立たないといった洞察――を評価する一方で、「個々人の日常の話言葉のなかに〈洞察〉の片鱗がきらめくことはある」が、それを歪めてしまう〈制約〉があるために、「それはうつろいやすく、ときには自己矛盾を示し、たいていは無自覚である。……話言葉に反映されるかぎりでの文化は往々にしてその生成過程を省いた最終結果だけであり、生成の根っこにあった〈洞察〉はそこでは見るも無惨な姿をさらす場合がある。さらに、時と場所が異なれば話言葉はそれだけ一貫性を失い、葛藤をはらむ文化のたがいに矛盾する側面が脈絡を欠いたままあらわれることになる」[ウィリス 1996:295]という。そこには、本来的に正しい合理的な洞察というものがあり、それが歪められて、断片的で首尾一貫しない非合理的なものとなってしまうということが前提されている。しかし、これは明らかに近代の啓蒙主義的な合理性/非合理性の二元論にもとづくものといえよう。つまり、ウィリスは、システムの戦略モデルによって、生活世界のもののやりかたである戦術を、一貫性を欠いた、歪んだものと断罪しているのである。
しかし、この一貫性のなさや特定の「時と場所」に依存する部分性や断片性は、本来一貫していた全体的な洞察が「生活世界の植民地化」(ハバーマス)によって歪んだ結果なのだろうか。そして、その歪みさえ取り除けば、疎外されていた主体が回復するのだろうか。それが、システムに属する啓蒙主義的な合理性/非合理性の二元論から見たかぎりの一貫性のなさや部分性という意味では、「植民地化」によって見いだされたものと言えるが、そのことは「植民地化」以前に合理的で全体的な洞察のできる主体があったことを意味しない。それが意味するのは、合理性の男性的・ブルジョワ的・白人的定義によっては、生活世界における洞察や実践のもつ横断性を聴き取ることができないということなのである(これはスピヴァックが指摘した「サバルタンは語ることができない」という理由である)。ウィリスはそれを聴き取りながら、その分析では、啓蒙主義的な合理性/非合理性の二元論にもとづいて、それを抵抗と服従の循環のなかに押し込めてしまっている。
ウィリスが洞察の断片性や臨機応変性を歪みと取ってしまったのは、民衆的なものや民衆文化が固有の空間や固有の文化的コードといった実体的なものとしてあるのではなく、「もののやりかた」としてあるということを捉えそこなったせいだろう。ウィリスは、労働者階級の若者たちが、その反抗によって自分たちに固有の空間としての階級文化を防衛しているかのように述べる。そのために、肉体労働の表す男性的なものに価値をおくという、労働者階級に固有の文化的コードによって、抵抗が従属を生むという逆説的循環を招くとするわけだが、そのようなコードは固定されたものではなく、その時その場に応じて表明されるものである。ミシェル・ド・セルトーの言いかたを借りれば、民衆的なものとは、その文化的コードそのものにあるのではなく、コードの使いかた、「活用」の独特のやりかたにあるのだ。例えば、〈野郎ども〉は、学校というコンテクストでは体を使って働くことが学校の権威への反抗になるからそのコードを用いるけれども、工場というコンテクストにおいては、肉体労働である仕事に情熱を注ぎ、個人生活のもっとも私的な部分さえも労働力を支出するために投じようとする順応的な生徒たち(〈耳っ子〉)とは違って、〈野郎ども〉は「労働に生きがいを求めることを最小限に抑制しようとする」[ウィリス 1996:260]。つまり、彼らは、固有の文化的コードといったものにこだわらずに、時と場合に応じて一つのコードから別のコードへと移動していくのである。そして、そのやりかたこそ、トムソンやド・セルトーがいう、労働者階級や日常的実践にみられる「独特のやりかた」なのだといえよう。
最初にも述べたが、カルチュラル・スタディーズは、いくつかの点で人類学と近しい関係をもっている。第一に、人類学から「文化」という概念を取り入れたこと、そして第二に、「民族誌」的方法を取り入れたことである。けれども、カルチュラル・スタディーズが誕生した頃、まだこの二つの学問は棲み分けていたといえる。つまり、人類学は海外の植民地での調査が中心であったし、カルチュラル・スタディーズは国内の自分たちの身近なサブカルチャーを研究していた。しかし、カルチュラル・スタディーズがサブカルチャーを研究している間に、階級やエスニシティの内部の「均質で固定された文化」という人類学的な文化概念に疑問をもち、より多様で複雑な文化や民族の絡み合いに注目しはじめていた。そして、人類学が同じように従来の「文化」概念に疑問をもち、しかも「アンソロポロジー・アット・ホーム」という形で自分たちの育った社会に研究の眼を向け始めたとき、カルチュラル・スタディーズは先行している有力なライバルとなっていたのである。
そして、現代の文化人類学(ポストモダン人類学・ポストコロニアル人類学)とカルチュラル・スタディーズがともに直面している問題は、植民地に由来する「人種的・文化的アイデンティティ」をめぐる本質主義と構築主義との対立、そしてそこから派生した、反本質主義(構築主義)と反・反本質主義(戦略的本質主義)の対立である。この対立は、アイデンティティの政治(アイデンティティ・ポリティクス)の評価についての対立ということもできる。「アイデンティティの政治」とは、周縁化されてきたマイノリティが、普遍的な市民や国民を僭称するマジョリティに同化するのではなく、否定的に表象されてきた自分たちの差異性やアイデンティティを肯定的なものへとひっくり返しながら、同じアイデンティティを共有する人びとを政治的に動員して(いいかえれば同質的なカテゴリーに基づいて連帯を作りだして)、現実社会で発言権を高めていこうとする運動を指している。ところが、構築主義(反本質主義)は、アイデンティティの政治において用いられるようなアイデンティティを構築された虚構であり、人種や民族やジェンダーを「同質化」するものだと批判し、そのようなカテゴリーやアイデンティティを解体・脱構築していくものとして登場してきた。そこで、人びとの連帯の基盤となっているアイデンティティを崩してしまい、マイノリティの運動の邪魔をするものだという批判が、構築主義(反本質主義)に投げかけられるようになったのである。戦略的本質主義は、そのような反本質主義批判を受けて登場してきた。それは、特定の政治的目的、すなわちマイノリティ(被支配者・弱者)が自分たちに対する抑圧をなくしていく目的で、本質主義的な言説にもとづいてアイデンティティの政治学を行なうことに関しては認めようというものといえる。
しかし、このマイノリティによるアイデンティティの政治を考えるうえで重要なのは、それが行なわれるときには、支配的なマジョリティの側による否定的アイデンティティの押しつけが先にある、ということである。アイデンティティの政治はその両方のプロセスからなっている。そして、本質主義批判は、たんなる異文化の記述方法や認識の問題として提起されたのではなく、他者を否定的なアイデンティティと結びついた固定された均質的なカテゴリーに押し込めることが、植民地主義を典型とする他者の支配のテクノロジーであることへの批判であった。いいかえれば、学問の政治性ないし知の政治性を問題としていたのである。そのことを明確に指摘したのが、エドワード・サイードの『オリエンタリズム』[サイード 1989]だった。サイードらによる支配のテクノロジーの解明とそれについての批判が、本質主義批判という名前の下に一般論的な言説の問題とされ、マイノリティによる語りにも適用されるとともに、植民者/被植民者、支配者/被支配者という二元論自体の脱構築へと向かうとき、そのことが現にある支配−被支配関係を忘却して、それを再強化してしまうことになるという、反本質主義への批判が起きてきたというわけである。
ところで、ポストコロニアル理論において、サイードが本質主義の尻尾をまだ引きずっていて、西洋/東洋の二元論を強調して、結果としてそれを温存させているという、反本質主義からの批判(脱構築からの批判)は、1980年代後半に登場している。例えば、メアリー・プラットは、『帝国のまなざし』[Pratt 1992]のなかで、「接触領域」(植民地支配のような支配と従属からなる極端な非対称的関係のなかで、異なる文化同士が出会い、衝突し、格闘する社会的空間)では、異文化のあいだで文化の借用や流用が双方向的に起き、植民者と被植民者のあいだの相互作用や交渉や選択によって、サイードがいうような西洋とその「他者」という二元論は基盤から崩されていると述べている。また、ホミ・バーバ[Bhabha 1994]も、サイードがその二元論による植民地言説を非常に強力なものとみなし、それが被植民者との相互関係によって作られることを軽視していると批判している。そして、バーバは、サイードがいうように、西洋や植民者がオリエントや「野生」を他者化することによって固定的なアイデンティティを確立しようとするのだとしても、それは必ず失敗するという。つまり、バーバは、植民地的状況(プラットのいう「接触領域」)におけるアイデンティティは、植民者と被植民者を分断する境界線の両側で、不安定かつ流動的なものとなっているとし、植民者が確固たるアイデンティティを保持しているという主張は根拠薄弱なものであり、そこには必ず異種混淆性やアンビヴァレンスが孕まれていると述べる。
しかし、このような脱構築の徹底化に対して批判もすぐに出されていた。例えば、ベニタ・パリー[Parry 1994]は、バーバらのように接触領域での交渉や選択や異種混淆性をもてはやすことは、結果として植民者と被植民者とのあいだの支配−被支配関係が暴力的なものではなかったようにしてしまい、あたかも両者が対等な交渉をしているかのように描いてしまうと述べ、それだけではなく、被植民者たちの「解放のナショナリズム」の基盤となる民族的アイデンティティをも崩してしまい、植民地主義に対する抵抗を無力化すると批判している。松田素二は、構築主義ないし反本質主義が陥るそのような罠を「異質化・ヘテロ化の罠」と呼んでいる。本質主義が他者を「本質」を共有しているものと表象するとき、その他者のカテゴリーを「同質化(ホモ化)」しているといえるが、反本質主義はその「同質化」を批判して、それらのカテゴリーを「異質化(ヘテロ化)」していく。けれども、その反本質主義に対して、そのような「異質化」が、現にある支配−被支配関係の暴力を隠蔽するとともに、それに対抗しようとする被抑圧者の抵抗の基盤となる肯定的なアイデンティティを崩してしまうという批判が出されてきたというわけである。
それに対して、戦略的本質主義は、弱者によるアイデンティティの政治は戦略的に認めるべきだ(つまりアイデンティティの脱構築をマイノリティの手前で止めるべきだ)とした。しかし、弱者の言説が強者による支配のテクノロジーと同型である以上、その内部で同様の支配-被支配関係を作りだしてしまうという批判にうまく答えることができない。つまり、それが「同質化・ホモ化」に戻らないという保証はどこにあるのか、というわけである。構築主義による本質主義批判に始まったポストコロニアル理論や現代人類学の議論は、このようにいくつかのジレンマを抱えてしまっている。それらのジレンマは、より一般的にいえば、支配のテクノロジーに基づいた「本質化され固定された均質的なカテゴリー」によらない連帯や集合的アイデンティティの形成がはたして可能なのか、可能だとしたらそのような連帯はどのようなものなのかという問題に答えが見出せないことにある。では、カルチュラル・スタディーズは、そのような問題についてどのような議論を行なっているのか、それを見ていくことにしよう。
カルチュラル・スタディーズにおける文化的アイデンティティの議論は、スチュアート・ホールとポール・ギルロイに代表される。そして、その議論の特徴は、一言でいえば、マイノリティのアイデンティティの政治を二つのタイプに分けて、その両方を活用するという点にある。かれらはこの問題について多くの論文を書いているが、ここでは、紙幅の関係から、ホールの「新旧のアイデンティティ、新旧のエスニシティ」(1991年)という論文と、ギルロイの「どこから来たかじゃねえんだよ、どこにいるかなんだ」(1991年)という論文を取り上げよう。
ホールは、まず、疎外され周縁化されたローカルの人々が自分たちを周縁化するその全体社会に対抗して表舞台に出るためには、防衛的な集合的アイデンティティを形成する必要があったという。そのような対抗的な反応をホールは「アイデンティティの政治T」と名づけている。そして、イギリスにおいてその全体の巨大な政治空間が生み出したアイデンティティは、「ブラック」というカテゴリーだったという。ブラックというカテゴリーは1970年代の反人種主義闘争においてきわめて重要であり、さまざまな社会的・文化的背景をもった人々、すなわちカリブの島々、東アフリカ、パキスタン、バングラデシュ、インド各地からの移民たちが皆ブラックというアイデンティティをもったのだと述べている。ホールは、その時期の敵はエスニシティという概念に根拠をもつ「多文化主義」であったという。多文化主義は、エキゾチシズムでしかないとホールは言う。それは、エキゾチックなエスニック料理、音楽、衣装をまとって集うが誰も人種主義については語らない「インターナショナルの夕べ」のようなものだというわけである。
ホールは、このブラックという「本質主義」的な概念にもとづく対抗的なアイデンティティの政治による闘争の時期は過ぎ去ったのではない、という。その社会が、さまざまな黒人や第三世界の人びとに対して人種主義的な仕方でかかわりをもとうとする限り、そうした闘争はつづいていると述べる。けれども、そのような「アイデンティティの政治T」だけを語ることもできないとホールはいう。なぜなら、ブラックというアイデンティティは、他の問題、その概念の内部の多様性にかかわる問題を黙殺することもあるからである。つまり、アジアからの移民たちは、彼ら自身に特有の経験を黙らせることになるし、さらに有色のアジア系の人びとだけではなく、黒人たちのなかにもブラックという単一のアイデンティティによっては、自分の経験を語ることができない人びとがいたし(その一例は下層の黒人たちであり、彼らの経験は同じ階級に属する下層白人労働者のほうに近いものだった)、ブラックというアイデンティティが他のアイデンティティを沈黙させる例として、ブラックという単一で排他的な概念をそのまま使うことが黒人女性に対する黒人男性の権威を再編成してしまうということが挙げられる。ようするに、「アイデンティティの政治T」は、その排他的なカテゴリー内部における差異の拡がりや多様性を抑圧してしまう危険性があるというわけである。
そこで、ホールは、黒人の経験、黒人のコミュニティという流動的で多様なアイデンティティを捉えるためには、「差異による生きたアイデンティティの政治」というもう一つの政治学が必要だと述べる。そのような政治学について、ホールはつぎのようにいう。「私たちは皆、多重の社会的アイデンティティをもっているのであって、唯一つのアイデンティティをもっているのではないことを認める政治学である。すなわち、私たちはつねにさまざまなカテゴリーによって複雑に構成され、それらのカテゴリーは諸々の対立のなかで成り立っている。そしてそれらによって私たちは社会的に周縁、従属といった位置に多重的に位置づけられるが、その位置づけは一様な形で作用するのではない。同様にそれは、その帰属意識の多様性によって人々を組織しようとするローカルなものの対抗政治学が、相互の位置関係による闘争とならざるをえないことを認めることである」[ホール 1999: 88]。
ホールは、このようなローカルなものの闘争をグラムシのいう「陣地戦」という概念を借りて表している。それは、「アイデンティティの政治T」が全体社会の巨大な政治空間における闘争(これはグラムシのいう正面攻撃による「機動戦」に当たることになろう)とは違って、何ら保証がないという困難さをともなう。「帰属意識が変化、移行するので、それらは外部の政治的、経済的な力を受けたり、いろいろ異なった形で表現されたりすることもある」ので、誰も計算ができないような闘争である。「そのアイデンティティのなかに刻み込まれたような政治的保証というものはまったくない」。ホールは、このような政治学は、「もちろん、不測の事態を考慮して、つまり、不測の事態に直面したまま政治学を行なっているため、そうしたアイデンティティは固定的ではなく、矛盾することが多く、相互に横断しており、また多重のアイデンティティによって、私たちはさまざまな時点で異なって位置づけられる傾向があることを理解すべきである」が、「私の考えでは、ローカルなものが唯一自分たちの思い通りになる政治ゲームである」という。ホールは、別の論文(「文化的アイデンティティとディアスポラ」)で、このようなアイデンティティの政治を、「歴史と文化の言説の内部で創られるアイデンティフィケーションの地点、アイデンティフィケーションや縫合の不安定な地点、すなわち本質ではなく、一つの「位置どりpositioning)」による、「ポジショナリーの政治」と呼んでいる。
ホールのいう、この「差異のアイデンティティの政治」、「ポジショナリーの政治」は、構築主義(反本質主義)ないし脱構築派が「アイデンティティの政治」を批判して唱えている多重的なアイデンティティの戯れの政治に近いようにみえる。実際、ホールも「差異のアイデンティティの政治」を説明するとき、よくデリダの「差延」概念に言及するし、バーバも引用している。しかし、ポストモダニズム的な脱構築派と異なるのは、第一に「アイデンティティの政治T」を批判せずに受け容れている点である(これは、逆にいえば、反・反本質主義者、戦略的本質主義者とは違って、本質主義的な言説にそのまま回帰することもしないということでもある)。そして、第二に、「ポジショナリーの政治」が、小さなローカルなものの政治である、つまり、ローカルなコミュニティにおいて功を奏する政治学だとしている点である。ホールが差異の生きたアイデンティティの政治を述べるとき、よくデリダを引用すると述べたが、「新旧のアイデンティティ、新旧のエスニシティ」の中では、デリダの「差延」について触れたあと、つぎのように言っている。
ギルロイは、黒人たちの「アイデンティティの政治」について、ホールと似たような区別を、その政治学の目的に注目して、「約束履行(成就)fulfilment の政治学」と「変容transfigurationの政治学」の二つのタイプに分けている(この用語はギルロイがセイラ・ベンハビブから借りたものである)。約束履行の政治学とは、「来るべき社会では、今日の社会が果たせない社会的・政治的約束を実現できるという考え」であり、「ブルジョア的市民社会が己のレトリックに忠実であることを要求」する政治学である。他方、変容の政治学は、別の空間的・時間的広がりをもっていて、「解釈や抵抗をともにする人びとの人種的な共同体の内側、かつその集団とかつてのその抑圧者との間における、質的に新しい欲望や社会関係や共同性の様態の出現に強調点を置いている」[ギルロイ
1997: 179, Gilroy 1993: 134]。そして、約束履行の政治学は、「自分自身の流儀に従ってではあるが、西洋の規定する合理性のゲームを行なうことに同意している。それゆえ、記号、言語使用、テクストに関するものを消化するための解釈学的志向を余儀なくされる」[ギルロイ
1997: 180, Gilroy 1993: 135]。それに対して、変容の政治学は、「奴隷監督官の鼻先で創造されたために、意図的に分かりにくい形に変えられている」が、「反復不可能なものを反復し、提示不可能なものを提示しようと苦闘しながら、荘厳なもの(the
sublime)を求めて奮闘する。その異なった解釈学的焦点ゆえに、模倣的で、演劇的で、パフォーマティヴな志向をもたざるをえない」[ギルロイ 1997:
180, Gilroy 1993: 135]ものとされる。
ギルロイも、ホールと同様、その間に緊張関係があるこの二つの政治学は、黒人ディアスポラのヴァナキュラーな諸文化のなかで密接に結びついていると述べて、その両方がともに必要なのだという。そして、ギルロイも、モダニティの概念に内在的な諸問題を暴露する「変容の政治学」が、流動的な共同体において、質的に新しい関係性や連帯の出現をもたらすものということを強調している。
本質主義と反本質主義の両方に異なる場を与えて接合する、このようなホールやギルロイの「やりかた」は、「あれも・これも」という「恥知らずの折衷主義」と称されることもあるが、この「やりかた」こそ、生活の場での黒人たちによる文化創造の「やりかた」に彼らが学んだものであり、それ自体、近代システムや近代知に抵抗するやりかたであるといえる。二つのタイプの「アイデンティティの政治」を範列的に並べてともにストックに入れること、そして、場面に応じて臨機応変に一つのタイプから別のタイプへと移ること、それは、植民地化されて、「他者の法、自分には疎遠なエコノミーの支配する場所」で生活せざるをえない人びとの生き抜く術なのである。
そして、そのような「折衷」が、戦略的本質主義のように同質化に戻らず、また脱構築派のように異質化の罠にも陥らないのは、近代的合理性からみれば矛盾した政治学どうしが並列されることで、「アイデンティティの政治T」の合理性も、変容するからにほかならない。それは、全体を支配する原理から、ある特定の時間や空間においてのみはたらく、生活に即した原理と変容している。また、その折衷の「やりかた」がローカルな、〈顔〉のある関係性の延長による想像のスタイルで創られる(流動的な)「共同体」においてなされることによって、「異質化」――すなわち、アイデンティティの「多重化」――は自由で無限の抽象的な空間で行なう知のゲームではなく、生活の場におけるさまざまな関係性の雑種性に即したものとなり、さらにその関係性を多重的・多声的なものへと変えていくものとなるからなのである。
階級や民族に規定されている生活世界としての共同体の「文化」ないし文化的アイデンティティの自律性と独自性が、その「やりかた」にしかないと考えることは、それが支配的システムに「植民地化」されているにもかかわらず、自律性や独自性を保持していることを認めるとともに、実体としての自律性や独自性を否定するものでもある。そこでは、共同体もまた実体的な自律性も独自性もないが、全体的な近代のシステムに植民地化されてもなお、自律的で独自性を保持する関係性や共同性をもつものとなり、近代的なシステムへの抵抗の基盤ともなる。その抵抗とは、共同体の実体的な自律性や固有性を維持することによるものではなく(そのような自律性などそもそもなかった)、ブリコラージュないしド・セルトーのいう戦術を用いて、ローカルな生活の場において、押し付けられた単一的・単声的なシステムを多重的・多声的なものへと変容させることを意味する。
文化人類学とカルチュラル・スタディーズの用いる民族誌的方法が意味をもつのは、それが、そのようなローカルな生活の場における日常的な実践と、それによる「変容」を見ていく唯一の方法だからである。アメリカや日本に移入されたカルチュラル・スタディーズには、この「民族誌的方法」によって「変容を促すローカルな文化の創造」に注目するという志向が欠けているようにみえる。しかし、そこにこそ、文化人類学とカルチュラル・スタディーズが新しい文化研究に貢献できるメリットがあるのではないか。
(1)『実践カルチュラル・スタディーズ:ソニーウォークマンの戦略』大修館書店[ゲイ他 2000]や『映画でわかるカルチュラル・スタディーズ』フィルムアート社[フレチェロウ 2001]が翻訳出版されている。
(2)英国の「ニューレフト」については、リン・チュンの『イギリスのニューレフト』[チュン 1999]を参照されたい。
(3)アーノルドからスクルーティニー派へという伝統とカルチュラル・スタディーズの関係については、グレアム・ターナー[ターナー 1999:58-59]および吉見俊哉[吉見 2000:5-7]を参照。
(4)そのことは、1988年に出版された『現代思想を読む事典』(講談社現代新書)にも、1989年に出された『コンサイス20世紀思想事典』(三省堂)にも、「カルチュラル・スタディーズ」という項目がなく、1997年に出た『コンサイス20世紀思想事典
第2版』には「カルチュラル・スタディーズ」という項目が登場してくることにも現れている。また、スチュアート・ホールも、日本では最初は1980年代にマス・コミュニケーション研究ないしメディア研究の記号論的な流れとして、ジョン・フィスクやデイヴィット・モーリーらとともに紹介されていた。たとえば、1991年にフィスクとジョン・ハートレーの『テレビを〈読む〉』[フィスク/ハートレー 1991]が翻訳・出版されたが、その訳者あとがきにも、記号論的視座という紹介はあるが、カルチュラル・スタディーズという語は出てこない。「カルチュラル・スタディーズ」という全体像が日本に紹介されたのは、おそらくアメリカ合衆国で1990年にその全体像が紹介されたからであり、合衆国経由のブームだったといえるだろう。合衆国におけるカルチュラル・スタディーズの紹介のうち、1990年にイリノイ大学で開かれた国際シンポジウム「カルチュラル・スタディーズの現在と未来」が最も大規模なもので、各国からおよそ900人の研究者が参加した。その成果は、ローレンス・グロスバーグ、ポーラ・トレクラー、ケアリー・ネルソンの編集した“Cultural
Studies”という本[Grossberg et al. 1992]として出版されている。この本が日本でカルチュラル・スタディーズの全体像を認識させるきっかけとなったのではないかと思う。
アーノルド、M.
1965 『教養と無秩序』岩波書店(岩波文庫)
ウィリアムズ、レイモンド
2002 『完訳 キーワード辞典』椎名美智ほか訳、平凡社
ウィリス、ポール
1996 『ハマータウンの野郎ども』熊沢誠/山田潤訳、筑摩書房(ちくま学芸文庫)
上野俊哉/毛利嘉孝
2000 『カルチュラル・スタディーズ入門』筑摩書房(ちくま新書)
2002 『実践カルチュラル・スタディーズ』筑摩書房(ちくま新書)
ギルロイ、ポール
1997 「どこから来たかじゃねえんだよ、どこにいるかなんだ」藤永泰政訳、『現代思想』25-11:170-187.
ゲイ、ポール・ドゥ他
2000 『実践カルチュラル・スタディーズ:ソニーウォークマンの戦略』暮沢剛巳訳、大修館書店
サイード、エドワード・W
1989 『オリエンタリズム』今沢紀子訳、平凡社
サルダー、ジャウディン/ボリス・ヴァン・ルーン
2002 『Introducingカルチュラル・スタディーズ』毛利嘉孝/小野俊彦訳、作品社
タイラー、エドワード
1962 『原始文化』比屋根安定訳、誠信書房
ターナー、グレアム
1999 『カルチュラル・スタディーズ入門』溝上由紀ほか訳、作品社
チュン、L.
1999 『イギリスのニューレフト』彩流社
ド・セルトー、M
1987 『日常的実践のポイエティーク』山田登世子訳、国文社
花田達郎/吉見俊哉/C・スパークス編
1999 『カルチュラル・スタディーズとの対話』新曜社
フィスク、ジョン/ジョン・ハートレー
1991 『テレビを〈読む〉』池内六郎訳、未来社
フレチェロウ、カーラ
2001 『映画でわかるカルチュラル・スタディーズ』ポップカルチャー研究会訳、フィルムアート社
ヘブディジ、ディック
1986 『サブカルチャー――スタイルの意味するもの』山口淑子訳、未来社
ホガート、リチャード
1974 『読み書き能力の効用』香内三郎訳、晶文社
ホール、スチュアート
1998 「文化的アイデンティティとディアスポラ」小笠原博毅訳、『現代思想』26-4:90-103.
1999 「新旧のアイデンティティ、新旧のエスニシティ」A・D・キング編『文化とグローバル化』山中弘ほか訳、玉川大学出版部、67-104頁
ホルクハイマー、M/T・アドルノ
1990 『啓蒙の弁証法』徳永恂訳、岩波書店
本橋哲也
2002 『カルチュラル・スタディーズへの招待』大修館書店
吉見俊哉
2000 『カルチュラル・スタディーズ』岩波書店
吉見俊哉編
2001 『知の教科書・カルチュラル・スタディーズ』講談社選書メチエ
1994 The Location of Culture. Routledge.
Centre for Comtempolary Cultural
Studies (CCCS)
1982 The Empire
Strikes Back: Race and racism in 70s Britain. Routledge.
Clifford, James
1988 The Predicament of Culture: Twentieth-Century
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Gilroy, Paul
1993 Small Acts:
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