
2007年5月30日に刊行された
阿部年晴・小田亮・近藤英俊編『呪術化するモダニティ:現代アフリカの宗教的実践から』風響社
の紹介を兼ねて、「構成」と「まえがき」の原稿を載せておきます。
『呪術化するモダニティ:現代アフリカの宗教的実践から』風響社
構成
まえがき
プロローグ 瞬間を生きる個の謎、謎としての現代アフリカ 近藤英俊
第一部 呪術とモダニティ、その理論的検討
妖術と近代:三つの陥穽と新たな展望 浜本満
E-Pを読み直す:オカルトエコノミー論を越えて 出口顕
呪術・憑依・ブリコラージュ:真正性の水準とアイデンティティ 小田亮
第二部 ポストモダンの宗教的実践、そのリアリティ
妖術表象と近代国家の構図:妖術というキアスム 菊池滋夫
神をつくる:ベナン南西部における伝統医の活動への一考察 田中正隆
グローバリゼーションとしてのペンテコステ運動:タンザニアのキリスト教徒たち 小泉真理
<歴史>を営む:南アフリカのグリクワ独立教会における<歴史>の共有 海野るみ
エピローグ 後背地から… 阿部年晴
あとがき
まえがき
本書の目的は、呪術・宗教とモダニティ(近代)の関係を再考することにあるが、具体的には副題にあるように、現代アフリカ諸社会の呪術と宗教を扱っている。アフリカの呪術や宗教がいったい現代の日本に暮らす私たちと何の関係があるのかというのが、正直な反応だろう。しかし、20世紀末にグローバル化されたネオリベラリズムは、アフリカと日本社会がまさに同時代を生きていることをますます如実に示していくように思われる。正確に言えば、現代のアフリカ諸社会に暮らす人々の直面してきた問題、たとえば社会の流動化や格差の増大といった問題が、現代の日本社会に暮らしている私たち自身のものともなってきたということがいえよう。というのも、アフリカ諸社会は、すでに1980年代に、アメリカの意向を汲んだIMFの主導による「構造調整」という名の下に、ネオリベラリズムを押し付けられていたからであり、日本社会もそれに追いつき始めたというわけだからである。つまり、ようやく、アフリカの経験が現代の日本社会の諸問題を考察する上で大いに参考になるということに気づきやすくなったということである。
本書のいくつかの論考が批判的に紹介・検討しているジーン・コマロフとジョン・L・コマロフの「千年紀資本主義」論によれば、ネオリベラリズムによる社会の変容は、現代社会の呪術と宗教の変容に関して、大きな影響を与えている。ジーン・コマロフとジョン・L・コマロフ夫妻は、『千年紀資本主義とネオリベラリズムの文化』(Millennial Capitalism and the Culture of Neoliberalism, 2000)という論文集の序論で、グローバル化されたネオリベラリズムの市場経済が、世界中で増加しているオカルト現象の要因になっているという。ネオリベラリズムの下で加速している新資本主義をコマロフ夫妻は「千年紀資本主義」と呼び、その特徴として、富の蓄積の基盤を生産ではなく株や証券の売買などの投機的取引に置いており、成功すれば巨万の富を得られるが失敗のリスクも大きいというカジノ的性格があること、グローバル化による資本と労働の移動の加速化の結果、若い男性の雇用状況が世界的に悪化したこと、雇用の流動化により、資本と労働が長期的に一つの工場や一つの地域で向き合うことがなくなった結果、階級意識が低下し、労働力が生身の人間であるという認識が希薄化したこと、個人が自由に商品を選択できる消費者としてのみ規定されることなどを挙げている。
千年紀資本主義は、想像を絶する富を蓄積する個人を生み出す一方、他の個人の仕事を一瞬にして奪う。ローカルな社会に生きる人々にしてみれば、そのようなグローバル化した市場経済が見えないものであるため、人知の及ばぬところで自分たちの命運が左右されているように感じられる。このような魔術的影響をもつ千年紀資本主義が、先進国でのオカルト的ビジネスの隆盛から、アフリカでの妖術信仰の増加、ロシアの新興宗教や呪術の流行、そしてブラジル生まれのユニバーサル教会にいたるまでのオカルトの温床となっているという。オカルトこそ、急速な富の蓄積とその結果の格差社会の到来や、雇用状況の悪化を説明してくれるからである。
コマロフ夫妻の「千年紀資本主義」論についての批判的検討は、本書のプロローグの近藤英俊論文や、第一部「呪術とモダニティ、その理論的検討」の浜本満論文、出口顯論文、小田亮論文を参照していただきたい。本書所収の各論文に詳しい紹介や批判的検討があるのに、まえがきの冒頭で紹介するという屋上屋を重ねたのは、現代の日本社会とアフリカ諸社会とが同じような経験や問題に出会っていることを強調するためである。すなわち、本書の第二部「ポストモダンの宗教的実践、そのリアリティ」に所収されている菊地滋夫論文、田中正隆論文、小泉真理論文、海野るみ論文において扱われている現代のアフリカ諸社会の宗教的実践や呪術的・宗教的想像力が、現代の日本における宗教的実践やオカルト的想像力と直接つながっていることを、まず分かってもらいたかったというわけである。
けれども、本書のもくろみは、もちろん、たんに日本社会とアフリカ諸社会の同時代性を示すということではない。呪術や宗教とモダニティとの絡み合いをめぐる本書全体の目的はもうすこし野心的でかつ広大な視野をもっている。ひとつには、本書の諸論考は、呪術や宗教と近代との結びつきが、最近よく見られる「再魔術化(再呪術化)」といった用語が示唆しているような、千年紀資本主義に特徴付けられる後期近代に始まったのではなく、「脱魔術化(脱呪術化)」の時代といわれる前期近代から深く結びついており、さらにその結びつきは近代というものが始まる以前からの呪術のもつ性格と連続している可能性を示している。モダニティと呪術との絡み合いは、前期近代の世俗化と脱呪術化の過程では宗教と呪術を排除・抑圧していたが、後期近代になって社会の秩序が流動化し、人びとのアイデンティティも不安定になったために宗教や呪術が復活したという話で終わるわけではない。ローカルな場から見たモダニティと呪術的宗教の親和性と異和性を、モダニティを超えた長期的な視野で考察する必要があるだろう。
モダニティ、とりわけ後期近代は、「個人化」と「脱埋め込み(disembedding)」の全面的な進行として社会学的に特徴づけられている。「個人化」とは、ウルリッヒ・ベックによれば、それまでの歴史的連続性の断絶が生じて、階級や家族や職場、地域共同体などでの互酬的な社会関係から「解放」された個人が、「ますます自分自身に注意を向け、あらゆるリスクや矛盾に満ちた労働市場における自分個人の運命に注意を向けるようになった」(U・ベック『危険社会』法政大学出版局、1998年)ということを指す。それは、生活のあらゆる局面が、個人の自己選択の対象となるということ、そのために前期近代では比較的安定していた階級や家族や職業集団、地域のさまざまなアソシエーションの価値が低下して秩序が流動化するとともに、個人は、自己選択を行う場である市場にますます依存していく過程である。また、第一部の浜本論文でも使われているアンソニー・ギデンズの「脱埋め込み」という用語は、社会関係や文化的要素が、直接的な相互関係からなるローカルな文脈から「切り離されて」、時空間の無限の拡がりのなかで再構築されることを指している(A・ギデンズ『近代とはいかなる時代か?』而立書房、1993年)。そして、「個人化」ということと「脱埋め込み」ということは、呪術(とりわけ妖術)の本質的な特徴とも重なっているのである。
プロローグの近藤論文と、第一部の浜本論文、出口論文、小田論文、そしてエピローグの阿部年晴論文では、そのように特徴づけられるモダニティと呪術との絡み合いおよびその変化についての理論的視座が検討されている。それらの論文では、コマロフ夫妻の千年紀資本主義論のような、グローバルな千年紀資本主義による社会の流動性や貧富の格差の拡大を呪術現象の増加に結びつけて、前者を後者の原因とするような機能主義的誤り(近藤論文)や「コンテクスト化の誤謬」(浜本論文)を避けつつ、近代と呪術の絡み合いを呪術現象の本質的理解へとつなげようとしている。
たとえば、近藤論文では、もともと呪術には「個と瞬間の謎」、すなわち個別的な出来事の偶発性を処理するという本質があると指摘されていると同時に、起業家性といった個の突出と、呪術との親和性=連続性も指摘されている。つまり、呪術は、部分的・一時的な「個人化」と「脱埋め込み」によって生じる「個と瞬間」の偶発性を再びローカルな文脈に位置づけなおすだけではなく、そもそもそのような偶発性を社会にもたらすものだということが示唆されているように思える。それは、そのような部分的・一時的な「個人化」と「脱埋め込み」として存在していた呪術や宗教が、全面的な「個人化」と「脱埋め込み」が進行する後期近代のネオリベラリズム文化と、ローカルな場でどのように絡み合っているのかという、本書全体の問題につながっていく。
第一部の浜本論文では、現実を構成する想像(および「非現実」を構成するファンタジー的想像)に対して、現実と非現実の境界上に働く「オカルト的想像」が妖術をめぐる語りや実践を支えるものとして捉えられている。その上で、ここでも、妖術を支えるこのオカルト的想像が、千年紀資本主義のもつ投機性やギャンブル性、「脱埋め込み化」と親和性をもっていることが指摘され、千年紀資本主義による脱埋め込みがローカルな現実構成的想像のあり方に打撃を加えている状況において、オカルト的想像が解放されることが示されている。
近藤論文との絡みでいえば、本書全体の目的と重なる問題、すなわち、もともとギャンブルにも似た自己選択による「個人化」や「脱埋め込み」と親和性をもちながら、ローカルな実践としての妖術現象を生産しつつ現実構成的想像を裏から支えていた呪術=オカルト的想像が、それまでのローカルな現実構成的想像の破綻という状況で、はたして新しいローカルな現実構成的想像を生み出していくのかという興味深い問題が、読者の前に出されているように思われる。いいかえれば、もし呪術が、一時的・部分的な「脱埋め込み」を行うと同時に、新しいローカルな現実構成的想像を生みだして、いわばそこに「再埋め込み」をするものだったとしたら、千年紀資本主義という新しい状況で「時空の無限の拡がりにおいて再構成する」新しい呪術=オカルト的想像は、そのような従来の呪術とどう違っているのかという、歴史的な連続性・非連続性の問題がそこから提起されよう。
つぎの出口論文では、コマロフ夫妻やコマロフ夫妻が援用するグラックマンの議論が、アフリカ社会は閉ざされた変化のない社会であり、それが植民地支配や資本主義によって一挙に変動したという前提だと批判し、それに対して、エヴァンズ=プリチャードは、植民地化以前のアフリカ諸社会を孤立した島ではなく、複数の社会が絶えず交流し合い、文化の借用がふつうに行われていた異種混淆的な社会として捉えていたと指摘する。そして、植民地化以降、異種混淆の文化から閉鎖的・同質的な社会へと、コマロフ夫妻のいうこととは逆の変化を辿っているのではないかと述べ、近代化以降、とりわけ今日の新しい妖術現象を異質性の排除による閉鎖性と同質性の形成と結びつけている。ここでも、近代以前の呪術が、「顕在化した個のモード」を再び「地」に埋め込むものとしつつ、それが「異種混淆性や脱領土化(脱埋め込み)と関連づけられるが、出口論文において、歴史的な非連続性の線が引かれているのは、近代と近代以前の間であり、その非連続にともなって妖術もまた非連続になっていることが示唆されている。
また、小田論文では、呪術と近代の絡み合いにおける非連続線は、レヴィ=ストロースのいう「真正性の水準」によって引かれている。妖術は、災いによって露わになった個の代替不可能性と反復不能性を再び「埋め込む」物語りであるが、真正な社会では、それが顔のある他者との関係の中に埋め込まれるのに対して、貨幣や行政機構といったメディアによってつながる非真正な社会では、若者一般や「ゾンビ」など、抽象的な集合的アイデンティティとの関係に埋め込まれるとする。
このように、第一部の三つの論文では、それぞれ「後期近代」「近代化」「真正性の水準」というように、呪術とモダニティの絡み合いの変化に関して、非連続線の位置と意味は異なっているが、そのずれを総合的に検討してみることは、呪術とモダニティの絡み合いから呪術の本質的な理解へとつなげるうえで有益なものとなるだろう。
そのような絡み合いとその非連続・連続に関して、近代を超えた最も長い視野で捉えようとする論考が、エピローグの阿部論文である。そこでは、「後背地」という視点から、近代を含む文明が捉えられている。「後背地」にはつねに大規模な社会としての文明を生みだすベクトルが存在しているが、文明を生みだした後も、「後背地」自体は、文明に同化することなく人類文化の基層的部分を担うものとして存続してきた。しかし、近代文明は、それまでの文明とは違い、自己の論理を「後背地」にまで一元的に貫徹しようとし、「後背地」を食いつぶす特異な文明だと指摘する。そして、そのような近代を超えた長い視野から見た、近代と妖術などの呪術の絡み合いが、西ケニア・ルオ社会というローカルな文脈で考察される。ルオのジュオクという語は妖術と訳すことができるが、ある種の根元的な力や異常事態の意味でも使われ、妖術を超える意味の広がりをもつ。阿部論文では、このような多義的な総体を「ジュオク複合」と呼ぶ。ルオでは、ジュオクの持ち主である妖術者を、度を越した利己心や並外れた個人的能力によって特徴づけている。つまり、「突出した個」のイメージが妖術者に投影される一方で、ルオでは妖術のせいだというかわりに「人の仕業」だということがあるように、普通の人間もまた妖術者だとされる。いいかえればつまり、突出した個を異常なものと排除するだけではなく、普通の人とその関係の中に埋め込んでいるのである。そして、近代という「後背地」を食いつぶしていく特異な文明と、いわば「後背地」の中の都市文明的・近代文明的な要素(「個人化」と「脱埋め込み」)を内包する「ジュオク複合」との出会いと絡み合いは、その相互照射によって、「妖術としての近代」(「呪術化したモダニティ」)とともに、新しい「ジュオク複合」を生みだすのではないかという可能性が示唆されている。
この阿部論文は、近代を超えた人類史という長い視野と、ローカルな文脈における妖術複合という視野を合わせることで、妖術複合を生みだす「後背地」がたんなる世界システムの周辺地域ではなく、むしろ文明のほうがそこからのベクトルによって生みだされては消えていく島のようなものであることを、そして近代文明もまた「後背地」における妖術複合から花開いたものであることを示唆している。また、そのような妖術複合による個の突出の「再埋め込み」は、たんに再びローカルな文脈に埋め込むというより、つねに自らと対立する文明を生みだす「後背地」に、新たな文明を生みだす「脱埋め込み」のベクトルを保持させていくものとして捉えうるのではないのか、そして、近代文明の一元的な貫徹は、たしかにローカルな妖術複合を変えていくけれども、近代のなかに巣食っている妖術複合のほうが姿を変えながらも近代文明そのものよりはるかに長く生き残っていくのではないかということまで考えさせてくれる。
本書の中心をなしている第二部の諸論文でも、この呪術・宗教とモダニティの絡み合いないしは「脱埋め込み」と「再埋め込み」との絡み合いが、ローカルの具体的な事例を通して考察されている。それぞれの民族誌的な面白さは実際に読んで味わっていただくとして、これまでの「個人化」と「脱埋め込み」という視点から、それぞれの論文を位置づけておこう。菊地論文と田中論文では、近代の「脱埋め込み」のメカニズムの中核をなす近代国家および市場経済と呪術の絡み合いが、ローカルな文脈において考察されている。菊地論文では、具体的な事例を通して、呪術の近代化と近代国家の呪術化が同時に起こっているという絡み合い(キアスム的な様相)が示され、田中論文では、呪術や宗教と市場経済が不可分に結びついており、グローバルな資本主義の浸透以前に長い市場経済の歴史をもつ西アフリカのローカルな市場経済の基本的性格に呪術が埋め込まれていたことが示唆されている。そして、両論文とも、グローバルなシステムとしての近代国家や資本主義がローカルな文脈においては前期近代からすでに呪術化されていたことを示しているといえよう。
つづく小泉論文と海野論文では、キリスト教というグローバルな宗教がローカルな文脈でどのように受容されているかを考察しているが、興味深いことに、その受容の仕方はちょうど対照的なものとなっている。すなわち、小泉論文が扱うタンザニアの新ペンテコステ派は、テレビなどのメディアを使いながら、地域を超えた「脱ローカル化」された共同体へと人びとを再編成しようとしているのに対して、海野論文の取り上げる南アフリカのグリクワという民族集団のグリクワ独立教会は、独特の「歴史」の捉え方を通して、出自の異なるさまざまな人びとをローカルな共同体へと編成していく。また、タンザニアの新ペンテコステ派が、空間的なグローバルな連帯意識を強調しているのに対して、グリクワ独立教会は、いわば「生きられた時間」による開かれた「歴史」概念によって、「コイサン」系の先住民との連帯を自分たちの歴史と結び付けて作り出している。しかし、この対照的な受容をローカルな文脈でみていくとき、そこには共通性もみられると思われるが、その点は読者の解釈にゆだねたい。
以上、本書で議論されている「呪術とモダニティの絡み合い」を、近代を超えた連続と非連続という視点と、「個人化」と「脱埋め込み」というモダニティの特徴から見てきた。けれども、本書に所収されている諸論文は、また別の視点からも読むことができよう。ただ、「個人化」「脱埋め込み」といった視点から読んでも、あるいはたとえば脱ローカルと再ローカルの絡み合いといった「グローカル化」といった別の視点でよんでも、本書が、人びとの実践に対する理解は、その実践のなされているローカルで具体的な関係の場から見るという視点と、近代(一つの文明)を超えた長期の連続性と非連続性を見るという視点をともにそなえてはじめて可能になるという人類学的探究の有効性を示しているという点は変わらないだろう。そして、そのような人類学的視点は、現代日本社会の直面しているさまざまな問題を考えるうえでもますます必要とされてくるはずである。
(小田 亮)