トップページに戻る
講義・講演・口頭発表の目次ページに戻る


*2008年の6〜7月での三つの研究会(6月17日「成城大学物語研究会」、6月28日「成城大学民俗学研究所共同研究プロジェクト「真正性という視点からの新たな『共同体』論の構」、7月12日民博共同研究会「ソシアル概念の再検討」)での口頭発表原稿を一つにして加筆したものです。


共同体と代替不可能性について


小田 亮

はじめに

 この10年間ぐらい、人類学における「共同体」概念の脱構築/再構築を研究テーマのひとつにしていますが、今回の発表の目的は、共同体概念の脱構築/再構築を現代社会のイデオロギーとしてのネオリベラリズム文化批判と結びつけることにあります。それは、具体的には、バタイユの影響の下で展開されたジャン=リュック・ナンシーの「共同体」論以降の新しい「共同体」論の系譜を、ハイデガー以来の〈個〉の「代替不可能性」(交換不可能性・単独性)の議論と結びつけるという試みになります。そして、そのような共同体概念の脱構築/再構築のためには、レヴィ=ストロースのいう「真正性の水準」という区別の導入が重要となることを示したいと思います。
まず確認しておきたいのは、「共同体」という概念が、近代のオリエンタリズムと同型の思考によって創られたものだということです。オリエンタリズムとは、近代の支配的な主体を自律的で能動的で合理的なものとして創りあげるためのものです。ようするに、「規範や思考を共有し、同質化された同一性に基づく閉鎖的な共同体」という概念は、19世紀に、ちょうど他律的で序動的で非合理的な東洋という概念が西洋という主体の対立概念として作られたように、自律的で能動的で合理的な主体からなる「社会」という概念の対立概念として創り出されたものです。
 「共同体」という概念は、「東洋的専制」や「未開」社会といった概念と同じく、近代に創出されたものであり、オリエンタリズムに囚われた概念であることが明白であるにもかかわらず、現在になっても、近代以前の過去のもの、克服すべきもの、失われたものとしてのみ扱われ、真剣に考察されてこなかったといえます。そのような共同体概念を創りだした社会学では、いまだに「均質的な共同体が解体して個人が自立し多様性をもつ社会が登場した」といった、19世紀と変わることのない言説が横行していますし、人類学でも、そのような概念とは異なっている現実の共同体を記述する枠組みが考えられることはなかったようにみえます。それが、共同体概念の脱構築と同時に、現実を記述する新たな再構築が必要であるゆえんです。


1.ネオリベラリズムとポストモダン思想

 ネオリベラリズムの文化と共同体の概念の脱構築/再構築との関連について述べる前に、ネオリベラリズムとは何かを明らかにしておく必要があるでしょう。ネオリベラリズムには設計された教義もなく創始者もいません。さらにネオリベラリストと明確に呼べる人たちがいるわけでもありません。ロナルド・レーガンやマーガレット・サッチャーはあらかじめネオリベラリストであったわけではなく、仕方なく徹底した経済自由主義(市場原理主義と批判的に呼ばれる)と「小さな政府」政策を採用し、もともとの新保守主義的信条とそれが相俟ってネオリベラリズムの先駆者となったわけです。では、経済自由主義を唱えたミルトン・フリードマンや、規制緩和の必要性を説いたアルフレッド・カーンらの経済学者はネオリベラリストだったのかというと、それもちょっと違うでしょう。
 にもかかわらず、ネオリベラリズムが現代社会の強力なイデオロギーとなっていることも確かです。アメリカ合衆国の民主党のクリントン政権や、アンソニー・ギデンズの「第三の道」を採用したイギリスのブレア政権も、文化としてのネオリベラリズム体制に包摂されてしまったことでもそれは明らかでしょう。その場合、ネオリベラリズム体制とは何を指すかというと、グローバルな資本蓄積にとって最大限に有利になるように、グローバル資本主義の「流動性」を、規制緩和や短期的でフレキシブルな資本蓄積と雇用形態によって推進させ、経済的不平等を拡大・再生産して階級権力を再確立するという基本政策を採ると同時に、その経済的不平等を、自己実現の称揚と自己選択=自己責任からなる「個人化」のイデオロギーによって正当化するとともに、それらによって生ずる液状化やプレカリテ(不安定さ)を利用して、ナショナリティやローカリティや宗教・近代家族の価値などの偽の「恒常性」を生産する体制というものです。
 このようなイデオロギーとしてのネオリベラリズムの思想的原泉がポストモダン思想(ポスト構造主義)にあると指摘されています。たとえば、ボルタンスキーとシアペロは、デリダやドゥルーズらの影響で成立したポストモダニズムによる真正性の概念への攻撃(真正性と非真正性の対立の脱構築)やフレキシビリティの称揚が、1990年代初頭のネオリベラリズムの勝利の一因であると指摘しています[Boltanski & Chiapello 2005]。また、ネグリとハートも、「同一性」や「ヒエラルキー」を批判し、「差異化」や「流動性」や「異種混交性」を唱えることが現代の〈帝国〉的支配の機能や実践に合致すると述べて、つぎのように言っています。

 さまざまなポストモダニズム理論家の多くは、近代的主権の論理を明快に拒絶しているが、彼らは概して、そこからの私たちの政治的解放の性質についてはきわめて混乱した状態にある。……彼らが自分たちの理論を政治的解放のプロジェクトの一部として提示するとき、言いかえるならばそれは、ポストモダニストたちはいまだに古い敵の影に向かって戦いを挑んでいるということなのだ。この敵とはつまり〈啓蒙〉であり、いやむしろじっさいのところは主権の近代的諸形態であって、主権が差異や多様性を、〈同〉と〈他〉のあいだの単一の選択肢へと二項対立的に還元してしまうというそのことである。けれども、境界を横断する異種混交性や差異の自由な戯れを肯定することは、権力がもっぱら本質的な同一性や二分法的分割や固定的な対立を通じて階層秩序を維持している文脈においてのみ、解放的なのである。現代世界における権力の構造と論理は、ポストモダニズムの差異の政治という「解放の」武器に対しては完全に免疫をもっている。じっさい、〈帝国〉もまた、主権の近代的諸形態をお払い箱にすることや、境界を横断して差異を戯れさせることに熱心なのである。つまり、ポストモダニズムの差異の政治は、最良の意図をもちながらも、〈帝国〉的支配の機能や実践に対しては無効であるばかりか、それらと合致し、それらを支えるものにさえなりうるのである。[ネグリ/ハート 2003:189]

 ただし、ネグリとハートは、同時に、新資本主義による過剰な流動性への反動から、「ローカルなもの」に依拠して、新資本主義やグローバル化に対抗しようとする近年の動きも批判しています。

 しかしながら、私たちは、そのようにローカルなものに固執する立場を擁護する何人かの者たちの精神を高く評価し、それに敬意を表するのにはやぶさかではないが、いまやその立場は間違ったものであり、有害なものでもあると主張したい。その立場が間違ったものであるのは、何よりもまず、問題の提起の仕方がまずいからだ。問題を特徴づけるさいに、グローバルなものとローカルなものという誤った二項対立にもとづく問題設定が、多くの場合なされている。その問題設定では、グローバルなものは均質化や差異のないアイデンティティをもたらすが、それに対してローカルなものは異質性や差異を保持している、と想定されている。往々にして、そうした議論には、ローカルなものに属する諸々の差異はある意味で自然なものであるといった前提や、少なくともそれらの差異の起源は疑問の余地のないものであるといった前提が、暗に含まれているのである。(中略)それよりもむしろ問題として取り上げる必要があるのは、まさにローカル性の生産、すなわち、ローカルなものとして理解される諸々の差異とアイデンティティを創出し、再創出している社会的諸機械なのである。ローカル性に属する諸々の差異は、あらかじめ存在するものでもなければ自然なものでもなく、むしろ、ある生産体制の効果にほかならない。それと同様にグローバル性は、文化的、政治的、または経済的な均質化という見地から理解されるべきものではない。そうではなくて、ローカル化と同じようにグローバル化もまた、アイデンティティと差異を同時に生産する体制として、つまり、均質化と異質化の体制として理解されるべきものなのだ。(中略)いずれにしても、資本と〈帝国〉のグローバルな流れの外部に存在し、また、そのような流れから保護されているようなローカルなアイデンティティを(再)確立することができると主張するのは、間違った振舞いなのだ。
おまけに、グローバリゼーションへの抵抗とローカル性の防衛というこの左翼的戦略は、有害なものでもある。なぜなら、多くの場合、ローカルなアイデンティティとして立ち現われるものは、自律的なものでも自己決定的なものでもなく、じっさいには資本主義的な〈帝国〉機械の発展を助長し、支援するものであるからだ。〈帝国〉機械が作動させるグローバル化や脱領土化は、じつのところ、ローカル化や再領土化に対立するものではなく、むしろ差異化と同一化からなる可動的かつ変調的な回路を働かせるものなのだ。ローカルな抵抗という戦略は敵を誤認し、それによって敵を隠蔽してしまうのである。私たちは諸々の関係のグローバル化そのものに反対するつもりは毛頭ない。むしろ敵として指し示されるべきものは、私たちが〈帝国〉と呼ぶ、グローバルな諸関係からなる特定の体制にほかならない。[ネグリ/ハート 2003:67-69]

 「ローカルな場所」に依拠した反グローバリゼーションに対するこのネグリとハートの批判の対象には、たとえば、ブルデュー[2000]のネオリベラリズム批判やバウマン[2001]のリキッド・モダニティ論やセネット[1999, 2008]の新資本主義批判なども含まれるでしょう。また、つぎに触れる「恒常性」に依拠する抵抗や宮台真司の「過剰な流動性」への批判[宮台 2004]にも部分的には当てはまります。けれども、ネグリとハートの批判が見落としているものがあります。つまり、グローバル化とともに生産される「ローカルなもの」は異質なもの・多様性として生産されるが、それは「特殊なもの」であり、代替可能なものでしかないこと、それとは異なる「単独なもの」「代替不可能なもの」に基づく「ローカルなもの」がありうることが見落とされているのです。この代替可能な特殊性/代替不可能な単独性の区別の欠如のために、ネグリとハートの唱える、〈帝国〉ないしはグローバル資本主義の過剰な流動性にマルチチュードの流動性で対抗するという戦略におけるマルチチュードのおかれた状況は、流動性によるプレカリテそのものとなっているようにみえます。
 それに対して、樫村愛子さんは、ネオリベラリズムを「貧しい流動性(再帰性)」と「貧しい恒常性」の結合として捉えたうえで、反動的な貧しい恒常性に対しては、資本主義の流動性(再帰性)の力を肯定し、貧しい流動性に対しては貧しくない恒常性で対抗する戦略を立てています。樫村さんは、「社会の流動化が進むことで、社会の「恒常性」が奪われ、長期的展望が成り立たないこと――。これが現在の私たちに突きつけられている問題」だと述べて、「流動化に対する不安から反動的な政治制度に回帰したり、個人と社会の変化の自由を否定したりする、今日の復古的な社会的「気分」を批判すること――。すなわち、社会の解体と流動化を進める「再帰化(自分自身を意識的に対象化し、メタレヴェルから反省的視点に立って自己を再構築していくこと。自律性をもって新しさを自ら生み出していくこと)」をあくまで肯定し、「恒常性」と「再帰性」という衝突する問題を両立させること」が課題だといいます。つまり、「貧しい再帰性が破壊しようとしている恒常性を守ることであり、しかし再帰性を排除するような貧しい恒常性(原理主義)も退けることである」と述べています[樫村 2007:298]。
 しかし、この「貧しい再帰性=流動性」が破壊しようとする恒常性を守ると同時に、再帰性を排除するような「貧しい恒常性(原理主義)」も退けるという戦略が有効であるためには、「貧しい再帰性(流動性)」とそうではない「再帰性=流動性」との区別、および「貧しい恒常性」とそうではない「恒常性」の区別がつかなくてはなりませんが、それらの区別について、樫村さんはほとんど何も述べていません。この区別がつかなければ、流動性や再帰性や自己決定やフレキシビリティや越境や脱アイデンティティという言葉が、たとえば「労働形態や雇用のフレキシビリティ」として支配の道具として組み入れられているように、支配的イデオロギーが人びとに押し付ける言葉になっており、それによるプレカリテこそが「貧しい恒常性」としての反動を生み出している現在では、流動性=再帰性の肯定は、ネオリベラリズムの思想に従属することにしかならなくなるでしょう。
 また、貧しい恒常性とそうではない恒常性の区別をどのようにするのかといった問題以外にも問題はあります。樫村さんは、「スティグレールのいうように、他者の多様性を受容することは、人のかけがえのない存在や経験の単独性を受容することと通底している」[樫村 2007:311]と書いているが、都市を多様性や民族や階級などの異なる異質な他者との出会いの空間とするということと、「かけがえのない存在」や「代替不可能性」を受容することとは別のことです。代替不可能性は「個性」や「多様性」とは無縁のもので(それは比較可能で代替可能な「特殊性」であって代替不可能性=単独性ではない)、比較可能な属性や能力やアイデンティティや個性とは無関係にある唯一無二性を意味しています。つまり、都市を比較可能な差異による多様性の場とすることと、人のかけがえのない存在や経験の単独性を受容する場とすることとは別のことなのです。ここには、異質化や多様性や「個性」といった「特殊性」(一般性-特殊性の軸)と、代替不可能性との混同が見られます。
 ベルナール・スティグレール自身は、現在の産業社会における多様性は市場における商品の多様性でしかなく、そのような市場のハイパーセグメント化による多様性は、単独なもの(特異なものsingulier)を特殊なもの(paticulier)に変えてしまうと述べています[スティグレール 2006:160]。すなわち、代替不可能なもの・交換不可能なものを、代替可能なもの・交換可能なものに変えてしまうというわけです。そして、その結果、「私」と「われわれ」の共-個体化が「みんなon」と混同されてしまうと述べています。
 この単独性と特殊性の区別については、ジル・ドゥルーズも『差異と反復』において指摘しています。ドゥルーズは、「一般性−特殊性−交換可能性」と「反復−単独性−交換不可能性」とをつぎのように対比させています。

 一般性は、類似の質的レヴェルと等価の量的レヴェルの、二つの大きなレヴェルを提示している。もろもろの循環と、もろもろの等しさとが、その象徴である。だが、いずれにせよ、一般性は、どの項も他の項と交換可能であり、他の項に置換しうるという視点を表現している。もろもろの個別的なものの交換ないし置換が、一般性に対応するわたしたちの行動の定義である。……これとは逆に、わたしたちには、反復は代理されえない〔かけがえのない〕ものに対してのみ必然的で根拠ある行動になるということがよくわかる。行動としての、かつ視点としての反復は、交換不可能な、置換不可能な或る特異性に関わる。反映、反響、分身、魂は、類似ないし等価の領域には属していない。そして一卵性双生児といえども、互いに置換されえないように、自分の魂を交換しあうことはできないのである。交換が一般性[一般性−特殊性]の指標だとすれば、盗みと贈与が反復[特異性(単独性)(サンギュラリテ)]の指標である。したがって、反復と一般性のあいだには、経済的な差異があることになる。[ドゥルーズ 2007:20-21]

 ここで区別されている交換可能性(代替可能性)と交換不可能性(代替不可能性)との区別についてはまた後でみていきたいと思いますが、その前に、代替不可能性の議論と「もうひとつ別の共同体」の議論にとって重要となる、レヴィ=ストロースの「真正性の水準」についてみていきたいと思います。その導入によって、樫村さんが明確にできなかった「貧しい恒常性」とそうではない「恒常性」の区別を、「真正性の水準」の区別とそれに附随する代替不可能性と代替可能性の区別によって明確にしたいと思っています。


2.真正性の水準と〈関係〉の複雑性/複数性

 レヴィ=ストロースは、『構造人類学』に収められた論文「社会科学における人類学の位置、および人類学の教育が提起する諸問題」(初出は1954年)のなかで、将来おそらく人類学から社会科学へのもっとも重要な貢献は、彼が「真正性の水準」と呼んでいる社会の二つの様相の区別、すなわち、人びととの生きた直接的な接触による小規模な「真正(オーセンティック)な社会」の様式と、より近代になって出現した、印刷物や放送メディアによる大規模な、「非真正な(まがいものの)社会」の様式との根本的な区別にあると判断されるだろうと述べています。

 われわれの他人との関係は、折にふれての、断片的なもの以外、もはや、あの包括的な経験、つまり、一人の人間が他の一人によって具体的に理解されるということにもとづいてはいない。われわれの人間関係は、かなりの部分、書かれた資料を通しての間接的な再構成にもとづいている。われわれが過去に結びあわされるのは、もはや、物語り師、司祭、賢者、故老などの人々との生きた接触を意味する口頭伝承によるのではなく、図書館につまった本によるのであり、それらの本を通して、鑑識力が骨折ってその著者の表情を再現するのである。現在の面では、われわれは、同時代人たちの圧倒的な大部分と、あらゆる種類の媒介――書類、行政機構――によって連絡しているのであるが、これらの媒介は、多分、途方もなくわれわれの接触を拡大してはいるが、しかし同時に、われわれの接触に、まがいものの性格を付与しているのである。[レヴィ=ストロース 1972:407-408]

 レヴィ=ストロースは、そのような区別は、文字やメディアの発明による巨大な革命を否定的に捉えるためではなく、間接的なコミュニケーション(本・写真・新聞・放送)に起因している自律性の喪失を認識するための区別であり、3万人の人間は、500人の人間と同じやり方では社会を構成できないということを指摘するためだといいます。
この真正性の水準という区別はほとんど無視されてきましたが、その後も、レヴィ=ストロースは、すくなくとも2回この「真正性の水準」に触れています。2回目は、1961年に出されたシャルボニエとの対話の中で、そして3回目は、1986年に行われた日本での講演においてです。「3万人の人間は、500人の人間と同じやり方では社会を構成できない」という単純なものにみえるこの区別を、最初に書かれてから30年以上も言い続けているわけで、かなり本気です。
この区別が無視されてきたのは、あまりにも単純・素朴に見えること以外に、すでに述べたように、ポストモダン思想のなかで「真正性」という概念が批判されてきたことがあります。しかし、「まがいものの」社会の存在様式と「真正な」社会の存在様式の区別といっても、前者のみが虚構で、後者は実体だといっているのではありません。レヴィ=ストロースが線を引いているのは、「国民」などのように、間接的コミュニケーションによって結ばれている大規模な共同体の非真正性と、個別の顔のみえる直接的で固有の関係の延長上にある小規模なローカル諸社会の真正さ(オーセンティシティ)とのあいだです。つまり、真正さ(オーセンティシティ)の水準によって区別されているのは、「法」や「貨幣」や「メディア」に媒介された合理的かつ間接的なコミュニケーションと、身体的な相互性を含む〈顔〉のみえる関係、すなわち具体的な人と人の〈あいだ〉における非合理性を含んでいるコミュニケーションとの違いなのです。
 とはいっても、レヴィ=ストロースの「真正性の水準」における直接的コミュニケーションと間接的コミュニケーションの区別に、アイリス・M・ヤングのいう「対面的な関係の特権化」や「直接性の幻想」を見ることはできるかもしれません。ヤングはつぎのように述べています。

 共同体の理論家たちは、対面的な関係を、それが直接的であると彼らがみなしているという理由で特権化している。直接的な関係には、ルソー主義者の夢のなかで渇望されている純粋さと安心があるゆえに、直接性は媒介性より良いものである。そこでは、お互いにあけっぴろげで、同じ時間と空間に純粋に共在し、触れるほどに親密で、互いに見合うことを邪魔するものがあいだに何もないのだ。
 けれども、そのような主体同士の直接的な共在の理想は、形而上学的な幻想である。二者間の対面的関係でさえ、声や身振り、空間や時間に媒介されている。その相互行為に第三者が入ってきたとたんに、最初の二者間の関係がその第三者に媒介される可能性も出てくる。人々の関係が他者のことばと行為によって媒介されることは、社会性の基本条件である。ある社会の豊かさや創造性や多様性や潜在能力は、時間と距離を超えて人びとを結びつけるメディアの範囲と手段が拡大するにつれて増大する。しかし、時間と距離が大きくなればなるほど、人と人の間にいる他者の数も多くなるのである。[Young 1990:233]

 けれども、レヴィ=ストロースも、あらゆる関係が媒介されたものだということは認めるでしょう。真正な社会の様式とは、ロマン主義的なノスタルジーによって理想化された、純粋な民族文化や真正な不変の伝統をもつ、無垢で牧歌的な共同体ではありません。「真正性の水準」の区別は、文字やメディアの発明による巨大な革命を否定的に捉えるためのものではなく、本・写真・新聞・放送など、メディアに媒介された間接的なコミュニケーションの形に起因している自律性の喪失を認識するための区別であるとレヴィ=ストロースは言っています。それはいいかえれば、人びとの関係が何によって媒介されているかによって、複雑性の縮減のされ方が変わってくるということを述べているのです。ヤングが言っている、メディアの範囲が拡大するにつれて増大するという多様性は、複雑性を縮減した抽象的なコミュニケーション手段によって媒介されているもので、比較可能で代替可能なものの多様性でしかないというわけです。
レヴィ=ストロースは、この真正性の水準という区別が近代社会になっても現存していると述べて、つぎのように言っています。

 この区別が、近代社会の中にも残存しまたはあらわれている。真正の関係の様相への、しだいに増大しつつある人類学の関心を説明しそれに基礎を与える一方で、この区別はまた、人類学の探索の限界をも示すのである。なぜなら、メラネシアの一部族とフランスの一村落は――大まかにいって――同じ型の社会的実体であるが、それらより大きい単位に重点をおいて考察をすすめれば、このことは真実ではなくなるからである。人類学者としてだけ仕事をしようとするかぎりでの、国民性研究の唱導者たちの誤りも、そこに由来している。なぜなら、社会生活の諸形態を、無意識のうちに、それ以上還元されないものとして一様化してしまうことによって、彼らは、ただ二つの結果に到達することができるだけだからである。つまり、最悪の偏見を正当化するか、もっとも空疎な抽象に肉づけをするか、である。[レヴィ=ストロース 1972:409-410]

ここで重要なことは、まず真正な社会が、マスメディアや法や官僚制といったものに媒介された近代の非真正な社会に包摂されながらも、近隣や職場の関係として存在しているという指摘です。そしてもう一つ、そのような真正な関係を「国民(ネイション)」という非真正な社会のレヴェルにまで敷衍してしまうと、「最悪の偏見を正当化するか、もっとも空疎な抽象に肉づけをするか」という結果になるだけだという指摘です。
また、レヴィ=ストロースは、シャルボニエとの対談では、つぎのように言っています。

 町会や村会の運営と、国会の運営との間には、程度の差だけではなく質的な差があることは周知の事実です。前者の場合、特に或るイデオロギー的内容に基づいて決議がなされるというわけではなく、ピエールとかジャックとかいう個人の考え、とりわけその具体的な人柄を知ることも、考えを決する基となります。その場合、人々は全体的に、大づかみに、人の行動を把握することができます。思想もたしかに問題にはなりますが、しかしそれらの思想は小さな共同体の一人一人の成員の身の上話や家庭事情や職業的活動によって解釈されうるものです。こんなことはみな、或る人数以上の人口の社会では不可能になります。私がどこかで「真正性の水準」と呼んだのはこのことを指しているのです。[シャルボニエ 1970:55-56 訳語の「信憑性の水準」は「真正性の水準」に変更]

 小さな共同体=真正な社会であれば、人々は、一人一人の成員の具体的な人柄や行動を「全体的に、大づかみに」把握することができるということは、逆にいえば、一人ひとりの人柄や行動はけっして、階級や職業や世代といった比較可能で代替可能な属性や属性の束――「何者かwhat」――に還元することはできず、「全体的に、大づかみに」しか把握できない「複雑性」をもつということです。つまり、真正な社会においては、一人ひとりが、比較不可能で代替不可能な「誰かwho」としての複雑性をもって現れるのです。
階級や職業や世代といった比較可能で代替可能な属性や属性の束からなる「何者かwhat」ということを「役割」と言い換えてもいいでしょう。ここで言われていることは、真正な社会においては、人は「役割」や「役割の束」には還元できないということになります。もちろん、真正な社会においても、社会関係は代替可能な役割連関によって成り立っています。しかし、そこでの〈顔〉のある関係には、役割連関に還元できない「複雑性」(「過剰性」ないし「複数性」と言い換えてもよい)があるということです。より正確にいえば、そのような複雑性・過剰性が他者の〈顔〉として現れるというわけです。西川勝さんが『ためらいの看護』という本の中で述べている「患者」と「病者」のちがいは、役割と〈顔〉について考えるうえでのヒントになるでしょう。西川さんはつぎのように言います。

 ぼくが白衣を着て病院で出会う人は患者です。患者は医療システムの中で、与えられ名づけられた身分です。ある透析患者さんが入院することになり、病棟に申し送りをしたとき、「糖尿で透析か、かなわん患者やね」ということばが看護婦から返ってきました。まだ一度もその患者さんと会ったこともないのにです。看護婦には、相手をまず患者として医学的な視線でみる傾向が強いのです。看護が理解し分析し、操作する対象としての患者です。
 ぼくが病気になっても、まだ患者ではありません。医療者の前ではじめて患者になるわけです。……患者と病者の違いはなにか。病者は医療システムに組み込まれていないということです。病者は、疾患を持つ人、所有する人ではありません。そのように病とその人を切り離して考えることができないのです。その人を抜きにしては病を語れない。……病はその人の在り方として捉えることができ、疾患のように非個性的ではありません。看護に携わる中で感じる喜びは、このような病者との関係のうちにあります。病者というより、あなたと呼びたくなるような関係です。「あなたと出会ってよかった」。これが看護の喜びです。自分が何かをしてあげられたということではありません。患者−看護師という役割を越えたところに看護の意味があるという思いがあります。[西川 2007:94-95]

 つまり、「患者」が、医療システムにおける代替可能な「役割」であるのに対して、「病者」は代替不可能な人を意味しています。つまり、患者は、白衣に身を包んだ医療者や看護者という入れ替え可能な役割との連関において、他の患者と入れ替え可能な〈顔〉のない役割に還元されます。「糖尿で透析か、かなわん患者やね」という看護婦の言葉は、「まだ一度もその患者さんと会ったこともないのに」というより、一度も会っておらず〈顔〉のない関係だからこそ出てくる言葉なのでしょう。しかし、看護に携わって〈顔〉をあわせていくうちに、「患者」は、複雑性をもつ「病者」になっていき、「あなた」と呼びたくなるような代替不可能な個になっていきます。
 このように、真正な社会においては、代替可能な役割に代替不可能な関係が重ね合わせられていきます。つまり、真正な社会では、〈関係〉は、代替不可能な関係と代替可能な関係との重ね合わせからなっているのです。それが〈関係〉の複雑性・複数性ということです。


3.〈個〉の代替不可能性の喪失という言説

 ネオリベラリズムのイデオロギーが浸透している現代社会において、雇用の柔軟化などに見られるように、個人が入れ替え可能な存在として扱われるにつれて、〈個〉のかけがえのなさ、代替不可能性の重要性が指摘されるようになっています。つまり、ネオリベラリズムにおける過剰な流動性による代替不可能性(かけがえのなさ、唯一無二性)の喪失に対して、「非-場所」[Aug? 1995]ではない「ローカルな場所」や「個」の代替不可能性や恒常性を守ることが大事だという主張がなされています[ex. 上田 2005、宮台 2004、リッツア 2005]。けれども、これらの主張が、ネオリベラリズムそのものが生産する「偽の恒常性」(樫村さんのいう「貧しい恒常性」)にからめ取られないためには、代替不可能性の議論を深める必要があるでしょう(上田さんはその議論を展開していないし、宮台さんは比較可能なものと混同している)。そして、そのためにこそ、レヴィ=ストロースのいう真正性の水準の区別が肝要になってきます。
 すでに、現在の産業社会における多様性は市場における商品の多様性において個の代替不可能性(単独性)が代替可能性(特殊性)に変えられているというスティグレール[2006, 2007]の議論に触れましたが、そのような議論は、ハイデガーの『存在と時間』で展開されていました。
ハイデガーは、「現存在」の非本来的あり方と本来的あり方を区別していますが、前者は近代社会の道具的あり方によって生まれた代替可能なあり方であり、後者は代替不可能な個を意味しています。歴史性をもつ環境世界に投げ出されたものとしての現存在は「共存在」としてのみ存在するが、メディアや交通機関に媒介された日常的な公共的空間においては、「道具的連関」(役割連関)に憑かれて、比較可能・代替可能・交換可能的な非本来的なあり方に陥り、「誰でもないひと=世人das mann」という非本来的な相互共存在となるとしています。

 ひとが、他者たちとともに、他者たちのために、また他者たちに逆らってつかみとったものを配慮的に気遣うことのうちに、他者たちとの区別を気遣うことが不断にもとづいているのだが、そうした気遣いは、他者たちとの区別を均すためだけでもあれば、おのれに固有な現存在が――他者たちにくらべて立ちおくれているので――他者たちへと態度をとる関係のうちでその遅れを取りもどそうとすることでもあれば、現存在が、他者たちに対して優位を保ちながら、他者たちを押えつけることをねらうことでもある。相互共存在は――それ自身には秘匿されてはいるものの――こうした懸隔を気遣うことによって安らぎをえられなくさせられている。……
だが、共存在に属しているこうした懸隔性のうちには、現存在が、日常的な相互共存在としては、他者たちに隷属しているということが、ひそんでいる。現存在自身が存在しているのではなく、他者たちが現存在から存在を奪取してしまっているのである。他者たちの意向が現存在の日常的な諸存在可能性を意のままにしているのである。そうした他者たちは、そのさい、特定の他者たちなのではない。その反対に、あらゆる他者がそうした他者たちを代表しうるのである。決定的なのは、他者たちの支配が、目立ってはおらず、共存在としての現存在によって思いがけなくすでに引き受けられているということだけである。ひと自身が、他者たち属していて、他者たちの威力を強化している。「他者たち」とひとが名づけるのは、おのれ自身が本質上その他者たちに帰属していることを隠蔽するためであるのだが、そうした他者たちこそ、日常的な相互共存在においては、差しあたってたいてい「現にそこに存在している」当のものなのである。誰かであるのは、このひとでもなければ、あのひとでもなく、そのひと自身でもなく、幾人かのひとでもなければ、またすべての人々の総計でもない。「誰か」は、中性的なものであり、つまり世人[das mann]なのである。
 さきに示されたことなのだが、最も身近な環境世界のうちでは、公共的な「環境世界」がそのつどすでに道具的に存在しており、共に配慮的に気遣われている。公共的な交通機関を使用するときや、報道機関(新聞)を利用するときは、あらゆる他者が他者そのものと同然なのである。このような相互共存在は、おのれに固有な現存在を、「他者たち」という存在様式のうちへと完全に分解してしまうのだが、しかもそれは、他者たちがたがいの異なりや際立ちという点でさらにいっそう消えうせてしまうほどである。このように目立たず確認しがたいことのうちで、世人はおのれの本来的な独裁権をふるう。われわれは、ひとが楽しむとおりに楽しみ興ずる。われわれが文学や芸術を読んだり見たり判断したりするのも、ひとが見たり判断したりするとおりにする。だが、われわれが「群衆」から身を退くのも、ひとが身を退くとおりにするのであり、われわれは、ひとが憤慨するものに「憤慨する」のである。[ハイデガー 2003:T326-328]

 そして、ハイデガーは、「誰でもない世人」が公共的空間を構成しているとして、つぎのように続けています。

 懸隔性、平均性、均質化は、世人の存在の仕方として、われわれが「公共性」として識別しているものを構成している。この公共性は、すべての世界解釈と現存在解釈とを差しあたって規整しており、すべてのことにおいておのれの主張が正しいと押しとおす。しかもこのことは、「諸事物」へと態度をとる際立った第一次的な或る存在関係を根拠としているわけではない、つまり、現存在が表立って我がものとした見通しを公共性が意のままにしているからではない。そうではなくて、それは「諸事象へ」と立ち入らないことを根拠としているのである。つまり公共性が、本質的なものと真正なものとのすべての区別に対して、無感覚であるからなのである。[ハイデガー 2003:T329]

 ハイデガーのいう「公共性」がレヴィ=ストロースのいう「非真正な社会」に対応しているのをみるのはたやすいだろう。けれども、ハイデガーは、現存在が共存在として不可避的に非本来性へと頽落していくことを分析したあと、「死の代替不可能性」と「不安」による非本来的な「ひと」であることの拒否と代替不可能な現存在の本来的あり方への目覚めを模索するのですが、すでに「公共性」の空間における道具的連関――〈顔〉のない役割連関――に包摂されてしまっているとしているため、それと区別された真正な社会の水準を見出すことができないのです。それゆえ、結局、ハイデガーは、道具的連関に憑かれた相互共存在から脱した本来的な共存在を「民族共同体」に見出してしまいます。

 現存在が先駆しつつおのれのうちで死を力強いものにするとき、現存在は、死に向かって自由でありつつ、おのれの有限的自由という固有の圧倒的な力においておのれを了解するのである。こうして、選択を選びとったということのうちにしかそのつど「存在」していないこの有限的自由において、おのれ自身に引き渡されていることの無力を引き受け、開示された状況のさまざまの偶然に対して明察をもつにいたるのである。だが、運命的な現存在は、世界内存在として、本質上他者たちと共なる共存在において実存するかぎり、そうした現存在の生起は、共生起であって、全共同運命として規定される。この全共同運命でもってわれわれが表示するのは、共同体の、つまり民族の生起なのである。[ハイデガー 2003:V191]

 ハイデガーの「共存在」は、ネガティヴな道具的連関に憑かれた代替可能な存在か、「民族」かのどちらかとなってしまいます。しかし、レヴィ=ストロースの真正性の水準からすれば、代替可能な役割連関からなる公共性も民族共同体も、ともに非真正な社会なのです。このことは、代替不可能性について着目するときには、真正性の水準の区別が不可欠であることを示しているでしょう。


4.代替不可能性と「もう一つ別の共同体」

 さて、真正な社会としての小さな共同体でも、社会的関係(たとえば親族関係)は基本的には代替可能な役割関係としてできています。では、真正な社会としての共同体と、個の代替不可能性との関係はどうなっているのか、それを考えるために、渡辺公三さんの「森と器」[渡辺 1990]という論文での議論をみていきたいと思います。渡辺さんは、病いや死という受苦の経験は人間の各自の「代替不可能性」を露呈するが、露呈した〈個〉の代替不可能性は、代替可能な役割関係を崩壊させてしまうと言っています。

 人は病むとき、他の者に代わってもらうことはできない。……たとえどれほど身近な者でも、どれほど思いをよせる者でも、他者の病いに代わることはできない。これはあまりに自明のことだが、誰もがこの自明のことに躓かずにはいない。病いによって露呈するこの各自の存在の「代替不可能性」は、平穏な日常世界を成り立たせる、家族的な親疎の距離や、感情的な遠近を一挙に崩壊させる。むしろ、一人の病い、苦痛によって、他者たちの日常の社会空間の位相は、ほとんど変わることがないということをいやおうなく確かめることで、私たちの内部で社会を受け取り支えていた何かが崩れ、ふいにある空虚を引き受けることを強いられるというべきかもしれない。
 病いの経験が、病いの軽重にかかわらず、つねにいくぶんか死を喚起するのは、病いが昂進してやがて死に至ることもありうるという時間的連続性に沿った観念の動きであるよりも、病いと死が、私という〈個〉の「代替不可能性」の経験として同じかたちをもっているからではないのか。[渡辺 1990:3-4]

 つまり、病いや死の経験は、個人が他の人々との代替不可能で比較不可能な存在であることを暴露し、他者との代替可能性と比較不可能性の上に成り立つ役割関係や社会関係を成立不可能にしてしまうというわけです。それでは、真正な社会としての小さな共同体においても、個の代替不可能性は排除されているのでしょうか。べつのいいかたをすれば、代替不可能な〈関係〉による共同体は成立不可能なのでしょうか。
たしかに、渡辺さんがいうように、個の代替不可能性ないしは単独性は、日常的な役割関係を崩壊させます。そして、真正な社会としての共同体も、代替可能な役割関係なしには維持できません。けれども、すでに、真正な社会は、代替可能で比較可能な役割関係のみから成り立っているのではなく、それを超えた過剰性・複雑性・複数性を帯びていると述べてきました。いいかえれば、そこには、もともと代替可能な役割と代替不可能な関係が混在しています。
 喪の儀礼や、病いをもたらしたエイジェントをつきとめて対処する災因論のシステムは、露呈した個の代替不可能性を再び代替可能な役割からなる社会関係のなかに再埋め込みするシステムであるといえます。重要なことは、〈顔〉のある関係の過剰性または複数性を利用したこの再埋め込みによって、まったく代替可能な役割関係のみの関係になるわけではなく、いわば代替不可能性と代替可能性とが「重ね書き」されていくという点にあります。
 役割連関を崩壊させてしまう「代替不可能な個」による共同体はいかにして形成されるのかという「問い」への答えは、真正な社会においては同じ関係のうちに代替不可能性が代替可能性の上に「重ね書き」されていくという、関係の複数性・過剰性にあるというわけです。
 代替可能な役割関係からなる共同体に代替不可能な関係が「重ね書き」されているかのような共同体の関係のあり方は、ジャン=リュック・ナンシー『無為の共同体』[ナンシー 2001]以降の新たな共同体論、大杉高司さんの言い方[大杉 2001]を借りれば、「非同一性による共同体」論にもつながっていきます。その系譜には、モーリス・ブランショ『明かしえぬ共同体』[ブランショ 1997]、アルフォンソ・リンギス『何も共有していない者たちの共同体』[リンギス 2006]、ロベルト・エスポジト『コムニタス』[cf. 岡田 2008]、大杉高司「非同一性による共同性へ/において」[大杉 2001]、田崎英明『無能な者たちの共同体』[田崎 2007]などが含まれます。
ここでは、リンギスの「もう一つ別の共同体」の議論を引用しておきましょう。

 合理的共同体――個々の明晰な精神はその共通の言説の代表者でしかなく、各人の努力と熱情はその共同の事業のなかに吸収されて脱個人化してしまう共同体――の下に、もう一つ別の共同体が存在している。それは、自分が属する共同体のアイデンティティをもち、自分自身の性質を生みだす者にたいして、その人と何も共有していない人、すなわちすなわち見知らぬ人に、自分自身を曝すように求める共同体である。
このもう一つ別の共同体は、たんに合理的共同体に吸収されるのではない。それは幾度となく姿を現わし、合理的共同体の分身として、あるいはその影として、合理的共同体を攪乱するのである。[リンギス 2006:27]

 情報交換のなかで形づくられる合理的共同体は、抽象的実体を、つまり観念化された指示物の観念化された記号を交換している。コミュニケーションとは、相互に無関係で対立する信号――すなわち雑音(ノイズ)――のなかからメッセージを抽出することである。……しかし、それでもなお、メッセージに内在する雑音、すなわちメッセージを伝える声の不透明さが存在する。さらに、私たちの声も同時に消さずには沈黙させることができない、世界の背景にある雑音がある。[リンギス 2006:29-30]

 このように、リンギスは、合理的共同体を代替可能・交換可能な主体による情報交換としてのコミュニケーションによって形成されるものとし、それに対して、「もう一つ別の共同体」(「何も共有していない者たちの共同体」)は、そのような役割連関による代替可能な関係の影ないし分身としてあらわれるとしています。「非同一性による共同体」論の系譜では、ナンシーやブランショが典型的ですが、ほとんど現実には「不可能な共同体」として、もう一つ別の共同体が提示されるという傾向がありますが、リンギスは、「もう一つ別の共同体」を、合理的共同体に対する「重ね書き」ないし「透かし彫り」のように浮き上がってくるもの、あるいは「背景」にあるものとしてとらえることによって、現実のものとなっています。
 真正なレヴェルでも非真正なレヴェルでも、社会を成り立たせるには代替可能な役割連関(ハイデガーのいう道具的連関、デュルケームのいう有機的連帯)が必要です。けれども、それだけで成り立っている非真正な社会とは違って、真正な社会においては、代替不可能性・交換不可能性が滲み出てきます。ただし、真正な社会の共同体に代替不可能性・交換不可能性が現れるのは、オリエンタリズム的な共同体概念において考えられているような共同体の閉鎖性によるものではなく、時間的な持続可能性ないしは「持続の期待」によるものです。
 そのことを、岩井克人さんの日本の会社についての分析、とりわけ「組織特殊的な人的資源」[岩井 2003]という概念を援用して示しておきましょう。「組織特殊的な人的資源」とは、「個々の組織のなかでのみ価値をもつ知識や能力」のことで、「たとえば、特定の道具や機械にかんする慣れや、一緒に働いている他の従業員とのチームワーク、長年維持してきた取引相手に関する詳細な情報や、職場内での人間関係の把握や、研究開発プロジェクト参加者同士の専門家としての信頼関係、経営トップの経営構想や経営思想の理解といったもの」[岩井 2003:155-156]です。日本の会社が共同体のようになっていくのは、従業員がこの組織特殊的な人的資源に投資するからだというわけですが、岩井さんは、この資産はとても奇妙な資産だといいます。「なぜならば、それは、それをみずからの頭脳や身体に蓄積しているヒトも含めて、だれも自分のモノとして所有することのできない資産」[岩井 2003:156]だからです。
 日本の会社の従業員が組織特殊的な人的資源に投資するのは、戦後になって大きな会社のあいだで普及した終身雇用と年功賃金のシステムによって、その組織に長期間帰属するという持続が期待されるようになったからです。このような私的所有や交換が不可能な能力や知識は、実際の持続の長さとは関係なく、持続の期待があるところでは蓄積されていきますが、それがないところには生まれません。
 逆にいえば、ハイデガーのいう道具的連関においても、道具や機械というモノとの連関が持続するという期待がある場合は、そのモノやそれが置かれている環境と自分の身体との調整を行います。それは私的な調整ですが、その能力や知識は自分のモノとして所有できません。その道具や機械や環境と切り離すことができないからです。
それは他のヒトとのあいだで作られるチームワークも同様です。野球でいえば、中日ドラゴンズの二遊間を守る荒木選手と井端選手は、それぞれとても優秀な守備能力をもっています。その能力はある意味で自己所有しているもので、他の環境でも発揮されるものです。しかし、二人のコンビネーションから生まれる守備能力は、自分の能力でありながら自分で所有できないものであり、交換不可能なものです。このように、直接的な関係が持続すると期待されるときには、代替可能で交換可能であるはずの道具的連関や役割連関において、交換不可能・代替不可能な関係が作られるのです。
 この私的所有や交換が不可能な能力や知識は、ネオリベラリズムのイデオロギーにおいては無用のものとされます。リチャード・セネットは、現代の新資本主義(ネオリベラリズム時代のグローバル化した市場主義的な資本主義)の特徴を、「ノー・ロングターム」(長期的展望はいらない)というモットーに見ています。セネットは、「ロングターム」という思考が必要とされた要因を市場がかつてなく消費者主導になっていて、消費者が変化を求めているために、企業が毎年同じことを同じ方法で繰り返すことが許されなくなっていることや、「せっかちな資本」が素早い投資リターン(報酬)を求めていることに求めています。その変化に企業が適応するために、「ノー・ロングターム」をモットーとして雇用と組織をフレキシブル化しています。そうなると、働くほうも、今日のアメリカの大学の卒業生は、一生を通じて少なくとも11回転職し、40年間に少なくとも3回はスキルベースを変える可能性があると推計されていることに現れているように、「ノー・ロングターム」の思考を身につける必要があるというわけです[セネット 1999]。この「ノー・ロングターム」の思考によって、交換不可能・代替不可能な関係における私的所有や交換が不可能な能力や知識をつくり出す条件である持続への期待が放棄されているのです。
 このような変化は、セネットの言葉を使えば、前期近代における「生涯変わらぬ道筋で積み重ねた長い物語的な時間体験」がいまや機能しなくなり、「ノー・ロングターム」という原則に集約される否応のない変化の連続が人生や家庭生活における人格の指針に機能不全を起こしていることを意味します。もちろん、交換不可能・代替不可能な関係は、真正な社会の生活の場においては、「存在論的安心」を得るためにも必要ですし、私的所有や交換が不可能な能力や知識は職場においてもけっして無用となったわけではありません。けれども、セネットのいうように、それらを培う社会的絆は、組織の裂け目や断層に少しずつ根を張りながら、長い時間をかけて形作られていくものであり、短期的な契約労働や、課題ごとに作られ、そのつどメンバーも入れ替わる「プロジェクト・チームワーク」中心の現在の短期的な組織では、そのような持続の期待が生まれないのです。
さて、このような私的所有や交換が不可能な能力や知識は、交換されるものではなく、贈与されるものということができるでしょう。たとえば、チームワークとは、互いの能力や知識を相互に贈与交換することです。贈与のひとつの特徴は、「譲渡不可能なものの譲渡」にあり、譲渡されたものは贈り主のモノでも貰い主のモノでもなく、両方とも所有不可能なものです。最初に見てきたように、ドゥルーズは「特殊性−交換可能性」と「単独性−交換不可能性」を、それぞれ「一般性−交換」と「反復−贈与」に対応させていました。また、「何も共有していない共同体」という「もう一つの別の共同体」は贈与と結びつけられています。岡田温司さんは、エスポジトの「コムニタス」論を、つぎのように紹介しています。

 「共同体」はこれまで、帰属や共有、同一性や類似性、といった観点から思考されてきたが、語源的にはむしろその逆の意味であると、エスポジトはいう。ラテン語の「コムニタス」は、「〜とともに」という意味のcum、「贈与や捧げ物」、あるいは「義務や負担」を意味するmunusからなる語で、それゆえ本来は、帰属や所有を意味するというよりもむしろ、わたしがあなたに負うべき何らかの義務を、つまりは潜在的な欠如や不在を表しているという。したがって、その限りにおいて、主体はみずからの主人たりえることはない。「コムニタス」において、主体は、自己同一化の原理を見いだしているのでも、透明なコミュニケーションを享受しているのでもない。むしろ、自己の欠如を構成する、隔たりや空や疎外に向き合っている。他者に贈られるこの主体は、ひるがえって、他者から贈られる主体でもある。要するに、その語源からわかるのは、逆説的にも「コムニタス」には、「共通したものなど何もない」ということなのだ。
 それにもかかわらず、共同体=共同性の概念は、伝統的に、自己同一的な主体のカテゴリーに基礎を求め、それによって守られ練り上げられてきた。エスポジトが批判するのは、まさしくこの点なのである。この伝統的な考え方によると、共同体の主体は、個々の主体の量的な延長とみなされるため、その意味では、個人主義も共同体主義も、同じ主観主義的モデルの相互補完的な二つの顔にほかならないことになる。[岡田 2008:50-51]

 エスポジトが批判するのは、自己同一的な主体がまず先にあり、その後でその主体が自由に「選択」して関係を結んで作られる共同体という見方であり、「集団的な帰属の境界のなかに閉じ込めることで主体を守る」という共同体の見方です。つまり、アイデンティティを与えてくれるものとしての共同体という見方がそこで批判されているのです。そのような目的合理的な共同体ないしアソシエーションこそが、ネオリベラリズムのイデオロギーによって生み出された「偽の恒常性」といえるでしょう。
しかし、そのイデオロギーが突き崩している「存在論的安心」は、集団的な帰属の境界の強化やアイデンティティによっては回復しないでしょう。というのも、「存在論的安心」は、アンソニー・ギデンズ[1993]がいうのとは違って、アイデンティティの連続性によって生まれるのではなく、〈関係〉の代替不可能性によって培われるものだからです(アイデンティティは代替可能で交換可能なものであり、「かけがえのなさ」とは異なります)。そして、その代替不可能性は、いやおうなしに持続する生活の場、真正な社会においてのみ培われるものです。そこでの反復と贈与は、境界を閉じることなく、社会的・物質的な環境とのあいだに代替不可能な関係を結び、それによる存在論的安心を培うのです。非真正な社会での代替可能なアイデンティティや役割関係を、それと混同してしまうところに、ネオリベラリズムのイデオロギーが広まる要因があるといえるでしょう。
グローバルな資本主義とネオリベラリズムのイデオロギーに対抗するには、同じグローバルな流動性や同じ形式化で対抗する戦略とは違って、グローバルな流動性においてたとえ敗北しても、それを飼い馴らす生活の術を培う代替不可能性の場を生みだしていくことのほうが重要となるでしょう。



文献表

岩井克人
 2003 『会社はこれからどうなるのか』平凡社
上田紀行
 2005 『生きる意味』岩波書店
大杉高司
 2001 「非同一性による共同性へ/において」杉島敬志編『人類学的実践の再構築』世界思想社、271-296頁
岡田温司
 2008 『イタリア現代思想への招待』講談社
樫村愛子
 2007 『ネオリベラリズムの精神分析』光文社
ギデンズ、アンソニー
 1993 『近代とはいかなる時代か?』松尾精文・小幡正敏訳、而立書房
スティグレール、ベルナール
 2006 『象徴の貧困』ベルナール・メランベルジェほか訳、新評論
 2007 『愛するということ』ベルナール・メランベルジェほか訳、新評論
セネット、リチャード
 1999 『それでも新資本主義についていくか』斎藤秀正訳、ダイヤモンド社
 2008 『不安な経済/漂流する個人』森田典正訳、大月書店
シャルボニエ、ジョルジュ
 1970 『レヴィ=ストロースとの対話』多田智満子訳、みすず書房
田崎英明
 2007 『無能な者たちの共同体』未来社
ドゥルーズ、ジル
  2007 『差異と反復 上』財津理訳、河出書房新社
ナンシー、ジャン=リュック
 2001 『無為の共同体』西谷修・安原伸一朗訳、以文社
西川 勝
 2007 『ためらいの看護』岩波書店
西谷 修
 2001 「〈分有〉、存在の複数性の思考――あとがきに代えて」ジャン=リュック・ナンシー『無為の共同体』以文社
ネグリ、アントニオ/マイケル・ハート
 2003 『〈帝国〉』水嶋一憲ほか訳、以文社
ハイデガー、マルティン
 2003 『存在と時間 T・U・V』原佑・渡邊二郎訳、中央公論新社
ハーヴェイ、デヴィッド
 2007 『ネオリベラリズムとは何か』本橋哲也訳、青土社
バウマン、ジグムント
 2001 『リキッド・モダニティ』森田典正訳、大月書店
ブランショ、モーリス
 1997 『明かしえぬ共同体』西谷修訳、筑摩書房
ブルデュー、ピエール
 2000 『市場独裁主義批判』加藤晴久訳、藤原書店
宮台真司
 2004 『亜細亜主義の顛末に学べ』実践社
リッツア、ジョージ
 2005 『無のグローバル化』正岡寛司監訳、明石書店
リンギス、アルフォンソ
2006 『何も共有していない者たちの共同体』野谷啓二訳、洛北出版
レヴィ=ストロース、クロード
 1972 『構造人類学』川田順造ほか訳、みすず書房
 2005 『レヴィ=ストロース講義――現代世界と人類学』川田順造・渡辺公三訳、平凡社
レヴィナス、エマニュエル
 2005 『全体性と無限 上・下』熊野純彦訳、岩波書店
渡辺公三
 1990 「森と器」波平恵美子編『病むことの文化』海鳴社

Aug?, Marc
  1995 Non-places: introduction to an anthropology of supermodernity. Verso.
Boltanski, Luc & Eve Chiapello 
  2005 The New Spirit of Capitalism. Verso.
Derrida, Jacques
  1992 Given Time: 1. Counterfeit Maney. University of Chicago Press.
Young, Iris Marion
  1990 Justice and the Politics of Difference. Princeton University Press.

(2008年11月18日更新)