中央線の乗り方 痴漢騒ぎ
電車の華、痴漢の話である。ぼくが今までに痴漢騒ぎに遭遇したのは、幸いというべき
か不運というべきか、一応、四回である。
ぼくは今までに十四年間電車を使っているが、朝に都心へ向かい夜に郊外へ帰る都市近
郊電車を通勤のために使ったのはこの東京日野に住むようになってからの十年間の更にそ
のうちの六年間だけである。
そして痴漢騒ぎに遭遇したのはその六年間の中でであるから、一年半で一回の割合とな
る。これで、頻度としては多いのか少ないのかは分からないが、もっとも、痴漢犯罪とは
直接何も関係のないぼくが一年半で一回遭遇する訳だから何人もその頻度で遭遇している
と考えられ、毎回について被害者だったらたまらないだろうなと思う。
田舎の電車では通勤時間帯であってもそのような不謹慎なことは起こらない。
いずれにしろ他人事とはいうもののあまり気分のいいものではない。
最初に生まれて初めて痴漢騒ぎに遭遇したのは、だから四〜五年前になり、その時の状
況もハッキリとは覚えていないが、確か朝の出勤時の通勤電車内であって、荻窪駅と阿佐
ヶ谷駅の間くらいを走っているところだったと思う。
突然何の前触れもなく若い女性の非難の声が聞こえてき、朝だから眠くてだるくて少し
物憂い気持ちで声のする方を向いたのだが、混んでいたため問題の声の女性とおぼしき人
の姿を目にとめるには至らなかった。
確か、「やめてください」というような月並みな表現でしかも極めて控えめな調子だっ
たと思う。声も小さめで精一杯の勇気を奮ってやっと訴えているという様子が窺えた。
それだけでは痴漢なのかどうか分かる筈がないが、その後で直ぐ男の声で何かぶつぶつ
ぐずぐずと言っている声が聞こえてき、続いて更に周りにいたとおぼしき男性の当の女性
をとりなし加害者とおぼしき男性を非難する静かな低い声が聞こえてきた。
それらの一連の声でのやりとりで、痴漢かな?と感づいた。
がぜん興味深々となったぼくは(いささか不謹慎のそしりは甘んじて受けます)、今度
はもっと努力してそちらのごたごたがあった方を見ようとした。しかしやっぱり混んでい
て見えない。ぼくの周りにいた乗客もみんな声のした方を振り向いてみたが、直接目にと
めることができないのを直ぐに察知して見るのを諦めた人が殆どだった。ぼくも諦めざる
を得なかった。
そうしているうちに電車は阿佐ヶ谷駅(だったと思う)に着いた。乗降客の姿が窓越し
に見える。その時は特に意識していたわけではないが、降りた客の中に加害者とおぼしき
男性の方がいたように見えた。いたように見えたというのは、彼がその加害者であるとい
う確信がなかったというのもあるが、そもそも痴漢騒ぎ自体がぼくの単なる思い過ごしか
も知れないという気持ちもあったからである。
実際に現場を見たわけではないのだから。
しかし、心証的にはあれはまさしく痴漢騒ぎに間違いないのである。その時に加害者と
おぼしき彼をかばうような気持ちが湧いたのは、その、ぼくが見た彼が当の加害者である
という確信がないという後ろめたさのせいだと思う。
ぼくが見たその彼は、年齢にして三十歳後半〜四十歳半ばくらいの服装や身だしなみの
整った比較的礼儀正しそうなごく普通のサラリーマン風の男性だった。
ぼくでなくとも、その彼が痴漢を働いたとはよも思わない、というか思いたくないだろ
う。なぜなら、彼にその罪を背負わせるつもりなら、自分をはじめ殆どの男性にもその可
能性を背負わせなければならくなるからである。
それで、もし本当にその彼が痴漢をしたなら別だが、濡れ衣だとしたらどんなにか無念
な思いを抱いただろうと思い、ぼくも小さな胸を傷めるのであった。
ここまで読んで読者諸兄はあることに気付いた筈である。
そうです。ぼくは一見痴漢の味方ともいうべき言葉を吐いているのです。彼が痴漢でな
いとしたらということをほぼ前提、確定要素、既定の事実等とし、その上で彼の身の上に
起こった不幸を論じようとしているから、必然的に彼を庇う口調になっているのです。
彼が本当に痴漢だったら、そのハッキリした証拠を目の前に見せられたら、このような
庇うような真似は決して致しません。それどころか、人の何倍も強く糾弾するでしょう。
では、彼が痴漢でないと言えるでしょうか。
彼が痴漢でないという証拠もある訳ではありません。もっとも、痴漢でないことを証明
するのは不可能ですから、専ら、痴漢である証拠がないことにより証明されるという、甚
だ不確かな証明手段しかない点を考慮すれば、痴漢でないという証拠の有無はそれを問う
こと自体が意味のないということになります。
してみれば、たとえ痴漢でない証拠がなくとも、痴漢の証拠がない限り、痴漢と見做す
ことは問題というべきです。
痴漢でないということに関してはむしろ心証が証拠に代わるものというべきかも知れま
せん。
しかし、被害者と第三者とは自ずと犯人摘発における着眼点は違います。それは犯人の
側にいるか否かの違いの他に、男性と女性の感覚の違いや犯人の被害者に対する負い目な
どの心理状態を読む目の違いなどによります。これにより、被害者と第三者とが、容疑者
に対して形成される心証が異なってくるのです。
従って、容疑者に対する心証も、被害者と第三者との間では雲泥の差ほども違ってくる
というのが実際のところかも知れません。
しかし、そうなってくるとぼくの方としては自分に非があるかも知れないことを認めざ
るを得なくなり、非常に都合の悪いことになるのです。
それというのも、ぼくは自分の主観で彼の容疑者の無実を半ば信じるような心証を抱き
それをここにこうして書きましたが、それは間違いだったかも知れないからです。
主観と書きましたが、或いは希望的観測と言い換えてもいいかも知れません。彼の容疑
者がごく普通の人だったために、彼に僕を重ねて見ていたところがないと言い切れないか
らです。自分にもあのように魔が差す時があるかも知れない、ということを決して認めた
くないという思いがあるからこそ、彼そのものを無実としてやる必要があるのです。
しかし、冷静に見れば、それは許されないことかも知れません。それを承知の上で、ぼ
くは彼の無実を、僕の心証を信じる結果、信じたいと思うのです。
その結果、ぼくの心証と被害者の心証とは決定的に食い違うこととなったのです。
しかし、結局、いくら心証があるといっても、冷静には何の証拠にもならないのです。
それはぼくにも被害者にも言えることです。とすれば、立場は五分と五分。ぼくは安心し
てぼくの主張を述べることができるというものです。
そこでひとつ考えてみましょう。痴漢をした人は一般的にどういう心理状態か、そして
その直後はどういう態度をとるものなのか。
例えば、たとえは非常に悪いがぼくが痴漢をするとしましょう。その可能性があるとか
ないとかという問題ではなく、痴漢をするものとします。たぶんぼくはどきどきしてはい
ますが、ついふらっとというのではなく、明らかに確信犯的要素をもって問題の行為を行
うだろうと確信します。
そしてその後は、おそらくというのではなく殆ど必ず何食わぬ顔をしていると思います
。
ただ、果してその時の名に食わぬ顔というのが、他人から見てどのように見えるか、そ
れが今度の議論のポイントといえるのではないでしょうか。
ぼくが何か悪いことをして名に食わぬ顔をする時、その悪いことというのが大した悪い
ことでないような悪いことだった場合、殆ど必ず表情や態度に現れるようです。これは、
妻や家族の態度を見ておおよそ想像したことです。
ただ、本当の意味で確信的に悪いことをしたことがないので、目的とする反応は分かり
ません。
自分で想像するだけですが、まず、他人には絶対に分からないように最新の注意を払っ
て平静を装うと思います。そればおそらく99%成功すると思います。
こうして見てくると、痴漢呼ばわりされた人も、もしかしたら、というよりも、99%
は本当に痴漢なのかも知れません。そして、真実は被害者だけが知っていることで、実際
に見ていない第三者には永久に分からないことなのです。
いろいろ言ってきましたが、なにを言いたかったのか分からなくならないうちに言って
しまうべきでしょう。
本当は言いたくなかったのですが。じつは、ぼくはこの加害者と疑われた男性を、自分
の可能性としての将来の一部の姿としてつい見てしまい、彼が疑われたことを否定して彼
を守ってやることにより、自分を守ろうとしていたのです。
ぼくがそのようになる可能性が皆無とは言えず、むしろ、そういう時がくることを、何
故か確信しているような気分になっていたからです。そのような、降って湧いた災難とい
うものは、(一方的な災難というだけの意味でなく、誘惑という意味でもある)いつ誰に
訪れてくるかだれにも分からないからです。
宝くじには決して当たらないけれど、こういった災難には、不思議と当たってしまうの
が、日頃から何事にもついていず、しかも貧乏で何によらず物事を思うようにすることが
できない、運とお金のままならない人、の宿命とも信じて疑わないからです。
1996.08 著作 [-10%(10% Buff)]
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