中央線の乗り方 うるさい
発車前の放送、これの意味がよく分からなくなってきた。
今、どこの駅でも発車前には音楽を流す。正確に言えば、ドアを閉める前に音楽を流し、
音楽の鳴り終わった後に、たいてい最初に「発車します」といい、次いで「ドアが閉まりま
す」と言い、そしてドアが閉まり、発車する。
ところと場合によっては、「駆け込み乗車は危険ですのでおやめ下さい。」などと言った
りもする。
傑作なことに、「危ない!危ない!やめろ!」と叫んでいたのもあった。駆け込み乗車を
制止する場面でである。
「こらこらこらこら」なんていうのもある。普通、放送で言うか? 完全に公共の放送と
いう立場を失念している。怒られた方も随分な災難である。放送されるとは夢にも思わなか
っただろう。ホーム全体に響き渡る音声放送で「こらこら」と怒られたら恥ずかしいだろう
なぁ。思わず周りをきょろきょろ見回してしまうだろうなぁ。見られていないかと思って…
。
少し前置きが長くなったが、今回言いたいのはそんなことではなく、発車前の音楽と「発
車します。」と「ドアが閉まります。」という放送のことである。
パブロフの犬というのがある。条件反射と言った方が馴染みがあるだろうか。犬を使って、
餌の前に必ず何か決まった刺激を与え、それを繰り返していると、そのうち、その刺激を与え
ただけで犬は餌の時間と思いよだれを流す、というやつだ。その条件反射を思い出す。
発車ベルからメロデイーに変わった当初、「この音楽が鳴り終わりますと発車します。」と
いう断りのアナウンスがあった。これを聞いた途端、そのパブロフの犬を思い浮かべた。我々
乗客をパブロフの犬に見立てようとしていると、確信した。そのアナウンスは暫く続き、それ
からも止められることなくずっと続いた。
何か変だと思った。パブロフの犬なら、いずれはアナウンスは止む筈だからである。アナウ
ンスは不要になるのである。発車メロデイーだけにならなければならない筈である。しかしな
がら、一向にアナウンスが止む気配は見られなかった。
ところがである、最近になって漸く気づいたが、アナウンスは止んでる場合がある。しかし
だからといって、やはりパブロフの犬だったということでも、どうもないようだ。正確に把握
してはいないが、依然アナウンスしている駅もあれば、気が向いたようにアナウンスを入れる
駅もあったり、いろいろのようで、アナウンスを完全に撤廃したというのでもないからである
。
すると、何のためにメロデイーはあるのだろうか? アナウンスだけで充分ではないか。メロ
デイーの長さが一定なら鳴り終わるまでの時間がわかるからまだしも、メロデイーが途中で終わ
ってしまったり、何回も繰り返し鳴らされてみたりと、いつ終わるのかの予測が全くつかない。
結局、発車する時はメロデイーが鳴り止んだ時か、発車することを知らせるアナウンスがあった
時をもって知らせることになってしまっている。
さっき、パブロフの犬ではなかったらしい、というようなことを書いたが、本当は必ずしもそ
うではなく、パブロフの犬を狙って始められたのかも知れない。それが、内外にぼくのような人
がいて、人権侵害だなどという話題が出たのかも知れない。いずれにしても、メロデイーがどの
くらい役に立っているのか甚だ疑問である。アナウンスにしても、過保護なくらい親切すぎる。
そうすると、メロデイーもアナウンスも、うるさいだけのものとなる。新宿駅など、あっちの
ホームであの音楽が鳴り、こっちのホームのこの音楽が流れ、そっちのホームでその音楽が鳴っ
て、あそこのホームであの音楽が流れるというように、もうどこでどの音楽が鳴っているのか、
しっちゃかっめっちゃかである。1つのホームにすら2〜3分に1本の電車が入って出て行く
頻繁さでホームが15も16もあれば(正確にいくつあるのか知りません)、同時に3曲や4曲
の音楽が鳴っていても不思議ではない。どこでどの音楽が鳴っているのか区別するのも難しく、
だからどこ行きの電車が入るのか出るのかも分からず、全くもって、意味不明な事態というほか
ない。
この間、駅のホームの音楽は、雑踏のなかでも喧騒の中でも聞き取り易い周波数帯域の音楽を
使っていて、よく考えられています、などど宣伝じみたことをテレビのある番組でやっていたが
、何か眉唾くさく聞こえてしまう。
眉唾ということはないが、後付けの理屈としか思えないのである。
なぜならば、すでに書いたように、音楽を鳴らす必要性を全く感じないどころか、却って迷惑
だからである。要するに、”うるさい”。やかましいともいう。漢字では”喧しい”と書く。
騒々しい(そうぞうしい)ともいう。
近所迷惑だし、既に目的を果たしていない。だってそうだろう。どこからどの電車が発車するの
かしないのか、今すぐ発車するのかあと何秒後に発車するのか、着くのか発車するのか、ドアが閉
まるのか発車するのか、さあ発車するのかなんとか発車しそうなのか、発車したのかしないのか、
どこ行きが何番線なのか…いろんなところでのべつまくなし鳴りっぱなし、ついでにアナウンスも
入るといったら、聞き分けもつかず、もう何がなんだか訳が分からなくなるのは、どこの誰が聞い
ても自明という他ない。
一体どこの誰がこんなことを始めようと言ったのか。まあ最初のうちはちょぼちょぼとしか考え
ておらず親切のつもりで始めたんだろうが、その親切がどんどん押し売りみたいになってきて、本
当に客のためになっているのかどうかも顧みず思い込みでどんどんエスカレートしていったに違い
ない。あっと気がつくと今のような有様だった、というような具合でしょう。
乗客の混乱や迷惑もそうだが、駅の近所の日常生活に、迷惑になっていると思う。電車の音がそ
もそも決して静かなものでなく、駅である以上ある程度はやむを得ない部分もあるにはあるが、こ
れは”駅”というものに最低必要な機能上、必要欠くべからざるものであって、そのことは近隣も
理解している筈である。それで納得するから駅の近所にも住まう訳である。言ってみれば電車の音
と駅に最低必要な機能から生まれる騒音は、”駅”というハードウェアに一体的に含まれているも
のと考えなくてはならない。さしずめ、電車の騒音は、線路や駅の施設などのハードの部分と、電
車の本数や運行間隔などの基本ソフト、いうならばオペレーションシステム(OS)で決まるもの
なので、ハードとOSの一部と考えられなくもない。
そういう駅の利便性を求める人たちが駅の周辺に住まうようになる。或いは住居が多くなったと
ころの利便性を図るために駅が作られる場合もあるが。
しかしながら、”駅”の機能の運営上、更に付加的にあったほうがよい、便利だなどの機能は、
”駅”というハードウェアに対しいわば”アプリケーションソフトウェア”のようなものである。
アプリケーションソフトウェアは、使う人が選ぶものであり、使う人にとって不要なものは、いら
ないものである。使い勝手や効果もさまざまである。
さきの音楽とアナウンス、電車を利用する人にとってどれだけ必要なんでしょうかね。案内板や
番線、時刻表示板があれば充分なのではないでしょうかと、ぼくは思うのですが、如何ですか?
電車の利用者が不要と思う(或いは却って迷惑と思う)もので、近所が迷惑な思いをしている
のなら、百害あって一利なしとはこのことと言えるのではないでしょうか。
今、駅の音楽とアナウンスが一切なくなったとしたら、利用者と近所の人たちは、一体どんな感
想を持つものか、一度試しにやってみてもらいたいものだ。
JRさん如何ですか?中央線のどこかの駅で、Tryしてみませんか?
BGM from VAGRANCY
05kawakino.mid
2000.06.04 著作 [-10%(10% Buff)]
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