〜 読書は人の為ならず 〜 |
世間は相変わらず不祥事が続いている。そごう、雪印、三菱自工、医療機関その他諸々。 個々には記さないがこれらは組織を含めた大人達の保身から出たものである。 子供の世界に目を向けると、相変わらずのイジメ問題を始めとして殺人、傷害といった凶悪な犯罪が増えてきた。 これは一体どうしてなのだろうか。 大人が悪い、それもあるだろう。社会が悪い、そうかも知れない。 しかし、最大にして最重要なのは「思いやり」の欠如ではないだろうか。 「思いやり」とは相手の身になって物事を考えることなのは誰でも理解している。 しかし実践が伴わない。 何故か、それは「想像力」の欠如である。 人を思いやる為には、その人が何を思い何を考えているかが想像出来なくてはならないが、その部分が決定的に欠落しているのではないだろうか。 少し前の少年による『人を殺したらどんな気持ちになるか』を知りたいが為の殺人。 本来そんな気持ちは想像の世界だけで終わらすべきものである。 一事が万事ではないが残念ながら今の子供達の環境には想像力を養う物や機会が少ない。 テレビやゲームなどが直接、視覚に訴える。漫画や劇画もまた然り。 そして幼い頃からの詰め込み教育。 こんな中で思いやりの芽を育てる為に大人がしてやれる事は何だろう。 身近で出来る事としては本を読む楽しさを覚えさせてはどうだろうか。 但し強制は絶対に駄目である。却って本嫌いにしてしまう。 ジャンルとしては漫画、劇画以外なら何でも良いと思う。 (漫画や劇画を目の敵にしている訳ではありませんよ、念のため) 例えばミステリー、殺人が頻繁に起きるが作者も読者も想像、空想の世界である。 例えば旅行記、見知らぬ土地の空気を吸い、その地の生活を想像する。 例えば民話昔話、知らない時代の知らない人々の習わしや空想世界を考える。 いくら書いても切りがないのでこの辺で止めるが要するに読書とは想像の産物であり、読書によって想像力が育つのである。 その想像力が豊かになれば他者の身体や心の痛みを自分に置き換えることが出来るようになる。 それが出来れば他者は他者ではなく自分の一部として考えられる筈。 自分は殺されたくはないしイジメられたくもないだろう。 ならば相手だって。 これが「思いやり」の本質ではないだろうか。 大人だって病原菌の入った乳製品は飲食したくないし、危ない車には乗りたくない。 飲食したらどうなるか、乗ったらどうなるか、大人社会の責任者達には思いやりが無かったようだ。 一度じっくりと自社製品を飲食し、乗車して欲しいものである。 雪印製品を飲食しながら三菱の車に乗るスリルなど洒落にもならない。
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