〜 早食い 大食い 馬鹿食い 〜

今年は正月早々のテレビで呆れたものを見てしまった。所謂「早食い・大食い」番組である。
この手の番組は普段なら見ないのだが年始挨拶に親戚一家が来ており、その子供らがこの手の番組が好きなのである。正月でなければテレビのチャンネルを回すかスイッチを切るところである。
子供の付き合いで番組を見ていると驚いた事に同じ時間帯で数局が同じような企画をやっており、出演者?の顔ぶれも何人かは同じである。
子供らは、ある局がCMになると他局に、そしてその局がCMになるとまた別の局へとリモコンを押している。
そして後日、新聞のテレビ欄に『食べ物を無駄にするな・難民の事を考えろ』等の投書が掲載される。
至極もっともで当然の投書なのだが、このような内容の投書が年間を通して頻繁に見受けられる。と言うことは頻繁に“馬鹿食い”番組が放送されているということであろう。
食とは一体何であろうか。根元的には生命の維持であろう。そして、同じ維持なら美味しい物を美味しく食べたいといったことではないだろうか。翻って馬鹿食い番組の出演者を見ていると決して楽しそうでなく、美味しい物を不味く食べている。『何で寿司を二貫ずつ、時間に煽られて味わいもせず食べなくてはいけないのか?』『何でラーメンを一人で何杯も無駄に食べる必要があるのか?』、何で?何で?馬鹿食い番組は疑問の宝庫である。
少なくとも馬鹿食いをしている間の出演者は『品性下劣ここに極まれり』である。
それでも番組が成り立つのは視聴率が取れるからに他ならない、と言うことは視聴者の品性の問題でもある。
それにしても同日の同時間帯に同じような内容の馬鹿食い番組を並べるテレビ局の厚顔無恥は呆れるばかりだ。テレビ制作者に常に求められる創造性は何処に行ってしまったのだろうか。
街の食堂やレストランでの早食い・大食いを真似した番組は創造ではなく模倣である。
そしてこんな馬鹿番組を提供するスポンサー各社には、せめてもの罪滅ぼしに国内外の『飢えたる人々』に対して特段のチャリティーを行って貰おうではないか。視聴率は取れないが間違いなく命は守られる筈である。
不況の中の飽食、このような矛盾が続く筈はないとそろそろ気付いても良いと思うのだが・・・。
 

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